プレゼント
「私はサプライズでプレゼントを考えるのが好きなんです」
と後輩が言っていて、共感した。と同時に、なぜそうなのか考えた。
最近、僕もプレゼントをもらう機会があった。思いがけないものだったのでとても嬉しかったし、何人かで相談したり悩んだりした上で、それを選んでくれたプロセスが何より嬉しかった。
今までもらってきたものもそうだ。もらって嬉しくならないことはない。
涼(筆者)っぽいと思った、パッケージが筆者に似ていた、似合うと思った、持ってなさそうだから、、、などもらった理由は様々だが、そこには相手を思って選ぶという思考プロセスがある。
長く付き合うカップルなどによくあるのが、”相手の欲しいものを一緒に買いに行く”というプレゼントの仕方だ。これを否定する気は全くないが、自分だったらイマイチ燃えない。今まではこのもどかしさをなかなか言語化できていなかったのだが、上にも記したようにそこには思考プロセスの介在がほぼ0に近いからかもしれない、と思った。
そう考えると、思考する、思いを巡らせるという行為そのもの自体にあたたかかさがあるのかもしれない。相手を思って思考することは一つの愛の形なのだ。
誰かのために買うプレゼントやおみやげなどは、自分のために買うそれよりも金銭感覚がずれる。ちょっとお財布の紐がゆるむし、それでもいいと思えてしまうのは不思議だ。
それは誰かに対する思考、つまり愛がそうさせているのではないかと思った。めちゃくちゃ臭いことを言っているのは誰よりもわかっているので目をつぶって欲しい。
つまるところ、単なる消費ではなく、愛が伴う行動においては、価格という概念は崩壊しうると私は思う。だからモノの売り方にも買い方にもストーリーがあればそれは愛になって伝播するはず。プレゼントに限らず、そういう購買サイクルをモノづくり業界でも作っていけたらと思う。これについてはまた詳しく書きたい。
プレゼントは英語で”present”と書く。
preは(前の)という意味があるし、sentはsend(送る)の過去形だ。
だからプレゼントを選ぶその過程、思考を巡らせている瞬間、つまり相手に送る前から、その思いごと贈り物になっているのかもしれない。
それも含めてプレゼント(present)なのだ。
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