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一冊の本を巡って―その後の独り言

    先だって、ようやっとDavid McNally, Political Economy and the Rise of Capitalism A Reinterpretation(University of California Press,1988)を読み終えた。丸々一年かかってしまったが、アダム・スミス生誕300年の年に終えることができた。これで大学時代から持ちこされてきた―放棄してきたといったほうが正しいが―目標が果たされた。
 本書の内容は、基本的に私には肯定できなかった。先にも少々記したが、スミスに代表される17~18世紀のヨーロッパ経済論者が農業至上主義であるとする著者の主張が、である。当時の経済活動における農業の占めるパーセンテージを考慮しないで、彼らの経済論は十羽ひとからげに農業偏重の姿勢をとっていると即断するのは性急に過ぎるし、むしろスミスの経済観の、当時の時代的制約をからすれば驚くほどコスモポリタン的な視点を持っていることを、より注目すべきだろう。そして古典派経済学者らの一元論的な主張―自らの経済論を絶対視したが故の行き詰まり、破綻がマルクスに止揚されるという結論にも、著者の時代的制約―おそらく著者の思考の原型はマルクス経済学華やかりしき50~60年代に醸成されたのではないか―を強く感じさせてしまう・・・・とまあ、経済学史の基礎知識を欠いているのにいつものことながら勝手気ままなことをほざいているが、学窓を出て30数年ぶりに真剣に学術書―それも洋書―を読んで、脳細胞が僅かながら活性化したのは、本書に感謝すべきところなのだろう。と同時に、私の読みの浅さ・誤りを知るためにも、真っ当な翻訳が出ないかなと、あほなことを考えている。
 スミス生誕300年といえば、今年はスミス研究の世界的権威であった水田洋氏が逝去された。103歳であったから、大往生といって良いのかもしれないが、近年も新たな著作を、夫人の水田珠枝氏と共同で執筆される予定であったと仄聞している。水田氏の著作・論文には大学時代一再ならずお世話になった。スミス関係は元より、ホッブスの『リヴァイアサン』の翻訳書に接することで、スミスの思想の広大さを(ほんのわずかだが)思い知らされたものである。そういえば大学時代に世話になったK教授ー興味のおありの方は、「一冊の本を巡って―スミス生誕300年に寄せて」をご覧いただきたい―から伺った話だが、氏の公演・座談は誠に巧みで面白く、楽しいものであったという。一度でいいから拝聴したかった。朝日新聞紙上にも「年金生活者」という肩書で、たびたび鋭い舌鋒の社会批判を投稿されていた。これまた今更なのだが、ご冥福を祈りたい。
 スミス研究者で思い出されるのが、今年2023年は内田義彦氏の生誕110年であったことである。内田氏の『資本論の世界』が、私が大学に入って最初に読んだ本であり、ああ、これが大学での読書であるのだなと、自分は一段とレベルの高い人間になったのだと能天気にうぬぼれ、それでいて『世界』の内容がちんぷんかんぷんで途方に暮れたという、なんとも情けない大学生活の門出(?)となったのであった。我が大学の図書館で、卒論執筆のためずっと卒業まで1年余りも借りっぱなしにしていたのが岩波書店から出ていた『内田義彦著作集』の数巻であったことは自慢にもならないが、私の学的生活の大きな部分を、内田氏の著作が占めていたことは間違いないだろう。
 日本の3大スミス研究者(と、言い切ってよいと思う)である内田義彦・小林昇・水田洋、の各氏は、とうとうすべて鬼籍に入ってしまった。
 マクナリーの本をノロクサと呼んでいるとき、私はふと、上の内田氏・小林氏・水田氏を思い出すことがあった。これらお三方とはもちろん、直接お会いしたことはない。私淑していたにすぎない。いや私淑と言えるほどその著作に親しみ、沈潜することもなかったいい加減な野郎であった私だが、曲がりなりにも知的営為に対して真面目に取り組むことになったのは、お三方の存在があったことはここに記しておきたい。こうして30数年を経て洋書を一冊読み終えるという数寄者なことをし得たのも、元をたどれば内田氏の『世界』や『経済学の生誕』(今年で刊行70周年)、水田氏の『アダム・スミス研究』、小林氏の『国富論体系の成立』といった著作に接していたからだともいえるのである。そういえば、ここに挙げた『世界』を除く著作はすべて、未来社からの刊行である。未来社という出版社の存在も、内田・小林・水田の三氏から教わったのである。