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二番煎じではない―999『セパレーツ』とバズコックス『ラヴ・バイツ』

 先だって999の「ホムサイド」の歌詞を考察するために、999ばかり集中して何日も聴いていたものだから、アタマが自然にこのバンドの方向に行ってしまっている。なんだい、昔と変わらず熱中体質だな俺はと自らをせせら笑ったが、ならばと余勢をかって、今回も999をネタに書くことにする。特に、「ホムサイド」が収録された『セパレーツ』を重点的に聴いてきたから、『セパレーツ』について思うところを述べてみたい。そしてそれと絡ませて、バズコックスのセカンド・アルバム『ラヴ・バイツ』にも触れてみたい。私はバズコックスのアルバム中『ラヴ・バイツ』が一番好きなのだが、ふと、どちらもバンドのセカンド・アルバムだという事に気付いた。ちょうどよい、この2作品を揃って語ってやろうと思ったのである。
 どのアーティストもそうなのかもしれないが、アルバムはファーストよりもセカンドの方が創るのが難しく、実際出来もセカンドの方が悪くて、世間の評判も下がることは、よく見受けられるようである。[1]とりわけパンクのアルバムになると、セカンドはファーストより出来の悪い作品が多い、[2]いや、作品自体が非常に少ない。パンク=ガキの瞬間爆発・短期決戦であって、長くは続かないのが古くからの常識とされてきたし(ホントか?)、私も多くの場合、そうなのであろうなと短絡的に―由々しきことである!―肯定しがちであった。そんな中で、ファーストと同程度もしくはそれ以上のセカンド・アルバムを出した数少ないパンク・バンドの最右翼としてずっと認知してきたのが、バズコックスである。現在の世間一般の人気ではファースト『アナザー・ミュージック・イン・ア・ディファレント・キッチン』になるのであろうが、楽曲の完成度、音作りの密度の点では『ラヴ・バイツ』に軍配が上がるであろう。
 さて、999はどうか。このバンドも評価が圧倒的に高いのはファースト『999』である。パンク関係本で999の作品が挙げられるとすれば十中八九『999』が掲載されるであろう。そしてそれ以外のアルバムは、まず確実にオミットされるであろう。私が今まで見てきたパンク関係本はほぼすべてそうであった。[3]999はファーストの名は知っているが、それ以外のタイトルは知らない(つまりは聴いたことがない)と、大概のパンク愛好家は答えるのではなかろうか。かくいう私がそうであった。『999』は先日述べた通り大学4年になる年に入手して一気にハマったが、他のアルバムには食指が動かなかった。理由もあの時すべて述べておいたつもりでいたが、他にも手に入れない要因があったことに、本稿を記そうとするとき気付いた。それはジャケットのアートワークである。『999』のアートワークはダサさとクールさが微妙なバランスで調和しており、それがバンドのカラーを上手くシンボライズしていたのだが、他のアルバムは、80年代に出たものまではどれも、あまりに凡庸で通俗的でありいただけない。999のリーダーであるニック・キャッシュはアート・スクール出身であるのに奇妙な話である。[4]とりわけそれで損をしたのではと思えるのが、セカンド・アルバム『セパレーツ』である。いまさら何をと笑われるだろう。『999』を手に入れて34年たって、ようやっと『セパレーツ』への認識を得たとは、我ながら迂闊だなあとため息が出る。
 だが『セパレーツ』は、良いアルバムである。あのとき、もしジャケットのアートワークがもっとソソルものであったなら、『999』を入手してからそう日数が経たないうちに『セパレーツ』も聴いていたかもしれない。そう思えるほどに、このアルバムは良い。高揚感では『999』に一歩譲るが、メロディーや歌詞の彫の深さではむしろこちらの方が上を行っていると思われるほどである。演奏面でも変わらず腕達者なところを全員が聴かせてくれる。特にガイ・デイズのギターはリフにソロにと八面六臂の活躍である。それなのにシングル「ホムサイド」は40位まで上がったのに、何故アルバム・チャートにはまるっきり入らなかったのであろうか。
 999のセカンド・アルバムは傑作である。ただし、ジャケットを除いて。


いくらトスカーニ[5]の写真とはいえ、『999』との差はやはり、と断言してしまいたくなる。



裏。あまりにもベタである・・・・。


インナー。こちらも『999』とは・・・・。


インナーその2。今のネットはこんなものまで検索するとすぐ出てくるのだから、私のガキの頃には考えられない世界になったものだ。

 不可解なのは、なぜこのような「お粗末な」アートワークを採用したのであろうか、ということである。CD4枚組ボックス・セットである999『THE ALBUMS 1977-80』―以下『ボックス』と略―の解説やニック・キャッシュのインタビュー(非公認ウェブ・サイトFeelin’Alright With The Crew内に掲載の"Full Story by Nick Cash”)―以下「インタビュー」と略―を読むと、アルバム制作のスケジュールは相当タイトで、ジャケットに曲目を表記することすらできなかったほどだったという。アートワークに凝るほどの時間を与えられなかったのか、それとも単に凝るだけのカネが掛けられなかった―掛けなかった―のか。
 ここで思い出されるのが、同じユナイテッド・アーティスツー以下、UAと略―所属であったバズコックスの存在である。両バンドには意外に共通点が多いし、因縁も浅からぬものがある。[6]バンド名に定冠詞theをつけないことに執着した、レコード・プロデューサーのマーティン・ラシェントとウマが合った[7]、使っていたギターが同じ機種であった(レスポール・ジュニア・・・・こだわる私である)、メンバーのダサさとクールさが融合したファッション・センス、さらに、UAとの契約も時期が同じである。そして異様に感じさせるのは、両バンドのレコード発売月がバッティングすることである。契約してから1年弱の間に発売したレコードはシングルもアルバムも、同じ月にことごとく発売されているのである。[8]同じ会社の商品の発売時期がバッティングしたら売り上げを互いに食い合うことになる恐れがあるから、会社側としてはなるべく発売時期をずらすのが普通であろうはずなのに。そして契約が1年を過ぎた78年の夏以降から、レコードの発売時期がずれるようになっていくのである―但しセカンド・アルバムの発売はどちらも同じ9月であるが、これについては後述。推測の域を出ないが、UAはあえて、バズコックスと999を市場で競争させ、どちらがより売れるか試していたのではないか。そして78年夏に入る直前には見極めがついたのではないか。軍配はバズコックスである。シングルもアルバムも、チャート成績は明らかにバズコックスの方が上であった。そこでUA側は、バズコックスの方を、より力を入れて売ることにしたのではないか。勝敗が付いたからには、最早互いに売り上げを相殺させることはないとして、秋口からは発売月をずらすことにしたのではないか。一方シングルの方は発売日がずれるようになったのに両セカンド・アルバムは変わらず同じ月の発売なのは、ずいぶん早くに発売日を両方とも設定してしまっていて、予定日をずらすと何らかのペナルティーが課されることになったからではなかろうか。キャッシュは「インタビュー」で、「当時はアルバムの発売日は守らないといけなかった」と発言しており、あながちいい加減な仮説でもないであろう、と私は勝手に(!)考えている。それにしても1年にアルバムを2枚とは、新人バンドにずいぶんと過酷なノルマをUAは課したものである。そういえば、ストラングラーズ―彼等もUA所属であった―もデビューした77年、アルバムを2枚出していた。999の『セパレーツ』のジャケット・アートワークが凡庸に過ぎるのとは対照的に、バズコックスのセカンド・アルバム『ラヴ・バイツ』のジャケットにはエンボス加工が、写真には巧妙なトリックが施され、インナーにも細密画があしらわれているなど、相当に凝った作りになっている。[9]両者への、UA側の肩入れの差別化が露骨に現れたのが、両者のセカンド・アルバムのアートワークであると、思えてならないのである。


バズコックス『ラヴ・バイツ』表。バンド名が、エンボス加工されているのが、判るであろうか。さらに、タイトルの「Love Bits」・・・・。鏡の中ではなくて、鏡面に貼り付けたのか?それとも・・・・。このさりげないトリック。誰も気づかないなんて、とデザイン担当のマルコム・ギャレットは語っているが、いやいや気付きませんって。しかしこういう江戸っ子の美意識に通じる所が、文字通り、粋である。



裏。B面の1曲目とラストをインスト・ナンバーにすることで、B面全体が組曲に構成されているという妙。これに気付いた時には、一人興奮したものである。そしてこのソング・オーダーは次作『ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション』への布石となった、とするのも、突飛な仮説であろうか。この裏にも、エンボス加工が。


インナー。細密画の元となった写真の、ピート・シェリーのものは、彼が2日酔いでゲロを吐いたときに撮られたものであったと、シェリーは語っている。[10]


インナーその2。2000年代初頭、バズコックスの旧譜がCD再発されたとき、どうせなら当時の意匠を再現してくれなかったかな、これがビートルズだったら簡単に実現をしただろうに、と思ってしまう私は可笑しいのであろうか。

 それでは、何故999は冷遇されたとみなされうるのであろうか。UA側は既に77年の後半には、パンクを一過性のブームに過ぎないと捉え、パンクが終息した後のいわばトカゲのしっぽ切りを容易にすべくしたことではなかろうか。いざとなった時の食い扶持は2人分より1人分にしておいた方がしんどさが少ないのは、単純だが正当な理屈である。ではさらに、それでは最初からUAに2バンドもいっぺんに契約しなくてもよいではないかという意見が出よう。ややこしいのだが、両バンドをUAに引き入れたのは、当時UAのA&Rであったアンドリュー・ラウダ―である。彼はパンクの音楽的な価値と永続性を早くから見抜いており、あえてバズコックスと999、両方ともに契約したのである。[11]しかしラウダ―は77年の暮れにレーダー・レコーズ設立のためUAを去ってしまう。[12]ラウダ―のいなくなったUAには、パンクに寛容なトップはいなかったのであろう。[13]
 999は翌79年の夏にUAを離れるのだが、キャッシュは「インタビュー」で「UAは俺たちを売る意欲を見せなかった」と語っているのも、その証左に思える。[14]999のUAでの冷遇振りはアルバム発表後さらに顕在化する。注8を見れば明らかだが、78年のシングル発売が、999は10月が最後になるのに対し、バズコックスはその後11月にも発売している。もし999を積極的に売ろうとするなら、クリスマス・シーズンを見越して11月から12月にかけてもう1枚シングルを発売するところであろう。手持ちの曲がないのであれば、UA側はレコーディング日を無理にでもあてがい、作曲やレコーディングするよう999側にプレッシャーをかけたであろう。[15]だがそのような動きがあったという記録は、今のところない。[16]79年の、UAからの999のレコードはシングル1枚のみ、それも新録ではなく999が自主レーベルから出したデビュー・シングル「アイム・アライヴ」の再発であった。[17]一方のバズコックスは79年にはシングル3枚にアルバムを1枚と順調に―リリース・ラッシュと言うべきだが―レコードを出し続けていく。
 その後のバズコックスもUAから粗末な扱いを受け、解散に到ってしまう。バズコックスのバック・カタログは長きにわたって親会社のEMIに販売権は残っていたようであるが、現在はDominoというレーベルから発売されている。バンドは89年に再結成され、現在も第一線で活躍中なのは周知のことである。
 一方の999はレーベルを転々とし、ヒットに恵まれないままではあったが、しぶとく今日まで活動している。UA時代の999の版権はたぶん90年代アタマまではEMIが持っていたようだが、現在はキャプテン・オイ!~チェリー・レッドから発売されている。
 ともに2023年の今もステージに立ち、したたかに活動しているのは頼もしい限りではあるが、ことメディアからの扱いに関してはどうなのであろうか。近年の両者の立ち位置についてはよくわからない。特に999はまともにチェックをしていないから余計にわからない。だが、私にとってはどちらも、聴いて楽しく見て楽しいバンドである。それが重要なのである。だから作品がたやすく手に入る状態でいてもらわなくては困るのである。



[1] ロビー・クリーガーは、2枚目までは曲のストックがあるから持ちこたえられる、3枚目がしんどいという意味の発言を残しているが(チャック・クリサファリ、加藤律子訳『ドアーズ ムーンライト・ドライヴ』、シンコーミュージック、2000年、89ページ、参照)、大体はセカンドでガス欠を起こすと思う。

[2] もちろん、本稿での出来の良し悪しを云々するのは、私の主観に基づいている。

[3] MUSIC ZONE編『MUSIC VISION VOL.1』、早稲田大学ロックユーフラテス、1986年、には『ザ・999・シングルズ・アルバム』という、いわば999版『シングルズ・ゴーイング・ステディ』とも言うべきアルバムが紹介されていた。

[4] ここでドアーズのアルバムの大半が、やはり凡庸で通俗的であることを私は思い出す。ドアーズのメンバーにもアート関係の学校を卒業した者がいるところに―ジム・モリスンとレイ・マンザレクはともにUCLAの映画科出身である―999との奇妙な共通点がある。

[5] 何故トスカーニに撮影を頼んだのか、『ボックス』の解説には書かれていないし、ニック・キャッシュも「インタビュー」で言及していない。ちなみに、トスカーニが時代の最先端を行く写真家として売れっ子になるのは80年代の末だという。

[6] 「インタビュー」で、キャッシュはバズコックスの『スパイラル・スクラッチ』のジャケット・アートワークを絶賛し、バズコックスの地元マンチェスターのエレクトリック・サーカスで共演したことを良き思い出として語っている。999とバズコックスの、UAでの処遇を考えると複雑な感情を抱いてしまうのは、思いに過ぎるのであろうか。

[7] 『999』のプロデューサーはアンディ・アーサーズであったが、完成させることが出来ずに行き詰まり、キャッシュはマーティン・ラシェントに頼んで一緒にアルバムをリミックスしたのだと「インタビュー」で語っている。アルバムのインナーにラシェントの名があるのは、そうした事情があるからである。

[8] ここでざっと、両バンドの77~78年に発売した各レコードの発売月を列挙すると―

 シングル

 77年10月 バズコックス:オーガズム・アディクト

        999:ナスティ・ナスティ

 78年1月  バズコックス:ホワット・アイ・ゲット

        999:エマージェンシー

 78年4月  バズコックス:アイ・ドント・マインド

        999:ミー&マイ・デザイア

 78年8月  999:フィーリン・オールライト・ウィズ・ザ・クルー

 78年9月  バズコックス:エヴァー・フォーリン・イン・ラヴ

 78年10月 999:ホムサイド

 78年11月 バズコックス:プロミセス

 アルバム

 78年3月  バズコックス:アナザー・ミュージック・イン・ア・ディ
        ファレント・キッチン
        999:999               

 78年9月  バズコックス:ラヴ・バイツ

        999:セパレーツ

        『ラヴ・バイツ』『セパレーツ』のプロデュースはともに                    ラシェント。さぞかし大変であったろうと思う。

[9] 詳細はPete Shelley with Louie Shelley 『ever fallen in love-the lost Buzzcocks tapes』,First published in Great Britain by Cassell,an imprint of Octopus Publishing Group Ltd,2021,P.41,151.

[10] Shelley/Shelley,ibid,P.151.

[11] 前掲書でのシェリー、「インタビュー」でのキャッシュはともに、当時のアンドリュー・ラウダ―の人となりを高く評価している。999は79年のUA離脱後、ラウダ―の設立したレーダー・レコーズに移籍しシングルを1枚発表している。アルバムもレーダーから出すつもりだったが、何らかの事情で実現しなかったことも、キャッシュは語っている。

[12] Shelley/Shelley,ibid,P.89.

[13] シェリーは前掲書の中でたびたびUAの、バズコックスへの扱いについて述べている。彼の口吻によれば、ラウダ―が去った後のUAは、70年代が終わるまではバズコックスに協力的であり、80年代に入って対応が急激に悪くなったという。しかしもし、バズコックスが70年代コンスタントにレコードをヒットさせていなかったなら、おそらくは999と同じく、契約から1年かそこらでUAを首になっていたのではなかろうか。ヒットの出ないアーティストがすぐさま切られるのは、パンクであろうとなかろうと変わりはないであろう。999がUA時代、チャートに登場したのはシングルでは「ホムサイド」の40位と「エマージェンシー」の75位、アルバムでは『999』の53位。他はチャートに入らなかった。

[14] 『セパレーツ』発表後、UAは大規模な販促営業をしたことを、『ボックス』の解説では触れられている。UA側としては、これで売れなければ999を切ろうとしていたのではないか、いわばこれが最後のお情けだったのだ、とこちらは邪推したくなる。

[15] 999は『セパレーツ』を完成させるために、時にはライヴの合間にレコーディング日をねじ込むことまでしていたと、キャッシュは「インタビュー」で語っている。

[16] 999側に未発表の曲がなかったことは、キャッシュが、『セパレーツ』を完成させるにはあと1曲足りないと指摘され、それで未完成であった「ホムサイド」を一晩で完成させたと「インタビュー」で語っていたところから、推測できる。一方、バズコックスはクリスマス・シーズンに向けての新曲「プロミセス」を、すでに『ラヴ・バイツ』のデモ・レコーディング中に作曲し始めており、本番のレコーディングもつつがなく行なわれたようである(Shelley/Shelley,Ibid,P.166-167)。

[17] 79年末、999はポリドールと契約を交わし、サード・アルバム『ザ・ビガスト・プライズ・イン・スポート』を80年1月に発表する。このアルバムのジャケット・アートワークを手掛けたのが、バズコックスのビジュアル担当と言うべきマルコム・ギャレットであったことは、UA~バズコックスへの意趣返しともとれる。ちなみに80年はモスクワ五輪開催の年であり、本アルバムのコンセプトもそれを反映させたものであった。


表。バズコックスのアートワークの特徴であった抽象性・非時代性を強調しつつ、そこから立ち昇る知性の香りを、ここでは感じ取ることができない。



裏。メンバー表記が5人になっているのは、オリジナル・ドラマーのパブロ・ラブリテンが交通事故で重傷を負い、代役としてエド・ケイスが参加していることによる。レコーディングにはラブリテンはほぼ参加していないようである。


インナー。各国で意匠が異なるようであるが、詳細は不明。