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2022 ベトナム・タイの旅⑧ ~バンコク中心部から郊外~

迷宮から黄昏 ~2022年8月8日 バンコク中心部から郊外~

   プロンポン

 朝になると雨が降っていた。昨夜は何度か目が覚め、一回トイレに出かけた。ドアの開閉音に気づいてか、いつの間にか猫がトイレの入口に現われた。庭のどこかに潜んでいたらしい。猫とは寝る前に遊んで仲良くなっていたから、また遊びたかったのかもしれない。部屋までついてきたので猫としばし戯れる。
 私はすっかり気に入られたようだ。猫はベッドに上がるとそこに踏ん張り続けた。私は一緒に寝ても構わないが、宿としてはどうなのだろうか。これだけ人に懐いているのだ。日頃も宿泊者たちから可愛がられているのだろう。そうに違いない。
 だが、あまり夜更かししている訳にもいかないので声を掛けてみた。しかし、猫は頑なに動かないので、意を決した私は猫を抱き上げて庭に運んでいき、説明をした。日本語である。多分猫は理解していないだろう。
「明日の朝は早いから一緒に遊べないんだ。ごめんね。朝になったら遊ぼう」
 ドアには上下の窓が付いていた。窓越しに外を見ると、猫が寂しそうに座っている。こういうのは堪らない。だが、ここは自分の家ではないのだ。そして、私は明日少し早起きをしなくてはいけない。猫に謝ってドアのカーテンを閉めた。
 そんな出来事が深夜にあったのだ。朝、トイレとシャワールームのある建物に行き身支度をしていると、いつの間にか猫が現れた時は驚いた。日本語が通じたらしい。
「おはよう。昨日はごめんな。今出かけるから、帰ったら遊ぼう」
 部屋を出ると宿主のおばあさんがいた。私が早起きしてどこかに行こうとしているので驚いた顔をしている。門にはまだ鍵が掛かっていた。
「ウォーキング」
 そう言って私は歩く仕草をしてみせた。そんな会話を聞いていたのか、いつの間にか猫がまた私の足元にやってきた。行ってくるよと猫に告げると、一緒に門のところまで歩を進め、おばあさんが鍵を開けると私と一緒に出ようとした。おばあさんは猫を掴んで引き留めたが、やがて諦め、猫は私と一緒に外に出てしまった。この猫と初対面した昨日の夕方、場所は宿の敷地の外だった。自然と帰ってくるのだろう。
 時刻は七時半、空は雨、部屋のドアの前にある薔薇のプランターに掛けてあった水色の傘を借りて私は外出した。

 BTSスカイトレインのラチャテウィー駅からスクンビット線で一本。向かうはプロンポンという駅だ。バンコク二日目の夜にフードコートを楽しんだターミナル21の最寄り駅アソークの次の駅である。運賃は37バーツ。
 月曜の朝に都心に向かう電車だから通勤客ばかりの車内である。昨日までは地下鉄もスカイトレインも車内では買い物客と観光客の姿ばかりを見てきたから、通勤客の多いバンコクの電車に接するのは初めてだった。
 プロンポンはビルに挟まれた駅で、飲み屋が多そうな界隈に感じた。駅から北の方角に向かって雨の中を歩き始める。向かうのは病院で、予約は昨日の夕方にネットにて済ませてある。
 病院に用があるのは現在の体調が悪い訳ではなく、日本帰国時に必要となるPCR検査の陰性証明書を得るためだ。もし陽性だった場合は医療関係者の指示を仰ぎながら、陽性判定者の受け入れをしている宿泊施設で隔離待機となる。その後のPCR検査の判定をもって帰国への道が開かれるのだが、早くて一週間から十日、長いと一カ月以上ホテル隔離となったケースもあるという。費用は勿論自費だから、陽性判定に備えて大手保険会社の海外旅行保険に加入して出発した。クレジットカードの付帯保険だけでは不安だったのだ。ちなみに、今回の行程だと支払う保険代は三千五百円。私は安いと感じた。
 プロンポン駅から病院までは徒歩だと20分くらいで、タクシーを使うか迷う距離だが、街歩きを楽しみながら行こうと考え、雨の中を歩いている。もっと交通の便がいい病院はあるのだが、今から行く所はバンコク市内でもっとも安くPCR検査を受けられると、日本人旅行者の間で噂が広まっている病院なのである。
 マンションがいくつも立っている。住人向けなのか、洒落たカフェがある。帰りに朝食を兼ねて寄ってみようかと思う。
 閑静な住宅街を歩いていくと病院が現れた。着いたのは裏手らしく、私は階下の駐車場から入り、階段を上がって検査会場の三階に向かった。
 予約は八時半で五分前に着いたが、私の前には三人しか先客がおらず、入口で予約確認メールのスマホ画面を見せて予約番号を確認してもらうと、すぐに中に通され、会計と共に英字の領収書と日本政府の定めた書式に則った証明書用紙を受け取る。検査代は1,500バーツ(約五千七百円)。これでもバンコクでここより安くPCR検査を受けられる医療施設はない。特殊な例だが、スワンナプーム空港に設けられた会場が1,200バーツで検査を実施しているくらいだった。
 検査結果については、午前の検査であれば当日にメールで送られてくる。結果を受け取ったら証明書に記入すれば再度ここに足を運ばなくていいという仕組みだ。
 会計が済むとすぐに番となった。舌に棒を当てての検査と鼻に棒を入れての検査と二回の検査は1分とかからずに終了した。
 全てを終えて階段に向かうと列ができていた。八時半に予約した人の列だろうか。先客も含めて、PCR検査に訪れているのは日本人だけに見えた。
 10分とかからずに外に出てきた。出たのは先ほどとは違う場所で、こちらが正規の入口のようだ。検査を終えた日本人女性が呼び出したタクシーで帰っていく。私は帰りも歩くことにした。
 道路工事などで迂回をしているうちに、私は大回りをしてしまっていると気づいたのは歩き始めて間もなくだ。病院はプロンポン駅だけでなく隣のアソーク駅からも歩ける位置だが、そのアソーク方面に出てしまったようだ。このままアソークに向かうか。やはりプロンポンに向かうか。プロンポンに戻る方がわかりやすいと考えた。戻る道の距離は大したことはない。だが、話はそう単純ではなかった。
 閑静な住宅街は行き止まりの道が多い。行き止まりの先は学校だったりするから抜けることはできない。そういう市街地だから地図アプリが示した道は入り組んだ線を描き、しかも道幅が狭くて車に注意しながらとなったので歩きにくい。そんな細い道の交差点で右折の車と直進車が衝突する瞬間まで見た。ちなみに、タイは日本と同じく左側通行だ。
 雨は弱くなる気配がない。素直にアソークに向かえばよかったと思う。時計を確認すると歩き始めて40分が経とうとしていた。カフェで優雅に朝食と決めていた筈が、空腹と喉の渇きに負けて視界に現れたスーパーマーケットに足が向かった。
 どうやら日本人の利用が多い店らしい。商品に日本のものが目立つ。ただ、すぐに食べられるような商品があまりなく、8バーツの水だけ買って出た。
 すぐ近くにセブンイレブンがあった。空腹で自然と足が向き、またしてもランチパック風のパンを手に取り二つ買った。美味しくて気に入ったというよりも、買い求めやすく、そしてパンの選択肢が少ないのが理由である。二個で35バーツ。
 その場でもう食べようと思う。さすがに店の前で食べるのは違うと思うから、横の建物の前に移動した。建物の入口にはシャッターが下りている。
 その建物の脇の少しだけ開けた空間では屋台が何軒が出ていた。ここでもよかったかなと思いつつ、ランチパック風のパンを食べている。すると屋台の方から食事を終えた中年男性がこちらに向かってきて、ひとつ咳払いをした。男性は私の立っていた後ろのシャッターを開け始めた。不動産屋らしき店がシャッターの向こうに現れ、私はそそくさと移動したのだった。

 宿の門を開けると猫の姿はなかった。まだ帰ってきていないようだ。玄関にいたおばあさんがちょっと待てという仕草を見せ、100バーツ紙幣を持ってきた。チェックイン時に408バーツと示されて500バーツ紙幣を渡していたが、お釣りは100バーツでいいという。言葉は通じていないが、そういうニュアンスと仕草だった。「おまけ」してもらえたという訳だ。お礼を言って、ありがたく100バーツを受け取った。
 雨はまだ止んでいない。もう少し部屋に籠もって今日のプランを練ることにする。
 今日の午後はマハーチャイに行こうというのが元々の案だった。マハーチャイはバンコクの南西に位置する港町で、そこに向かって国鉄マハーチャイ線が走っている。マハーチャイ駅はターチーン川のそばに立つ市場に接して位置し、駅と市場が融合したような賑わいのある駅だ。そのマハーチャイに行って海産物でも食べたいと考えていた。だが、プロンポンで道を遠回りして時間を浪費し、天候も思わしくないままなので気が変わってきた。
 マハーチャイ線は国鉄の他線とは接しておらず、起点のウォンウェンヤイ駅は同名のスカイトレインの駅を降りて少し歩いた場所に駅がある。全線乗り通しても約一時間なので今からでも十分遊べる距離だが、食事目的で向かうには中途半端な時間だった。何しろマハーチャイ線は一時間に一本程度の運転本数なのである。
 甘いお茶を飲みながら私は悩んだ。甘いものを摂ると人間の頭は活性化される筈である。
 マハーチャイ駅は終点だが、ターチーン川を舟で渡ると国鉄メークローン線の起点バーンレム駅がある。終点のメークローンも市場があり、線路のすぐそばに店が商品を並べている光景で知られる。乗ってみたい路線だが、こちらは一日四往復なので無計画で行ける場所ではない。マハーチャイに行くならメークローン線と一緒にしよう。そう答えが出ると、今日は行かなくてもいいかと結論が出た。
 まだ弱い雨が降っているが、宿をチェックアウトする。お世話になったおばあさんはどこかに行ってしまっていた。代わりにおじいさんがいる。初めて会った宿のおじいさんに礼を言って鍵を渡して門に向かった。庭には猫はいない。まだ外だろうか。「また来るよ」と挨拶をしたかった。

   ナショナルスタジアム

 部屋で甘いお茶を飲みながら地図アプリを眺めている時、宿からナショナルスタジアム駅が近いことに気づいた。徒歩10分から15分くらいといったところだ。鉄道路線に乗る旅という視点で考えると、スカイトレインのサイアムからナショナルスタジアム間はまだ乗っていないので、次の移動はナショナルスタジアムから乗ることにして、駅に隣接しているMBKセンターや周辺のビル散策をすることにした。
 宿の周囲は簡素な家が集まっている。昨日の夕方に迷いながら歩いた路地を歩いている。昨日も見た駄菓子屋やランドリー屋や雑貨屋を眺め、そこを抜けていくと更に違う路地がある。道は変わらず細く、人がすれ違うのがやっとだ。そうやって狭い路地を歩いていくと細い運河が現れた。運河の存在は昨日の散策で気づいていたが、近づくのは今が初めてである。
 水面は緑色をしていて流れはない。この運河を渡ると向こうがサイアム地区ということらしく、ビルがすでに見えている。だが、橋はもう少し西に行ったところにあるようだ。
 運河の岸辺には小さな飲食店が並んでいる。道幅は狭く路地の延長にある景色で、長くせり出した日除けで道は暗い。家の影と日除けで暗かった宿周辺の路地とさして変わらない道が続いているのだ。
 歩いていくと景色が少し開け、公園のような場所の横に出た。その先に人道橋が見える。簡素な橋で手作り感が漂っているが、橋から眺めるダウンタウンの風景はきれいだった。また来てみたいと思う。
 橋を渡り終わるとビルに向かって延びる道があり、そこに入っていくと豪邸が現れた。「ジム・トンプソンの家」と呼ばれる観光スポットである。タイシルクの人気ブランドであるジム・トンプソンブランド。その創業者の家の跡が博物館となって一般公開されている。周辺はマンションやビルが立つ。運河の対岸とは別世界がそこに広がっていた。振り返って、懐かしさに思いを寄せて橋の向こうを眺めようとしたが建物が遮って、景色は遠いものとなっていた。
 歩道の階段を上がると、そこにナショナルスタジアム駅の乗り場がある。高架橋の通路はそのままサイアム駅方面へ繋がっていて、昨夜ビル群を眺めたX字型の歩道橋に出る。昼間に見るMBKセンターもやはり大きかった。
 昨日のMBKセンター訪問は夕食に気を取られて他の階をゆっくりと見られなかったので、スマートフォンの店が並ぶフロアに向かってみる。小さな店が何十と並んでいる。本体を売っている店もあれば、アクセサリーに特化した店もある。売っているスマホメーカーは日本と大体同じだが、日本の売場と比べて中国のメーカーが強い印象を受けた。商品のディスプレイも派手だ。そういえば地下鉄のスクンビット駅のエスカレーターの壁にも中国メーカーのスマホ広告が大きく掲げられていた。
 私の使っているソニーのスマホを売っている店がある。どこの店にもソニーがあるという訳でもなかったので、つい見てしまった。この多数のスマホ店が並ぶ空間では日本メーカーは非常に影が薄い。ソニー以外は見かけない。
 飲食店の階にやってきた。カレーライスが食べたい気分なので、タイの名物料理のひとつマッサマンカレーを探していると、美味しそうなカレー店を見つけた。よく見るとインドカレーの店だったが、写真がとても美味しそうなので入ってみることにした。
 私はチキンカレーとライスが食べたいと思ったが、対応してくれたウェイターがライスもナンも付かないと言う。すぐに別なウェイターがやってきて改めて注文がやり直され、無事にチキンカレーにライスで注文できた。味もとても美味しかった。ライスは細くぱさぱさした米で、ベトナムのハノイのステーキ店で食べたランチを思い出したが、別注文のオレンジジュースも美味しく、満足して会計に向かった。合計で494バーツというかなりの値段で、どうやら外国人観光客向けの店だったらしい。
 私は所持金が心許なくなっていた。先ほど病院で1,500バーツを支払ったからで、それを差し引いても予想よりも支出が多い気がしている。そこで、先ほどプロンポン駅にあったATMで2,000バーツをキャッシングしようとしたがカードエラーで所持金を増やせなかった。そこで、ラチャテウィー駅に着いてから別の会社のATMで試したところキャッシングすることができた。だが、この機械は最低額が5,000バーツからだったので財布に1,000バーツ紙幣が幅を利かしている。この店の料理価格は1,000バーツ紙幣を崩すいい機会だと思ったのだ。
 だが、驚くことに店員は崩せないと断りを入れてきた。このような高い値段で商売している店でその言葉は信じ難いし、お釣りは506バーツと細かい硬貨も紙幣もさして必要としない。腑に落ちない気分で何とかならないかと頼んだ。店員はクレジットカードは持っているかと尋ねた。勿論持っている。私は渋々、カードを取り出す結果となった。

 人が集まる場所にはいろんな国の人が商売にやってくる。世界の常識である。海に囲まれた日本でさえもそうなのだ。大陸の中の国タイでは尚更だろう。
 あまり気にしないことにして一旦外に出た。X字の歩道橋の上に出て次に行く店を考える。私は1,000バーツ紙幣を崩す必要に迫られていた。電車に乗って移動したいのだ。ICカードを作ってもらうか。今ならパスポートを持っている。
 そういえばサイアムに日本の安売りチェーン店があることを思い出した。そこで何かを買って崩してみよう。場所は調べなくてもすぐにわかった。ビルの入口に大きな看板が出ていたからだ。
 店内に入ってみると内装や陳列などは日本の店舗のそれと大体同じで、日本にいるような錯覚をしてしまうほどだ。だが、いざ入店してみると買いたいものが思いつかず、結局すぐに店を出た。日本でもほとんど足を運ばない店なので、何を買えばいいのかよくわからずに入店した自分が悪い。
 気づくとビル内の廊下に出ていた。向かいに「メイドカフェ」とカタカナ店名で店を出している所がある。バンコクに来てから度々日本を感じる瞬間がある。異国の旅の雰囲気が壊されるような気分も少しあるが、やはり嬉しくもある。それだけタイの人たちが日本の文化に親しんでいる結果とも思えるのだ。受け入れてもらえていないのであるなら、それらの店などは撤退していることだろう。人が集まる場所にはいろんな国の人が商いを始めるのだ。日本がそこで成功しているというのは事実だった。
 さて、1,000バーツ紙幣問題は解決していないし、喉が渇いてきたのでカフェにでも入ろうと思う。ビルを出て別のビルに入る。入ったのは、洒落たブティックばかりのビルらしいのは入口で気づいた。
 カフェなどあるのだろうかと思いながら館内を歩いている。最上階まで行ってトイレに行ってみたが、ゆったりとしたきれいな造りだった。空間を広めに取って陳列物が少ないという店もあり、全体的に雰囲気を楽しむ場所のようだ。商品の相場は未確認である。収穫無しかなと思いながら歩いているとカフェが見つかった。スターバックスだ。ここなら1,000バーツ紙幣を出しても受け止めてくれるだろう。
 140バーツのアイスミルクコーヒーは甘く、予想していた味とは違うものだったがくつろいだ。窓の外を見れば、いつしか小雨は止んでいた。空は晴れてきた。ようやくどこかに行こうという気分が盛り上がってきた。私は足取りも軽くナショナルスタジアム駅に向かった。
 昨日、トンブリーからラチャテウィーまでの移動の途中で乗ったスカイトレインのシーロム線は、このナショナルスタジアムから出ている。ここからすぐそばにあるサイアム駅を経由して地下鉄と接続するバーンワーまでの13キロを走る路線である。これから向かうのは終点バーンワーのひとつ手前にあるウターカートという駅で、運賃は43バーツだった。
 シーロム線はサイアムを過ぎると大きなカーブで都会を抜けていく。昨夜スーパー銭湯に行く際に降りたセントルイスを過ぎ、郊外に向かって走っていく。境界線というものがはっきりしないが、どの辺りからかビルやマンション群が遠ざかり、古びた集合住宅や低い住宅が増え始める。シーロム線はバンコクの下町のような所に入っていった。
 ウターカート駅は郊外の駅といった風情で、駅前に商店が集まっているといった光景はない。雨上がりとあって、外気は随分と蒸した。私はタイに来てから初めてタクシーを使ってみようと考えた。

   ワット・パークナム

 幸いにもタクシーは駅前に停まっていた。ドアを開けて「ワット・パクナム」と告げた私に運転手は「ワット・パークナム」と頷いた。
 一応、地図アプリを見ながら車の動きを追っている。駅からワット・パークナムは北にまっすぐな位置関係にあるが、その方向に通じる道は細そうで、それは地図で推測できる。車は少し大きめの道に向かって西進し、少し西に外れてから北に向きを変えた。運転手は私がスマホを見つめていることで察したのか、道の分岐が現れる度に「ワット・パークナム」と確認を繰り返した。
 北の方角に行き当たり東に進路が変わった頃、道は住宅路となった。家々が並ぶ中に小さな商店があったりする。下町風景だ。思わず「いい町だ」と呟く。その独り言に運転手は「ワット・パークナム」と答える。そんな空回りしたやりとりをしているうちに目的地に着いたようだ。運転手が「ワット・パークナム」だと言う。寺院の塀らしきものが窓外に見えた。「OK。ストップ、ストップ」と私は答えたが、車はもう少し先に停まった。メーターは「43」を示していたが、運転手の「フィフティバーツ」という回答にチップ込みと解釈して50バーツを払って降りる。小銭のお釣りなどない方がタクシー降車はスマートである。
 降りた場所にワット・パークナムの案内図があった。親切な運転手だった訳だ。それを見て、左に延びる道を歩き始める。周辺は住宅地で、道が細く入り組んでいるので案内図がないとわかりにくい立地にある。
 屋根の付いた道にさしかかり、そこはもう参道だと気づき、いつしか境内に入っていた。修学旅行のようなものだろうか、制服姿の中学生くらいの男女が大勢歩いている。
 境内にはあちこちに犬が寝ている。猫の姿もある。参拝者たちは写真を撮ったりして戯れている。むやみにエサを与える人がいないのがスマートでよい。
 ワット・パークナムは日本人観光客が多く訪れる寺院で、名前を覚えていない人でも「エメラルド寺院」だと言えば思い出す人も少なくないだろう。境内に立つ案内標識にも日本語で「緑ガラス仏塔」と矢印がされてあるくらいだ。
 その仏塔は「マハーラチャモンコン大仏塔」という名称で、シリキット王太后七十二歳の誕生日を記念して2012年に完成した。最上階のエメラルド色に輝く天井がインターネットを通じて日本人観光客に知られるようになって参拝者が増えた。私もその一人という訳だ。
 靴を脱いで仏塔に入る。「お静かに」と日本語も併記された注意書きの横を通って中に入ると数多くの仏像が収められている。一階ずつ階段を上がっていき五階に達すると、そこがエメラルド色に輝く天井の空間だった。緑色のガラスを積み上げた仏塔の周囲をガラスで作られた竜が囲んでいる。厳かな空気が流れている。写真や動画を撮らせていただき、正座して手を合わせた。
 ワット・パークナムは正式には「ワット・パークナム・パシーチャルーン」という名の寺院で、アユタヤ時代に建立された歴史のある寺院だという。時の国王ラーマ3世が王室寺院に認定した由緒ある寺院でもある。
 大仏塔を出ると、金色の大きな仏像が境内に立っているのが見える。歴史のある寺院が持つ荘厳な空気が感じられ、それでいてどこか優しさを感じる空間でもある。ワット・パークナムはメーチー(女性の仏教修行者)が多いのだと後に知る。

 ワット・パークナムからの帰りは行きとは違うルートを選んだ。最寄り駅まで歩いてみようというルートだ。行きはスカイトレインの駅から来たが、距離的には地下鉄の駅からの方が近い。
 狭く曲りくねった住宅路を歩いていくと、やがて小さな運河に出た。小舟が岸に繋がれ、小さな石造の水門が立っている。歩く人は少ない。橋を渡っていくとビニールの日除けを掛けた店が並んでいるが、いずれもシャッターが下りていた。
 店の並びの横から脇道に入っていく。そこは木造の古い家が立つ路地で、生活感漂う道を買い物のバイクが駈けていき、学校帰りの女子高生たちが歩いていく。やがて、賑やかな一角に出た。学校のようだった。校庭で運動会のような行事をやっていて歓声が上がっている。
 空はほんのりと陽が傾いてきて、庶民の暮らしに包まれている道を西日が照らしている。この道を選んでよかったと思う。タクシーは便利だが、歩いてみることで見つかる景色がある。
 大きな道路に出た。上には地下鉄ブルーラインの高架が延びている。地下鉄のバンパイ駅はすぐそばにあった。駅の手前の道路の歩道は面白い造りで、車道に接した歩道より一段低い位置に別の歩道があり、その歩道に面して店の入口がある。参拝者や通学生が対象なのか、ちょっとした雑貨屋や飲食店が並んでいた。
 券売機で43バーツの切符を買って今夜の宿の最寄り駅に向かう。出発前から今日は朝のPCR検査以外の予定を組んでいなかったので、宿の予約もしていなかった。だが、バンコク一泊目の印象がよかったのでフアイクァンを再訪しようと思う。あのマンションの中の宿泊室にお世話になろうと考えた。そう決めて昨日の夕方に予約を入れておいた。
 ブルーラインの電車はフアランポーン、スクンビット、ラーマ9世、と停車していく。この旅で訪れたそれらの駅を過ぎ、バンパイから数えて十六駅目のフアイクァンに着いた。宿に近い北側の出口ではなく南から外に出ると、交差点に人が集まっているのが見えた。近づいてみると、ヒンドゥー教の施設らしく、ヒンドゥー教の神の一柱であるガネーシャを祀った、いわゆるガネーシャ病だった。若い女性の姿が多い。周辺には屋台も出ている。街中の交差点に人が集まって祈りを捧げる場所があるバンコクの下町の懐の深さに、私は驚きと感銘を受けている。一泊目の時からここの下町風景が気に入っていた。再訪したのはそれが理由として大きい。
 そろそろPCR検査の結果がメールで届いている頃だ。ホテルに着いたらひと休みしながら結果を読みたい。一泊目の時も利用したセブンイレブンでレオビールという39バーツのタイのビールを買ってホテルに向かった。
 管理人室に座る受付スタッフは前回の時の女性だった。前回と同じように500バーツをデポジットとして渡し、用意された部屋は前回の部屋の隣だった。
 荷物を置いて、スマホのメール画面を確認する。病院からの着信メールにはPDFファイルが添付されている。陰性証明書に違いない。文面を読む前にそう確信しながら、英文で書かれたメールの要点だけを追う。どうやら添付ファイルに結果が書かれてあるらしい。添付されているPDFファイルを開いた。そこには「NOT DETECTED」の文字が並んでいた。
 私は力が抜けたようにソファに寄りかかり、今日一日、いや、この旅の間にずっと頭の片隅にあった憂いが晴れていく喜びを噛み締めた。結果を確信して買ってきたレオビールを開け、誰に向けるでもなく乾杯を上げた。これで予定通りに帰国できるのだ。そういえば、止まらなかった鼻水は朝から収まっていた。

 ホテルを出ると外はすっかり夜となっていた。これから隣駅に行ってみようと思っている。歩いて行こうかと考えていたが、空は微妙に雲ってきている。そして、帰宅ラッシュが始まっているバンコクの歩道には、バスを待つ人の列ができていたから歩きやすそうではなかった。私は地下鉄の入口に向かった。
 隣駅タイ・カルチャーセンター駅までは17バーツという安さだった。地下鉄の券売機から出てくるお釣りは硬貨に限られているのは何度か書いたが、17バーツの切符(トークン)のお釣りは5バーツ硬貨ばかりだった。10バーツ硬貨が不足していたらしい。
 この駅に足を運んだのは、ここに有名なナイトマーケットがあり、そこの現況を知りたかったからだ。その名も「タラートロットファイ・ラチャダー」という。千軒以上の屋台が集まるナイトマーケットで、夜のバンコクの名所のひとつだった。感染症騒動の影響で現在は休止中で、近日再開すると聞いていた。
 駅の出入口は帰宅ラッシュで人が多い。横にはショッピングセンターがある。ここの駐車場階の階段からナイトマーケットの全容を撮影すると色とりどりのテントがきれいだということで撮影名所になっていた。
 ナイトマーケットはやはり再開されていないようだった。そこに向かう横道は真っ暗で、時が止まっているような静けさに包まれている。いつの日か賑わいが帰ってくることを願い、そっとその場を離れた。
 駅の出入口に着いた頃、小雨が降り始めていた。傘を持たない若者たちが階段の周囲で様子を窺っている。雨が降ってきたとなると、濡れずに行ける場所に行先は落ち着く。私はバンコク二日目の夜に訪れたターミナル21に向かうことにした。
 先ほどたくさん入手した5バーツ硬貨を有効に使いながらスクンビット駅までの21バーツの切符を買い、地下鉄に乗り込んだ。値段が示すように目的地はすぐである。この利便性も今夜のホテルの魅力である。
 地下鉄スクンビット駅とスカイトレインのアソーク駅を結ぶ連絡通路は帰宅ラッシュで混んでいた。人の波を避けていきながらターミナル21に入り、まっすぐにフードコートのある五階を目指した。フードコートはICカードにチャージして各店舗で精算する仕組みだが、二日前に私がチャージしあのは100バーツで、32バーツのカオマンガイと30バーツのマンゴースムージーを頼んだので残額38バーツとなっている。これでは心許ないので、カウンターで100バーツ分チャージした。
 前回は昼に腸の薬を飲んだ関係で一皿に抑えたが、ここは一皿あたりの量はそれほど多くなく、特に大食いでもない私でも二皿は食べられる量となっている。今日は食べていこうと思う。
 まず一皿目はパッタイだ。まだタイに来てから食べていなかった。タイ風やきそばである。いろんなタイ料理の店が集まっているこのフードコートには勿論パッタイの店もある。30バーツと安い。そして、美味しかった。
 次は何を食べるか。前回来た時から気になっていた店がある。麺の店なのだが、料理の名前はわからない。二皿目も麺料理なのはバランスに欠いているが、昼にインドカレーを食べているので麺でもいいかと考える。45バーツ。黒っぽいつゆに米麺らしき麺が入り、香菜と肉につみれが入っている。濃い味付けを想像したが実際はそうでもなく、あっさりした味付けだが風味がよく美味しかった。
 料理のあとは前回も足を運んだジュース屋に並ぶ。どれにしようか毎回悩んでいるが、今回はバナナと苺のミックスジュースにした。果肉がうっすらと入っていて、甘さが心地いいバランスで引き出されていてとても美味しかった。お値段は40バーツ。そして、カード残額は23バーツとなった。カウンターにカードを返却すれば残額は返金されるが、私はそのまま店を後にした。次回に使うためである。
 スクンビット駅とアソーク駅の連絡通路は変わらず混んでいた。ちびまる子ちゃんのイラストが大きく掲げられた静岡茶というペットボトル商品の広告がある。地下鉄スクンビット駅の券売機で5バーツ硬貨を有効に使って24バーツの切符を買い、ホテルの最寄り駅フアイクァン駅に向かった。
 駅からホテルまでの道は都心とは異なり、今日も静かな夜道となっていた。先ほども入店したセブンイレブンでシンハービールと水を一本ずつ買う。計50バーツ。日本円で百九十円だ。この安さに慣れてきた身のまま帰国したら金銭感覚がおかしくなりそうではある。
 帰国便搭乗72時間以内のPCR検査で陰性でない者は帰国できない。現状定められているこのルールを無事通過した。このマンションめいたホテルで隔離生活を送ることを想像してみる。快適に過ごせそうではある。だが、やはり自由の身、健康な身であるのが一番大切である。今回の旅で宿に泊まるのは今夜が最後だが、その実感はまだない。もっと旅を続けていたい気もするが、もう検査結果を手に入れたのだ。答えはひとつだろう。
 シャワー上がりにシンハービールを開けた。大きな窓の前に立ち、ビルやマンションが並ぶ夜景を眺めている。二日前も陽が昇る前にこうして窓の前に立って、まだ薄暗い町の景色を眺めた。早い三日間だったと思うと同時に、訪れた街への愛着のような感触が芽生えていることを実感している。

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