煙の人生

そうそう人に言うことではないが、私は煙草を吸っている。一日に一、二本程度である。週に一日くらいは吸わない日もあるので、平均して一日一本くらいだ。大してよく吸うというわけでもないが、部活や学校などその日のタスクが終わって家で寛ごうという時に、一本吸ったりする。

話は変わるが、私には折に触れて思い出す言葉があり、それは「人生は一度きり」である。当たり前で使い古されていて何の趣もない、陳腐な言葉に思われるだろうか。でもこれは私にとって重要な事実だ。人生はこの一度きりしかなく、私はいずれ死に、二度とこの生を生き直すことはない。だから私は後悔ないように生きたい。死ぬのはそれほど怖くない。それより怖いのは、死ぬ時に「何もない人生だった」と思うことだ。この一度きりの生を、思い残すことなく生きたい。だから私は今の自分が興味を持っていることをくまなくやりたい。そのことが、死ぬ時の思い残しをなくす(減らす)コツだと思うからだ。

私が煙草を吸うのには、こうした価値観が深く影響している。別に煙草を吸って少し寿命が縮んでもどうってことはない。それより、煙草を吸うことで今得たい安心や充足を、得たいように得るということ、また、煙草を吸いながら過ごす時間の尊さを優先したいのだ。今の私には、長く生きてやりたいことはないにしても、今やりたいことはいくつかある。その卑近な喜びを享受することが、人生の価値を追求することにつながると心から思っている。

しかしそれはもしかして、すごく寂しいことなのではないか。結局のところ私は、私自身の生をより長く生きたいと思うことができないのだ。この生を長く営んでいくに足る価値を、未だ見つけられていないのだ。

私事で恐縮だが、私は高校生の頃生の無意味さに絶望して、地の底を這うような暗い精神生活を営んだことがあった。しかしある哲学者の思想と出会ったことでそこから脱し、わずかながら希望を取り戻して生きてきたように思っていた。大学生になって、自分が救われた哲学の道へ進み、人生の意味や幸福や、世界の仕組みなど随分壮大な課題にも取り組み、まだまだ拙いながら、昔よりは豊かな、自力で希望を見出せるような思想を育み始められたと感じていた。魅力的な友人と出会って自分を認めてもらう喜びも知ったはずだったし、音楽や映画や散歩や料理やお笑いや本など、人生を豊かにしてくれる文化に出会い、それなりに人生を謳歌できる気がしてきていた。自分のことを好きだと言えるようになったと思った。しかしそれらの全てが、依然として、私がこの生を長く営むに足る価値を生むことはなかった。この人のために生きていたいと思えるような親友も、このために生きていたいと思えるような文化も、自己も、思想も学問も、二十年間生きたこの手の中に、一つとして無い。だから私はあと半年の命より、五分の快楽を優先してしまうのだ。

あまりに虚しい生ではないか。結局私は高校生の頃の絶望から身動きの一つも取れていない。生きる意味を何一つ携えないまま、享楽的な生に甘んじて、へらへらと自己肯定ごっこをしているだけなのだ。どうすれば自分を救えるだろうか。分からないけれども、分からないままでは、また私は日々に埋没していって、右も左も分からぬままに生を放蕩し続けることになってしまう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?