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二冊の写真の本

今現在、体が動かなくなっても毎朝東の空を撮影できている。
そんな私が写真を撮ろうと思ったきっかけから今日に至るまでをだらだらと書いていく。

「写真」というものを旅行や遊び以外で意識したのは仕事でだ。

1990年代の後半だったと思う。
当時、うちの会社(結構大きな葬儀社)には広報や商品開発を担う部署がなく、営業本部が営業所の要望を取りまとめ、印刷会社などに依頼してイベント告知のチラシなんかを作ったり、私がいた部署が副業的にオプション商品を考えたりしていた。
私の部署は、社葬などの大規模な葬儀の祭壇デザイン(設計・施工管理)を主たる業務にしていた。当時はまだ寺院での社葬が多く、デザイン的な制約も多かったが、図面をひいたら(=設計)現場に行ってノコを片手に釘袋を提げて、材木担いで汗水たらしながら各社設営スタッフに指示を出し(=施工管理w)、翌日は黒服を着て式典の進行スタッフとして3役をこなすやり応えのある仕事内容だった。

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そんな頃、葬儀の際にお客様に見せるカタログのようなものがあって、それを全面的に改定することになった。担当は私がいる部署だ。

ちょっと脱線。
これはなかなか大きな仕事だ。会社の収益に直結することだし、作り方によっては現場の仕事のやり方まで変わってしまう。しかし、そんなことはお構いなしに私たちは以前から考えていたある問題点をこの機会に何とかしたいと考えた。
葬儀の値段で大きな割合を占めているのは人件費だが、それって訴求しにくい。だから「祭壇」という物理的に大きなものを前面に出して価格を設定していたのだが、それはそれでお高いイメージを持たれていた。私たちは葬儀の内容について、こちら側の説明が不足していると感じていた。だから「どさくさに紛れてぼったくる」などと言われるのだ、と考えていた。そういう誤解の根源である「葬儀の価格=大半が祭壇の価格」という提案の仕方から脱したい、脱するべきだと考えていた。しかし、それは周囲の反対で実現しなかった。反対と言うか「時期尚早」だというのだ。「お前らの主張はわかったが、今は原価率などの数字を見直してビジュアルを刷新し、価格ごとの違いが明確で、現場がもっと売りやすくて、確実に求める利益が出せるモノをなる早で作らんかい」とのお達し。まぁ、そりゃそうだ。
そんなわけでカタログの全面見直し作業が始まった。

この時アートディレクターとしてデザイナーに入ってもらったんだけど、デザイナーの強い推薦で、とあるスタジオに所属するカメラマン(Hさん)に祭壇他すべての撮影を依頼することになった。で、このHさんがすごかった。

Hさんは当然、白木の祭壇を撮るのも葬儀式場で撮るのも初めて。しかも白木の祭壇の上に飾るいくつかの照明は照度も色温度もバラバラで、複数の式場で撮ったのだが、式場ごとの照明設備も壁の色も、なにひとつ統一されたものはなかった。だからなのか、毎回最初のワンカット切るまでの準備が恐ろしく長く感じた。それがほんとに長いのか、Hさんからすれば「こんなもん」なのか私たちにはわからなかったが、印刷されたものを見て後者だと納得した。

芸術的な美しさではない。感じたのは純粋に実物がそこにある感じ、と言えばいいのか。白木の祭壇って、いたるところに彫刻が施されているが、触ったらその凹凸を感じるんじゃないかと思われる立体感。祭壇上の様々な照明の照度もちょうどよいバランスで調整されていた。あの準備が何のためだったのか、答え合わせができた。そもそも相手は写真で十数年生きてきた人。私たちがなんだかんだ言えるわけないのだ。
そういえば撮影で面白かったのが、「じゃあ本番いきまーす」とHさんが言うと、その場にいる全員が口を閉じ固唾を飲んでHさんを見守るのだ。その雰囲気にHさんが耐え切れず、というのもあったかもしれないが、すかさずHさんが「いやいや、しゃべっててくださいよ、声は写りませんからw」と和ましてくれたのを思い出す。オール阪神巨人の巨人師匠似の少し強面。寡黙で、仕事ぶりは職人的でありながらも振る舞いは穏やかで洗練されていた。まぁ、なにより出来上がったものが素晴らしいのだから、もうすべてお任せしようと決めたのでした。

このHさんの仕事ぶりを見させてもらって以来、「写真を撮る」という行為に興味を持つようになった。ちなみに私と一緒にやっていた同僚はこの後、自分でモデルを呼んで撮影会をやるほど完全に沼落ちしていた。
Hさんの影響力、恐るべし。

このカタログの仕事をきっかけに返礼品などの撮影もHさんにお任せするようになり、多くの現場でHさんの仕事を見ることになった。
そうしているうちに時計は進み、あっという間にデジタルが市場を席巻し完全に市民権を得た。銀塩はプロと一部のマニアの間で細々と生息し、高機能デジタル一眼が人気を博すようになった。誰もかれもがデジイチ。そんな時代が来た。

2006年の10月。そんなわけで私が買ったのがキヤノンのEOS Kiss デジタルX。特にこだわりはなく、とにかく撮りたくなってしまったのだ。


特に「こういうのが撮りたい」というものもなく、旅行やドライブなんかで風景をちょいちょい撮ったりしてたんだけど、2009年に転勤で大阪から川崎に越してきてから生活に変化が生じて被写体も変わってきた。


ずっと関西にいた者から見ると、関東というのは首都圏を中心に発達した交通網と共に大規模な都市がどこまでも続いている印象だが、実は豊かな自然がとても近くにたくさんある。生活するのにいい環境じゃないかと思う。

そんな関東、川崎に引っ越す前年(2008年)に、いきつけの飲み屋で仲良くなった常連2人(1人は現在山小屋の主)と「六甲全山縦走大会(全縦)に出ようぜ!」という話になった。その場のノリでやることになったんだけど、私が引っ越したこともあって2009年はパスし、2010年大会に出ることになった。部活をやめてから20年以上、大した運動もせず生きてきたのでトレーニングが必要だということはわかっていた。全縦は56㎞を15時間ほどで歩き切らなければならないからだ。

川崎の周辺には丹沢や奥多摩、ちょっと足を伸ばせば奥秩父など、豊かな自然が首都圏の「西の壁」のように存在していた。そこにある膨大な数の登山道。選択肢がいくつもあって少し迷ったけど、最終的にトレーニング場所として、自宅からはちょっと遠いが箱根を選んだ。理由としては、エスケープルートが多く、時間や体調に合わせて距離の調節が容易なこと。言うまでもなく体力に自信がなかったからだ。そして芦ノ湖を馬蹄形に囲むようにトレッキングコースがあるので、芦ノ湖側のどこで下りても芦ノ湖周辺になり、駐車場に戻りやすいということも理由の一つだ。
というわけで2010年10月5日、箱根に向けて出発した。

箱根ビジターセンターに駐車し、湖尻水門近くの「ハイキングコース登り口」から長尾峠を経てこの日は金時山までの予定で歩き出す。50分ほど歩いたら芝生の広場が突然現れた。標柱に「富士見台公園」とあった。雲で先っちょしか見えないが、確かに雲がなければ上から下までバカでかい富士山が丸見えだ。その広大なすそ野もよく見えて改めて富士山の巨大さを実感した。


しばらく進むと、右に芦ノ湖をのぞむ視界の開けた緩やかな上りの道に出た。その道は背の高い藪がなく少し強い風が吹いていた。普段使わない筋肉と心肺機能が悲鳴を上げ続けている状態だったが、一息ついてとても気持ちよかった。このあと水500mlが早々に底をつき乙女茶屋で途中下山。早速エスケープルートが多いことが役に立った。


この日の経験が「登山+写真」に向かうきっかけになったのは間違いない。身体を動かした後の心地よさと絶景の中に身を置く爽快さ。そして写真で記録する楽しさ。きっかけは「全縦」だが、なんとなく「全縦」だけでは終わらない気がすでにしていた。


仕事の方は、転勤して未経験の職種(生花装飾部門)に就くこととなり、着任早々「生花のオプション商品」を作るべく、取引している生花装飾の協力会社を集め、何度も打ち合わせを重ねた。
数カ月経って、じゃ、あとは撮影だね、という段階にきた。これは日常的に撮影、画像編集作業を行っている大手生花装飾会社が担ってくれることになった。正直ホッとした。と、言いつつも撮影はやっぱり楽しい。長時間で段取りも大変だし、式場で撮るので制約も多い。それでもなんか楽しいのだ。新しいものを作っている、という楽しさもあると思う。いろんなアイディアの取捨選択、コストと見栄えのせめぎ合い、セッティング方法など、いろんな課題を乗り越えて初めて撮影ができる。撮影という行為はそういういろんなことを総括する作業とも言える。
「これでやっとこの商品が表に出るぞ」という安堵とワクワク感。それを話し合ってきた人たちと分かち合う嬉しさ。いろんな物事や気持ちが被写体に集約されていて、それを世にお披露目するための通過儀礼が撮影なのかもしれない。

最初の仕事を終えてほっとしたのもつかの間、ややこしい仕事が舞い込んできた。

話を聞いたときは簡単な仕事と思えた。骨壺の別途販売用のペラものだ。業者さんから画像データをいただいてそれをレイアウトし、価格と仕様を入力するだけだ。「おれ、生花装飾部門に来たはずなんだけど」と思いながらも快く引き受けた。しかし、届いたデータを見て引き受けたことを大いに後悔することになる。

データが届いた。それを見た私は「おいおい、これどこで撮ってん…」と、ため息とともに思わず声が漏れてしまった。職人たちによる美しい光沢の白磁や青磁の骨壺たち。ほぼすべてのその美しい光沢に、いろんなものがきれーに写り込んどるやないかい!

そもそもなぜこのペラものを作ることになったかというと、有名老舗陶器メーカーが骨壺を作るということで、ウチの会社も販売することを決めた。それに伴う改定ということで作ることになった。
その有名老舗陶器メーカーのデータは先に届いていたんだが、さすが有名老舗陶器メーカー。それはカメラマンによってスタジオで撮影された完璧な写真だった。このままだと美しい光沢にごちゃごちゃ写り込んだ骨壺写真と、艶消しの柔らかい光沢が美しい骨壺写真が同じ土俵に並ぶことになってしまう。本来的にはどういう用途かは理解した上でのメーカーさんのデータなので知ったこっちゃないのだが、うちの商品として販売するわけで…。このクオリティでいいのか思わず自問してしまった。

わかってる。もう送られてきたデータを見た時に覚悟はしていた。
撮りゃいいんでしょ、撮りゃ。

というわけで、倉庫に骨壺の在庫を確認し、ないものは至急取り寄せてもらうよう依頼した。数日してモノが揃ったことを確認し、業務が終了した倉庫で独り撮影ブースづくりを始めた。今となってはどういうふうに作ったか記憶があいまいだが、ご自宅や寺院で葬儀をするときに部屋に白い幕を張って白い空間にするんだが、そういう幕で小部屋を作って、天井も白幕でふさぎ、その上に投光器を設置し、テーブルを置いて、最終的に黒幕を使った気がするが、まぁとにかく形になったら試し撮りして手直し、また試し撮りして手直しを何度か繰り返し、ようやくブースが完成した。

そうして撮影はてっぺん近くまで行われたそうな…

そんな手間暇かけた写真たちだからレタッチフリーでレイアウト作業は楽ちんだった。出来栄えもスッキリ統一感あるものになったんじゃないかな、と自画自賛しておく。はぁ疲れた。


さて、全縦本番はスタートから30km程の掬星台でリタイアとなった。トレーニングで120kmほど歩いたので体力はかなり余っていたが、トレーニングで歩きすぎてひざを痛めてしまったのだ。スギタるは及ばざるがごとし。

でもそのトレーニングで山にハマってしまった結果、ネットや雑誌で情報収集を始め、身の丈に合った装備を買い集めだした。カメラは少し考えた。かさばる一眼からコンデジに買い替えるかどうか。結局、この時は魚眼がおもしろかったのでレンズ交換できる一眼を引き続き連れて行くことにした。

それからは転がる石のごとく登山沼に落ちて行った。


そうしているうちに病気になった。
山には行けなくなったけど身近に手つかずの大自然があるじゃないか、というわけで空を撮り始めた。山の風景と同様、空もいくら眺めてても飽きることがない。それどころかわずか数分で劇的に様子が変わる朝の空は予想がつかず目が離せない。そして年に数回は見たことのないような色や造形を見せてくれる。

こうして今に至ってるわけですが、写真の話をしているのだから最後に父の遺影に触れておかなきゃならない。

昨年11月28日に父が亡くなった。
実家が大阪なので当然葬儀も打ち合わせも向こうだが、葬儀を依頼するのは私が勤めていた会社だ。当然のことながら打ち合せは私もオンラインで参加した。

打ち合わせは進み、遺影の話になった。
「祭壇にお飾りするご遺影ですが、お写真は決まっていますか?」
「はい。あとでメールします。加工の詳細も書いておきます」
「かしこまりました。ではサイズはどうしましょうか」
「横向きなので大きめにしたい。祭壇とのバランスもあるのでご意見を伺いたい」
「全紙だと大きすぎると思うので、半切でいいと思います」

実は私は遺影は多少バランスがよくなくても大きい方がよい、と現役の時から思っていた。何なら大きな遺影写真と必要な仏具だけで祭壇として成立するくらいに思っていた。

「そうですか。少し考えさせてください」
「かしこまりました。明日でも大丈夫ですので」

これはかなり迷った。実は、電飾パネルの無機質な枠が見えるのが嫌で花額も頼んでいた。なので写真を全紙にすると当然花額も大きくなり、値段が跳ね上がるのだ。花額をやめることも考えたが、一度選んだものをやめるという引き算をしたくなかった。結局、半切に決めた。そしてその旨も含め、遺影データと共に担当者にメールをした。

2日後、大阪で対応をしている姉から連絡がきた。遺影ができたとのことでそれを知らせるLINEだった。そして話がしたいと言ってきた。PCにカメラをつなぎ大阪とつなげた。
姉は開口一番、これはアカンわと言った。後ろには母もいるようで「どうしてこんなのにしたんよ~」と不満をあらわにしていた。二人ともバックが雲みたいな抽象柄で着せ替えもした「ザ・遺影」をイメージしていたようだ。しかし私が依頼した内容は、電飾に合う色調整以外の加工は一切なし、トリミングも必要なだけ、というものだった。そしてこれが元データだ。

この写真、実は姉がタブレットで撮った写真。姉が私に送るために「ほらお父さん撮るよ、笑って~」と言ってパッと撮った写真だ。私はこの写真を見て「オトンの最高の写真を撮られてもうた!」と思った。この時からこれを超える写真がなければ何年経とうが遺影はこれしかないと決めていたのでした。こんなに早く見送るとは思わんかったけど。

いったい母と姉はこの写真の何が気に入らないというのか(ま、大体わかるけど)。一応聞いてみると「部屋が汚い」「布団が汚い」「ふすまが汚い」「後ろがごちゃごちゃしてる」「なんで法被姿のまま?ウチは高野山真言宗やのに」なんてことを言ってたけど、私の意思を覆すほど重要な理由ではなかったので「これだけは譲れん(ほかのことも譲らんけど)」と言って突っぱねた。

なぜこの写真なのか。なぜ加工なしにこだわるのか。

父はいろいろあって40代後半に突然仕事をやめ、一時行方知れずにもなった時期があった。流れ流れてとある地方の観光ホテルで住み込みで働くようになって落ち着いたようだ。まぁそこでもちょっとあったのだが。
そして最終的に写真の場所、奈良県天理市にある天理教西成大教会信者詰所に縁あって住み込みで詰所に来る人達のお世話をすることになった。天理教本部にお参りに来る信者や、時にはフランスから柔道合宿(天理大に練習しに来てるらしい)で来た選手たちなどだ。報酬は三度の食事と寝床のみ。ここは父の人生で最期に社会とつながって多くの人に奉仕した場所で、そこで豪快に笑っているのがこの写真というわけ。
母と姉は部屋が汚いというが、歴代のこの部屋の主たちがこの部屋を大事に使ってきた証であり、父も含めこの部屋の歴史なわけで。そして何より机に置かれた私たち家族の写真。これが加工しない最大の理由だ。

最後は私の熱量に母も姉も抵抗を諦めた。そしてお通夜を迎えた。
私は告別式のみの参列だったので、通夜はオンラインだったのだが、終わってから姉がやれやれと言った感じで「お母さん、あれだけこんな写真アカンわって言ってたのに、天理教の二つの大教会の教会長さんが来てるのがわかった途端、これでよかったんや、って言うてるわw」
うん、母はそういうとこある。

何はともあれ、葬儀を滞りなく終えることができたのが何よりだ。


えらい長い話になってしまったが、これを書こうと思ったのはこの二冊の本の影響だ。

この二冊の著者が写真に対して語っている動画、こちらも必見。

この二冊の本を読んで「あれ?おれっていつの間に写真撮るようになったんだっけ」となって思い返してみると、あーそやそや、Hさんや、となって、あんなことあったなぁとか色々と思い出し、ちょっとまとめて書いてみよっ、と軽い気持ちで書き始めたらこんなことになってしまった。
この二冊、どちらも本質的な話なので結構似たようなことを言っている。特に熱を感じたのが
好きなもの(だけ)を撮る
ってこと。これ、当たり前のようでそうしてないことが多い気がする。「とりあえず」な写真、結構撮ってる。

で、この二冊の本の感想はというと…
この人↓の写真を撮らせたら、私は世界一に違いない、ということ。
どういうことかは読めば絶対わかる。写真が好きな人、読んでみて。

チャンチャン。


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