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飯田鉄 個展「あかるいかげのくに」【後編】

この記事は飯田鉄 個展「あかるいかげのくに」のために事前に行われた、飯田鉄と篠田優によるインタビュー記事【後編】です。

【前編】はこちら→

【作家】飯田鉄
【聞き手】篠田優(写真家・Alt_Medium)

〔作家プロフィール〕
飯田鉄 / IIDA Tetsu

〔近年の個展〕
2020 「美徳の譜」(ギャラリーニエプス / 東京)
    「ひかりの秤 EPIPHANIA」‐庭園試論‐(Alt_Medium / 東京)
2019 「球体上の点列」(Alt_Medium / 東京)
2018 「RECORDARE」(ルーニィ247ファインアーツ / 東京)
2017 「草のオルガン」(ギャラリーニエプス / 東京)
2017 「街の記憶術」(ルーニィ247ファインアーツ / 東京)
2012 「螺旋のぬいとり」(オリンパスギャラリー / 東京)、ほか多数

〔主な著作〕 
「近代和風建築」(建築知識社・共著)、「私だけの東京散歩」(作品社・共著)、「レンズ汎神論」(日本カメラ社)、「街区の眺め」(日本カメラ社)など多数

〔賞〕
1987年 日本写真協会新人賞

〔パブリックコレクション〕
東京都写真美術館、川崎市民ミュージアム

また、展覧会の詳細は下記でご覧いただけます。
https://altmedium.jp/post/648051490881142784/

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I:余談になるけど、僕が写真を撮り始めた頃のことを聞いて貰えるといいのかなと思う。その頃の日本の写真の世界の熱の高さを思い出すことにも関係してくると思います。僕が写真に興味を持ったのは中学生の後半から。1960年代前半頃ですね。次兄がペンタックスSVというカメラを買ったのがきっかけかな。次兄は桑沢デザイン研究所に通っていて、その授業用に購入。当時桑沢は写真の講師に石元泰博さんがいました。そういう時代ですね。

S:それはすごい時代ですね。

I:そして写真に関係あるところでは、興隆期のコマーシャル世界を牛耳る当時「日宣美」という商業デザイナーの団体がありました。横尾忠則さん、宇野亜喜良さん、先だって亡くなった和田誠さんなども所属する団体で、その後に「カメラ毎日」や「話の特集」といった雑誌でその人達と写真とが大いに関係してくる世界も次兄に教えてもらったんですね。

S:1960年代半ばくらいですか?

I:そうです。僕もそうした広告の世界をいいなと思っていたんですが、そのうちに「カメラ毎日」の世界を知るようになって、写真を見るのが余計に楽しくなったんですね。当時の写真の状況は報道系のルポルタージュ写真が王道で、長野重一さん、富山治夫さん達がバリバリです。カメラ雑誌だけでなく創刊したばかりのグラフ雑誌「太陽」とか、硬いところでは岩波の「世界」とか、新聞とは少し違うグラフジャーナリズムの仕事が溢れてました。名取洋之助さんの岩波新書を読んでエディトリアルの意味にも触れたりしたのだけど、「カメラ毎日」は明らかに違うんですね。写っているものが不思議だったり、きれいだったり、楽しそうだったり、そういう写真が多かった。登場する写真家は沢渡朔さん、篠山紀信さん、立木義浩さん、佐藤明さん、奈良原一高さん、高梨豊さん、錚々たる人達です。ビジュアルがみんな華やかで、ウィットに富んでいて、お洒落かつスマートな世界でした。グラフジャーナリズムを含めて、活気に溢れた、今の細分化され、平坦化された写真の世界と違う状況だったかと思います。広い世界の情報が少ない無邪気な時代とも言えるかな。

S:グラフジャーナリズムが成熟から衰弱へと向かい、それに入れ替わるようにいわゆる「エディトリアル」な写真が出てくる。その両者を見てきた飯田さんがデビューしたのはその頃でしたよね。

I:そう、1972年です。「キヤノンサークル」というキヤノンのクラブ雑誌、そして「カメラ毎日」に掲載された写真が僕の初めての印刷物です。それ以前はいわゆるコンポラに影響されてます。牛腸茂雄さん、関口正夫さん、佐藤邦子さん、潮田登久子さんはみゆき族の写真が印象的でした。本家の「コンテンポラリー フォトグラファーズ」は「カメラ毎日」経由。僕は奥手で1970年前後からようやっと、エヴァンス、ビル・ブラント、アジェ、アヴェドン、ソコルスキーなんかを大量に見るようになったんで、すべてが同時に目の前に来た感じでした。

S:以前も聞いたことがありますが、『provoke』についてはどう思いましたか?

I:僕は「プロヴォーク」にはあんまり関心なかったです。ちょっと違うけど、森山大道さんはだいぶ以前にデビューしていたし、あの時代のブレ、ボケ、そしてアレとか、網膜を刺激するようなものはすでにアンダーグラウンドの世界で多かったかと、それに「風景論」は難しかった。ものが鮮明に写っているのが当時から好きでした。下津隆之さんの写真とか、石元さんの「シカゴ」とか、柳沢信さんの紀行写真とか今でも見飽きません。

S:1972年に『カメラ毎日』でデビューして、その後はフリーランスですか?

I:そうそう。悲惨なデビューでした。フリーランサーは大変。でもしばらくして富士ゼロックスの広告写真を月に1回とか、2回頼まれるようになりました。当時富士ゼロックスは「週間新潮」に見開きの広告を出していたんですが、簡単な写真だと僕に。当時はギャラがいい(笑)。元々僕はいわゆる制度としての写真教育を受けていない人間で、広告代理店のアシスタントとして食うために写真の業界に入ったんですね。物撮りとか不動産物件の建物撮影とか、そういうコマーシャルの世界が入門でした。だからいわゆる写真を踏まえるようなアカデミックな素養はなかったといっていいのですが、写真の概観的な見方というと、1968年に池袋のデパートで開催された「写真100年―日本人による写真表現の歴史展―」(*2)という展覧会を見ています。ここで写真の歴史的な流れに初めて触れたことになるのかな。

S:それがはじめてですか!大変重要な展覧会だし、それを実際に見たことがある人はいまはもう少ないですね。

I:その時は「カメラ毎日」に東松照明さんの「日録」という作品が掲載されて、そのなかで東松さんがこの展覧会のことにふれられていて、興味を持っていたからなんです。江崎礼二の赤ん坊の大コラージュとか、そのときに初めて写真の流れを体系的に知りました。それまでは神田の古本屋で「ヴォーグ」やカメラ雑誌をあさったり、断片的に写真を見ていたと思います。

S:そのときまではイメージをそれぞれに分離して見ていたけど、その展覧会以降は写真史という歴史の繋がりのなかでそれぞれ写真を見ていくという感覚が生まれたのですね。

I:今から考えるとしょぼい展示形態だったけど、でも内容は凄かったですよ。それからかな、そういう眼で写真を見始めたのは。
 それと、自分のテーマでもある街や建物のことでいえば、カメラ雑誌の月例写真も自分にとって身近でした。街が写っているものにもなかなか響くものが多くて、コンポラもそうだけど、誰でも普段眼にしているような世界の中にある不思議さを、写真で抽出しているように感じた。だったら僕にも撮れるじゃん、と思ったんですね。それからカメラを持って街をブラブラとするようになりました。

S:やはり「日常」というものに着目していたのですか?

I:とくに日常、非日常とかではなくて、いつも暮らしているところで不思議なものが見えてくる。身近なものだけど、撮ってみるとちょっと位相がずれて、見ている人の心が少し突き動かされる気がする。その当時コンポラの良く言っていたことだけど、日常性の中にある不思議さなんだよね。大辻清司さんが「気配」と称していたこととも関係あるかも。街の写真ということで見ていくと、1955年~1956年頃の「アサヒカメラ」の月例コンテストに応募していた酒井妙見というひと、もしかして知ってます?(笑)

S:流石にちょっと投稿写真までは……。

I:この人はその年に月例の年度賞1位を取った人です。酒井さんは東京とその近郊を標準レンズほとんど一本で撮っているんですが、これが凄い。絶対見て欲しい。酒井さんの月例はリアルタイムに見たわけではなく、1970年過ぎに古本屋で見つけたんですけどね。もうひとつ、ほぼ同じ頃、銀座ニコンサロンで桑原甲子雄さんの個展*3を見ました。僕はその頃桑原さんという人も知らなかったんだけど、見てビックリ。それは戦前の東京の街の写真だったけど、自分のやりたかったことがそこにすでにある。酒井さんと桑原さん、お二方の影響は大きいです。

S:飯田さんの作品には桑原さんの影響もあったのですね。桑原さんの写真との出会いはリアルタイムということですが、過去の写真家たちの実践を見返すことはその当時、よくおこなっていたのですか?

I:そういう事でもないんですけど、ある時期に集中したんだと思います。

S:木村伊兵衛なんてどう思います?桑原さんと似たような感じですか?

I:これがねえ、そう思うでしょう。ブレッソンも同じなんだけど、名人芸というか、芸が先行しちゃっていると思う。なんだか、写真を見てどっか他所の世界に持って行かれるんじゃなくて、その人の世界や意図に引きずり込まれる。それがあんまり面白くなかったのかな。

S:そうですか、それに比べてコンポラの持つ一種の反技巧的性というか、技が前に出過ぎない写真のあり方が飯田さんにとって心地よかったのでしょうか?

I:それもあるし、見る人が自由に鑑賞できる方がいい。大体のブレッソン写真は自由には見られない。引っ張られちゃう。そういう表現とか作り方が当然と思っている世界の作物だけど、エヴァンス、アジェと比べたら違うよね。それとね、桑原さんの写真は木村さんが下町を撮るのと違って、どうも体温というか、桑原さんの感じていた空気とか、時代をもっと肌に密着させるものを感じます。

S:私が強く関心を持っている1960年代末から1970年代半 ばまでの頃は、アマチュア写真というか、アマチュア性を再評 価しようという流れがあったと思うのです。そのなかで木村伊 兵衛や桑原甲子雄は同じように担ぎ上げられたところがあると 思う。だけどリアルタイムでそれを見ていた飯田さんがやっぱ りちょっと違うように感じていたのは面白いです。

I:桑原さんは作り上げようとする意識が薄いんじゃないかな?木村さんの場合、職業人としての意識が何処からか湧き出てくるんだよね。だからある意味泥棒みたいな意識になるのかと思うよ。

S:巾着切り?(笑)

I:そう、だから桑原さんは巾着切らないの(笑)。

S:私にとっては書籍を読んで推測するしかないことですが、飯田さんはリアルタイムに実践をともないつつそう感じていたというのは、面白いですね。

I:街と建築が自分のテーマでもあるけれど、建築は依頼されると難しいことも多い。もちろん仕事としてやるんだけど、果してこれは面白く撮っているのかな?と思うことが多くあります。同業の人達の写真を並べてみると、計画したり設計したりの立場より、建物を使う人達や暮す人の見方、感じ方がどうも強いようです。

S:飯田さんは自分の関心から撮影した方が納得できたのですね。

I:ずっと建築物を撮っているとやはり撮りたいように撮らせて、とわがままがでてしまいます。だいぶ後になってガブリエル・バジリコという人の写真集を見たけど、似た人がいると思いました。街景や建築物を投げ出すように撮影してるんだけど、どこか少し自分と似てるなぁと思ったな。

S:単にひとつの建築を撮るのではなく、町や自然といった空間や環境を含めて建築やそのディティールを撮ってくということに関心があったのかなと思いました。

I:それはたしかかも。おまけですが、機会があれば酒井妙見さんを調べてみてください。都市の風俗考、都市の地勢学、そんなものを背景に感じさせる写真ですよ。

(注釈)
*1 飯田さんは『カメラ毎日』内に設けられた「アルバム」という新人写真家の作品を掲載するコーナーでデビュー。
*2 「写真100年―日本人による写真表現の歴史展」西武百貨店、1968年
*3 「東京1930-40―失われた都市」銀座ニコンサロン、1973年

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