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性差別の歴史と変遷memo

【参考】
・「家族・私有財産・国家の起源」入門 不破哲三 新日本出版社
・社会発展史入門-改訂版-安藤貞夫 新日本新書
・日本歴史(上)加藤文三等 新日本新書
・近代日本女性史(上)米田佐代子 新日本新書
・財界による家事と女性の管理戦略 石川康宏
 https://walumono.typepad.jp/1/2008/01/post-db2b.html

🌟《原始共産制社会》
そもそも性差別というものは、人類史の中でいつから、そしてなぜ生まれたのでしょうか。

☆古代、人類はみな平等だった。

歴史をさかのぼって、人類が狩猟や漁、採集などの生産手段しかなかった時代では、人間は自分たちが生きていくために必要最小限のものしか生み出せず、それ以上のもの、すなわち余剰生産物を生み出すことができない時代がありました。したがって貧富の差別はなく、またある人間が他の人間を支配してその余剰生産物をうばいとること、すなわち搾取というものも起こりえませんでした。

例えば縄文時代の日本の人々は、十人ほどであつまって集落をつくっていましたが、その住居はみな粗末な堅穴で、そこからでてくる遺物にも貧富の差はありません。また人は死ぬと共同墓地に同じように土をあさくほって埋められ、ただ身につけた貝や石の腕輪・耳飾りなどに、わずかな違いがみられるだけでした。だれか一人だけが、特別な副葬品とともに手厚く葬られることもなければ、個人の立派な墓がつくられることもなく、これらのことは、当時の集団の人間関係は平等で、貧富や身分・階級の差別がなかったことをはっきり示しています。
 

“自然的分業”の発生と当時の女性の地位

“家事”についていえば、男たちは専門に狩猟・漁業をし、女たちは専門に食物の採集・加工、家事労働にあたり、老人たちは道具をつくり、子どもは女の手伝いをするというような性別・年齢別の“自然的分業”というものが生まれたのもこの時代でした。

しかし、この時代における分業は、現代の“性別役割分業”と違い、主に女性の手で行われている家事労働が、強制を伴うものであったり、他の労働と比べて下等に扱われるというようなことはありませんでした。というのも、狩猟と漁業の獲物は当時の道具ではいつも得られるとは限らず、食物採集はやはり大きな役割を持っており、そこで食物の採集を行う女性は男性と比べて同等であり、重要な地位を占めていました。また「私有財産制が成立してない社会では、人間の価値はその労働によって富を生み出すかどうかではなく、集団に対する寄与によってはかられたために、生命を産み、育てる母の役割は生産労働の役割とともに正当に評価された」(日本歴史《上》改訂版/新日本新書P21)


☆母系制社会と氏族
 
そして、原始共産社会におけるこのような集団(原始共同体)は、血縁関係によってむすばれており(氏族)、その血縁ははじめ母系によるものでした。当時は婚姻関係が不安定であったために、父子の関係より母子の関係が強く意識され、人々は母の系統をたどってあつまり生活していたのです。

日本でも縄文時代以前の社会は母系制社会で、男女は平等であったと思われます。そのことは、縄文時代の土偶がほとんど全部女性で、母性を強調したものであることや、三世紀の邪馬台国の王が女王で、奈良時代にいたっても、多くの女帝が出現していることなどからも推測されます。

しかしこのような母系制は、生産力が発達して私有財産制が成立すると、次第に父系性にとってかわられ、のちに家父長制家族の誕生に繋がっていくことになります。


🌟《古代奴隷制社会》

☆階級社会の発生と『女性の世界史的敗北』

 自分たちが生きていくための必要最小限のものしか生み出せない、低い生産力しか持たなかった原始共産制の時代から、農耕文化の発展などにより、人類は次第に余剰生産物を生み出せるようになりました。余剰生産物と余剰労働の発生は、他人の労働力を搾取することをできる条件をうみだし、ひいては、原始共産制の解体、奴隷制の発生という、生産関係の変化をもたらします。
こうして人類は平等な無階級社会から、最初の階級社会である古代奴隷制社会へ移り変わったのです。

また、こうした余剰生産物を生み出せることになったことによる私有財産や人間による人間の搾取の発生が、階級的不平等の原因となり、同時にこれらの過程は男女間の社会的不平等発生の過程と密接に結びついています。

農業の発展と共に、男子の労働がしだいに大きな地位をしめるようになり、家族の財産への男の発言権がふえ、財産が私有財産化されるにつれて、男の側には、かならず自分の子に財産を相続させたい要求がおこり、女には一夫制が強制され(※どの男性の子であるかを判別できるようにするため)、母系制がくつがえされ、家父長制大家族がここに成立します。

こうして家族の財産は、家父長大家族の父権のもとにおかれることになり、「全女性の世界史的な敗北(エンゲルス)」が行われるのです。女性の男性への従属は、このように、私有財産制の発生、階級の発生とともにおこったのです。(社会発展史P49-50)


☆『女性の世界史的敗北』の日本的特徴

 ただしこの「女性の世界史的敗北」はヨーロッパでは階級社会の成立に先行していたのに対して、日本では、階級対立や階級抑圧はもちろん、古代国家が成立して全国を統一的な支配のもとにおくようになった段階でも、母系制な原理にたつ対偶婚、長期にわたって存続し続けました。

 現代でもつい最近まで日本人の中で当たり前だと思われていた結婚といえば、女性が男性の家に入って、その家族と世帯をともにすることであり、とくに男が長男の場合というのは、それが当たり前のこととなっていました。つまり結婚とは、女性が「お嫁さん」として男の家に入ること、つまり、「嫁ぐ」ことでした。

 ところがこうした結婚の形態「嫁入り婚」あるいは「嫁取り婚」というのは、日本の歴史では、ごく後代になって生まれたもので、それまでは、男が女の家に通ったり、入ったりするのが普通だったということでした。「嫁入り婚」とはまったく反対の形態です。

 日本では、大化ごろ(7世紀半ば)までは、妻問婚(夫婦は結婚後もそれぞれ自分の生まれた氏族に属し、相手の氏族や家に移らない形態の結婚。)で夫婦が別居しており、大化後は過渡期の状態、平安中期ごろ(9世紀末)から原則婿取婚(妻の家の方で婿を選ぶ)となって、ここで夫婦が妻の家で同居生活をするということがはじまったのです。
 
 このような母権が大きな役割を果たした原始時代の家族形態の遺制が階級社会の成立後も、長期にわたって存在し、14世紀の室町時代の成立のころまで続きます。
 男の支配と女性の無権利を特徴する家族制度は、日本古来のものどころか、室町時代から明治憲法時代にいたる、わずか600年ほどの歴史をもつにすぎないのです。

 政治の世界では、かなり早くから女性は国家の権力者の地位から排除され、あれこれの時期での女帝の登場を例外として、政治権力は男性に独占されているという状況はあったにせよ、
こうした家父長的な家族制度が人類の長い歴史の中でわずか600年の歴史しかないものだということは、大事なことだと思います。

🌟《封建制社会》

☆封建制の主柱を成す土地支配と“婿取婚”との齟齬

 これまで見てきたとおり、政治の世界では女性は早くから権力者の地位から排除されたものの、結婚・家庭生活の場面では母権が一定程度役割を果たす形態が日本においては長く続いてきました。
こうした形態が完全に覆されたのは、日本が武士階級を中心とした封建制度の社会形態に移行してからのこととなります。
 
 封建制度に移行した社会において、支配階級である武士集団にとって、母権による結婚・家族形態は決して好ましいものではありませんでした。

まず、封建制度の主柱となっているのは、土地の支配です。武家の棟梁を頂点に各級の武士を結ぶ主従関係にしても、主君が配下の武士に土地支配の権利を新たに与えたり、これを保障したりする代わりに、武士が主君に忠勤を尽くすという「御恩」と「奉公」との双務的な義務で結ばれた関係であって、“武士道”といった抽象理念から生まれたものではありません。
 こうして手に入れた所領(支配する土地)を、自分の家にしっかり維持し続けてゆくためには、戦士としてのあとつぎである息子が他家に婿にとられて、娘だけが自家に残る婿取婚のわくにとどまっているわけにはゆかないことは明白です。
 ここに、早い時期から武士階級が嫁入り婚の担い手になった理由があります。

☆単独相続性と女性の排除

 そして、所領や財産の相続性については、武士階級でも初期にはこどもたち全部が相続権を持つ「分割相続」が行われていたので、せっかくの所領も、代ごとの細分化をまぬがれることができず、自身の勢力の拡大の大きな妨げになっていました。また女性も所領の分配をうける平等の権利をもっていましたから、鎌倉時代には女性の地頭や領主もあらわれたし、結婚の際にも、妻は自分の所領や財産をもって結婚し、それは夫からは独立したものでした。

こうした関係が打破され、「単独相続性」の確立とともに、女性が相続から排除されて経済的に無権利になった存在となったとき、嫁入り婚は文字通り「男の支配」を特徴とする一夫一婦婚として成立したのです。この「単独相続性」は14世紀の南北朝の内乱をへて、足利幕府がその全国支配を確立する時期に、全国的に広がりました。

 こうして、古代以来、実生活の中で長期にわたって維持されてきた女性の社会的地位がくつがえされ、政治の上だけでなく、結婚=家庭生活においても、女性が無権利となる女の隷属の時代がはじまりました。

 嫁入り婚のもとでの女性の従属と無権利は、室町時代から戦国の動乱をへて、江戸時代へと、封建支配体制が完成の度をくわえるにつれて、いっそう厳しいものとなりました。

☆封建制社会における女性の地位の転落

 これらのことについて、歴史家の家永三郎氏は以下の通り述べています。

 「室町時代以来進行しつつあった女性の地位の下落は、嫁入り婚が原則となった江戸時代にはいってその極に達している。財産と称するに足りるほどのものがまったくなく、夫婦の共同労働によって生活するほかない下層の証人や百姓の場合は少しくちがっていたけれど、武士ならば封禄、承認ならば店舗、農民ならば土地という、家父長の占有する固定財産によって生活を支えている人たちの家庭では、その財産権の唯一の相続者である家父長の他の家族に対する権利-というよりはその財産を世襲する『家』の権威が絶対的であり、家族はそれに隷従することを強制されたのである。結婚と同時に夫の家に移る嫁入り婚のもとでの妻は、夫の家の財産にたいして権利のないみじめな存在であり。夫の妻であるよりも、夫の家に嫁いだ嫁として、夫の家の権利を代表する舅・姑の圧力を回避することができなかった。夫の性的放縦は容認され、ときには推奨される場合さえあるのに、妻は夫への貞操をかたく守る義務を負い、妻の姦通はしに値する重大な犯罪としてとりあつかわれた。一夫多婦が公認された結果、正妻以外に妾という身分が設けられているが、妾も正妻と同じ貞操の義務だけは課せられながらも、古代の複数の妻とちがって、奉公人同然のいやしい身分として蔑視せられているのである。」

また、女性の意志をかったく無視した政略結婚があからさまな形で展開するようになったのも、室町時代以後の現象でした。

戦国時代には、各地の大名はじぶんの勢力をひろげるために娘や妹をつかいました。織田信長は妹のお市の方を、はじめ浅井長政と結婚させておいて、長政をほろぼし、長政とお市のあいだに生まれた男の子をころしたうえ、こんどは柴田勝家と結婚させました。また豊臣秀吉は、徳川家康をひきつけるために、すでに結婚していた妹朝日姫を離婚させて家康に嫁ぎました。

そのうえ、封建社会では、お家断絶をさけるため、あとつぎが生まれなければ妾をおいて、子を産ませるということが、日常のこととしておこなわれていました。農民の女性たちが「年貢をつくる道具」とすれば、武士の女性たちは「腹は借り物」のたとえどおり、家名を守るための「子を産む道具」でしかなかったのです。

このように封建制社会において、支配者の一族にうまれても、女性はすでに一個の道具にすぎないところまで、地位を転落させられてしまったのです。


🌟《資本主義社会》

☆資本主義社会においても維持された男性支配と女性の無権利状態

 1868年、徳川幕府の東海によって、封建支配体制に終止符がうたれましたが、幕府を倒して成立した明治新政権は、日本を資本主義的発展の軌道にのせるために必要な改革は一定の範囲で実行したものの、社会の各分野から封建性を一掃する民主主義的な変革はあくまで回避し、反対に、封建的なものを温存して天皇制国家の新しい軍事的、警察的な支配のしくみに組み込もうとしました。

 家族制度についても、明治政府は、封建時代に確立された家父長的な家族制度を、その支配体制の基礎的単位にしようとし、家族の結婚・離婚の届出から、男子の徴兵の問題まで、戸主に責任と権限をもたせて、家長による家族の支配をあらためて権威づけました。家族の中での女性の無権利、妻に対する夫の支配には、明治維新によっても、なんの改革も加えられなかったのです。
 1872年(明治5年)8月には、政府は「学制」を発布し、男女とも小学校にいれることを親の義務とする義務教育性をしきましたが、この施策も婦人解放の立場から実施したわけではなく、当時の政府の目指す富国強兵の国づくりに役立つ人材をつくるため、よき母として子を育てるために必要とされたにすぎなかったのです。 

☆主婦の登場

 いわゆる「主婦」の誕生は,明治に入ってからのことです。農林漁業や商業でも,あるいは武士の場合にも,それまでの家は「生活と仕事の場」をかねていました。しかし,大規模な生産の集中を特徴とする資本主義は,資本家や労働者や公務員などの世界に「職住分離」を生み出します。「家庭」は英語のホーム(home)の訳ですが,これには仕事の場ではない,家族の私的生活の場という意味が含まれます。まず,男性に高い収入のある支配層に「家庭」が生まれ,そこに使用人も使いながらもっぱら家事を担当する主婦が生まれます。「主婦」というのも,ハウスワイフ(housewife)の訳語で,この時期に初めてつくられた日本語だそうです。こうして「主婦」は資本主義とともに誕生します。ただし,明治には,徳川からの「三界に家なし」を徹底する民法がつくられますから,この時期の女性は,おそらく日本の歴史上もっとも無権利な状態におかれていました。

 主婦が一般家庭にひろがるのは,戦後のことです。おもな推進力は,1955年からの高度成長でした。農業の機械化が農村に過剰な労働力をうみ,都市の労働力不足がこれを吸収します。

 しかし,それにもかかわらず,はたらく女性を専業主婦が上まわります。専業主婦比率がもっとも高くなるのは75年で,そこに向かって比率は一直線に上昇します。主婦の大衆化の進行です。高度成長は,労働者の生活にも一定の改善をもたらしました。大企業の男性サラリーマンに「妻を養う」経済力がうまれてきます。一方,企業は女性を「若年定年」に追い込みました。結婚・出産だけでなく,25才や30才での制度としての定年制がありました。こうなると,すでに農家に帰ることのできない女性たちは,経済力のある男性と結婚して,専業主婦になる他ありません。

 こうして増えた専業主婦は,戦前のような大きなお屋敷にくらす「奥様」ではありません。しかし,小さな団地であっても「妻の待つ家庭」「夫を家で待つくらし」は,人々の上昇志向を満たします。専業主婦比率が高かったアメリカのホームドラマの影響もあり,「妻をはたらかせない」ことが夫の力のあかしとされ,「女の人生は夫の給料(勤め先)しだい」と語られていきます。年に一度も化粧をしない農村のはたらく母に育てられた若い主婦は,それらしい化粧,ファッション,身のこなしを,主婦向け雑誌で学んでいきました。

☆「男は仕事,女は家庭」の財界戦略

 ところで,ここに,考えておくべき問題があります。差別的な低賃金ではたらかせている女性を,大企業・財界はどうして「若年定年」に追い込むのか。なぜ,最後の最後まで低賃金ではたらかせきらないのか,という問題です。たとえば60年の賃金格差は,男性100に対して,女性はわずか42.8です。この女性を企業から排除することの不思議を解決するカギは,家庭の役割にありました。たとえば高度成長まっただなかの65年,子どもたちを従順・有能・安上がりな労働力に育てようとした中教審の答申「期待される人間像」は,あわせて「愛の場としての家庭」を強調します。

 財界は,まず搾取の主軸に男性をすえました。男性は,長時間・過密・深夜・休日労働に耐えうる体力をもち,さらに生休や産休がいらない「安上がり」な労働力とみなされたのです。そして財界は,これを24時間型の企業戦士,エコノミック・アニマルに育てあげようとしました。しかし,そうなれば,男性たちには「家のこと」「子どものこと」を考えるゆとりはなくなってしまいます。その結果,男性労働者が不健康になってしまえば,財界・企業も困ります。また将来の労働力である子どもが育たなくなるのも困ったことです。そこで,押し進められたのが,専業主婦の大衆化です。男性労働力の毎日の再生と,健康な子どもの育成,この2つを核心とする「家事」をもっぱら女性におしつけ,それによって労働者階級全体への最大限の搾取を追求する。こういう脈絡で,財界は自分たちの望みにふさわしく,労働者家庭の性別役割分業をつくっていったのです。戦後初の女性労働力戦略である「経済発展における人的能力開発の課題と女性」(63年,経済審議会)が,女性の低賃金活用をいいながら,あくまで家事・育児こそが女の仕事であるとクギをさすのは,そのためです。

☆高度成長の終わりと「過労死の男女平等」

 ところが1975年をピークにして専業主婦比率は低下をはじめ、80年代半ばには働く女性が成人女性の多数派になります。この変化は一体どうして起こったのでしょうか。

 1つは、高度経済成長が終わったということです。19年連続の高度成長のなかで、労働者階級の生活にもかなりの改善がありました。その改善がいつまでもつづくことを前提にした消費計画がつくられました。長期のローンを組んで家を買うなどです。ところが高度成長が終わり、夫の給料の右肩上がりにブレーキがかかり、70年代半ばからはリストラが強化される。さらに社会保障の切り捨てが始まり、学費の高騰がすすんでいく。そこで家庭生活がもたくなって、女性たちはどんどん職場に出ていきます。これが専業主婦比率低下の直接のきっかけです。あわせて、その直前に、ウーマンリブがあり、「専業主婦でいいのか」と、女性たちの生きかたが問われもしました。そうやって女性は一方で生活のために、他方で自分の経済的・精神的な自立のために、職場に出ていくことになりました。

 そうすると1980年代から困ったことが起こってきました。いわゆる「家庭のきずなの崩壊」です。出てきたのは、1つは家庭から姿を消した男たちの過労死です。高度成長が終わり、リストラが始まると同時に、男の労働時間が伸びていく。それから子どもたちの荒れの問題、熟年離婚、高齢者の自殺が出てくる。小さな子どもがたった1人で食事をとる「孤食」という現象も出てきます。これは、長すぎる労働時間や子育て・高齢者福祉のまずしさなど、男女双方がはたらくために必要な社会的条件がととのっていないことが大きな原因でした。しかし、政財界は「女が家にもどるべきだ」と,責任を女性たちになすりつけました。

☆「男女平等」への闘いの前進と政財界の対抗戦略

 それでも女性の職場進出はすすみます。さらに、男女平等へのたたかいも進みます。今日の男女共同参画社会というスローガンもそのなかから出てくるわけです。ただし、日本の政府は正面から男女平等の条件整備をしているようには見えません。男女雇用機会均等法と同時に、労働基準法などの女性保護規程を撤廃し、「過労死の男女平等」を推進したのは典型です。

 今日の政財界の男女労働力政策は、1つには異常な企業戦士基準の労働時間を大前提にするというものです。だから時短はしない。男並みにやれる女だけがフルタイマーで働けという方向です。「強い女は企業戦士なれ」ということです。その結果、政府資料でも総合職の女性比率は3%しかなくなっています。むしろ総合職に占める女性比率は下がっています。

 卒業生にも民間の総合職に入っていく人がいます。しかし、体がもたず、早ければ数ヵ月、長くても数年で辞める人が多いです。一番印象的だったのは、クロスカントリーの選手で秋田の国体にも参加したという“つわもの”が、自動車関係の総合職に就きながら、5月には早くも退職を考え出したという例です。「辞めてもいいと思いますか」と家に電話がかかってきました。「夜2時ごろまでチームで仕事をして、私は女だから12時に帰されるけど、体はもうボロボロです。男の人たちは2時までやっており、その人たちに申しわけなく、また体力的にももたない」と。

 たくさんの男たちが「過労死」するような条件で、女も同じようにやれといってもできるわけがないです。この世界一の長時間労働を野放しにしているかぎり、職場における男女平等はあり得ません。

 2つ目ですが、「この企業戦士基準に耐えられないものは一般職へ行け」となるわけです。一般職へ行くと、総合職に比べて給料は抑え込まれます。そうなると男女の賃金格差はなくなりません。女性の経済的自立は困難です。
 3つ目に、さらにそれ以外の女は不安定雇用(パート、派遣、臨時、バイト)にまわれというわけです。そして、4つ目に失業して、職につくことのできない女たちには--これは男も同じですが--「自助努力で生活しろ」となるわけです。本当に踏んだりけったりです。そして、5番目に、こうまで女性労働力を好き勝手につかいながら、最後に、財界は家庭責任をあくまで女性に取らせようとしています。

こうして歴史的に振り返ってみると、歴史上で階級分化が起きた時から、女性は常に時々の支配階級、現代における財界・富裕層の人権を顧みない利益の追求のために利用され、無権利状態に据え置かれていたということがよくわかります。また、男性自身が、男性優位の社会構造に依存し、目を向けて来なかったことも、このような女性にとって不利な社会を作り出してしまっている大きな要因になっていると思います。

 いま私たち、とくに男性にとって歴史を振り返ることで肝に銘じなければならないのは、こうした男女不平等の状態というものは、構造的に作られたものだということを認識しなければならないということ。そして、男性自身が歴史的にこの構造に依存し、その意識やふるまいによって逆に維持することに協力的な立場をとってきてしまっているという責任があることではないかと思います。

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