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現代を生きる私たちの中で継続する”戦争と後遺症”(1)

☆戦後74年、風化しつつある戦争体験
 本日8月15日は戦後74年となりますね。
昨日も夕方の報道番組で、”戦争孤児”の特集が組まれていましたが、もう何年も前から警鐘が鳴らされているように、戦争体験者の高齢化により戦争体験を聞く機会が減少しています。わたし自身、もっとも身近な戦争体験を持つ祖父を一昨年に亡くしており、いま改めてしっかりと聞いておけばよかったな・・と後悔しています。

☆現代を生きる私たちの中でいまなお継続する”戦争後遺症” 
 そんな中で、戦争体験を風化させないことの大切さを認識すると同時に、私の中でもう一つ戦争体験に関して考えさせられているのは、現代をいきる私たち、そして私自身のなかで、いまなお”戦争は継続している”のではないかということです。もっと正確に表現するならば、あの74年前の戦争の負の遺産というものは、戦中のような直接的なものではないにせよ、かたちを変え、後遺症ともいえる形でいまなお現代を生きる私たちを蝕み続けているのではないかということです。

☆軍隊生活踏襲の父 DV苦しんだ女性の手記から
 私がこのことについて気づかされたのは『軍隊生活踏襲の父 DV苦しんだ女性』という信濃毎日新聞に2019年8月8日に掲載された記事を読んだことがきっかけでした。

 この記事は、”父親が暴力を振るったのは、過去の旧日本軍での体験が影響したのでは・・”という読者の方の実体験の手記に対して、研修団体「エンパワメント・センター」を主宰する森田ゆり氏が解説したものでした。

 記事の中で森田ゆり氏は、18歳で新兵となって軍隊内でひどいいじめや体罰を受けたであろう父が、そこで感じたであろう恐怖などの感情を、戦後も決して受け入れることができず、それが投稿者である娘さんへのDVや虐待に繋がったのではないかということを指摘しています。

 この記事を読んで、私は亡くなった祖父のことを新ためて思い出しました。

☆権威主義的でDV加害者気質だった祖父
 祖父についての私の印象はあまり良いものではなく、思い出すのは祖母に対していつも命令口調かつ放任的、母に対しても「女は黙って飯だけ作ってればいいんだ!」「とっとと出ていけ!」と怒鳴ることが度々だったそんな祖父の姿でした。

 実際私が祖父と一緒に住み始めたのは小学校4年生の時からなんですが、以来ずっと祖父のそんな姿を見てきました。特に祖父の女性蔑視を含む母への発言、そしてそのことに対する母の反抗、そんな理不尽な発言をする祖父に忖度しなぜか母をいさめようとする父と祖母。そんな光景が日常的に繰り返されるので、家の中はいつも緊張感が漂っており、会話はお互いの顔色を伺う駆け引きばかり。結果的にこの雰囲気や関係性は、私や妹の人格形成にも大きな影響を与えたのではないかと思うのです。少なくとも私にとっては家族というものは決して”安心できる場”ではありませんでした。

 どうして祖父が祖母や祖父に対してあんな態度をとっていたのか、と振り返ってみた時に、やはり祖父の”戦争体験”というものは切り離せないのだろうな・・と思うのです。

☆祖父の生い立ちを振り返って
 祖父は1918年(大正7年)生まれで、亡くなった一昨年の時点で99歳でした。おそらく1924年(大正13年)6歳の時に尋常小学校に入学。1930年(昭和5年)に卒業。当時の日本の進学率は中等学校へは10%、高等小学校65%程度だったので、おそらく祖父も高等小学校に進学したのではないかと思います。(実際にどれだけ登校していたかはわかりませんが・・)もし高等小学校を卒業していたのなると1932年(昭和7年)になるでしょう。

 当時の日本の状況はというと、『1923年(大正12年)の関東大震災による大打撃を受けて東京が壊滅し、発展しつつあったデモクラシーも転換期を迎え、急速に軍国主義への道を辿る』(「学習指導要領は国民形成の設計書」水原克敏/東北大学出版会P73)最中でした。その結果『兵式教練や国体明徴(天皇制特有の国家体制を明らかにすること)など国家主義の教育が要請され』るような状況でした。

 その後、祖父がどのタイミングで徴兵されたのかは不明ですが、当時一般的だった20歳-21歳時での徴兵検査での合格後、即時に徴兵されたとすると、ちょうど1938年(昭和13年)の日中戦争の開始、国家総動員法成立というまさに日本が戦争に突入していく激動の時期と重なります。

 戦中の体験で祖父から聞いたことがあるのは、上官から何度も殴られたこと、理不尽な命令に従わなければならなった経験。そして進軍中に敵国の兵士から銃口を向けられていることに気付き、相手を撃とうとしましたが、相手の命を奪うことに逡巡し引き金を引くことをためらっていた時に、仲間が相手の兵士を狙撃してくれたおかげで命を拾ったという、まさに生死と隣り合わせの経験の数々でした。

 以後、1945年に戦争は終結。そしてその後1948年(昭和23年)10月までの3年超を祖父は極寒のシベリアにて3年間の抑留生活を送り、ようやく日本への帰還が実現することとなったのです。


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