駄々@禁じられた感情展

駄々という名前は駄々をこねるの「駄々」と、美術館に便器を置いて「泉」と名付けたデュシャ…

駄々@禁じられた感情展

駄々という名前は駄々をこねるの「駄々」と、美術館に便器を置いて「泉」と名付けたデュシャンという芸術家の考え方「ダダ・イズム」から命名🚽/「人の醜さを愛する」をモットーに、この世界のタブー視される感情を開放する「Katharsis.」 creative director

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  • 澤海渡の当事者研究

    私(澤海渡)という存在を徹底的に研究した時に生まれ出るコトバをストックしています

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    漫画、映画などなどエンターテイメントを社会学的に見ていくことで現代社会の有り様に関して考察していきます。

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禁じられた感情展を開催することで、この世界に存在する生きづらさへの問題提起をしたい

1、自己紹介皆さん初めまして、駄々と申します。 駄々をこねるの「駄々」、駄目だめの「駄々」、美術館に便器を置いて「泉」と名付けたデュシャンという芸術家の考え方「ダダ・イズム」から拝借してこの名前を名乗っております。 普段は『タブー視される感情を解放し、人の醜さを愛す』をコンセプトに、社会学の視点から現代社会の闇をスペキュタブルデザインを用い問題提起を行うソシオロジーアートユニット『Katharsis.』を妻である慈々と立ち上げ、アートイベントを開いております。 小難しく上

    • なぜ、ポジティブでホスピタリティの溢れる”心優しい”組織で、心理的安全性が壊滅的になり、人が次々に辞めていくのか。

      わいの問題意識ドンピシャの話をnoteで見つけたので、久々に長文書いてみようと思います。
 そのnoteがこちら、 Noteの内容を要約すると、 『とある病院の看護師のスーパーホワイトな職場(残業10時間以内、年間休日120日以上、男性を含めた産休育休所得率100%。お局様はおらず、師長さんは常に笑顔で恫喝はない)で、なぜか優秀な人間が次から次へと辞めていく』 というお話です。 梶本時代さんのこの事例に対して、梶本時代さんとは違う形で考察を深めていければと思います。

      • 愚痴るカラオケ「グチカラ」〜テスト参加者募集〜

        「親がうざい」「上司がうざい」「友人がうざい」「学校がうざい」etc. この投稿を読んでいるあなたも、きっと一度はこうした感情を覚えたことがあるのではないでしょうか?? しかしこの感情、自分で発散できたり友人にグチってスッキリできればいいのですが・・・ 「喋るだけじゃ全然スッキリしない!!」 「そもそも、このグチ友人に話すことはできないよ・・・」 となることも沢山あるのではないでしょうか?? そんなあなたに朗報です!! 誰にも話せない”社会にあぶれた怒り”を吐き出

        • 「変える」ことをやめる勇気

          変える方が楽なことってこの世界には沢山ある。 友達との会話でなんとなく空気が合わなくても、その違和感のある自分を「変える」 別に興味もないドラマを話題についていくために、自分の趣味に使っていた時間を「変える」 会社の中で置いて行かれないように、疲れて泣きそうな自分を「変える」 人も社会も、そのままであり続けることよりも、変えるという痛みを引き受けて、きっと今の世界ってあるんだと僕は思う。 けれど、僕はそんな”変わるべき”なのかもしれない醜さを、そのままの姿で抱きしめ

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          物語の世界であなたを見つける Immersive Novel Game

          想像してみてください。 あなたは今、目を閉じた状態で、仰向けに寝転んでいます。 あなたの頬を、心地良いそよ風が優しく撫でていきます。 あなたは、どうやら外にいるようです。 そよ風は、あなたの鼻に、日をたっぷり浴びたお布団のような香りと青々とした香りを運んでくるでしょう。 あなたは、目を開けます。 するとどうでしょう・・・ あなたの目前には、一面の青空と白い雲が広がっています。 少し体を持ち上げてみると、青々とした草原が目に映ることでしょう。 そう、あなたは今、草原の真

          物語の世界であなたを見つける Immersive Novel Game

          安心して"狂える”ということ〜姉のスカートをめくる少年の話〜

          数日前、僕は姉のスカートをめくる少年だった。 当然、僕を現実で知っている人ならご承知の通り、現実の僕は23歳の大学を休学しているモラトリアム大学生()だ。 けど、その時は姉のスカートをめくる少年だったのだ。 それも、とびっきり可愛い感じの少年の。 こんなスカートをめくるなんて話をしたらその筋からはとてつもなく怒られそうな話だが、事実だから仕方がない。 僕はその時、本当に純粋な、姉のスカートをめくる少年をしていたのだから。 1、なぜ僕は少年だったのか 突然だが、TR

          安心して"狂える”ということ〜姉のスカートをめくる少年の話〜

          ”こども”であれる世界

          時たま子どもっぽくなる人を見かける。 いつもは”普通”に振舞っているのに、疲れた時、何か考えている時、あ、今羽目を外していいんだって。 そう思った時に、すごく子どもっぽくなる人。 僕も、そんな子どもっぽくなっている人がいると「あ、今子どもっぽくなっていいんだ」ってなってどこか共鳴して子どもっぽく振舞ったりする。 彼ら彼女らに共通するなぁって思うのは、どこかでそんな自分の中にある子どもの部分を押さえ込んでいるということ。 本当は、そんな子どもの部分も含めて自分のはずなのに

          ”こども”であれる世界

          "狂人"のいなくなったこの世界の片隅で

          僕の好きな本でこんなお話が書かれている。 京都で暮らしていた頃、近所でよく会う初老の男性がいた。北山周辺でしか見かけないので、勝手に「北山のおっちゃん」と呼んでいた。 おっちゃんは、身長が180センチくらいあって、がっしりとした体格。私が乗っているバスにドカドカと乗ってきたり、またドカドカと降りていったりする。 近所のスーパーでは、店内をぐるぐると歩き回って、お惣菜などを買って足早に出ていく。いつもなにかに追われるように急いでいた。 おっちゃんは、たぶん風呂に入っていない。

          "狂人"のいなくなったこの世界の片隅で

          ぼくが”子ども”に出会うまで(TRPGと僕)

          呼吸ができない、身動きが取れない。 狭い、苦しい、寂しい。 一体、一体いつから、こうして僕は一人で息を潜めていたのだろうか。 ここは暗闇。何も見えない、何も感じ取ることもできない、そんな場所。 ”子ども”の僕はずっと、そんな仄暗い闇の底で息を潜めて生きながらえていたのだと思う。 1、”子ども”が世界から消えたあの日僕にとって、おはようはグーパンチで遊ぼうは飛び蹴りだった。 頭の中と実際に出てくる言動がちぐはぐだった僕は関わるたびに人を傷つけ、人を遠ざけてしまってい

          ぼくが”子ども”に出会うまで(TRPGと僕)

          "うつ病"になれなかったかつての私へ

          扉を開けるとアロマの香りがした。 入るとふかふかのソファーが待っている。 オルゴールの音楽を聴きながら、デトックスウォーターを飲んで待つ。 ここには「癒し」が敷き詰められていた。 しばらくすると僕の名前が呼ばれる。 優しそうに微笑むその眼差しが苦しい。 「今日はどうされましたか?」と聞かれる。 どうされたかわからないから来たにもかかわらず。 「とにかく苦しい」と僕が応えると、“質問票”と書かれた紙が渡される。 僕はその質問にチェ

          "うつ病"になれなかったかつての私へ

          なぜアナ雪に続編が必要だったのか〜エンタメを社会学〜

          映画に評論はつきものだ。その映画の内容的良し悪しだけではなく、その映画が共感された社会的背景、その映画がそもそも生まれ出た社会的背景など評論の種類は多種多様である。 さて、今回の評論の切り口は映画の続編そのものについての評論ではなく、続編としてアナ雪2が生まれなければならなかった理由に関して考察していきたい。なぜこの少し風変わりな切り口で論じる必要があったのかは最後まで読んでいただければきっとわかるはずだ。(以下、ネタバレ注意) 1、なぜアナ雪に続編が必要だったのかアナ雪

          なぜアナ雪に続編が必要だったのか〜エンタメを社会学〜

          ”社会的なこと”の前に”個人的なこと”を〜18歳意識調査より〜

          今回の「国や社会に対する意識調査」、数値でくっきりと差が表れていることもあり結構な物議を醸し出しているように見える。 「若者の主体性が低くなった」「社会に対して目を向けないのはけしからん」「どうすれば社会のことを語るようになるのだろう」 そんな考えを抱く人は少なくはないのではなかろうか? しかし、私は安直にそうした議論に行くことにはまったをかけたいと思う。 "社会的なこと"を語らない現状を嘆く人が多い。けれど、"社会的なこと"を語る前に"個人的なこと"を社会に対して語

          ”社会的なこと”の前に”個人的なこと”を〜18歳意識調査より〜

          ⇄のある社会を目指して

          これまで現代の社会を取り巻く課題(宿命感etc)やそこに対しての理論的な解決策(自己と社会の対話)を書いていきました。では、具体的に何を澤海渡はこの社会に産み出そうとし、その先にどんな社会があるのかについて今回は書いてみようと思います。 1-⓪社会課題:生きづらさを抱えている人の孤立化 僕が取り組む社会課題は「生きづらさを抱えている人の孤立化」です。 この社会課題が生まれるその背景には当事者の側に3つの課題が、社会の側に2つの課題があると考えています。 1-➀当事者の

          ⇄のある社会を目指して

          「普通」を追い求めていたかつての私へ

          子どもの頃から私は「普通」というものに憧れていたのだと思う。 「普通」にみんなとお話しすることを、「普通」にみんなと遊んだりすることを。「普通」に授業を受け、「普通」に恋愛をし、「普通」に進路を歩んでいく、そんな人生を、当時の私は切望していたのだと思う。 「普通」になれなかった小学生時代「澤くんの悪いところをみんなであげましょう。」 これは、小学校2年生の時の学級会のテーマです。 1時間、私はクラスメイトから改善点という名の批判を延々受け続けました。 授業中にうるさい、

          「普通」を追い求めていたかつての私へ

          愛にできることはまだあるかい

          愛にできることとはなんだろうか 『「愛」は世界を救う』 そんな言葉を耳にするようになったのは一体いつからだろう? この世界では「愛」というものの素晴らしさがもてはやされる。 日々、恋愛、友愛、家族愛、様々な愛の形がメディアに取り上げられる。 貧しい中でも支え合う家族の姿を見て、また難病を抱える相手を想い続ける恋人の姿を見て、私たちはそこで紡がれるやり取りを「愛」と呼び、その素晴らしさや美しさに驚き感動する。 しかし、「愛」は本当に素晴らしいものなのだろうか。 貧しい

          愛にできることはまだあるかい

          「障害」とは何か〜澤海渡の当事者研究〜

          「障害」とは誰が決めるのであろうか。「障害」とは私なのだろうか。 例えば、私は「ASD」という診断を受けている。公的な空間で私が「ASD」と名乗れば、私は「ASDの人」という認識を得るだろう。 では、「ASDの人」とは何を意味するのだろう。「ASD」という言葉そのものは記号であり、それそのものに意味はないからである。 推測するに、「ASD」という言葉から想起するのは、「コミュニケーションができない、不器用、特定の物事への執着」などだろう。確かに私を構成する要素の一部にそれ

          「障害」とは何か〜澤海渡の当事者研究〜