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生きづらさの普遍的蔓延、承認の格差〜分人化とキャラ化と居場所の消失と〜

久々にスーツを着る機会があってクローゼットを見たらほとんどのスーツがカビててテンションガン下がりしたサーフェスです。(クリーニング代5000円超かかりました、、、泣きそう)皆さん、換気などしっかりしましょうね。

さて、前回は「個人が生きづらさを抱える現代の状況」をお送りしました。

というわけで、今回はではなぜ個人はそのような状況に置かれているのか個人と社会の関係性の部分に関して記述していければと思います!


・分人化とキャラ化の加速

ではなぜセルフとアクターは分離するのか、私はこの現象の原因には分人化とキャラ化の2つの概念が大きく関わっていると考えている。

近代以降、私たちはもともと生まれた地域で一生を過ごすのではなく、ライフスタイルに合わせて地域そのものを選ぶようになった。そうして私を固定する存在が消失し私が自由に存在する場所を複数選べるようになった。それぞれの場所に関してもより大きな場所≒規範が存在するわけではないため、互いの場所も自由意志を持つかのごとくそれぞれの特色を持ち、他の場所への不干渉の状態が生まれることになる。結果としてその分離された場所に複数所属する一人の私はそれぞれにおいて異なる私を演じることになる。これが私が分人である理由の象徴だ。

それぞれの場所においては固定されたルールが存在することは少ない。なぜならその場所を包摂する場所≒規範が存在するわけではないため、その場所は“自由”であるからだ。大きな目的が存在するわけではないその空間においては、共有できる規範が消失する。結果として私が私としてコミュニケーションを図る必然性がなくなることになる。

だが一方で私はそこに存在しなければならない。先ほど「アクターの肥大化」とアクターの問題を指摘したが、一方で初めからセルフが存在するわけではない。様々なアクターを獲得し振る舞う中で徐々にセルフは形成されていく。そのため、アクターとなりうる機会が消失することは結果としてセルフそのものも消えることと同義になってしまうからである。

他者と関わる必然性も存在しない、とはいえ私そのものの自由な行動をとることも不可能。結果として私は“分かりやすい私”として私を演じるキャラを創り出すことになる。そうすることで相手から見た時に発生する“私という他者の他者性”を排斥し、関わるコストを削減することができるからである。

そうして誰もが“本当の私”ではないキャラを演じ、違和感を抱えながらも全員がキャラを演じるがゆえにその行動のループから抜け出すことができなくなるのである。そのキャラから抜け出そうものなら「キャラじゃない」と指摘されてしまう=存在を否定されかねないからである。

その場所はアクターという仮面を身にまとった人々が仮面を通してセルフを肯定される可能性を探る戦場ではあったとしても私が私そのものとして肯定されうる居場所たりえることはできないのである。

・相互選択型社会

ではなぜ、現代の場所は戦場になりやすいのか。その背景に私は相互選択型社会としての現代があると考えている。先ほども述べた通り、現代においては大きな地域≒規範というものが消失した。その結果として私は自由に選択する主体となった。それゆえ、私は関わる他者も場所も選択することができるようになったのである。

しかし、私が選べるということは他者も私という存在を選べるということになる。あなたと私の関係においてもあなたにとって私がメリットのある存在でなければあなたに選ばれない私となる。場所においても私がその場所においてメリットのある存在として存在しなければその場所において容易に排除されることになる。それを恐れる私は常にその場所において、あなたにとってメリットのある選択は何かを選ばざるをえなくなっているのである。

う〜ん今回も少し長くなってしまいました汗

今回は個人とその周辺の社会状況に関して話していきました。次回はより大きな部分、「そもそもどうしてそんな社会の状態になっているの?」の部分に答えていければと思います。ではでは!!


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