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「障害」とは何か〜澤海渡の当事者研究〜

「障害」とは誰が決めるのであろうか。「障害」とは私なのだろうか。

例えば、私は「ASD」という診断を受けている。公的な空間で私が「ASD」と名乗れば、私は「ASDの人」という認識を得るだろう。

では、「ASDの人」とは何を意味するのだろう。「ASD」という言葉そのものは記号であり、それそのものに意味はないからである。
推測するに、「ASD」という言葉から想起するのは、「コミュニケーションができない、不器用、特定の物事への執着」などだろう。確かに私を構成する要素の一部にそれは含まれる。

だがきっとそれは私ではない。

例えば私は会話を複数人としていた時、私の名前を呼ぶなど私の注意を惹きつけてくれなければ話を聞けない時がある。私は常に何かをしながら複数の何かを考えていたり、行ったりしている。思考が複数に蠢いているのである。その複数の思考の中から目の前の人の話を聞くという思考だけを浮き上げさせることは自分だけでは難しいことがある。

さて、この特性はコミュニケーションの問題が本質なのだろうか。

私はこれを自分の中の過集中の問題であると認識している。つまり、「ASD」ではなくて「ADHD」の方が表現として近いだろう。

また、私は文字が書けない。手を抜いているとかそういう問題ではなくシンプルに文字が非常に汚くなる。どれだけ時間をかけて書いたとしてもそのクオリティはさほど変わらない。だから早めに書くことにしているのだが、これが他者の目線からすると適当に書いているように映るようである。丁寧に書こうとする努力を見せなければ人は納得しないらしい。

話が少しそれた。さて、この要素は「ASD」ではなく「LD」と形容するのがふさわしいだろうと私は思う。

だが、私は「ADHD」とも「LD」とも名乗るのが少し感覚的に憚られる。
なぜならそれは病名として私に与えられていないからである。私の要素であるはずのこの特性たちは他者から名が与えられようと与えられまいと存在しているはずにもかかわらずだ。なぜ私はその要素を社会に存在させることに躊躇するのだろうか。

先ほど述べた私を「ASDの人」という認識を抱いた人々はこのような私の複雑性に気づけない。先ほど私が述べた456文字のコトバたちは「コミュニケーションができない」という15文字の言葉に変換されるのであろう。

そう、この障害という名付けは非常に“コミュニケーション”を円滑にするのである。他者に私を“わかってもらう”ためにこれほど楽なものはない。

だが、そこには一定の窮屈さを伴う。500文字を使って説明しなければならないこの特性を10文字にも満たない言葉に圧縮するのである。そこには私という存在が多分に漏れ出てしまっているだろう。

また、そこには特権を身にまとう後ろめたさがある。生きづらさという感覚はマイノリティと認識している人々のみが抱く感覚ではない。マジョリティと自分を認識している人々も同様に日常の最中でふと感じる感覚だろう。その名前のない感覚をコトバにするのは非常に至難の技となる。
だが、私はそれを簡潔な言葉を発するだけで誰しもに強制的に“私”を認知させることができるのである。それは一種の暴力とも呼べるかもしれない。その暴力を行使する時、それを社会から許容されている(診断されている)状態ならまだしも、私が勝手にその暴力を行使するのならば、後ろめたさとして感覚が立ち現れるだろう。

さて、ここで最初の問いに立ち返りたいと思う。

「障害」とは誰が決めるのであろうか。「障害」とは私なのだろうか。

この社会がゆとりに溢れているのならば、「障害」という枠を決めずにただじっくりと私を伝え合えばいい。
だが、現実問題としてそれは許されないだろう。例えばFacebookのイベントで流れてくるワークショップに参加し、自己紹介で60分も時間を使えばそれはとてつもない顰蹙を買うだろう。

だとするならば私はこの「障害名」を使い続けなければならないのだろうか。

私はきっと違うと思う。「障害名」は手段であって、目的ではない。目的ではないのだから「障害名」が「障害名」である必要はない。新たな手段を開発すればいいのである。

そう、コトバのイノベーションである。

だが、コトバのイノベーションは容易ではない。コトバは個人だけで開発したとしても他者に手段として認識されえないからである。それが他者に認識されるかどうかは他者に委ねるしかない。他者を私は本当に意味で“知る”ことも“コントロール”もできない以上、私だけでこの営みを達成することは不可能であるからだ。

だからこそ、当事者研究という営みが重要になる。

当事者研究とは「一人一人から生み出される痛み≒違和感を外に出した上で、その在り処を、その痛みの乗り越えを、他者とともにコトバを紡ぎ、分かり合える状態にしていく営み」だと私は考えている。

私という存在を私だけで決定し、言葉にしていくのではなく、他者とともにその存在を探り探りコトバにしていくのである。その時生まれ出るコトバはきっと、500文字もの複雑性は伴わずに私を表現するコトバとして練りあがっているだろう。

だから私は最初の問いにこう答えたい、

「障害は私と他者がともに決めるものであり、その時紡がれるコトバはきっと私なのだろう」


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