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生きづらさの普遍的蔓延、承認の格差〜物語の崩壊と自己責任論〜

前回は「個人の生きづらさが発生する社会的状況」に関して語っていきました。

今回はそれを踏まえ、「そもそもその社会的状況にどうしてなったの?」という部分に関して話していきたいと思います!!

・大きな物語の崩壊と生産性の概念の残存

ではそもそもなぜ私はメリットを提示しなければならないのか。それはこの社会を形成する価値観が生産性=メリット=能力を中心に据えられている状態であるからだと私は考えている。個人が他者にメリットを示し続ける、個人と集団の集合である場所が他の場所に対してメリットを示し続けなければならないように国という存在も他の国に対してメリットを提示し続けなければならない状況に陥っているのが現代である。

その結果他国にとっての国を演じ続け結果として自国にとって本質的に何をしたいのかという観点が抜け落ちているのが現在の状況であろう。一番大きな枠組みである国という存在においても生産性=メリット=能力を提示するあり方に逆説的に縛られている結果一番ミクロな構成員である私という存在もメリットを示し続けなければならない状況に陥っているのである。


・崩壊の先に待つ自己責任論の蔓延

このように大きな物語に依存できた時代が崩壊した先に存在したのは、物質的貧困ではなく承認をめぐる目に見えない貧困であった。生きづらさは全ての人々に蔓延しながらもその生きづらさを強く抱える人々は増加した、つまり誰もが同じ課題を抱えながらもその課題の大きさが異なる時代になった。同じ土俵で戦う必要ができたのである。

なぜなら、これまでは大きな物語VS個人&個人の集合体(ex:「学校に行くことが正しいという物語」VS当事者&当事者運動という名の集合体)という構図で箇々別々に存在する物語に対しての対抗を行うことができた状況が、その物語が崩壊したことによって戦うべき物語=掴み得る具体が消失したからである(ex:「学校に行くのは絶対ではなく自由だよね」→「自由だから学校に行かないのはあなたの自己選択=責任だよね」)。結果残ったのは誰もが共通する生産性という概念であり、その概念に基づいて多くの人々が“共通する”生きづらさという現象が生み出されているからである。

その結果待っていたのは、その「承認」を得ることができないのは個人の能力のなさであり、それは個人が引き受けて当然であるという考え方である。なぜなら「私も生きづらい、あなたの生きづらさのみを主張するのは自己中心的ではないのか?」と非難されうるからだ。

・負のループ(前回記事含めまとめ)

その結果として私たちは残された物語である生産性という一元的価値に基づいてその価値を得るために社会に必死に適合し、結果として社会全体にゆとりが消失。個々にとっての一元的メリットに向かいやすいよう地域が解体され、非効率な私ではなくその場におけるメリットを発揮するためのアクターとしての私としての場が大半を占め、居場所が消失。戦場と化した場でキャラという名の仮面を被り戦い抜き、目的のない戦いの結果アクターのみが拡大しセルフが縮小。私に対する肯定感が消失し、私が社会に対して持つ効力感が消失、結果社会形成意識がなくなり、それでも生きるためにアクターを演じ一元的価値にコミットし続ける負のループが発生しているのである。

3回の連続シリーズで続けてきた社会背景に関する内容は以上で終了です!!ここまで読んでいただきありがとうございました。次回からは「社会の状況はまあ分かった、じゃあ結局この先どうすれば良いの??」という部分に関してお答えしていければと思います。ではでは!!!!


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