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『蛍火艶夜』感想note

前置き

とある日曜日の夜、私は次の日も仕事だというのに大酒を飲み寝落ちしていた。明日が仕事だと信じたくなかったので。
日付が月曜日になった深夜2時ごろ、煌々と明かりのついた部屋で目覚めた私は、ほとんど口をつけていないハイボールがタンブラーに並々入ったまま放置されているのを見るにつけ、自分のだらしなさと酒を無駄にしたことに絶望してとりあえずツイッターを開いた。起きる=ツイッターを見るの人間なので。

ただ深夜(もはや早朝)だったため健全なフォロワッサンの皆さまにおかれましてはさすがにTLも閑散としており、すぐ追うものがなくなってしまった私は「おすすめ」タブをぼんやりと眺めることにした。そこでBL漫画の宣伝が流れ込んできた。特攻隊を題材にした作品で、BLの主流(多分)である繊細で綺麗めな画風とは異なる少々癖のある絵柄、ある男が上官と思しき軍人から赤面しながら自分を抱くよう迫られている。ほほう、と私は流れるようにコミックシーモアの試し読みに飛んだ。試し読みのエピソードに出ている人物はどうやら広告に出ていた人物とは別のようだが、読みながら「ほほう、仄暗くて大変えっちじゃないか」と指先で顎をシュリシュリと撫でた。まるでそこに蓄えたヒゲでもあるかのように。
思えばこの試し読み、ツカミとして最強すぎる。特攻隊という舞台に漂う死の匂い、妙に艶っぽい未亡人然とした田中一飛曹という男の誘引力、性描写の激しさなどの世界観をしっかり見せ、この作風がOK(むしろ歓迎)な読者は、淀野という記者の執念に引っ張られるように「やぎさん」の物語を追わざるを得なくなる。本編を買わずにはいられなくなる。天才の導入。

それが今回取り上げるamaseさん著『蛍火艶夜 -上-』というBL漫画である。
私は「通常版を買ったとしてもどうせあとからこれも買うことになるんだ」と踏んでまっすぐ【うす消し特装版】を買うことにした。金額はちゃんと見ていないが4桁だった気がする。私は自分の意志をもっておちんちん代を支払ったと自覚せざるを得ない価格だ。(この瞬間は脊髄反射で決済をするケダモノと化していたためネームや下書きなどの特典がついてることに気付かなかった。)

私は冷蔵庫に残っていた最後のサントリープレミアムハイボール山崎缶(660円)を開け、本編を読み始めた。
結論から言うと信じられないぐらい泣いた。とんでもないほど大泣きした。もう一度読み返した。1回目の1.5倍泣いた。外は白んで今日が始まろうとしていた。仕事は昼からだが、もう少し寝ないとやばい。それなのに私はそこからもう二度読み返した。さすがに寝なければならないから一度寝たけれど、ずっと読み足りない気持ちを抱えながら眠りについた。起きたら瞼がふよふよに腫れていた。化粧でどうにか誤魔化して出社したが、仕事中も読み返したくてしょうがなかった。

私は常用的な愛好家というほどではないが、BL漫画は好きで地味に読み続けていて、歴で言えば10年以上になる。主にRenta!(ごくたまにシーモアやKindle)で読んでいるのだが、今電子の本棚を確認したら774冊買ってた。おそらくこれでも少ない方な気がするし、分冊版や続刊も含まれるので774作品読んだというわけではないが、その中でも本作『蛍火艶夜』はオールタイムベスト級と言って良いかもしれない。断言出来ないのは本作にはまだ「下巻」が控えているというところで、正直1巻や上巻が神であったにも関わらず続刊で尻すぼみになっていくBL作品はなくはないので、まだ慎重に見極めたいという理性ゆえなのだが、理性を捨てて良いなら「こんなにすごいBL読んだことない!!!!!!!」と叫びたい。「こんなすごいBL漫画の下巻が尻すぼみするわけねえだろ!!!!!! 大傑作確定だよ、バーーーーーカ!!!!!!!!!」とデカい声で叫びたい。それだけの激情をたった一冊で呼び起こされるというのは、(あくまで私の遍歴の中では)一般誌を含めてもそうそうあることではない。ほんとすごいんですよ、ほんとに。それを出来る限り文章にしたいと思います。
こういうのって感想文でも年齢制限した方がいいのかな。だいぶスケベな話もするんだが。まあ自己判断でよろです。

橋内和中尉編

作者amaseさんがコメントで寄せていた”しんどい事の多い生活を送る彼らに1分でも1秒でもいい「気持ちいい」と思って貰いたかったから”という願望が如実に表れているのが本編なのだろう。
BL作品の場合、濡れ場ありきのとってつけたようなキャラ造形や設定がちょっと退屈というか、早い話が「スケベなだけであんま面白くない」BL漫画はときたまあって、ひどい気分のときは「つまんねえ話はいいからスケベを読ませろ」と濡れ場まで飛ばして読むときすらままあるのだが、本作は「彼らに気持ちいいと思って貰いたい」と、言ってしまえば「快感先行」を作者から明言しているにも関わらず、その背景にある人物造形や感情の動き、設定を生かした展開や掛け合いの何もかもがすごくよく出来ていてあまりに読み応えがある。

立派な大砲を持ち、近所の後家さんに仕込まれた経験を持つ塚本整備兵はただただ物語上の都合の良い竿役に成り下がってもおかしくないところ、恥を忍んで抱くよう頼む橋内中尉の申し出を、あまりに畏れ多くて一度断ってしまうキャラクターなのが面白い。またあんなにもサラッとした風情のベテラン搭乗員の橋内中尉が「あんなことはほとんど思い出したくないが、一度だけしびれるような快感を体験したことが忘れられない」と打ち明ける場面も、シチュエーション的に読んでるこちらが恥ずかしさでキツくなりがちなのに、妙に台詞回しや掛け合いが心地よくてスルスルとコミカルにも読めるし、何だかグッと惹きつけられてさらにはどこか共感してしまいそうにもなる。やはりこれは特攻隊という、いつ死ぬか分からない状況下にいる隊員の一人の告白だからこそ、性的な未練という感情がとても切実に映るところもあるのだろう。
この辺りの掛け合い、作者さんは別名義で青年誌で活躍しているめちゃくちゃプロの漫画家さんとのことで、こんなことわざわざ言うのは逆に失礼かもしれないがマジで「上手い」という他ない。『ここは今から倫理です。』の作者さんらしいですね、聞いたことはある。この調子では私はこの漫画もいずれ買う。

またこの作者さん商業BL作品は初とのことなんだけど、「ほんとに…?」と言いたくなるほど濡れ場の描写も凄すぎる。ひょっとしたら商業BLはやってなかっただけで成年コミックとか同人活動とかはされていたのかもしれない。そうでなきゃ説明がつかないほど、キャラクターの表情、擬音、喘ぎ声、水滴、画角、セックスという営みの下に流れる感情の揺らぎ、テンポや尺の長さに至るまでマジで最 feat. 高だった。好みはある、BL愛好家にはきっと濡れ場の好みは分かれるだろうが、私にとってはマジで【完璧】。見たいのを見たい分だけ全部見せてもらえた。すご。こんなことある?
そしてこの満足感はその描写の上手さだけでなく、「5日後には特攻に征く若者が、丁寧に身体を愛され、この瞬間だけは死の恐怖や憂鬱を忘れて、純然と快楽に身を委ねている」姿を見られたからに他ならない。
特攻隊というのは非情な戦争の歴史のひとつで、優秀な若者たちを「お国のために」と死にに征かせていた日本軍のやり方は、現代に生きる日本人としては批判的な目線を持っておきたい。そして美談にするにはあまりに壮絶な状況に身を置き、犠牲になった彼らの苦しく辛い日々に、ほんの少しでもそれを忘れられるほどの快楽があったらという願望を抱いてしまうのは、ただ自分の中の溜飲を下したいだけじゃないかと言われても否定できない。
「それでも」。本作にはこの「それでも」という、あったのかなかったのかは分からないが、あったらどこか救われたかもしれないという祈りのような切実さがある。

そして最初の方の話に戻るが、そのためには攻である塚本整備兵は、小綺麗な上官に誘われたからと言って欲望のままヨダレを垂らしてすぐ飛びつくような、あるいはただ命令されるがままに竿役に徹するだけの従順すぎる男であってはならない。国のために戦う日々の最後に胸に焼き付くような快感を切望する上官に、自分は何が出来るか、どこまで尽くせるかを真剣に考えてくれる心ある男でなくてはならないのだ。ィヨッ!!! 塚本整備兵かっこいいぞ!!!! 驚異の大砲!!!!!
ところで塚本を仕込んだ後家さんの回想内の、「いきなり突っ込んで一人で終わるなんて泥棒だよ、あんた!! 地獄に生きたくなきゃ前戯しな!!」という台詞良すぎるだろ。人生で一回は声に出して言ってみたい。

濡れ場についてもっと言及するなら、快感に弱い年上上司が丁寧で手練れな年下部下にグズグズにされるというスーパーデリシャスドスケベ構造で、キリっとした上官が部下に組み敷かれ、恥じらい、驚き、戸惑い、溺れ、最終的には箍が外れてハート喘ぎまでしてもらうのが【最高の到達点】なわけで、それを本当に余すことなく完璧にたっぷり描いてくれている。我々は盗み聞きする原少尉(なんだあいつは)よろしく興奮を禁じ得ないわけだが、その中でも特にキスのくだりがニクいのでとても好きだ。
はじめ前戯の流れとして橋内中尉に口付ける塚本整備兵なのだが「気色悪い!!」と叩かれてしまう。恐らく過去強制的に先輩方に抱かれた経験(愛のない行為)がある橋内中尉にとって、キス(愛のある行為)を男同士でするのは無意味というか意味不明なので拒絶したのだろう。しかし初めて丁寧に前戯をされるという体験をし、快感と塚本整備兵からの「気持ち良くしてあげたい」という感情がなみなみと注がれるうちに橋内中尉にも気持ちに変化が起きる。果てそうになった塚本整備兵が行為を中断して呼吸を整えている間に、後背位から自ら進んで正常位へ促すところ、自分に尽くしてくれている塚本整備兵と向かい合い顔を見てしたいという気持ちと、恐らく橋内中尉には「キスがしたい」という気持ちも無意識に沸き起こったと思う。グッと唇に力を込める橋内中尉とは裏腹に、塚本整備兵は最初に言われたことを守り唇は避けて眉間に口づける。歯痒い場面ではあるが、「手順」としてでなく快楽の中で自然と「キスしたい」と感じて見つめ合った二人の間に、愛に似た何かがあったのだと思いたい。
そして事後に寝てしまった橋内中尉を綺麗にしてあげる塚本整備兵ほんとに…ほんとに!!!! 塚本が搭乗員ではなく整備兵という設定なのは、献身というか丁寧にサポート、ケアが出来る人間という裏打ちでもあるのかなと思う。

片付け中に見張りに見つかり3日間の懲罰房行きになってしまう塚本整備兵は、初めに打ち明けられた日から受け入れていればもっと出来たことがあったかもしれないと悔やむが、ようやく出られた夜でも橋内中尉の部屋へは行かず特攻隊の機体の整備を選ぶ。国のために戦う搭乗員の橋内中尉を尊重した、塚本整備兵の実直さを感じる選択でもあるし、まだ一夜を共にしただけの二人だから距離感を測りすぎてすれ違ってしまったのかなあと思いつつ、もし二夜、三夜と共にしていたとしたら離れがたくなってしまって、もっと特攻が辛くなったりしたかもしれない。
機体に乗り込む最後の最後、橋内中尉から塚本整備兵に口付けるところでものっすごい泣いた。あのたった一度の逢瀬、あの一瞬に感じた「キスしたい」という気持ちを、もう寝床ではない、生きたまま立つことは最後になるであろう地上で、公然で、したいと思った相手に自ら口付けて叶える橋内中尉の灯のような熱があまりに切なくて、胸が締め付けられた。
塚本整備兵からしたら、自分で三度も慰めていたくらいならやっぱり部屋に行けばよかったと思っただろう。でもそれももう叶わない。それに塚本整備兵が最後まで整備したおかげで、橋本中尉の特攻は成功したのかもしれない。

返し忘れた塚本整備兵の軟膏を橋本中尉が空の上で見るたび、ほんの少しだけでも安らぐ瞬間があったら良いのにと思う。

八木正蔵中尉編

第一話「田中志津摩一飛曹編」と特別読み切り「淀野と八木」に挟まれているように、少なくとも本作の上巻でメインとなっているのは本編の八木中尉と田中二飛曹(淀野と出会う頃は一飛曹)の物語だろう。個人的に前項の「橋本和中尉編」よりもごっつり心を抉られたのはこちらの物語だ。

さっそくだが八木中尉と田中二飛曹を一貫して繋げるのは「匂い」、それも「首筋の匂い」だ。
BLや二次創作を嗜むオタクなら「匂いが好きな相手は遺伝子レベルの運命の相手」という古からある真偽不明な俗説をネタとして擦りまくっている人は多いのではないだろうか。それです。私も好きです。
初めこそ八木中尉は「信子ちゃんの代わり」、田中二飛曹は恐らく同性愛者として「男性の性的な匂い」に誘われたことがきっかけだろう。だがこの「匂い」というのが特に八木中尉の中で変化していくのが田中二飛曹に対する感情を如実に表現している。これが素晴らしい。
「せっけんの匂い=女性的」という感覚から田中二飛曹を手籠めにし始めたのだろうが、二度目くらいからは「せっけんの匂いを確かめる」なんていうのはほとんど誘い文句の建前に過ぎなかっただろう。のちに大佐に殴られた夜、田中二飛曹に添い寝(?)をしてもらって眠ってしまうところなんかでは首筋の匂いが性的な興奮だけでなく安らぎにもなっていて、外出の日に至っては女性を抱ける機会があったにも関わらず田中二飛曹と共に過ごすことを選び、せっけんの匂いがしない田中二飛曹の首筋に顔を埋めて歯形までつける。そして特攻に征くときには「お前に匂いを嗅ぎながら征きたい」とえり巻を交換するよう頼んだ八木中尉にとって、田中二飛曹はもう「信子ちゃんの代わり」でなかったことは明白だ。
そもそも情けない姿も田中二飛曹の前では出せるようになっていたり、田中二飛曹が性交中に声が出せないのを気にかけてたり、自室とは言え陽の高いうちから裸で抱き合えたり、「志津摩」と下の名前呼びし出していた時点で、八木中尉は田中二飛曹を愛し始めていたに違いない。

ただここでまた八木中尉の人物造形で面白いのが、繊細で気の小さいところがあるにも関わらず、軟弱と思われることを恐れて攻撃的になりがちな、非常に情緒のバランスが悪い男であるというところ。部下の死に八つ当たりしながら特攻隊に志願する一歩はなかなか踏み出せず、力づくで自分の性欲をぶつけておきながら性交時の血に驚き、また部下(原少尉…)を殴り同じその手で震えながら軟膏をひねり出すさまはあまりに情けなく不安定で、つまりとても人間くさい。田中二飛曹が自分の中で特別な存在になりつつあることは恐らくぼんやり自覚しているだろうに、「好き」という言葉を田中二飛曹から引き出そうとしても自分からは言わない。かつて信子ちゃんにも好きと言えなかったように。
ただ八木中尉のこの不安定さは「単に彼が臆病な男だから」ということだけにならないよう微妙に配慮されて描写されている気もする。死を恐れること、感傷的になることは軍人として恥であるという日本軍の思想と、自分の情けなさとの間に葛藤を抱えているのが八木中尉だが、本来死が怖いなんてのは当たり前のことで強制されることではないはずだ。あくまで「特攻隊の非情」が土台にあることを示しつつ八木中尉の弱さを描いているのがとても今っぽいなと思う。要は「弱さとは個人の問題ではなく構造上の問題」という考え方の上にある人物描写にように感じるのだ。

対する田中二飛曹。彼もまた別の方向から、構造によって歪められた人物の一人だと思う。終盤までは伏せられているが彼は家族から同性愛者であることを「頭の病気」「治してほしい」と言われ続ける環境にいたと思われる。序盤、身体的には苦痛だったであろう八木中尉との性交渉を受けた田中二飛曹が再び八木中尉を誘う場面は若干不可解で、そこが物語として良い「引き」になっていたわけだが、田中二飛曹から言わせると「利用した」ということらしい。この歪みがあまりに悲しい。
勿論きっかけこそ「男に抱かれるのが夢だった」のだろうが、田中二飛曹も性行為目的ではなく八木中尉自身に惹かれていたはずだ。これは私の個人的な好みの嗜好を交えてこじつけた解釈だが、人が誰かに心惹かれるきっかけとして「その人の弱さや情けなさに触れたときに恋に落ちる」ということはなくはないと思う。あんなにも粗暴に見えた上官が恐らく自分にだけ弱さを見せ、性行為抜きに自分の首筋に顔を埋め苦しみを手放して安らぐように寝息を立てる姿を見たら、心が傾きそうになるのは決して不思議なことではないだろう。しかし田中二飛曹はその感情を純粋な慕情と受け止めることが出来ない。彼の性指向は近しい人々から長らく「病気」というひどい言葉で打ち捨てられてきたからだ。

そして互いに「誰かの代わり」「性処理」とはもう言い訳出来ないところまで関係と感情が進んだのがやはり外出の日だろう。外で何かと発散出来る機会があるにも関わらず、人もほとんど出払った宿舎の私室で落ち合い口付けを交わす二人が纏う熱に、読者は「もうそれ恋人なのよ…!!!」と固く握った拳で何度も床を殴るしか気持ちのやり場がない。互いに一糸纏わぬ姿で求め合う二人だが、恐らく田中二飛曹があんな眼前で八木中尉の胸板を見るのは初めてで、相当目の毒だったと思う。顔を背けながらそれでも八木中尉のえり巻を嗅いでしまう田中二飛曹の「逃れられなさ」がもうもうたまらないし、よそよそしい態度の田中二飛曹に加虐心をそそられた八木中尉がさらに責め立てるところも心臓が痛いほどドキドキする。
快楽の中で口走ってしまった「すき」という言葉と、それを打ち消す「ごめんなさい」をうわごとのように繰り返す田中二飛曹の姿は、八木中尉から見たら照れ隠しのような可愛らしい何かに映ったのかもしれない。下の名前を呼び、首に噛みつき、それに反応するようにさらに熱を帯びる身体を組み敷いていくうち、まるで田中二飛曹が自分だけのものになったかのような猛烈な情欲に満たされたに違いない。
しかし事が終わると、その熱にまさに冷や水を浴びせるように田中二飛曹から「病気」という言葉が唐突に現れる。その想いは、この想いは、病気で、気の迷いで、戦争が終わればいつか醒める。こんなにも明るく人懐こい田中二飛曹がそんな異様に強い言葉を使って拒むのが胸に詰まるとても印象的なシーンだ。

そんな中で畳みかけるように八木中尉が特攻隊出撃隊員として選出されることが決まる。このとき恥ずかしながら田中二飛曹の「直掩機」が分からなかったのだが、調べてみると「直接掩護機」の略で、要は出撃隊を守る役割にあるため特攻はしない機体のようだ。しかし田中二飛曹は大佐に八木中尉と交代したいと申し出る。申し出は却下され田中二飛曹は直掩機からも除名。関係を疑われた八木中尉は大佐から強く叱責を受けることになる。
情けなさや弱さが露呈されることに強い恐怖を抱えている八木中尉は田中二飛曹を怒りのまま殴りつけてしまう。ひどく辛く、なんてままならないんだろうと苦しくなる場面で、そこにさらにダメ押しとばかりに田中二飛曹の過去が明かされる。この回想がたった2コマ、「頭おかしいのよ」「兵隊にやっちゃいましょうよ」「あの子のあれ、治らないかしらねえ…」というほんのいくつかの家族の台詞だけ。それだけで田中二飛曹が抱えていた悲しみと絶望を想像するには十分である。自室でシーツを寄せて涙する八木中尉もきっと引き裂かれるような思いだっただろうが、田中二飛曹がそんな真っ暗な闇のような痛みの中にいたことを知ることはない。

振り返ると田中二飛曹はちょっぴり掴みどころのないキャラクターでもあった。明るく元気で、支給されたえり巻を喜んだりして軍隊というものに憧れを抱いているようではあるのだが、迷いなく特攻隊の志願をしたり、八木中尉との交代をすぐに決断し、大佐に土下座してまでその申し出が出来て、さらに「俺"なんか"より八木さんに残って欲しい」と吐露するあたり、「死が怖くない」というよりどちらかというと「生に執着がない」ように見える。家族から「病気」扱いされ、自分の性指向は「間違っている」「許されない」と、まるで存在そのものを否定され続けるような状況にいた田中二飛曹は、本当に悲しいことに自分自身にもうあまり価値を感じられなくなっていたというか、生き続けることに未練がなくなっていたのではないだろうか。
現代でさえ自身の性指向が社会にまともに受け入れられず自ら命を絶つ人がいる。そこからさらに保守的で「男性はこうあるべき」という思想と圧力が強かった時代において、あんなに明るく快活に見える田中二飛曹は実はほとんど居場所を失っていて、いつか征くために使い潰される軍隊にしか自分の居場所はもうないと思っていたのかもしれない。そんな中で出会った八木中尉はその悲惨な思いを変えてくれるような存在だったかもしれないのに、「病気」という言葉の呪いが彼を縛り、「好き」という気持ちすら「ごめんなさい」と謝りながら蓋をせざるを得なかった。八木中尉の方から「好き」だと言っていたら何か変わったのだろうか。そうしたら彼は救われただろうか。
八木中尉に殴られ置いてきぼりにされた田中二飛曹が、うずくまって悲痛な声を上げる姿に、言葉がない。

特攻当日の場面は、八木中尉と田中二飛曹の二人の関係を強く象徴していて本当に素晴らしいシーンだった。声を掛け合い出撃に向かう特攻隊員たちの中で、手が震えているなんてことを打ち明けられるのは八木中尉にとって田中二飛曹だけだ。そして「志津摩」と呼ばれれば田中二飛曹は八木中尉のもとへ飛んでいく。自分の情けなさがままならず、ひどい諍いをしたきりであった気まずさもある中で、それでも頼みを聞いてくれるという田中二飛曹の存在は八木中尉にとって死の暗闇の中に光る一筋の灯火のように思えただろう。二人が関係を持つきっかけとなった「首筋の匂い」、それが染み付いたえり巻を交換する。互いが唯一無二の存在たりうる証のような行為だろうに、田中二飛曹は「信子ちゃんへの想いや戦争という状況を利用した結果こういう関係になれただけ。自分自身が愛されているわけではない」としか思えていなさそうだ。いったいどんな気持ちで八木中尉の黒いえり巻を「世界中に自慢したい」と言ったのだろうか。
えり巻を交換することで八木中尉と田中二飛曹が親密な関係であったことは周囲にも明白になってしまうわけだが、しかしもはやそんなことはどうでも良いとばかりに見つめ合い、空を仰ぐ二人の関係はあまりに尊い。この二人を「病気」「軟弱」「気色悪い」と罵る世界の方がずっとずっとおかしいし狂っているのだ。

そしてそののち、八木中尉は特攻に失敗し一命を取り留めてしまう姿が描かれる。一命を取り留めて”しまう”。八木中尉は(人として当たり前だが)死にたくなかった男だ。だから生き永らえたことは良いことなはずだ。
それでも八木中尉も読者もこの瞬間感じただろう。「生き残ってしまった」と。少し呆然としてしまうラストである。

淀野と八木

このエピソードについてはわざわざ感想を書くことすら野暮というか、田中一飛曹に執着し「やぎ」に囚われ続けた淀野と、田中二飛曹のことが忘れられないまま特攻隊員であった過去を隠して生き永らえた八木の解像度がエグいというか、戦争と執着と時の流れの中で擦り減った出涸らしのような男たちの虚しさが圧巻すぎて何と言ったら良いか分からない。
ただ単純に、八木はきっとずっと重く冷たいものを背負ったまま生きてきたと思うので気の毒だとは思うのだけれど、田中一飛曹の写真を見た途端「志津摩」と叫び涙を流す姿に、ああ、やっぱり田中二飛曹のことを愛していたんだねと私も涙が止まらなかった。自分のあとに続いて征くと言ってくれたのに、向こうでまた会うはずだったのに、自分だけが生き残り、だからといって死ぬことも忘れることもできず、なんだかんだ結婚して、子供もいるからとりあえず生きている。彼が非情に見えるだろうか。臆病に見えるだろうか。でも誰も、後ろめたいことも何もないまま綺麗に生き綺麗に死ぬことはなかなか叶わないものだよなと身につまされた。
そしてその姿を見て「参った――、”やぎ”に話したい事は特にない…」と抜け殻みたいになる淀野があまりに正直で、でも「あるよな、そういうこと」という共感もあって少し笑いそうになってしまった。淀野にも八木にもそれぞれに種類の違った生々しい「人間あるある」が詰まっている気がする。さらにとりあえず間を持たせるために田中一飛曹の家族のことまで口走ってしまい、「しまった」「言わなきゃよかった」「口がすべった」と、まるで指の隙間から零れ落ちるように「志津摩くん」を失う淀野。どこか余裕を見せたくなったのか、差し上げようかと提案した田中一飛曹の写真さえ、「すべて、彼の表情はいつも頭の中にある」と断られてしまう。きっと「志津摩くんが自分のものであったことなんか一度もなかった」「自分ははじめからずっと蚊帳の外だった」と突きつけられた気持ちになったのではないだろうか。"やぎ"なんか探すんじゃなかった。ひどく虚しかったことだろう。
こういう途方に暮れてしまう感じ、めちゃくちゃ好きですね…(力尽きるな)

ところでこの『淀野と八木』には下巻で続きがありそうだ。淀野が八木の息子を見て何かに気付いたような反応をした理由が明かされていないし、「田中一飛曹の姉の娘が彼にとても似ている」という妙に詳細な情報と、八木が田中一飛曹の家族とコンタクトを取るのかどうかも気になるところ。さらにカメラ好きと思しき八木の息子も、あのあと淀野と接触する可能性がある。ここ怖い。まさか八木の息子、淀野に犯されたりしないだろうな。うそうそうそ、冗談。言ってみただけ言ってみただけ。そこの二人がくっつく道理がないし丸く収まる未来がまったく見えんもん、地獄だもん、うそうそ。

あと橋内和中尉が両親への手紙に塚本整備兵のことを書いていたことも、何か後日談があればほんの一コマの絵だけでも良いから見られないかなと思っている。

そしておそらく物理の本であればカバー下になるのであろう、八木中尉と田中二飛曹が頭を寄せ合い幸せそうに笑っている表紙を見て見事に泣き崩れた。う、ううっ、どうしてこうなれなかったんだ…チクショウ……。

スーパー余談

八木中尉と田中二飛曹の皮肉な末路、なんとなく『ガルヴェストン』という映画を思い出した。

予告を観て頂くと分かる通り、正直ベタな話だ。病魔に侵され余命いくばくもない殺し屋が、たまたま出会った不幸な娼婦の少女と心を通わせる。彼女の幸せな人生を願った主人公は自分の命を犠牲にして少女を助け、「くそったれな人生だったけど、最後だけは、誰かの役に立てたかな…」とか言いながら死んでいく感動物語

と、思うじゃん?

【超ネタバレ】だがこの予告編、おそらくあえてこのようなベタな物語に見せかけているんだと思うのだが、実際は主人公が少女を全力で守ろうと決意した矢先、少女は主人公の組織に捕らえられてレイプされた上に殺されてしまう。それを知った主人公は復讐に向かおうとするが途中で交通事故に遭い入院。少女が殺されたのに自分は一命を取り留めてしまい、しかも主人公は医者の話をちゃんと聞いていなかっただけで不治の病なんかではなく治療可能な病気だったことも判明する。
「この娘を守って死のうと思った」男は情けなく生き延びてしまい、
「この男を信じて生きると決めた」少女は無惨にも殺される、
という超皮肉な展開の映画なのだ。

そのまま組織に訴えられて逮捕された主人公は20年の刑期を終え、少女の忘れ形見であった娘(当初は幼い妹として登場したが、実は少女が父親からレイプされ妊娠して産まれた娘だったということが途中で明かされる)と再会し、彼女が娘を深く愛していたことを語り終えると、彼女と過ごしたガルヴェストンの美しい景色を思い出しながらハリケーンが襲う海辺に向かうところで映画は終わる。暴風雨の中を歩く老いた主人公と、思い出の中のガルヴェストンの海辺で微笑む美しい少女のカットバックが凄まじいコントラストを生むラストシーンであった。

この主人公、冒頭で医者の話を最後まで聞かずに病院を飛び出すシーンがあるのだが、余命宣告を聞くのが怖かったのではないかと思われる。それから余命わずかと思い込み元カノに会いに行ったりするのだが、「もうすぐ死ぬからって何か優しい言葉でもかけてもらえると思った?」と冷たくあしらわれており、不遇というよりは身から出た錆感のある男であることが示唆されている。あとそれは蛇足なんじゃないかと思うが何故かED設定もあったりして、この主人公実は全然ハードボイルドではない。
名作『レオン』を思わせる設定ながら、「誰もがジャン・レノみたいにかっこよく戦って死ねると思うなよ」と横っ面を思い切り叩かれたような気持ちになる映画で、死を安直に美談の道具にしたがる発想に対してのアンチテーゼでもあるような気がしている。八木中尉と田中二飛曹の物語にそこまでの意図が盛り込まれているわけではないだろうが(だって戦時下じゃ状況のニュアンスも違うし)、死に損なって萎びたように生きる八木と写真の中で格好良く決めている若いままの田中一飛曹は、ガルヴェストンのラストの壮絶なカットバックを思い出させられるし、こういう何と言ったらいいか分からず気持ちが迷子になってしまうような余韻の結末が大好物なのだ。
すみません、それだけです。着地が弱い。

最後に

こんなにも長い感想文をここまで読んでくださりありがとうございました。いまだに毎日のように読み返してしまう『蛍火艶夜』、BLだし性描写も過激なので読む人を相当選ぶだろうことは重々承知なのですが、受け取った熱量を吐き出さずにはいられず書き連ねてしまいました。勿論「大丈夫な方」だけで良いのですが、さらに沢山の人々に読まれて評価されて順調に下巻が発売されたらなと祈っているところでございます。心から、心から下巻を楽しみにしております。

amase先生、素晴らしい漫画をありがとうございます!!!
そしてこれを読んでくださったあなたにも感謝です!!!!

おしまい。


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