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木の幹を見てくれ

こんばんは。今日もお疲れ様です。

ところで木の幹を見てほしいのです。

木の幹。
あと枝ぶり。植物の体躯。

中学生の時の僕は園芸少年で、近所の県立植物園で苗木を買ってきては野菜や花を育てていた。支柱に一本枝を抱かせて大輪の菊を咲かせたり、薔薇を接ぎ木したり、瓢箪をくりぬいて水筒を作ったりしている、近所でも類を見ないませた中学生だった。実家ではその当時に植えたリンゴの木がまだすくすくと育っている。パクチーを食べると当時育てていた除虫菊の香りを思い出す。
僕のせいではないと思うが、実家の小さな庭(というか勝手口への通路)はいまは手入れする者がなく、荒れ放題である。僕のせいではないと思う。

僕は植物が好きだった。
育てる機会がなくなってしまった今も好きだ。

先日、新しいカメラの撮影テストをしようと昭和記念公園へ行った時、ふと気になって何気なく撮影した木の幹がとても格好良く撮れた。格好良い、というよりは、僕が普段見ている木の幹がそのまま写っているような感覚だった。
他のカメラでも木や枝はよく写していたけれど、今回はカメラが僕の思う木の格好良さに同意してくれて写してくれているような、木みたいなありふれたものを写してもダサくしないからねと力強いバックアップを貰っているような、そんな感覚を得られた。
この時、僕の中で何かが目覚めたのだと思う。自分の感覚は間違っていなくて木の幹は格好いいのだと、誰に恥じる事のない感覚なのだと、どこからか(カメラから?)謎の自信が湧いて溢れてきたのだ。

木の幹は格好いい。

中年に差し掛かり、傍から見たら極端と思われる趣味に突然目覚め突っ走る男性は津々浦々どこにでもいるだろうし、世界中で見ても普遍的な現象なのではないかと思う。
ゴルフ、釣り、キャンプなどはメジャーなそういったものではないか。アイドル、野球、筋トレ、自転車、プラモデル、サバゲー、それにカメラなどもある。
おそらく、その中の一部の人は、若い頃に興味があったがなかなか手が出なかった趣味への思慕が、余裕が出てきた時期に一気に爆発してしまうという現象でそうなのではないかと想像するが、何も悪い事ではないと思う。
そこに木の幹を格好良がる事を加えてほしい。
ジェントルマンの趣味として。
(これは言葉の綾で、女性だって木を格好良がってもちろんよいのだ)

格好良いなあ。

格好良い。

写真がではない。木の幹が格好良い。写真はただそれを伝えるために撮影して現像しているに過ぎない。

思い出したのだけれども、高校の修学旅行の時、平泉で、中尊寺の境内にある杉の巨木に感動した僕は杉の木の幹の前に立って同級生に写真を撮って貰ったことがあった。
あの頃からか。あれが原体験なのだろうか?

ここに掲載した木たちも原生林で撮影したわけではないので、剪定などされたりしてある程度ひとの手が入った植物達だと思う。
それでも、木達は人の手入れなど意に介さない育ち方をしている。枝の伸び方や、幹と幹の絡まり方、木肌の凹凸、洞や葉の付きかたや部分的な枯れ方など、人の意思で創作されたものではないし、ましてや僕の発想からはまず生まれるはずもない形がマクロにもミクロにも関係しあってそこに存在している。
年齢を重ねた木を見ていると、驚きの連続に眼と脳が付いて行けない。
そしてそれが心地よい。

その姿は植物の生きた軌跡そのものではないだろうか。
あるときは強風で枝が折れ、低木だった時に動物に齧られた跡が成長して上部に行き、変形し、病気で木肌が荒れ、苔生し、太陽と風の方向で育つ枝と朽ちる枝がわかれ、また、曲がる。
生きてきた軌跡ではない。これは今現在生きているという、生命の形そのものではないか。生命の形そのものなんて大仰な言葉を使ったからには、なんとなく、それを「美しい」と表現したくなるものだけれど、僕は別に美しいとは思わない。ただ、格好いいとだけ思う。

スナップで木を主体に撮ったりしても、自分の中で納得できるラインが出来た。街の中の木にもっと注目して歩いてみようと思う。

ところで松って木肌が格好いいよね!

個人的には根元がどっぷり膨らんでる個体が推し。

でも、松の種類とかよくわかってない。
赤松?青松?唐松?

僕は最近目覚めたばかりの、にわか木ファンなので、これから名前や分類に興味が湧いたら調べていくと思う。
木への視点が増えたことで、近所の散歩や観光での楽しみが増えた。これはとても良い趣味なのではないだろうか。紳士淑女があつまり、夜な夜な樹液をすすりながら木について語り合うサロンが自然発生する日もそう遠くないはずだ。

木をかわいい女の子かイケメンに擬人化させて木育成ゲームを作ると、木人口が増えるのではないだろうか。

同じ様な枝の写真ばかり?
それは僕の趣味です。性癖が出てしまっていたとしたら恥ずかしい……
でも、なんとなく、堂々としていられる。これが世間からどう思われようと我が道を行く中年の趣味というやつなのか。見上げて枝ぶりを写すばかりでも全然恥ずかしくなんてない。だってほんとうに枝が素敵だから。
セピア調の色合いが写真毎にバラバラでも、恥ずかしくなんて、ない。

新しいカメラで木の幹が思った通りに写ることが分かったあと、それまで使っていたカメラでも同じく木の幹を撮影してみたところ、なんと、同じ様に写すことが出来た。コツというか、視線というか、そういうものがわかってきたのかもしれない。(今回の写真も両方のカメラの写真が混ざってる)
それにしても、木をこう撮ろうと思っても撮れないものだと思っていたので、写ってくれるようになって嬉しいなという気持ちだ。
上手くはまらなくても興味のままに木を撮る事をやめないでよかった。
木の幹に「あきらめないで」と言ってもらった気分だ。

おしまい。


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