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徒然なるままに

このまま春が来そうなぐらい暖かい今日この頃、今年48歳歳男のおっさんが10年振りぐらいに書いてみようかとnoteに登録してみる。

さて、何を書くかも特に決めていないので、徒然なるままに自己紹介でもしてみることにする。

25歳の時、鉄工所4代目になる予定で修行を終え、愛知県から淡路島に帰ってきた。第二の人生と位置付け地に足を付けるべく、当時交際していた女性(現妻)と結婚した。

当時の淡路島というと明石海峡大橋が開通したばかりで、いわゆる「ストロー現象」と揶揄され、人から物までとにかく四国と京阪神に吸い取られて「橋なんかないほうがよかった、泥棒しかこない」なんて明るい題材がない島の論調だったように思う。そんな空気感もあってか淡路島での嫁探しなんて無謀だと思い婚期が早まったような気もする。知らんけど。

島に帰って後を継ぐレールを自分で敷いていた私だが、いざ仕事を始めると「町工場の経営」の未来が見えず、悶々とした日々を過ごすことになる。鉄の加工は面白かったが、営業活動は億劫になりがちで面白くなかった。

淡路島に限ったことではないと思うが、地元の商売人ネットワークで「あそこの息子が帰って来たらしい」という噂はひと月も経たないうちに地域で共有され、その流れか同級生から声がかかった。

私は人並みにお酒は飲める方だ思っていたが、とにかく当時の商工会青年部の先輩方は酒ごとき飲めて当然のエンターテナー集団(吉本新喜劇と比較はできないが私には10倍は面白いと思える猛者たち)であり、日を追うごとに私もその薫陶を受けることとなった。

お酒の飲み方はとにかく品がなく最低だったが、毎回の企画会合が楽しかった。月2回程度の会合は「打ち合わせ30分居酒屋5時間30分」といった具合で、毎回斬新で下品なエンタメが仕組まれ、そのうちに自然と宴会の企画側の楽しみを見つけるようにもなっていった。

本当は高校野球の青春時代と言いたいが、あらためてこの時の経験が今の自分の人生哲学の基盤を作っているように思う。当時のチャランポランですこぶる下品な先輩方には聞こえていかないようひっそり感謝している。

長女が産まれた日に草野球チームとかも作ったりしながら、毎日目まぐるしく忙しかったような記憶もありつつ、3年が経とうとする頃だろうか、実はもう一人の自分の存在に気づき始めていたぐらいの話はまた別の機会に。

この歳になって自分が死ぬことをよく考える。あと10年全力で仕事をしてからどんな死に方をするか。淡路島の観光業あと10年大丈夫か?途中で死んでも生命保険で借金なくなるんか?とか、自分でもわりと冷静でやばい心理状態やなと認識しつつ(苦笑)まずは万が一長生きした場合のことを考え昨年虫歯を全て治した。

まだ死なない予定だが、いざ死を迎える時のための心の準備のnoteになればそれはそれでいいぐらいのスタンスで書いていこう。

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