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人生の夏休み

こんにちは、あめです。

「人生の夏休み」という言葉は、一般的に大学生活のことを指すと言われている。大きな責任もなく、ある程度好きな科目を受講でき、望めば授業にさえ出席せず1日中遊んでいることだってできる、というイメージがあるのだろう。

もっとも、今の大学生はそんなことはない。少なくとも、のんびりしている人たちは、私の周りでは皆無に等しかった。みんな課題や必修の授業に追われて過労気味だったし、たとえ学業が最優先ではなかったとしても、サークル、バイト、インターン、就活の早期選考、留学(準備も含む)、ボランティア、恋愛など、各々の興味に沿った課外活動に精を出していた。

社会から求められている事柄が多いと、必然的に忙しくなる。この傾向は、大学生だけではなく、現代を生きる学生全般に言えることだ。
この間本屋に行ったときに、『小学生のためのタイパ術』という本が大々的に宣伝されていたのには驚いた。本の帯には『4年生までに知らないとヤバい!』という宣伝文句も。対象は小学4年生、つまり9歳から10歳の子どもたち。いや、『4年生まで』だから、それ以下なのか。怖すぎる。
こんな本が流行るくらいには、学校の勉強に加え、習い事、塾、模試の復習、友達関係のイベントなど、様々な活動を同時並行してこなす能力が求められているのだ。まだ10代にもなっていないのに。

さすがにそんなに幼い子どもたちに『タイパ』を求めるのはどうかと思うが、今の子どもたちがプレッシャーに直面しやすい環境にあることをうまく表現していると思う。

振り返ってみれば、私自身も本当の『何もしなくていい』お休みの経験が乏しい。小中高は、長期休みとなれば必ずプリントやドリル、読書感想文など、大量の宿題が出た。私が通っていた田舎の公立校でもそうだったので、恐らく全国の小中高生が経験しているものなのだろう。
私の場合は、さらに宿題に対するタイムリミットが厳しかった。中学~高校の夏休みは、フィリピンの英語学校に1か月間の短期留学に行くのが毎年の習わしだったので、宿題は誰よりも早く終わらせる必要があったのだ。よって、7月中は部活(当時は運動部に入っていた)の練習と両立しながら宿題を黙々とこなし、8月からはフィリピンで平日5日、1日6-7時間の授業を受けるようにしていた。

学部生になってからは、宿題こそ出なかったものの、大学主催のサマープログラムに参加したり、サークルの遠征や国際大会に参加したり、なんだかんだ参加せねばならないことが多く、忙しい生活を送っていたように思う。3年生からはコロナ渦となり、空白期間ができたといえるけれど… ちなみに、院生の時は、休みなどあってないようなものだった。常に授業準備、エッセイ執筆、そして修論に追われていたので。

大学院修了後も、ほとんど休む暇がないまま、社会人になった。そしてほどなくしてバーンアウト。それら一連のあとの漂流先が、現在の休職期間。ほとんどはじめてに近い、「何もしなくてもいい」期間である。始めて、1か月が経つ。それでも、私は未だに、何もしなくてもいい状態に慣れていない。しばらくじっとしていると動き出したくてうずうずする。何の生産活動も行っていない現状に対し、罪悪感のようなものも抱いてしまう。これは、小さいころ『忙しい休暇』を経験し続けた弊害なのかもしれない。「休みなさい」と命じられても、うまく休むことができない。

それはそれで、仕方ないのだと思う。私はもう24歳だし、既にもう変えられない部分も大きい。ただ、「あれもしなくちゃ」「これもしなくちゃ」と焦った挙句、バーンアウトしてしまうのだけは避けたいと思っている。あくまでこれは休職期間で、休むための時間なのだから。
これは夏休み、夏休み、休むための時間。焦ったときや落ち込んだ時は、独り言のようにそう言い聞かせながら、今日も生きている。


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