見出し画像

「愛してる」を知った「永遠の花園」(ヴァイオレット・エヴァーガーデン)

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』というアニメを視たのは、友人に勧められてのことだった。
リアルタイムではなかった気がする。しかし美しい絵とテーマ性に惹かれて、一時期随分ハマったものだ。

「愛」をテーマにブログを始めた以上、いつかは扱いたいと思いながら、なかなか準備が整わなかったのだが、このアニメについては今、是非とも言及しなければならないと感じた。

「オタク」になって日が浅いので、「京都アニメーション」という固有名詞を聞いたのは、まさにこの作品を通じてだった。
なんというか、生き生きとしながらも美しい身体を描くいい絵だと思った。特に主人公ヴァイオレットの「表情豊かな仏頂面」(変な表現だが…)には感動した。

彼らの作品の記事を書いたところで追悼になるとは思わない。
ただ、僕に感動をくれたあの作品を創ってくれた人たちに感謝したい。
まだ見たことのない人には知って欲しいし、見たことのある人には忘れないでいて欲しい。

そんなわけで、準備不足は重々承知なのだけれど、一筆書いてみます。

感情を「真似ぶ」

この作品(僕は原作のライトノベルをまだ読んでいないので、アニメ版をベースに話します)のテーマのひとつに、「愛」の学び、ないし「感情」の学び、ということがある。

主人公ヴァイオレットは孤児だったところを軍人の家系であるブーゲンビリア家に引き取られ、当家の次男坊(少佐)の側近として軍務につきながら、彼の手で教育を受ける。

少佐と出会った時、彼女は言葉を話せなかった。
名前すら、与えられていない存在だった。
親代わりになった少佐が二人で屋敷の庭にいた時、咲いていたスミレ(ヴァイオレット)の花からとって名付けた。

「その名に似合う人になるように」

そんな願いを込めて。

ある作戦の為負傷し退役したヴァイオレットが郵便社で代筆業を始めたのは、少佐の遺したある言葉の意味を知りたかったからだった。

「愛してる」

少佐はそう言った。

敵の砲撃で致死の傷を負った男が、両腕を千切られながらも彼を守ろうとする少女にかけた、最期の言葉。

「『愛してる』を知りたいのです」

その思いひとつで、両腕に義手をつけた少女は、少佐の知り合いが始めた郵便社で「自動手記人形」として、依頼者の代わりに手紙を書く代筆業を志すのだった。

しかし物心ついてから軍務のみに従事していたヴァイオレットには、依頼者の微妙な心情の機微を読み取り、その意を汲むことが出来ない。先輩の自動手記人形カトレアがいう、「うらはら」な気持ちが分からないのだ。

そして、少佐の最期の言葉、「愛してる」も。

しかし他の自動手記人形や育成学校の同級生、そして依頼者達と交流するうち、次第に「感情」というものを「学ぶ」。そして少しずつ、「愛してる」の意味にも近付いていく。

そう、感情とは「学ぶ(真似ぶ)」ものなのだ。

「真似ぶ」ことが出来る限りにおいて、感情(少なくとも感情「表現」)とは、「型」であり、文化であり、技術である。
そして表現に型があるならば、それをどう受け止め、どう反応するかにも型がある。
フローベールではないが、こういう意味での『感情「教育」』を、ヴァイオレットは自分で行ったとも言える。

しかしこういう意味での、「型」としての「感情」とは器である。この器を真似ぶ前の彼女に、「感情」「こころ」は本当に「無かった」のだろうか。
それとも「型」のロジックに沿って整理されていないために、「通じない」だけなのか。

そしてもうひとつ。

ヴァイオレットは、「愛してる」を本当に知らないのだろうか。

それとも、胸に秘めた思いを、「愛してる」という「概念」、「型」にはめられないだけなのか。

概念は英語のconcept(ラテン語ではconceptum)の訳語である。
conは「一緒に」、ceptumは「掴まれた」、といった意味。
いわばバラバラにある個別の事物や現象を「一緒に」してまとめ、「掴む(把握する)」こと、それが「概念」化であり、言語化の第一歩である。

ずっと軍で、それも(恐らく)少佐以外の人間と隔離されて生活していたヴァイオレットは、自分の胸の中にあるものを(決まったコードに従って)概念化=言語化することが出来ない。逆に概念化=言語化されたものを、その前の段階、生の「感情」に展開して受け取ることが出来ない。
だから「愛してる」という「概念」が「分からない」。

しかし、僕らが僕らの言語文化コードで「愛してる」と概念化するあの感情は、胸の内に持っていたのではないか。
つまり、「愛してる」は「分かっていた」のではないか。

あの砲撃の中、両腕を失いながらも瀕死の少佐の服を歯で咥えて引きずって回収しようとする彼女が、「愛」を知らないとは思えないのだ。

ここまで考えを進めると、新しい疑問が頭に浮かぶ。

「愛してる」という「概念」(「型」)を所与のものとして使用する僕らは、「愛」を本当に「知っている」のだろうか?
空の「型」としての「言葉」を、弄ぶだけではないのか?

「愛」という言葉を知りながら、好きな人に恋文ひとつ書けない情けない男には、自動手記人形に代筆してもらって初めて、自分自身が「愛してる」かどうか認識できるのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?