「恋愛」と「失恋」、ふたつの不可能性

「あまちゃんは『失恋』について書いたらいいじゃん」

久しぶりに会った学生時代の友人に、そう言われた。

ブログを始めた大元のきっかけは、このドクトラント(博士論文執筆中の人)が企画している同人ブログへの寄稿を打診されたからだ。
参加者ひとりひとりがテーマを決めて記事を連載し、それについて議論し合うコミュニケーションプラットフォームみたいなものを想定しているらしい。
始動する前に練習してみようということで、また一定のテーマに括りづらい内容を好きに書ける場も作っておきたい思いから、自分のブログを立ち上げたのだった。

当初僕は、「愛」をテーマにしたかった。
しかしこれはテーマとして大きすぎ、焦点がボヤける危険もある。
そこで、例えば「失恋」というように絞りこんではどうかとアドバイスしてくれたのだ。
彼が僕の二十代前半の初恋と「失恋」に立ち会っていて、それが僕に大きな影響を与えていることを知っていることもある。

僕自身としてはより自由に論じられ、もうひとつ関心のある「他者」とも接点のある「愛」というテーマのほうがやはり気に入っている。「失恋」をテーマにした後に実生活で「恋の成就」があったら書きづらくなるし。
(同席していた別の友人にこの企画の継続性について説明する時に「例えばあまちゃんは今後10年間『失恋』(それをテーマにしたとして)について書き続けるわけだけど…」と口を滑らしたので、彼は僕の恋愛成就に懐疑的なのだろうが…)

幸か不幸か、始動にはまだまだ時間がかかりそうなのでテーマ設定には時間がある。
とはいえ不意に「失恋」というテーマを提案されて思ったことはある。

僕はそもそも「失恋」したのだろうか?
人は本当の意味で「失恋」することができるのか?

もっと言ってしまえば、

「失恋」とは何だろう?

という根本的な問題に行き当たることになるのだが…

「妹が好きなことはみんなわかってる。
 じゃあ、あまちゃんは妹とどうなりたいの?」

ちょうどその前日、今仲良くしている女の子の兄と飲んでいて、こう言われた。

別に責められたわけではない。
そもそもお兄さんの方と先に知り合って、彼の店を手伝っている妹とも仲良くなり、いつの間にか好きになっていた。だから兄妹両方と(ある意味では別々に)友人関係がある。
だから責める意図ではなく、純粋な質問だったと思う。

そこで僕は、実は答えに窮してしまった。

「結婚したい」

そこまでは考えていたし、そう答えたけれど、具体的なヴィジョンは正直なところない。

その前にちょっとしんどいイベントがあって、僕はかなり酔っ払っていた。なので彼の返答はうろ覚えなのだが、彼女の気性の荒らさは言われた気がする。
それと、こだわりの強さ。
その裏返しの、自分がどうでもいいと考えたことへのいい加減さ。

要は、うまくやっていけるのか、というところだ。

後半ふたつは僕自身がそうなので、お互いの領分をしっかり決めて侵さないようにすれば大丈夫な気がするけれど、問題は他にある。

僕は彼女を愛してる、恋しているといいながら、同じ時間を過ごすようになった時のことを、それほど多く考えてはいなかったのだ!

連れて行きたいところや一緒にしたいこと、贈りたいものはよく考えている。むしろ普段それしか考えていないほどだ。彼女と知り合って随分経って好みも分かってきて、はずさなくなってもきている。
だがそれはどこか、彼女に合う脚本を僕ひとりで書いてきて、それを彼女に演じてもらうような、ひとりやがりな部分が見え隠れする。彼女のほうからの要望に、必ずしも沿えていないことがその証拠だ。

別の言い方をしよう。

僕は「恋愛」を「付き合う」「結婚する」など「獲得」ないし「達成」するものと捉えていた。
「共に育む」とか、「共に築き上げる」ものとしては考えていなかったのだ!

既婚者の「義兄(予定)」は後半の意味での「愛」を知っている。

彼女自身はどうか?

恐らく彼女は、「遊ぶ」愛、「戯れる」愛を愉しみたいのだろう。

僕のアプローチを袖にしながら、彼女は僕を焦らしたりからかったりするのは好きだ。一緒にいて、楽しげな時も多い。

でも恋って何かしら?
喜び、快適、満足、
幸せ、楽しみ、
気晴らし、陽気さ、で、もう恋ではないわ、
不快になったら、
喜びになるのでなく、傷つけたり、苦しめたりしたら。
Amor cos'è?
Piacer, comodo, gusto,
Gioia, divertimento,
Passatempo, allegria; non è più amore
Se incomodo diventa,
Se invece di piacer nuoce e tormenta.
-モーツァルト/ダ・ポンテ『コシ・ファン・トゥッテ』第1幕第13景
(小瀬村幸子訳)音楽之友社 2002 p67-68
気軽に恋とつきあうこと、
よい機会は
けして逃さないことです、時により移り気になり
時により貞淑であり
適当に媚を見せ
殿方を信じ込む者に
とてもよくある禍を招かないようにし
イチジク食べて、でもリンゴを捨てないことです。
Trattar l'amore en bagatelle.
Le occasioni belle
Non negliger giammai; cangiar a tempo,
A tempo esser costanti,
Coquetizzar con grazia,
Prevenir la disgrazia sì comune
A chi si fida in uomo,
Mangiar il fico, e non gittare il pomo.
-上掲書 第2幕第1景 p87

モーツァルトの喜劇で描かれるような愛の戯れを、彼女は楽しむ余裕がある。
(誤解が無いよう付け加えるが、彼女は男を手玉に取るタイプではない。20代のうちは彼氏がいなかったほど貞淑で、不器用で、じゃじゃ馬だ)

では僕の「愛」はどうだろう?
例えば、こんな愛だろうか。

クレオパトラ「それが愛なら、どのくらいの大きさか知りたいわ。」
アントニー「どのくらいと言えるような愛は卑しい愛にすぎぬ。」
クレオパトラ「でもあなたの愛の世界をその涯まで見きわめたい。」
アントニー「それを見きわめれば新しい天地を見ることになろう。」
CLEOPATRA
If it be love indeed, tell me how much.
MARK ANTONY
There's beggary in the love that can be reckon'd.
CLEOPATRA
I'll set a bourn how far to be beloved.
MARK ANTONY
Then must thou needs find out new heaven, new earth.
-シェイクスピア『アントニーとクレオパトラ』第一幕第一場
(小田島雄志訳) 白水社 1983 p10

あまりにも愛し過ぎて、この天地すらも越えてしまったような愛。
それゆえに、「いま、ここ」でどう愛を遊ぶか、どう育むかすらわからない愛。

アントニー「ローマなどタイバー河に飲まれてしまうがいい!
世界をまたぐ帝国の広大なアーチも崩れ落ちるがいい!
おれの宇宙はここにある。(両手で彼女のからだの輪郭を描く)
王国など土くれにすぎぬ、
汚らわしい大地は畜生も人間もひとしく養い育てる、
人生の尊さはこうすることにある。(彼女を抱く)」
MARK ANTONY
Let Rome in Tiber melt, and the wide arch
Of the ranged empire fall! Here is my space.
Kingdoms are clay: our dungy earth alike
Feeds beast as man: the nobleness of life
Is to do thus; Embracing
-上掲書 第一幕第一場 p12

愛し過ぎるがゆえに、「おれ」の宇宙は「彼女」の中にある。
しかし「おれ」の愛はどのくらいと言えるような卑しいものでなく、その涯まで見きわめたいとすれば新しい天地まで見つけることになる。

つまり、「おれ」の愛は宇宙=「彼女」すら越えて、新しい世界にまで拡がってしまったのだ!

僕らが「愛」について語る時、その前意味はこのように随分意味がズレてしまう。

さて、一番最初の問題提起に戻る。

僕はそもそも「失恋」したのだろうか?
人は本当の意味で「失恋」することができるのか?

まず、「獲得する恋」「達成する恋」の場合。
これは「付き合う」「結婚する」などの目的が達成出来なければ負け。失恋である。

「共に育む愛」は?
二人の協調が上手くいかないことはあるだろう。
この場合も目標なり理想なりを共有した上で共に育む、築き上げるのだろうから、それが実現出来ない場合は一緒にいられないかもしれない。
しかしこれは、ただ「別れる」だけであって、「失恋」ではないのではないだろうか?
敗者のいない終わり、愛ないし友情は残りながら、win-winで離れる終わりもあるのではないか。

「戯れる愛」は、不快になったら、傷つけたり苦しめたりしたら終わりだ。
だがこれは、ただ終わっただけで、失ったわけではない。
戯れの愛は風が変われば、音色が変わればまたはじめられるのではないか。

では最後に、愛し過ぎて相手すらも越え、独自の世界で自己運動を始めた愛は?

「失恋しない」
「失われない」

なぜならこれはもう僕からも彼女からも離れてしまった愛のための愛、絶対化した愛だからだ。
「いま、ここ」との関わりがない(少ない)がゆえに、現実世界でフラれたとしても、別の女と関係を持ったとしても、「あちら」の世界では変わらずあり続ける。

浮世離れした妄想と思われるかもしれない。
僕もそう思う。
しかし、恋とは本来そういうものじゃないだろうか?

ところで、「獲得する恋」「達成する恋」は、目標を失うとともに「失恋」するけれど、こういう愛はそもそも愛として成立しているのか?

彼女いない歴=年齢のいわゆる「非リア充」「負け組」(自分ではそう思っていなくて、そもそも僕は今の生そのものが「リアル」じゃないと感じることがあるし、僕は世界と戦うことに価値を見出だせなくて、他者とはなおさら戦う気も起きないのだけれど…)なので、パートナーを取っ替え引っ替えするような「チャラい」人や、既婚者であるというだけでエラそうな人(そういう人ばかりではないことはよくわかっている。ブログに誘ってくれた友人や「義兄(仮)」は本当にいい人だ)の「愛」が本当に「愛」として成立しているのか、ちょっと意地悪に疑う気持ちになった。

そんな時、高校生の時に好きだったGACKT(当時はまだGacktだった)が雑誌に連載していたコラムの一節が思い出されたので、引っ張りだしてみる。

“両想い”は思い込みだ!
(…)
だって、両想いなんていうのは勝手な思い込みでしょ? 自分の気持ちは自分で分かるけど、相手が自分のことを「これぐらい好きだ」と言ってきたところで、その“これぐらい”がどのくらいなのか、そんなものは絶対に分かるわけがないんだから。
男と女の間には、片想いという一方通行の恋愛がふたつ存在しているだけ。それは、すでに結婚している夫婦の間でもまったく同じことが言えるはずだよ。
-『Gackt 素晴らしきかな人生3』オリコン・エンタテイメント株式会社 2005 p12

どれくらいと言えるような卑しい愛も、涯まで見きわめるには新しい天地が必要な愛も、二人の思い込みでしかないのかもしれない。

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