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Verlieben「あなたの中の私に恋い焦がれる」

ドイツ語の慣用句に、「sich in jmdn. verlieben」という言い回しがある。
「jmdn.(人物)に惚れ込む」とか「恋に落ちる」といった意味の表現で、英語の「fall in love with someone」に近い意味と言われる。再帰動詞といって、核となる動詞verliebenと再帰代名詞(主語と同じものを指す代名詞)がセットになって使われており、恋の対象はinの後に置かれる。

この言い方が、私は好きだ。激しい愛のために「私」が「私」から千切れ去り、恋人の中へ一目散に飛び込んでいくような熱情と、恋人を想いながらも独り佇み自分自身を見つめるような内省性が同居した、ステレオタイプ的ではあるが「ドイツ」的な表現だと思う。

この慣用表現をあえて字義に忠実に、私なりに解釈して訳すとこのようになる。

「〜(人物)の中に没入する自分自身を愛してしまった、あまりに激しく、そして虚しく」

分析してみよう。
まず「in jmdn.」、恋の対象を表現する前置詞句に目を向ける。ドイツ語では全ての名詞が、英語の人称代名詞が主語の時は I、目的語の時はmeと変化するように、文中で果たす文法的な役割によって格変化する。恋の対象を表現する「in jmdn.」では、想い人は「対格」という形で表れる。前置詞in の後に対格形の名詞が置かれると、「〜の中『に』」という、方向や移動を表す意味になる。ここでは恋の話をしているので、意訳すると「〜にのめり込む、夢中になる」といったニュアンス。さらに一歩踏み込んで考えると、その人物の「中に」飛び込んで「私」を消してしまいたい、彼女の中に溶け込んで「ひとつ」になりたいという願望も読み込めるだろう。

次に「sich verlieben」。これは現代ドイツ語では2語セットでひとつの動詞、再帰動詞として使われている。しかし今回はあえてこの2語を分解してみたい(動詞verliebenは元々再帰動詞ではなく、対格目的語をとる通常の他動詞として使われていた)verliebenはlieben「〜を愛する」に強意の接頭辞ver-が付くことで、「過剰に」「無駄に、無意味に、虚しく」といった意味が付与される。そしてsichを再帰動詞の一要素でなく、他動詞の目的語として捉えた場合、「自分自身を無駄に、過剰に愛してしまった」となる。愛しているのはあくまで「自分自身」なのだ。そして目的語sichをより説明しているのが「in jmdn.」の前置詞句と考えると、下記のように解釈できる。

「〜の中に没入する(in jmdn.)自分自身(sich)を愛して(-lieben)しまった 、あまりに激しく、そして虚しく(ver-)」

この表現自体はあくまで慣用表現で、母語話者のドイツ人が実際にこのように感じ、自身の感情をこのように描写しているわけではないだろう。それでもこの表現は、いかに挙げる点において示唆的と考える。

①「私」の分裂

この表現において、「私」はふたつに分裂する。文法上では主語と目的語に。愛する人にのめり込む「私」と、その「私」を愛する「私」に。この動詞がsichとともに、つまり再帰動詞として使われ始めたのは16世紀以降であること、この動詞は恋愛だけでなく神への愛、宗教的な意味でも使われていたことを考えると、この表現に敬虔主義的な、自身の内面的心情を見つめる姿勢を読み取ることも出来るかもしれない。あるいはファウスト第一部のあの有名な一節を重ねることも出来ようか。

Zwei Seelen wohnen, ach! in meiner Brust,
die eine will sich von der andern trennen:
Faust 1, Vers 1112 - 1113; Vor dem Tor. (Faust)
ああ。己の胸には二つの霊が住んでいる。
その一つが外の一つから離れようとしている。(森鴎外訳)

②「私」の「あなた」への没入と融解、そして合一/「あなた」の中に漂う「私」

「私」は「あなた」の中に没入する(in jmdn.)。その時「私」は「あなた」の中で、「私」のままでいるのか、それとも「あなた」の中に溶け込んでしまって、「あなた」とひとつになるのか。

僕は「両方」だと考える。

狂おしいまでの愛のただ中で、卑小な「私」を滅却し、愛する「あなた」の中に飛び込んで、溶け合ってひとつになるというイメージ。それは神の至高を希求する敬虔な祈り、あるいはエックハルト的な神との合一とも、男女の交わりともリンクしているのかも知れない。

「私」とはしかしその一方で、「あなた」への耽溺、「あなた」との混ざり合いのなかでこそ、かえってその輪郭が顕在化するものではないか。私たちは 「他者」に触れていないとき、自分の身体がどこにあるか、どこまで伸びているか把握できない。他者に触れた時初めて、自分の身体の位置と範囲が把握できるのだ。「あなた」という他者に沈みゆく「私」は、身体の外部全体で「あなた」に触れ、 呑み込んだ「あなた」で身体の内部を満たされることで、つまり内部と外部を「あなた」という他者に触れられることによって、「私」を初めて明確に認識する。「あなた」という他者、他者という異界の中で、「私」は「私」を初めて「知る」のではないか。

「私」と「あなた」の境目の曖昧さと揺れ、そして揺れの中で初めて意識に昇る彼我の境界が、この慣用表現から読み取れる。

③ナルキッソス的自己愛(他者という異界に映し出された「私=あなた」への愛)


この慣用表現において真の目的語は「あなた」ではなく、「私」自身である。

ナルキッソスが水面に映った自分自身の姿の虜になったように、「あなた(他者)」という「鏡」に映った「私」自身を愛している、という構図がこの表現に潜んでいる、ということが出来るかもしれない。
あるいは②で指摘した点と合わせて考えると、「他者」という水辺に身も心も没入し、その水面に映った時に初めて「私」は「私」を知り、「私」を愛することができる、とも考えられる。私たちは独りでは自分を知ることも愛することもできず、常に他者を必要としているのかも知れない。

僕は他者との交わりが得意ではないし、うまく愛することができた試しが無い。若きヴェルテルのように毎日悩み、受難している。

最近悟ったのは、僕のこれまでの愛はLiebeではなく、“Ver“ liebeだったのだろう、ということだ。僕はいつも他者ではなく他者の瞳に映る「私」自身に囲まれ、他者の中にいながら自分自身という「出口無し」の棺に自らを閉じ込めていたのかも知れない。

対他存在及び対自存在としての「私」から、「私」は自由になれるだろうか?

絶望者(desperado)として野良を彷徨うのを止めて、他者を愛し愛される余地を持たなければならないのかもしれない、手遅れになる前に。

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