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 午前零時をすぎた駅のホームはひともまばらだった。電車が走り去った後の黒い空には雨の糸が流れていた。
 私はホームに立ち止まった。ズボンの右ポケットにあるはずの回数券がない。右ポケットのパスケースを取り出し、中を丹念に調べてみた。いつもなら失くさないようにパスケースの中に入れるのだが、今日はポケットの中に回数券を放り込むとすぐに本の世界へ戻った記憶をたどった。ちょうど追い詰められた父親が娘の無念を晴らすために拳銃の引き金を引いたところで物語は止まっていて、続きが気になってしようがなかったのだ。
 その上、酔っていた。真っすぐ歩けないほどではないが、気分は上々だった。最近ではちょっと珍しいことだ。
 左のポケット、後ろの2つのポケットも探ってみたがどこにもなかった。きっと電車の中で落としたのだろう。ひとり改札口へ下りた。
「すみません」改札口の奥に座っている駅員に声をかけた。
「回数券を落としちゃったみたいなんですが」
 私は、おずおずといった。まさか許してもらえないだろうが、踏ん切りはまだつかなかった。駅員は、20代後半くらいの若い男性だった。私がすまなさそうに声をかけているのに合わせてくれているのか、若い駅員も申し訳なさげな表情を浮かべていた。
「他の回数券はいまお持ちですか?」と若い駅員がいったことに私はすぐさまほのかな期待を寄せた。
 ひょっとしたら他の回数券をいまちゃんと持っているということを彼に見てもらえば、それが証明代わりとなって彼は私を許して通してもらえたりするのかもしれない。
 私は、はいと答えてカバンから回数券の残り束を駅員の目の前に差し出した。ほら、こんなにたくさん持っています。ここの駅名もこのとおり切符に入っていますよね。回数券で乗ったのは間違いないんです。回数券を車内で紛失しただけ。だから、何とかならないもんでしょうか。私は、心の中でつぶやいた。周囲には誰もいません。あなたさえ通してくれたら、私はあなたとの秘密を守りますから。どうか……
「1枚もらえますか。回数券を紛失された場合、そうさせてもらってるんです」
 えっ、私は言葉に詰まった。だって、それじゃあ、10枚分の料金で11枚の回数券を買っているわけだから、ここで1枚渡したら、それで回数券を購入したお得感はゼロになってしまうではないか。
 私がむっとした表情をしたからだろう。若い駅員も固く口を閉ざし、気まずそうに帽子のつばを触った。
 まあ、別に損をするわけでもないのだと自分に言い聞かせた。11枚の回数券のうち1枚を無駄にしても10枚分のサービスは受けたのだ。仕方がない。あきらめよう。
 私は、無言で1枚の回数券を若い駅員に渡した。何も言わず、改札を通り過ぎた。
 改札口から地上に降りる間にも思考は巡った。回数券は切符料金の200円の10倍、すなわち2000円で11枚の切符を買った。いま1枚を無駄にしたということは、2000円で10枚分の切符を買ったことと同じになる。でも、ICだったら、一回の運賃は195円になる。もし仮にICだったなら10回で1950円となるところを私は、2000円で10回分の切符を買ったとなれば、50円の損をわざわざひと手間かけて被ったことになるのではないか。むろん、11回分をひとつもしくじることなく使い切れば、私は200円の得をすることになっていた。しかし、1枚を損じた私は、むざむざと50円の損をするためにわざわざ切符売り場に並び、千円札を2枚投じて切符を買い求めたのだ。なんと無残なことか。私は欲を出して回数券を買ったりなんかしていない。通常の切符運賃よりもICの方が5円、すなわち2.5%お得になるところを回数券にするだけで10%の200円もお得になるのだ。それを少しでも家計の助けにしたい。その純粋な気持ちを神様はなんとなさるのか。なんと取り返しのつかないことを。
 私は地上に下りると、まだ降り注ぐ雨の中に手を出した。暗く電気の消えた駅のターミナルは、寒々としていた。このみじめな気持ちのまま雨に濡れて帰ろうかとも迷ったが、私は、気持ちを取り直して、傘を開いた。
 そのとき、上からひらひらと回数券が落ちてきた。なんと傘の中に回数券が入っていたのか。
「やったー」
 思わず歓声にも近い声を上げた。神様は私をまだ見捨ててはいなかったのだ。
 私は、急いで踵を返すと改札口への階段を一気に駆け上がった。

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