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鷗州塾を4日で辞めた話

あらゆるnoteを書く書く詐欺で書き終わらないのでお茶濁しに高校3年生の時の話をします。

私が通っていたのは実業系の高校で、クラスからセンター試験を受ける生徒が4、5人でも居ればいいほうといった感じで、全くと言っていいほど進学に力を入れておらず、専ら資格やらビジネスメールやらの勉強や研修が授業の大半を占め、日本史世界史地理Bもなければ、倫理政経などあるはずなく、現代文もやらなければ数学Ⅲ・Cもやらない、理系科目は基礎しかやらない。英語も英会話が主で、関係代名詞を理解している生徒がどれほどいるかといった具合の、有り体に言えば底辺高校だったわけです。

なんの因果か私は公立大学への推薦が許されたので、高校3年生も半ばになってようやく受験勉強というものを始め、生まれて初めて微分積分や仮定法とかいった知識を得るに至りました。

うちの親は酷く頭が悪かったので、「高学歴になったら犯罪を犯す」などのたまい、その言説からも教養の無さが伺えるのですが、無教養者の常として論理的な思考や一貫性を保った行動を取れないというのがありまして、先の言説が嘘だったかのような話ですが、もう秋も更けて鮮やかなイチョウが落ち葉に変わろうかという時期に、これまた生まれて初めて塾というものに通うことになりました。

最寄駅から3駅の位置にあった塾の名は「鷗州塾」といい、地元ではそれなりに知力のある学徒が通うことで知られており、小学生の頃通わされた「公文」でしか家庭外学習を知らない私は、自分のペースで学力をつけていけばいいとたかを括っていたのですが、集団塾の授業というのはふるいのようなもので、講師陣は網目を徐々に徐々に大きくしていくのに対して塾生はそれにふるい落とされまいと徐々に徐々にその図体をデカくしていき、よしようやっとお前は人前に立てるだけのデカさに育ったと認められてはじめて大学に出荷されるといった形にできあがっていました。

これは教室に入るまで知らなかったことですが塾には中学生の頃の知り合いが一人おりました。彼はこの塾において、よく言えばムードメーカー、悪く申せば道化のような立ち位置でして、講師に当てられた時は決まってふざけた回答をして場を湧かせ、模試の際には最下位に位置するのが相場でした。

ところで道化が道化足りうるには、自虐に依って注目を得ることが不可欠であり、塾における自虐とは学力の低さに相違ないのですが、殊も不幸に、道化にも劣る、犬畜生程の学力しか有していないにも関わらず入塾をしたもはや憐れと言う他ない男がおりまして、それが私でした。

前記したように、道化とは、自虐に依って道化と相成っています。それは、自虐するに至ったこれまでの時間が、即ち過去から今における全てが彼を道化たらしめていたのですが、そこに道化にも劣る、もはやなんと呼べばいいのかもわからぬ、“劣った人”である私が現れたものですから、はてさて、道化として生きた彼のこれまではなんだったのかと、彼の立ち位置はなんなのかと、不快と言って差し支えない空気が教室を満たし出し、私に向けられた視線は可笑しいだの侮辱だのそんなものではなくただただ「憐れみ」、その一つに凝縮されていました。

初回はそれでもなんとかついていこうともがいていました。しかし、例えば微分積分の授業をやるぞと言った時、周囲の生徒が学校で配布されたであろう数学Ⅲの教科書や参考書を取り出す中、唯一私だけが「計算技術検定」という、平たく言ってしまえば電卓で複雑な計算を行えることの証左とする資格の、そのテキストを取り出して黒板に向かうのです。なぜこんなことをするのかと、周囲の生徒や、講師までもが不可解な顔をしておりましたが、私が持つ、唯一の微分積分が載った本というのが、この「計算技術検定」のテキスト以外になかったからという、酷くシンプルな返答を寄越すと、「可哀想、可哀想」と、溢れんばかりの憐れみの空気が場を支配し、無論、斯様なテキストで問題が1つでも解けるはずがなく、これはどうしたもんかと講師も頭を抱える始末でした。

さて、初回の来校を1人で済ませることに特段の違和感はないにしろそれが2回と続くと流石に事であると誰もが感じます。中学生時代の知り合いがいるからといって、それが学友を作ることに微塵も貢献せず、それどころか塾には3年も後期ということもあって既に堅固に築かれたコミュニティが存在しており、ただでさえ異分子と化している私を迎え入れようとする者などいるはずもなく、2日目の来校にて既に私はぼっちの名をほしいままにしていました。

ぼっちで、学力も最低、授業は何を喋っているのかがまるでわからない状況に陥った私はいよいよ耐えきれなくなり、わずか2日の来校を以って以後3日間の無断欠席を決行。3日目の来校の際には講師から「ズル休みしちゃダメじゃないか」と叱責を喰らい、ズルズルとわけもわからない授業を聞かされ、誰とも会話することもないまま帰宅を果たす。

そして推薦入試の合否がわかるまでの間、私は毎日塾に「休みます」と電話を入れ、そしてあたかも親には通っていますといった態度を取り続け、4日目、推薦入試で合格したためこれ以上は通いませんとだけ言って、胸を満たす晴れやかとともに退塾した。

憐れみを受け続けた4日間、最も辛いことは非難されることでも、馬鹿にされることでもなく、可哀想可哀想と憐れみを受けることだと学んだ。






しかし、まともに塾にも通えない人間が華麗な大学デビューを果たせるはずもないのでした。

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