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人を家に呼ぶのが、大嫌い。

※10分間で書く、下書き・推敲なしのぶっつけ本番エッセイ。毎日更新44日目※

少し前に「ミニマリスト」という生き方がもてはやされ、現在は空前のコンマリブーム。物を捨てましょう。片付けましょう。きれいな家で生活しましょう。物が溢れる時代のアンチテーゼのように、「捨てる」ことで幸せを手にいれる、という主張がどんどん広まっている。

でもわたしは、そういう主張にまったく興味がない。というのも、少し散らかった部屋のほうが、好きだからだ。

「散らかった」というと、語弊があるかもしれない。物が散乱して、埃っぽい部屋が好きなわけじゃないんだ。ただ、無造作で、好きなものが手に届く範囲に置いてあって、自分の生活が色濃く反映されている空間が好きなだけ。

物を捨てて片付けてしまえば、そこからは「自分の生活感」がなくなってしまう。ただ、きれいなモデルルーム。そんな家じゃ、落ち着かない。もっと「無造作」であってほしい。ぬいぐるみはソファの端っこでぐったりしていて、洗濯物はちょっとのあいだ干しっぱなしで、飲みかけのペットボトルが1本机の上に置いてあるような、そんな空間のほうが落ち着く。

だからわたしは、家に人を呼ぶのが大嫌いだ。せっかく「自分の空間」をつくったのに、それが壊されてしまうから。

人を呼ぶならやっぱり、ある程度は片付ける。すぐに使えるようにテーブルに置きっぱなしのメモ帳は棚の中にしまい、ぬいぐるみはきちんと並べる。さっきまで「わたしの城」だった家が、よそ行きの顔をしてしまうのだ。それがなんだか素っ気なくて、片付いた家は落ち着かない。

そして実際に人が来ると、飲み物を出してもてなしたり、椅子を用意したりする。ふだん、自分の生活のなかでは起こらないアクションだ。だから、「自分の空間」が乱される。それがすごく嫌。

ふだんより多く使われたコップがテーブルの上に残っている。わたしの家なのに。わたしの空間なのに。なんで「他人」の痕跡が残っているの。ここはわたしの場所だよ。「他人」の空気を、少しでも感じたくないの。

だから、家を人に呼ぶのが嫌い。

でも、当然ながら、家族が来るのは全然OK。家族がつくりだす空気がわたしの家に漂っているのは、わたしにとってふつうのことだから。

あと、すっごく仲がいい人も大丈夫。その人とたくさんの時間を過ごしていたのなら、その人の空気がわたしを嫌な気持ちにすることはない。

基本的に家に人は呼びたくない。そして、片付け方法なんて糞食らえ。ここはわたしの家なんだから、自分の生活感丸出しのちょっと散らかったくらいのほうが、ちょうどいい。

片付け、断捨離なんて言葉が流行ってるから、だれかが「最適な散らかし方」なんて方法を提唱しないかな。アンチテーゼとして。めっちゃ支持するぞ。

じゃあ、またあしたね。

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