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奇禍に飛び込む 御徒町編 6(中編小説)



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宝石は古くて、もう少し表面はかすんでいます。
いかにも昭和にありそうな、無骨な作りのプラチナの台座にはまっていました。
 
色の変化に魅せられ、何度もそっとはめてみました。
光にかざすと炎のような赤い光がぱっと舞い立ちます。
 
「これ、わたしがもらっていい?」
「ああ、大きくなったらね」
 
私はダイヤやエメラルドよりも、これひとつだけに魅せられていました。
 
ある日わたしが母の所に訪れると、いつもより少しだけぼんやりしている様子でした。
袋から指輪が出て、机の上に散らばっています。
思わずオパールの指輪を手に取ると、
 
「それ、あげるよ」
 
母は言いました。
 
「本当?だったらもらって帰る。ありがとう」
 
気まぐれだったのかもしれません。
母にどこまで自分の意志があり、どこまでないのか、もうわかりません。
家に帰り、しげしげ眺めてみました。
昔見ていた時よりも曇りが増して、斜めに亀裂が入っていました。
 
娘が目ざとく見つけて遊び始めました。
ぶかぶかの指にはめてみたり、太陽の光にかざしています。
魅せられたように見入る目、それはかつてのわたしでした。

「だめよ」

娘は、宝石類の入っている棚の上に名残惜しげに置きました。
 
その日は母が週に一度、うちに食事をしに来る日でした。
食器を洗いながら、目の前のカウンターに座っている母を見ました。
その指にもう、メキシコオパールの指輪ははまっていたのです。
 
ああ。
 
私はがっかりました。
 
母は、私にくれると言ったことも忘れ、私が持って帰ったことも忘れ、まるで来た時からそれをはめていたかのように、いつものように、これまでのように、その指輪をはめていました。
その指輪は母にぴったりとなじんでいました。
ずっと長年見慣れたその姿を見てしまえば、その指から抜いて!返して!ということはできません。

やっぱりあれは母のものなんだ。
わたしは自分に言い聞かせました。母のなんだから仕方ない。
 
その指輪を見たのはそれが最後でした。

母が入院をして新しい施設へ引っ越しをした時、この小さな袋は消えていました。
施設には話していません。
あれほど「貴重品は引き取っておいてくださいね」と言われたにも関わらず、母の元に残しておいたのは私。
 
母は、施設で大変な事故を起こしました。窓から飛び降りたのです。

高い窓なのに、わざわざ椅子を運んでいました。
植木も花もみんなめちゃくちゃになり、土には重いものが落ちた丸い痕がついていました。
あれが母のからだ、母の命がつけた痕跡。
扱いにくいと言われていた母がこれまでどれだけ邪魔者扱いされていたか、どれだけ施設の負担になっていたか知っています。

指輪の袋は、母が気まぐれに誰かにあげたのかもしれない。
何かに紛れて捨てたのかもわからない。誰にもわからない。証明もできません。
貴重品を母に持たせたままにしていたわたしの責任だったのです。
 
他はなくなってもかまわない。
母の命があってくれれば、それでいい。
そう何度も思っていたのに…。

あの指輪だけは…と今でも思います。

あの日どうして娘は見つけたのだろう。
どうして、きちんとしまっておかなかったのだろう。
そして棚の中でもよほど目を凝らさなければ見つからないような場所のはずなのに、どうして母は見てしまったのだろう。

 目を閉じれば思い浮かびます。
今どこにあるのだろう。
誰かの指にはまっているのだろうか。
小さく砕かれ、再利用されている?
それとも、もうどこかに捨てられてしまっているのだろうか。

薄曇りのオパール、亀裂もありました。ダイヤに比べればまったく価値はないでしょう。
輝きを失い、役目を終えてしまった廃品にすぎない。それでもわたしにとっては何より大切なものだった。

私にとってその指輪は、子供時代も、人手に渡ってしまった実家も、今は亡い父も、遠方に離れてしまった兄も、若く元気であった時の母も、夫と出会ったばかりの楽しかった日々も、すべてが詰まった過去の思い出そのものだったのです。


 
(id:××---××)10日前



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