Twitter

 別に意外でもなんでもないだろうが、ツイッターを始めてからもう一二年目になる。
 最初のアカウントを取得したのが、二〇〇七年の一一月。学生時代は意識高い系のネットオタクだったので、新しいウェブサービスにはとりあえずで登録していた。
 アカウントを作ってみたはいいが、当時はまだ日本語化もされておらず日本のユーザは極わずか、それも所謂「ギーク」が多く、IT系の技術が話題の中心だったため、文系学生の俺には高度すぎてすぐ飽きた。

 それから何年間もアカウントを放置していたが、社会人になってから会社でうつ病に罹患、休職してヒマになったのでツイッターを再開してみた。
 この頃にはユーザも増えてきていて、話題も多様化していた。俺は以前から趣味で小説を書いていたが、ツイッターには同好の士が多くいて、そこで交流したりしていた。
 復職してからは、仕事の愚痴なんかも書き連ねたりして、長めの中断などもありつつ、ダラダラと続けていた。

 ツイッター上での交流は趣味である小説に限定されていたし、当時住んでいたのは岐阜県のド田舎だったのでオフ会などにも参加できず、フォローの輪も全然広がらなかった。
 遠方の人とメールで小説の原稿を交換し合う、その程度のやり取りしかなかったか、ネットなんてまあそんなもんなんだろうと思っていた。

 そんな感じで、身の上にいろいろありつつも細々とツイッターをやっていたら、ある日タイムラインでとんでもないものを見つけてしまった。ちんかす王子である。

 当時の俺は新卒の会社で躁うつ病になり、心療内科や精神科へ通院、投薬をしながら勤続していたが、結局パワハラで挫折してしまった。その後なんとか社会復帰しようとして、得た職は最低賃金に満たない時給で長時間のアルバイトだった。
 正直、もう人生は終わりで、これから先もずっとドン底だと思っていた。舞台の幕が閉まって、エンドロールが流れているそばで立ち尽くしている、そんな心境だった。
 自分の境遇を人に語るのも恥ずかしかった。精神を病んでいることも、仕事で挫折したことも、いい歳してわけの分からない仕事をしていることも、将来になんの展望も抱けていないことも、なにもかもが惨めで、どうしようもなくて、一人で抱え込むしかなかった。

 そうやって鬱屈としていた時期に、なにかのはずみではじめて王子のツイートを見た。
 初めて見たツイートが具体的にどれだったかまでは思い出せないが、王子のタイムラインには「無内定で卒業」「ズリネタ販売店でアルバイト」「うつ病」「サインバルタ(抗うつ剤)」「サビ残(サービス残業)」「パワハラ」といった馴染みのある、それでもインパクトのある単語がびっしりと並んでいた。
 ひとつひとつのツイートが、王子自身の体験に基づくもののようだった。言葉を選ばずに言うが、ツイートを見る限り悲惨そうな境遇だった。しかし、王子のツイートにはどれもウィットやユーモア、諧謔味に溢れていて、読んでいると笑顔を釣られる、悲惨な境遇すら笑い話に変えてしまう力があった。
 目が釘付けになった。テキストにこんなに夢中になるのは、小学生のころ図書館に籠もって『怪盗紳士』シリーズを濫読したとき以来かもしれない。タイムラインを遡れるだけ遡って、読めるツイートは全部読んだ。

 いろんな思いが浮かんできた。どうしてこんなことを赤裸々にネットに書ける? どうしてこんな境遇で前向きにいられる? 笑っている場合じゃないだろう? 頭が混乱していた。しかしながら、王子のツイートを読んでいると、不思議と心が楽になってきた。
 また、ツイッター上で王子を中心にして、似たような境遇の人たちが集まってきていた。所謂「非健常者」たちである。新卒を棒に振った、非正規雇用である、会社や社会に馴染めない、友人や恋人がいない、なんらかの障害がある・あるかもしれない、転職を繰り返す、会社や仕事から飛翔(バックレ)する……。
 当時の俺は、新卒のレールからも健常者のレールからも外れ、これからどう生きていっていいのか途方に暮れていたが、ちょっとネットの向こうに目を向けてみたら、本当に多種多様な生き方をしている人たちがいる、そういった人たちの生き方に、一縷の望みを見出だせるかもしれないと思った。

 俺も、王子のように、自分の悲惨な境遇を笑い話に変えてしまいたいと思った。そうすることで、なにかが救われるんじゃないかと思った。
 王子独特の「文法」をパクりつつ、自分のパワハラ体験やサビ残体験、うつ病体験を、一四〇字以内にまとめていった。初めてツイートするときは、かなり抵抗があった。人に話すようなことじゃないんじゃないか、こんな話で笑えないだろう、引かれたらどうしよう、惨めだから嘲笑されるに違いない、そんなことが頭をよぎった。
 勇気を出してツイートする。すると、気持ちの中でわだかまっていたものが、少しだけ離れていったような気持ちになった。嫌な思い出を、整理して、リリースする、この一連の動作を繰り返していくうちに、だんだんと自分の過去、そして現在を冷静に、客観的に見られるようになってきた。昔からのフォロワーからはリムーブされた。

 そんなことを一人で繰り返したら、ある日王子にフックアップして頂き、そのうち王子をはじめとする「非健常者」の方々とも仲良くなって、ツイッター上で交流できるようになってきた。
 そして二〇一五年八月、岐阜県某所で、旅行へ来ていた王子と初めて対面を果たした。この頃から、上京の志向が出てくるようになる。

 二〇一五年の冬に二泊三日で東京へ旅行して、そのときにも王子はじめ「非健常者」の方々と遊んでもらった。
 みんな各々問題を抱えていたり苦しんだりしながらも、各々しっかり生きている。いろいろな生き方、働き方、稼ぎ方があって、いろいろなキャリアデザインがあることも分かった。
 俺も岐阜県では生きていけないかもしれないが、もしかしたら東京でなら生きていけるんじゃないか。ここでいよいよ上京の決意が固くなる。
 ちなみにこの旅行中に、後から上京を後押ししてくれることになる妻とも出会っている。人生の転機となる旅行だった。

 その後、妻はじめ多くの人の助けを得て上京し、今に至るまで皆さんとの交流は続いている。先日結婚式を挙げたが、ちゃんと王子はじめ「非健常者」の方々も招待した。
「結婚式にネットの友達って……」と思われるかもしれない、笑われるかもしれないが、俺にとっては全員が人生の恩人で、大切な友人である。俺を親しく支えてくれた人たちには、俺の人生の門出をちゃんと見てもらいたい。妻にもそうきちんと説明し、理解を得た。親族等には気を遣ったが……。

 王子をはじめとする「非健常者」の人たちだけではない、ツイッターを通じて、本当にたくさんの人と出会うことができた。東京に知己のいない俺にとって、ツイッターを通じてもたらされる人間関係は命綱みたいなものだった。いくら感謝してもしきれない。

 現実で友人知人を増やすの、メチャクチャ難しい。俺は人に語る趣味があるわけでもなし、会話が得意なわけでもなし、人間的に魅力的であるわけでもなし、たとえばライブとか歌会とか、その他なにかの集まりに参加しても、だいたいすみっこでひとりぼっち、酒を飲むなりして、誰とも親しくなることなく終わってしまう。
 そもそもコミュニケーションに難があるから、知らない相手とだと、共通の話題を見つけることすら難しい。会話も「今日はいい天気ですね」「そうですね」「………………」それくらいで終わってしまう、つらすぎる。
 その点、ツイッターは楽チンである。ツイッター経由で「会いましょう」となる、第一の端緒は「相手への関心」である、俺の場合はだが。関心のない相手とは会わない、多分お互いに時間の無駄になるので。少しでも関心があれば会う。多分みんなそうなんじゃないか。
 お互いに興味を持って「会いましょう」となる、タイムラインを遡れば、すぐに相手の人となりについて知ることができる。この人は酒場が好きなのか、喫茶店が好きなのか、遊郭に興味があるのか、労働問題に関心があるのか、などなど。

 俺はツイッターで本当にたくさんの人と知り合うことができた。繰り返しになるが、この点はいくら感謝してもしきれない。東京へ来る前後、また上京してから、累計すると一〇〇人以上の人と、ツイッターを介して知り合った。そして幸いなことに、そのほとんどと今でも交流が続いている。
 たとえばツイッターを介さない人間関係、合コン、ちょっとしたパーティ、異業種交流会、あるいは偶然の出会いとかだったら、こうはいかないんじゃないかと思う。俺は二〇代前半の頃、こういう社交の集まりに積極的に参加していたが、そこで出会った人で今でも交流がある人は一人もいない。まあこれは俺に問題があるのでしょうが……。

 俺が考える「ツイッターの人間関係と現実の人間関係の差異」について、一つ「ツイッターは、お互いに関心を持っている状態でスタートすること」が挙げられる、これは大きい。そもそも関心のない人をフォローすることはしないし、相手もそうだと信じている。
 二つ「ツイッターは、お互いにツイートが見られる」というのがある。会ったらヤバい奴は大抵ツイートもやばいから、ここでフィルタリングできる気はする、というか実際にしていた。
 あとは、ツイッターでフォロー/被フォローの関係になっていれば、頻繁には会わなくてもお互いの近況が知れて、関係が途絶えづらいというのもあるかもしれない。

 しかし、ツイッターの人間関係も、現実の人間関係と地続きで、結局同じことだとも思う。実際に会う前にツイートを参照できる、表層的かもしれないが人となりを把握できるという点で、ツイッターが入り口の人間関係のほうが簡単なのかもしれないが、いざ直接会ってしまえば、そこからまた現実の人間関係の作法が始まる。
 ツイッター上でのいい人が現実でもいい人である保証なんてどこにも無い。ツイートを見て「この人は!」と思った相手でも、実際会ってみたら二度目はいいですと、他人様の話ですが、そういう話もよく聞く。
 これは自慢なんだけど、俺はこのへんの目利き? みたいなものがすごくて、ツイッター経由で感じの悪い人に会ったことがほとんど無い。友人には本当に恵まれている。みなさん本当にありがとうございます。

 ツイッターはテキストを中心にしたSNSだから、今日もみなさん好き好きに呟いていらっしゃるものと思う。
 たまにツイッターを「どんな発言も許される場」だと言う人がいるが、個人的には違うと思う。ツイッターの中にも小さな社会じみたものがあり、アカウントひとつひとつの向こうには、ひとりひとりの人間がいる。Aという話題を好む人もいれば、嫌う人もいる。夢の無い話かもしれないが、結局現実と大して変わらない。
 あと、「凍結」というシステムもあって、なんでもかんでも言いたい放題していると、ツイッター村からパージされる仕組みもある。俺も以前は口さがないことを散々に書き散らしたり、汚い写真を臆面もなくアップロードしていたりしていたものだが、おかげさまで累計三回凍結されて、ようやくそのことに気づいた、バカなので。

 自分の発言に対して、閲覧者からリアクション、好悪の反応が返ってくるのも現実と同じだ。ちゃんとした発言をすれば、好意的な反応が帰ってくる。雑な発言をすれば、雑なリアクションが返ってくる。
 ツイートが積み重なってアカウントの人格的要素を作るのも同じだと思う。嫌中嫌韓的発言を繰り返していれば「ネトウヨ」にカテゴライズされるし、美容や整形の話題を繰り返していれば「美容整形アカ」の括りに入れられるし、ちょっとひねったツイートをしていれば「ネタアカ」として認知される。そして一回築かれたキャラクターを変えるのが難しいのも、現実と同じ。
 自分の発言に責任を持てという話ではない。ツイートの内容に責任を持つの、俺は嫌だ。ただ、自分が呟いた内容は、すべて現実と、ネット上の自分に返ってくるということが言いたい。これも現実と同じ。

 ネットの人格・発言と現実の自分を切り分けること、なかなか難しい気がする。たとえば、俺のどうでもいいツイートに対して無理解なリプライがついていたりすると、ネットのこととは言え多少イラつく。
 同様に、ネットのトレンドに乗ってなにかのネタを繰り返していたり、いいねやリツイートに踊らされて軽率なネタを繰り返していると、現実の思考までそちらへ引っ張られてしまう気もする。

 ガンジーだかマザーテレサだかサッチャーだか、誰の言葉かは分からないらしいが、こういう有名な格言がある。

Watch your thoughts, for they become words.
(思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから)
Watch your words, for they become actions.
(言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから)
Watch your actions, for they become habits.
(行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから)
Watch your habits, for they become character.
(習慣に気をつけなさい、それはいつか人格になるから)
Watch your character, for it becomes your destiny.
(人格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから)

 具体的に誰とは言わないけど、ラジカルなツイッタラー諸氏は、ご自分の思考や言葉、それに寄せられる安い賞賛にどっぷり浸かって、自家中毒に陥っているようにも見える。ああいうのを見ていると、かっての自分の姿を反省し、そしてSNSの利用はくれぐれも気をつけようという気持ちになる。

 ツイッターには感謝している、これからも有益に利用していきたいし、ツイッターを介して得難い友人たちと出会うことができた、それは紛れもない事実なのだけど、所詮ネットはネットなのだよな。
 今俺のツイッターのフォロワーは二八〇〇人前後で、もう地元の村の人口より多い。最近になってやっと、見ている人を不快にさせないツイートを心がけようという気になってきた。
 二八〇〇の人が俺のことに関心を持ってくれているように、俺も二八〇〇の人に関心を持ちたい。俺のことをフォローしている人の中には、かつての俺と同様に生活がままならない、人生がままならない人も多くいるだろうから、そういう人の力になりたい、できれば一緒に救われたい。
 でもムリなんだよな。俺は一人の人間として人並み以下だし、すべての人をよく見て、すべての人に善い働きかけをすることなんてできない。そんな烏滸がましいことを考えるべきではない。だいたいまだ俺自身の生活がままならない、正直今は自分のことで精一杯で、ネットの向こうの知らない他人のことにかまけている余裕なんてない。
 俺がやることはと言えば、「みんなおはよう!」とか「○○を食べた」とか「飲(や)ってます」とか、一応今日もちゃんと生活しているよと、そういうことをツイッターに書く、あとはたまにノートで毒にも薬にもならない記事を書く、それくらいでしかない。

 や、別に俺のツイートやノートが人を勇気づけているとか、そんな烏滸がましいことは思わないけど。ただ時々「励まされました」「共感しました」みたいなメッセージを頂くこともあって、そのたびになんか「さみしいなあ」と思ってしまう。せっかく二八〇〇人もの人とつながっているのに、なんだかとても切ない。
 本当はこちらからももっと声を掛けていたい。その人のためになにかできることをしたい。でもそれは不可能だし、二八〇〇人分の人生、二八〇〇人分の生き苦しさみたいなものをぶつけられても多分どうしようもない。
 だから諦念を込めて「所詮はネット」と言う。「ネットの向こうにも人間がいる」それを考え出すとキリがないし耐えられなくなってしまうから、「俺はネットの向こうに人間がいるなんて思ったことない」と言う。俺のフォロワーさんにおかれましては、「あんな奴でも毎日生きてるんだから、自分はもっとできるはず」くらいに思って、各位勝手に生きていってほしい。

 最近は、以前ほど真剣にツイッターをやっていない。ブラウザを開く回数も、以前と比べて少なくなった。ツイッターには相変わらず親しみを感じているし、やめることはないのだろうけど、なんとなくツイッターがもたらす弊害が目につくようになってきて、あまり没頭することもなくなった。
 さっき「ツイッターと現実は地続きだ」と言ったけど、あれは人間関係においての話で、自意識については乖離していると思う。たとえば現実では無名な学者やライターでも、ネットでは有名人というケースは多々あるし、そういう人に限って態度が横柄で声もデカいというイメージがある、あくまでイメージだが。
 俺は昔から文章を書くのが得意、というか他に取り柄がないと思っているので、なんとか文章を書いて金を稼げたらいいなと思っている。ライターになりたい……ノートに投げ銭をつけているのもそういうことなので、みんなもっと投げ銭をしてほしいのだが……無理にとは言わんが……。
 ライターになりたい、そのためにはネットの有名人になるのが手っ取り早い気はしている。事実そういうキャリアパスを幾度となく見てきた。が、俺は「ネットの有名人」にはなりたくない。あんまり書くとヘイトスピーチになってしまうので控えるが、コマーシャルやアジテーションではない、自分が書くべきものを書いて、届けるべき人へきちんと届けられるような仕事がしたい。それがツイッターやネットで本当にできるのか、最近ずっと考えている。

 ネットが普及したと言えども、現実とネットの垣根が無くなったわけではまったくないと思う。たとえばユーチューバーのトップ・ヒカキンですら、地上波に呼ばれる時は「インターネット芸人枠」に収まってしまう。最近だとドミューン騒動とかもあったけど、現実とネットの間にはいまだに深い谷がある。
 ツイッターも閉じた世界だ。ツイッターで話題になっていることを職場とかで話してみても、だいたい恥をかいて終わる。ツイッターでいくら有名になっても、変に自意識を拗らせて「そういう人」になって終わりなんじゃないか。そうはなりたくない、いや、もうなってるかもしれないけど……。そんな思いがあって、最近いまひとつツイッターに熱が入らない。まあこんなことはフォロワー数二八〇〇人程度の分際で心配する話じゃないな。

 ツイッターはコミュニケーションツールとしてはすごく有用だと思う。ツイッターで会ってみたい人、話してみたい人、まだまだたくさんいる。今はまだ生活が落ち着いていないから無理だけど、時期が来たらまたいろんな人と会ってみたいと思う。
 有益な出会いにしたい。王子との出会いのように、俺の人生に、そして相手の人生にもプラスになるような、そんな出会いにしたい。
 ツイッターの素晴らしいところ、その気になれば地理的制約をすっ飛ばして人間関係を築くことができるところだと思う。実際、岐阜県にいた頃に北海道のフォロワーさんと友達になって、いまでも付き合いが続いている。地理的制約だけじゃない、年齢も、性別も、社会的階層も関係ない、興味が湧いて気分さえ乗れば、どんな人とも会うことができる可能性がある。

 同時に、これからもツイッターで何者かになったように錯覚しないよう気をつけたい。ツイッターで友人が多かろうと、フォロワー数が多少多かろうと、俺は単なる三〇歳無職精神障害者だということを忘れないようにしたい。
 最近ただでさえ生活がままならないのに、その上自意識を拗らせて人生が破綻しました、なんてことになったら笑い話にもならない。いいねやリツイートでは飯は食えない、地に足をつけて生活していくぞ。

 末筆ではございますが、ツイッターを介して出会うことができた友人、そしてフォロワーさん各位におかれましては、平成年間は大変お世話になりました。令和年間も、「あまなつ通り商店会」を何卒よろしくお願い申し上げます。

 あと、これだけ書いておいてなんだが、ツイッターに限らずネットを介して人と会うことの危険性だけは大声で唱えておく。幸い俺は危険な目に遭ったことはないが、ネット経由の出会いでなんらかの被害に遭ったケースは枚挙にいとまがない。
 特に未成年や若い女性。大変残念なことだが、自分より弱い者を餌食にする卑怯者は、現実と同じくネットにも存在する。いい人ばかりがいるわけではない。
「ネットの人」と会う場合には、くれぐれも慎重になって、「絶対に二人きりにならない」「金銭の授受をしない」などのルールを常に忘れず遵守していってほしい。

(おわり)

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