ドラコニス - 3

第3話 「騎士団」

ナキには、小さい頃の記憶がなかった。
気がついた頃には、ボロを着せられ、奴隷の子供達が詰まった馬車に押し込まれていた。
時たま各地で起こる紛争による孤児達を奴隷商人が集め、売るのだ。
そのような事情は後から知ったことで、ナキは自分が何故馬車にいるのか、そしてこれからどうされるのか。その時にはさっぱり分からなかった。
だいぶ長いこと運搬され、しこたま鞭で殴られた後市場に連れて行かれた。
そこでシルフの家族に買われてから、時間が建って今になる。
考えても、自分がどこに住んでいたのかなどを、彼女は知らなかった。
忘れてしまっていたのだ。
思い出そうとすると、頭の奥の部分がちくりと痛んだ。
うっすらとだけでも思い返すことができれば、また違う希望を持てたのかもしれない。
しかし彼女を買ったシルフの家族は、小さい女の子にはあまりに酷な現実を刷り込んだのだった。
お前の両親は奴隷で、売られたんだと、何回も繰り返し言われた。
奴隷と奴隷が子供を作ってしまった場合、その子供に人権はない。
市場で売買される小さい子供は、大概そのクチだという話だった。
小さい頃は、辛くて、きつい仕打ちに耐え切れずよく泣いていた。
泣けば、お父さんやお母さんがきっと来て、自分を連れて行ってくれると、そう思っていたのだった。
しかし現実は、そんなに甘くはなかった。
泣いていたら蹴られ、ものを投げつけられ、痛みで動けなくても仕事をすることを強要された。
シルフの家にいる彼女は、家族でもなんでもなく、雑用をするだけの存在だったのだ。
同じ心を持っているとは、誰一人として認めてくれなかった。
そんな環境にいて、いつしか彼女は、顔も分からない父と母のことを想像することをやめていた。
どんなに助けを求めても、お父さんもお母さんも助けてくれない。
おじさんやおばさんの言うとおりに、自分は奴隷の子で、売られたんだという事実が、時を経るにつれて心に、実感として重くのしかかっていた。
捨てられたというのならば、まだ救いがあった。
でも、商品として売られたということを繰り返し刷り込まれ、少女はそれを受け止めきれるほど強くはなかった。
だから、想像にすがることも止めたのだった。
そんな中でも、疲れて体が動かなくなって、泥のように眠った時、両親の夢を見ることがあった。
顔は分からない。どんな姿をしているのかも分からない。
しかし、夢の中のナキは、いつも目の前でシルフの娘がやっているように、こんがりと焼いたトーストに、たっぷりのクリームをつけて頬張っているのだった。
時折、新しい服をプレゼントされて、喜んではしゃぎまわっているところを、おばさんに叩き起こされ、何故か自然に涙が出たことがあった。
夢の中でくらい、両親の顔を想像しようとしたこともあった。
ぼんやりと輪郭は思い浮かぶのだが、両親と暮らしたことのないナキには、それらを思い描くための経験が少なすぎた。
だから、か細い願望を夢に見るようになっていたのだった。
そういう夢を見た後、目が覚めると決まって哀しい気持ちになる。
だが、そんな気持ちでも仕事はしなければいけない。少しでも休もうとすると、暴力と罵声が飛んでくるのだ。
ナキには、その言われなき事柄に抵抗できるだけの力も、心もなかった。
ナキは、ぼんやりと両親の夢を見ていた。
眠っている自分の傍に、にこやかに寄り添ってくれている二人の姿を想像した。
温かいベッドと、柔らかいシーツにくるまれて、どこも痛いところなんてない。
苦しいところもない。母が手を伸ばし、頭を撫でてくれた。
そこが温かくなり、ナキは薄目を開けて微笑む。
父も自分のことを見下ろしてくれている。
顔も分からないが、夢の中で想像すれば、会うことができた。
目が覚めればそれだけ哀しい気持ちになるが、ドロドロに疲れた体は、その幻想に逃避することを求めていた。
本能的に頭のどこかが、それを察していたのだった。
母と父が手を握ってくれる。
ナキは嬉しくなって、その手を握り返そうとした。
それがふっ、と感触がなくなり、不意に目の前が段々暗くなっていった。
父と母の姿が薄れていく。
慌てて目を開けると、そこは暖かいベッドの上ではなく、いつも転がっている、寒くて薄暗い屋根裏部屋だった。
体が、石になったように重かった。
伸ばしていた手がゆらゆらと空中を掻く。
そこでナキは、鋭い痛みを手に感じ、悲鳴を上げて引っ込めた。
目の前には、鞭を持ったバーノンおばさんが、仁王立ちになって立っていた。
おばさんは何事かをわめきながら、所構わずナキの体を鞭で殴りつけていった。
わけもわからず、頭を覆って小さくなり、必死に耐える。
お父さん、お母さん。
体を走る痛みから逃れるように、ナキは心の中で無意識のうちに両親のことを呼んでいた。
怖いよ。痛いよ……苦しいよ。
どうして助けてくれないの?
どうして一人にしたの?
鞭を振り下ろすバーノンおばさんが、ひきつった甲高い笑い声を上げる。
不意に目に涙が盛り上がった。
痛いし、苦しい。
そして何より、寂しかった。
呼びかけても、呼びかけても父も母も現れてはくれなかった。
先ほどまで近くにいてくれたのに、おばさんが現れた途端、まるで逃げるようにいなくなってしまった。
奴隷だっていうのは、本当のことなの?
だから私を売ったの?
心の中の、自分ではない何かがブツブツと呟く。
それから目をそむけるように、ナキは涙を流しながら、耳を塞いだ。
その時、おばさんの鞭がこめかみに打ち当たり、ナキは意識が薄れるのを感じた。
目の前がぐるぐると回り、意識が落ち込んでいくような感覚が体を包む。
手を伸ばして床を掴もうとしたが、その手はすり抜けるように、するりと空を切った。
そのまま転がるように、どこかくらい場所へと落ち込んでいく。
最期にナキは、おばさんが喚く声を聞いたような気がした。

ナキは、慌てて頭を庇いながら、小さく悲鳴を上げた。
またおばさんの鞭が飛んでくると思ったのだ。

「ごめんなさい! ごめんなさい!」

何度も繰り返し謝りながら、必死に目を瞑る。
そして体を丸めてへ立ち上がろうとした彼女の肩に、そこでずっしりとした手が置かれた。
思わずビクッとして体を硬直させる。

「……ぶたないでください……お薬のことは謝ります……また作りますから……鞭は、鞭はいや……」

心のしこりとなって残っていた、薬を盗んだということが自然と口をついて謝罪として出てくる。
震えている彼女に、しかし肩に手を置いた人は、一拍置いてから静かに言葉を投げかけた。

「俺はお前を殴らない。誰にもお前を殴らせはしない。何を謝っている」

怪訝そうな言葉に、ひとつ引きつったしゃっくりを上げ、ナキはゆっくりと目を開いた。
いつまで経っても、体を裂くような鞭の衝撃はなかった。
そこで始めて、自分が夢と現実の区別がついていなかったことに気がつく。
疲れてくぼんだ目に、脇の椅子に大きく足を広げて座っている、赤い髪をした青年の姿が映った。
まるでコウモリの翼のように光沢がある、体にまとわりついた形のコートを着ている、大きな人だった。
襟元には白いふわふわした毛皮がついていて、首を覆っている。
髪は腰の辺りで一つにまとめられていた。
額に、青い爪のような形の刺青が見える。
足にはぴっちりとしたズボンと、長いブーツを履いていた。
彼はナキの肩から手を離すと、もう片方の手と同様にポケットに突っ込んだ。
姿勢が悪く、端正で整った顔かたちをしているのに、しかめっ面で顎を突き出すような座り方をしている。
目つきは鋭く、まるで鷹のようだ。
瞳孔が細くて、まるで猫のようだ。
そこでナキは、彼の口元……右目の下に、抉ったような切り傷があるのを目にした。
数秒間彼と見つめ合い、彼女はそこで、自分が冷たい屋根裏の床ではなく、温かく柔らかいベッドの上にいることに気がついた。
ここは、おじさんとおばさんの家……いつも掃除している、リフの部屋だった。
体には何枚も毛布がかけられている。指のしもやけや、肩には包帯がきつく巻きつけてあった。
数秒間ポカンとしてから、彼女は右目の下に傷がある青年に目をやった。

「あれ……私……」

まだ震えていて、上手く声が出ない。
恐ろしい夢だった。
両親の姿が消えて、バーノンおばさんに鞭で殴られるなんて最悪だ。
夢の中でさえ逃げることはできないらしい。
言葉を発しない少女をしばらく見つめ、彼は右目下の傷を手で擦った。
そして口を開く。

「お前には俺の血を与えた。病気はもうじき完治する。ドラゴンの血に治せないものはない」
「ドラゴン……?」

そう問いかけてから、ナキはきょとんとして言った。

「ドラゴンの血……?」
「どこまでも抜けている娘だ。俺の顔に見覚えはないのか。図が高いぞ」

尊大に言われて、首をひねる。
しばらくして彼女は、夜、森に入ったことを思い出した。
うなり声に弾き飛ばされて、痛くて訳が分からなくて、意識が薄れて消えてしまったのだった。

「あなたは……?」

何か、大きな手に抱え上げられた気がする。
この、リフのベッドに横になっているということが夢や妄想でなければ、誰かが運んでくれたということだ。
彼はしばらくの間、戸惑った顔でナキを見下ろしていた。
そして息をつき、ポケットから手を出す。
空になった、薬の小瓶が握られていた。
それをベッド脇のテーブルに置き、彼は言った。

「俺はラッシュだ。お前が火種をくれたドラゴンだ」

言われて、意味が分からずしばらく停止する。
そして彼女は、ラッシュと名乗った青年の頭からつま先までをゆっくりと見回した。
湖で会ったドラゴンも、自分のことをラッシュと言っていた。
しかし、物凄く大きくて、少なくとも人の形をしてはいなかったはずだ。
それくらい憶えている。
怪訝そうな顔で見返され、ラッシュは困ったように頭を掻いてから続けた。

「……ドラゴンは、変身の魔法で、体を変質させて人間の姿になることができる。服は俺の鱗を変化させて作った。お前が昨日、湖で見たモノは、俺だ」
「ラッシュ……さん?」

問いかけて、そこで始めてナキは息を呑んだ。そして口元に手を当てる。

「ドラゴンの、王族様?」
「先ほどからそう言っている。お前は愚図だな、奴隷女」

冷たくそう言い、ラッシュは椅子から立ち上がった。

「本来、王族である俺が、愚民であるお前のような屑と話をすることさえ、あってはならないことだ。ましてや、この俺が、奴隷に血を分け与えるなど……」

忌々しげにそう言ってから、彼はため息をついて額を押さえた。そして軽く首を振る。

「衝動的にとはいえ、それで助けた女がこれとはな……失敗した」
「ラッシュさんが、私を助けてくれたんですか?」

そう、おどおどと問いかけてみると、その言葉を待っていたらしく、ラッシュは偉そうに胸を張って頷いてみせた。

「感謝をしろ。お前など見捨てても良かったのだが、火種をもらった恩がある。ここまで運び、俺の血を授与した」
「ここまで運んでくれたんですか?」
「だから感謝をしろと言っている。何故俺の言葉を繰り返す。馬鹿なのかお前は?」

かなり短気な性格らしく、彼は噛み付くようにそう言った。
せかされた形で、息を呑んでから、ナキはもぞもぞとベッドの上に正座をした。
そして頭を下げる。

「王族様が、わざわざ……私みたいなのに……」
「まったくだ。あのまま朽ちゆいてもいいと思っていたものを、貴様のせいで生きながらえてしまった。余計なことを……」

吐き捨て、彼は燃えるような金色の瞳でナキを見下ろした。
睨みつけられていると感じ、ナキは慌てて目をそらし、体を縮こまらせた。
別に怖がらせるつもりはなかったらしく、ラッシュは少し戸惑った目をしてから口をつぐんだ。
そこで、控えめにドアが叩かれ、ラッシュが

「入れ」

と言と、ゆっくりと扉を押しながら、着飾って髪をきれいに結ったバーノンおばさんが、湯気の立つスープを入れた陶磁器を盆に乗せ、それを持ったまま膝立ちで入ってきた。
向こう側の廊下には、モダンおじさんとリフが床に正座をして深々と頭を下げている。
おじさんの禿げ頭が、窓から差し込む朝日に光っている。
その光景に唖然として目を丸くしたナキの前で、おばさんは、いつも聞くようなガミガミ声ではない、艶のある声を発した。

「アルノー様……ご命令の通りにお持ちしました……」

わずかに声が震えている。
ラッシュはそれに答えずに、顎でナキを指した。
おばさんがしずしずと進んできて、無言でナキにスープの入ったカップを差し出す。
頭は下げたままだ。
しばらくの間、ナキはそれが自分に向かって差し出されているということが分からなかった。
ポカンとしたまま、自分にかしづいているおばさんを見下ろす。
そのまま数十秒が過ぎ、ついに業を煮やしたラッシュが苛立った声を発した。

「貴様のものだ」

それでもなお理解できずに、ナキは目の前で湯気を立てているスープを、ポカンと見つめた。
いつも怒鳴って、鞭を振り回してコップを投げつけてくるおばさんが、他ならぬ自分なんかにスープを出してくれるはずがない、と心のどこかが危険信号を発していたのだ。
夢か、もしくは頭がおかしくなって幻想を見てしまっているのか。
それほど、シルフの村では奴隷に対する扱いが過酷だった。
六年間の虐待は、ナキの心に、スープを受け取るということさえもためらわせていた。
ラッシュは硬直しているナキに対し、忌々しげに舌打ちをすると

「もういい下がれ。役立たずめ」

と言い、バーノンおばさんからカップをむしりとった。
そして、体に触ることさえごめんこうむると言った軽蔑した目で、彼女を見る。
睨まれたおばさんは、身も心も震え上がったらしかった。
太った体が引きつり、転がるように出口に走っていく。
リフが顔を上げて、どこか紅潮した頬を彼に向けていたが、母が殆ど蹴り飛ばされるように出てくるのを見て、慌てて床に頭をこすり付けた。
ラッシュは湯気の立っているスープを、停止しているナキの手に押しつけた。
彼自身、スープをどう扱っていいものか分からないらしく、中身が乱暴にこぼれて毛布にかかる。
半分ほどになったスープを見下ろし、ナキは伺うようにラッシュを見た。
そして頭を下げて平伏しているおじさんたちに目をやる。
そこで彼女は、朝日に照らされた窓の外に、沢山の人が集まっているのを見た。
全員、背中を丸めて膝をついていたため気づかなかったのだ。
今のおじさんたちのように、雪の中に平伏している。
この家の周りに、蟻の行列のように群がっていた。
こんな朝早くに、村中の人が出てきたような感じだ。
ナキは、しばらくの間沈黙していたが、やがて、睨みつけるように眉をひそめてこちらを見ているラッシュと目を合わせた。
その金色の目が、昨日湖に半分沈没していたドラゴンのものと重なる。
唾を飲み込んで、彼女はラッシュにカップを差し出した。

「どうぞ……王族様」

引きつったように、ぎこちなく笑ってみせる。
突き返された形になるラッシュは、一瞬目を白黒とさせた。
完全に予想外だったらしい。
ナキの言葉を聞いて、おじさん達があんぐりと口をあけ、顔を上げたまま硬直した。
目の玉が飛び出しそうになっている。
リフなんて、太った顔の脂肪に埋もれていた細い目が、見たこともないほどまん丸になっていた。
きっとこれは、この人のために用意されたものなんだ、そうナキは解釈したのだった。
ラッシュは金色の瞳でカップを見ていたが、そっと手を出して、指先でナキに押しやった。

「貴様にくれてやる。そんな臭い汁、口が腐るわ」

尊大に言われ、ナキは少し戸惑った後、カップを持ったまま、その温かそうなスープを随分長いこと見下ろしていた。
やがて、もう一度おじさん達を見て、顔を床に向けているのを目にしてから、ラッシュに睨みつけられているのに気がつく。
その目に催促される形で、ナキはスープに口をつけた。
昨日、自分が作っておいた山羊の乳と野菜、お肉を煮込んだものだった。
こんなに沢山飲んだことはなかったので、最初はおどおどと少し口に入れたが、温かさと肉の旨味が口の中に広がり、彼女は口の中に湧いてきた唾を抑えることができずに、もう一口飲み込んだ。
身体の芯が、温まる感じがした。ここに買われてから、初めての、怯えずに口をつけた食事だった。
大概自分が食べるときは冷めているので、体力が落ちた体に染み渡る温かさが、逆に心に異常性を感じさせた。
もう一度おじさん達を見て、こちらに目が向いていないのを確認してから、ナキはがっつくようにスープを一気に口に流し込んだ。
その拍子に喉に詰まらせてしまい、小さく咳き込む。
数分もせずに、全てを飲み込み、ナキは空になったカップをぼんやりと眺めた。
自分が作った食事が、温かいとこんなに美味しいものだとは知らなかった。
いつも冷え切っている胃と、内臓が内側からポカポカとしてくるような気がする。
そこでラッシュに、目を細めてじーっと見られていたことに気がつき、彼女は慌ててからのカップを毛布の下に隠した。
ひとまずは、やっとナキがスープを飲んだのに安心したのか、ラッシュが椅子に乱暴に腰を下ろし、肘掛に腕を乗せ、足を広げて偉そうにふんぞり返った。
そして廊下で固まっているおじさん達を、ゴミでも見るかのように一瞥し、冷たく言った。

「そこで何をしている。まだ王都からは迎えが来んのか。貴様らも大概愚図だな」

我侭全開の口調で罵られ、しかしおじさんは、言い返すでもなく、従順に、震える声で彼に返した。

「王子様、今しばらくお待ちを……使いの者が、急ぎ向かっております」
「王子様?」

きょとんとナキが口を挟む。
彼女が口を開いたことにビクッとして、おばさんが弾かれたように顔を上げ、凄まじい顔でこちらを睨みつけた。
思わず息を呑んで、毛布を掴んだまま体全体が引きつる。

「貴様は黙っていろ馬鹿が。話が進まん」

冷たくナキに吐き捨て、ラッシュは掴んでいた、椅子の肘掛けを手で引きちぎった。
かなりの太さがある高級木材だったのだが、まるでウェハースのように、簡単に砕けてしまった。
そして木片に軽く息を吹きかける。
彼の手の中で、マッチを擦ったわけでもないのに、それは炎を上げて燃え始めた。
その光景に、おじさんたちがあんぐりと口を開けている。
同様に目を丸くしているナキの前で、ラッシュは火が熱くないのか、手づかみでそれを口に運び、パンをかじるように食べ始めた。
燃え盛る火が口の中に入っていくのは、何とも異質な光景だ。
しばらくしてゲプッ、と下品にこげた臭いがするげっぷをして、彼は呟いた。

「……不味い」
「申し訳ございません……! 」

何に対して謝っているのか、自分でも分からないのだろう。
泣きそうな声でおじさんが甲高く叫ぶ。
ラッシュは苛立ったように何度か息を吐いた。
まるで何かを恐れていて、しかし必死にそれを尊大な態度で隠そうとしているかのようだった。
彼はナキが自分を見ているのに気がつき、乱暴な手つきで、毛布に手を入れ空になったカップを奪い取った。
それをおばさんの前に投げ出し、口を開く。

「食事を用意しろ。五分くれてやる」
「た……ただ今! 」

どもりながら悲鳴をあげ、おばさんがカップを拾い上げ、バタバタと台所に走っていく。
それを見ながら、ラッシュは何かを思い悩むかのように天井を見上げ、そして自分のこめかみを指で押さえた。
しばらくして、膝まづいているおじさん達を完全に無視し、彼は、まだ呆然としているナキに目をやった。
そして口を開く。

「奴隷女。貴様を帝国サバルカンダに連れて行く。こうなってしまっては仕方ない。どう足掻いても、俺が奴隷に血を与えた事実は変わらん」
「ラッシュ……様は、サバルカンダの王子様なんですか?」

そう問いかけると、彼は不愉快そうに鼻を鳴らした。
おじさん達が、ナキが全く恐れずに口を利いたことに、目を剥いて物凄い形相をしている。
ラッシュは彼らの方を一瞥し

「何だ?」

と興味がなさそうに言ってから、答えを聞かずに、視線をナキに戻した。

「殿下と呼べ。馬鹿が」
「ええと……はい。殿下……ごめんなさい……」

頭を下げる。素直な態度に気を良くしたのか、彼はまた少し置いてから口を開いた。

「汚らしいな……」
「え……」
「貴様だ。異臭もする。まぁそれは、宮殿に帰ってからおいおい整えるとしよう。いかにも、俺はサバルカンダの第一王子である。敬え、奴隷女」

どうしてそんな偉い人が、湖に沈んでいたのかはわからなかったが、ナキはとりあえず頷いておいた。
おじさん達や村の人の態度を見ると、あながち嘘でもないらしい。
汚いと言われ、ナキは、寝ている間に着替えさせられたのか、リフのぶかぶかな寝巻きを着ている、自分の体をくんくんと嗅いだ。
水で毎日体を拭くようにはしているが、確かに汗やら何やらでベトベトだ。
随分と頭も洗っていないので、もはやくしゃくしゃの様相になっていた。
急に髪を弄り始めた娘から目を離し、ラッシュはそこで、窓の外を見た。
何か小さな影が、物凄い速度でこちらに近づいてきていた。
ピュゥェッ、という甲高い鳴き声を上げ、段々とそれが大きくなってくる。
巨大な翼を広げた鳥だった。
頭に虹色のトサカをつけた、翼を広げた状態ではナキと殆ど変わらないくらいの、鷲だった。
翼をはためかせ、雪がまだちらついている空を、流れるようにこちらに向かってきている。
ラッシュは立ち上がると、無造作に窓を開いた。
勢いあまって掴み手ごと、窓枠をバキンと折り取ってしまう。
大して気にした風もなく、彼は窓をナキの膝の上に投げ捨てると、ポケットに手を入れて、鷲の到着を待った。
不思議な鷲だった。
体に鎧をつけている。
お腹は丸々と太っていて、少しベルトからはみ出ていた。
くるっと曲がったくちばしが、朝日を浴びて光っている。
二本の足に光る長い爪は、ナキなど一掻きで切り裂いてしまいそうだ。
鷲は、翼をはためかせて上空を何度か旋回すると、やがて壊れた窓枠までゆっくりと降りてきた。
そして翼の音を響かせながら、器用にそこに着地する。

「殿下! 探しましたぞ! 」

野太い声があたりに反響し、ナキはポカンとして周りを見回した。

「一体全体、どこにおらしたのですか。爺は心配で心配で、心の臓が張り裂けるかと……」
「遅いぞアーンガット」

ラッシュはその言葉を遮って、淡々とした声を発した。
鷲が、まん丸な目をさらにまん丸にし、くちばしをパクパクと開閉させる。

「殿下、それはあまりにご無体でございまする。爺の方こそ、あなた様がどこで何をされていたのかを……」

そこでやっと、ナキはその野太い声が、巨大な鷲から発せられているということに気がついた。
時折、シルフの村にも商人として、人の言葉を話す、動物の姿をした魔獣が来ることがあった。
その類なのだろう。
アーンガットと呼ばれた鎧鷲は、きょろきょろと落ち着かない様子で周りを見ながら、矢継ぎ早に畳み掛けた。

「何故妖精の村になど? 殿下が姿を消されたので、王宮はとんでもない騒ぎになっております。現在サザンノーン全域に、殿下の捜索隊が出動しておりまする」
「俺も昨日、やっとここがフェルンクロストだということを知った。どうやら転移の魔方陣で、南ではなく東に飛ばされたらしい」
「飛ばされたと? まさか……ややっ! そのお顔は一体! 」

そこでアーンガットは、ラッシュの右目下に深い傷が走っているのを目にしたらしかった。
舌を突き出して、全力で驚愕の極みであることを表現している。
ラッシュは横目でナキと、妖精の家族を見てから声を低くして言った。

「魔女にやられた。話は王宮に戻ってからだ」
「魔女に! ああ殿下……よくぞご無事で……爺が先に駆けつけてようございました。しかし、帝国の宝であるお顔に、嘆かわしや……」
「俺にそう言うのはお前くらいなものだ」

端的にそう返し、ラッシュは椅子に腰を下ろした。

「まだ奴らの目があるかもしれん。昨日の夜は賭けだったが、この薄汚い小屋に入り込んだ。ルケンの奴は、俺の死体を捜そうと躍起になっていただろう」
「殿下、滅多なことを口にしてはなりませぬ。そのお話は、王宮に戻ってからで……」

アーンガットが慌てて、強い口調でそれを遮った。
そして横目で、ポカンとしているナキに視線を留めた。

「……何でしょうか、この態度が大きな、薄汚い小娘は? 殿下の御前であるぞ! 頭を下げよ! 」
「ひっ……ごめんなさい……」

怒られて、ナキはしゃっくりのような声を上げて、慌ててベッドの上で深々と頭を下げた。

「やめろ爺。この小娘は、ここで拾った。俺の奴隷とする」

彼がそう言った途端、モダンおじさんとリフが、口をあんぐりと開けて、顔を上げた。
おじさんがたまらず、悲鳴のような声を上げる。

「奴隷……! 召し抱えられるのですか!」
「殿下、今何と……?」

アーンガットが口を開くと、おじさんの背後で、派手にお皿をぶちまける音がした。
おばさんが、料理を載せたトレイを床に落とし、まるで彫像のように停止していた。

「王子様……? こっ、この娘は、我が家の奴隷です! 」

モダンおじさんが、ひきつった声を上げた。
それを興味がなさそうに見下ろし、ラッシュは言った。

「今この時より俺の奴隷だ。文句があるのか?」

いつの間に、ラッシュにナキの所有権が移ったのか。
急な話に、ナキは唖然として、隣のドラゴンを見た。
アーンガットも、大きな目をぎょろぎょろとさせて、少し停止した後、間抜けな顔をしているナキに視線を落とす。

「我が家から、王宮に召し抱えられると仰るのですか! 」

おじさんの声は、もう完全に悲鳴だった。
ラッシュは少し考えると、淡々と首を振った。

「貴様の家からもらっていくのではない。落ちていたから拾っていくだけだ。文句があるなら申してみよ」
「も……文句など……」

震え上がって、慌ててモダンおじさんは床に頭をこすり付けた。
しかし、ここが運命の分かれ道と察したのか、声を震わせながら、彼は続けた。

「どうぞ、どうぞお持ちください。文句などありようはずもございません」
「言われるまでもない」
「つきましては、王子様! 差し出がましいことを承知の上で、申し上げるのですが……我が娘も、どうか宮殿に召し抱えていただけませんでしょうか?」

おじさんが必死に言葉を発したのだが、ラッシュも、アーンガットもそんなことは歯牙にもかけていなかったらしく、顔を見合わせた。
家の娘を無視され、よりにもよって、虐待死をさせかけていた召使いを連れて行かれるなど、プライドの高いシルフにとっては屈辱の極みなのだ。
おじさんはさらに深く頭を擦りつけ、傍らの娘を引きずって前に出す。
リフは顔を上げ、太った顔面を精一杯の笑顔にしてみせた。

「幼い頃より、貴族様のお役に立てるよう、教育をしてまいりました……必ずや、王子様のご期待に沿える器量を」
「いらん。見苦しいし目障りだ。しかもやかましいし汚らわしい。下がれ」

どこからそんな酷い言葉が出てくるのかというくらい、ラッシュは氷のように冷たくおじさんの言葉を打ち消すと、話は終わりといわんばかりに顔の前でパタパタと手を振った。
あまりに我侭で尊大な態度に、シルフ一家が、目を飛び出しそうに見開いて呆然とする。
リフなんて、口を半開きにしたまま、寝起きの熊のような顔をしていた。
彼らを無視し、ラッシュはアーンガットを見た。

「事情は後程話す。この、小汚い女に警護をつけよ。傍係として仕えさせる」
「殿下がそう仰るのでしたら、御意のままに」

納得はしていないのだろうが、アーンガットは議論は無駄だと察したらしく、深々と頭を下げた。
そして窓枠から足を離し、外に向かって飛んでいった。
ナキはそこで頭を上げ、ラッシュに向かって戸惑いがちに声を発した。

「私を、連れて行ってくれるんですか?」

聞かれ、ラッシュは不機嫌そうにそれに返した。

「仕方がないだろう。俺と共に来い」
「王族様の、宮殿に、私が入れるんですか?」

一言一言を噛み締めるように聞く。
ドラゴンの王子は、一つ深く息をついてから、始めて真正面からナキを見た。

「文句があるのか?」

金色の瞳に見つめられ、彼女は声を発することができなかった。
その深い色の奥……強気で我侭な態度の奥に、森で一人、湖に沈みかけていた時の、彼の瞳……どこか寂しそうで、心細そうな色を感じ取ったのだった。
恐れているのだろうか、ほんの少し……爪の先ほどだが、偉そうな色に支配された目の奥が、何となく揺らいでいるのが感じられた。
そう、彼はどことなく、寂しそうだったのだ。
森の中で、どうしてナキは、あの恐ろしいドラゴンを放っておけなかったのか。
その合点が、今噛み合った。
見た目や口調では分からない。
しかし、その丸まった背中というのだろうか。
オブラートに分厚く包まれた中心の部分が、ナキ自身が発していた、「寂しい」という部分にどこか触れ合ったような、そんな漠然とした気がしたのだ。
目の前で自信満々にしている男性が、冷たい水の中、力なく横たわっていた巨体と重なる。
ナキは、横目でおじさん達を見た。
自分をモノのように過酷に扱ってきた人たちは、今ではしょぼくれて小さく恐縮していた。
怒りや憤りなど、そういったものは不思議と全く感じなかった。
どちらかというと、ラッシュに跳ね除けられたリフが、少しだけ可愛そうだという気がした。
黙っているナキに業を煮やしたのか、ラッシュは手を伸ばし、彼女の襟元を、大きな手で掴んだ。
そして乱暴に少し持ち上げる。

「俺の質問には、はっきりと答えろ。文句があるのかと聞いている」

明らかに怒りを含んだ、威圧するような声だったが、ナキは何故か恐怖を感じなかった。
反面、アーンガットは、身を乗り出して奴隷に手を触れている主に、くちばしを震わせながら、目を剥いて驚愕している。
ナキは何度か息を吸って吐くと、か細い声で言った。

「文句、ないです……」

そこで、窓の外に鐘を打ち鳴らす音が響いた。
続いて鎧が鳴る音と、馬のひづめの音が響き渡る。
慌てて外に目をやると、沢山の茶色い毛並みの馬に乗った、鎧を着た軍人達が、家の周りに整列していくのが見えた。
村人達が散り散りに道を明けていく。
数台の馬車も見えた。
それぞれ、五匹の白馬に引かれていて、黒塗りの外壁が日の光にピカピカと光っている。

「よし」

ラッシュはナキの襟元から手を離した。
次いで、家の扉が勢いよく開かれ、バタバタと足音がした。
遠慮も解釈もなしに、銀色の鎧兜を光らせた兵士達が数人、部屋の中に駆け込んでくる。
彼らはラッシュの姿を見ると、床に膝をついて、右拳をつま先に押し当てた。
もう片方の手は腰の剣を握っている。
兵士の中でも、兜に真っ赤なトサカをつけた男が進み出て、兜の前面を開きラッシュを見上げた。
尊大に椅子から立ち上がった彼に、男が声を発する。

「第一王子。ご到着が遅れてしまい、謝の極みを申し上げます。紅蓮騎士団、ただ今参上いたしました」
「魔女の気配を連れてきてはいないだろうな」
「道中二度襲撃を受けましたが、撃退いたしました」
「警備を固めよ。呪物避けの結界もだ。四半刻後に、宮殿に向け出発する」

ラッシュはそう言い、横目でナキを見た。

「何をしている。立て。奴隷め」

偉そうに命令し、彼は大股で出口に向けて歩き出した。

「この豚小屋の住人に、褒賞をくれてやれ」

言い残して、周囲を兵士に固められながら、彼は出口で立ち止まった。
そしてポカンとしているナキを睨みつける。

「ぐずぐずするな。紅蓮騎士団、そこな小娘は、俺の血を体に持っている。厳重に連れて来い」
「はっ! 」

兵士の皆さんが口を揃え、一辺の疑問も挟まずに頭を下げる。
赤いトサカを兜につけた男が、忠実にナキの近くまで来て、その小さな体を抱え起こした。
床に立つが、まだ体はふらついていた。
その様子を見て、トサカの男は、ひょい、とナキを持ち上げた。
そして子供をかかるように胸の前に抱く。
彼が歩き出すと、周囲をラッシュ同様、数人の兵士が固めた。
家から出ると、ナキの、いつもとは違って高い視点に、村人達が地面に平伏している絨毯のような光景が映った。
家から馬車までの道には、馬に乗った他の兵士達が、先を真っ赤に塗った、ナキの身長よりも長い槍を天に向け、両側に並んで道を作っている。
御者が黒塗りの馬車のドアを開くと、ラッシュは頷いて、兵士に脇を固められながら乗り込んだ。
その随分後ろの方に連れて行かれながら、ナキは、事態の急さに声を上げることもできず、引きつった顔を周りに向けていた。

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天寧霧佳

【長編恋愛小説】 ドラコニス 【連載中】

奴隷の少女、ナキはある日、墜落したドラゴンを助けます。それは王国の王子、ラッシュ・クンベルトの変身した姿でした。王宮に連れられ、ラッシュの付き人になるナキ。彼女はそこで「魔法」を学び始めますが……。
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