アリス・イン・ザ・マサクル - 12

第2話 「帽子屋」⑥

「な……何だ……?」

地面に崩れ落ち、掠れた声でジャックは呟いた。
こちらを睨みつけているアリスの体の周りが、虹色に歪んでいるのが見えたのだった。
湯気のようなものが立っている。

「アリス……なのか……?」

……いや……。
違う。
……違う?
違う!
頭の中に本能的に浮かんだ文字に混乱する。
『アレ』は違う。
アリスではない。
もっと邪悪で……。
もっとどす黒い何か……。
見たこともないのに、本能的な部分でジャックは震え上がった。
怖い。
怖い……。
ちっぽけな少女にしか見えない「それ」を見て、ジャックは体中がすくみ上がる感触に襲われた。

少し離れた地面に立ったラフィが、異様な雰囲気を発しながらゆらりと足を踏み出したアリスを見て、歯を噛んだ。

「アリス……やっと目覚めたのか……? でも様子がおかしい……」

右肩を何かに両断された帽子屋が、地面にうずくまってヒー、ヒーと泣いていた。
まだ黒い液体はビシャビシャと流れてあたりを濡らしている。
彼は転がっている右腕を左腕で掴むと、ぐちゃぐちゃの泣き顔でアリスを見た。

「ヘヘ……ハハハハハ……アヒャヒャヒャ!」

笑っていた。
泣き笑いで絶叫しながら、彼は腕の切断面と右肩をグチャリと合わせた。
体の肉が一瞬膨れ上がり、脈動して縫い合わせるように腕と肩を結合していく。
数秒後、元の体に戻った帽子屋は、涙をボタボタと落としながら口を開いた。

「痛いよ……凄く痛い! アリス! イイ! それイイよ! もっとだ! もっと楽しく遊ぼう!」

彼は、ゆっくりと自分に向けて足を進めるアリスを指差し、パチンとそれを鳴らした。
周囲のおびただしい数の兎達が奇声を上げ、鎌を振りかざしながら飛び上がる。
そして雨あられのようにアリスに向かって飛びかかった。
真っ赤な血のような色の目を周囲に向け、アリスは別人のように、能面を連想させる無表情で体を丸めた。
そして、次の瞬間……。
彼女は口を大きく開け、「叫び」を上げた。
それは声ではなかった。
およそ意味を持つ言葉でもなかった。
耳に聞こえた音でもなく、アリスの口から発せられた「モノ」は、一瞬で周囲の空間に、まるで光のように広がった。
誰も、それを見ることはできなかった。
感じることさえもできなかった。
空中に飛び上がった兎達が、総てその場で静止していた。
キィィ……ン……という、空気が鳴動し、何か金属が高速で擦れるような、凄まじい高音が遅れてあたりに響く。
次の瞬間。
アリスに飛びかかっていた兎達が、全員空中で爆裂した。
爆発したのではなかった。
総て、まるでシュレッダーにかけたかのように細切れのミンチ肉になって、空中ではじけ飛んだのだった。
ドチャドチャドチャと肉の塊が地面に降り注ぐ。
赤黒い液体で体中を汚しながら、アリスは顔を上げた。
圧倒的な無表情だった。
目の瞳孔が開き、瞳が真っ赤に発光していた。
そう、言う慣ればそれは。
虚無。
何もない。
恐れも、ためらいも、全ての感情が存在しない顔。
口から白い煙を上げながら、アリスはゆらりと体を起こした。
そして足元に転がっていた、ぐちゃぐちゃになった兎の頭をブヂュリ、と踏み潰して、何事もなかったかのように足を進めた。

「ギャハハハ! アヒャヒャヒャヒャヒャ!」

そこでけたたましい笑い声が響いた。
帽子屋が血みどろの光景を見て、楽しそうに嬌声を発しながら飛び退る。
そしてポンポンポンポン、と地面にへたり込んでいる市民達の頭を叩く。

「じゃあこれならどうかな!」

子供のようにワクワクした声を抑えることもせずに、彼は両手でゾロリと停止した市民達を抱えた。
そして力を入れて空中に放り投げる。
次々に砲丸投げのようにアリスに向けて人間達を投げつけていく。
アリスは無表情でそれを見ると、放物線を描いて飛来する人間達に向けて……。
「何か」を、口から発した。
彼女の絶叫とも悲鳴ともつかない、圧倒的な絶望を孕んだ「何か」は、飛来してきていた人間達を無慈悲に、簡単に薙いだ。
空中で一瞬人間達が止まり……。
その場で爆炎を噴き上げた。
地面が抉れ、木々に炎が燃え移り、あたりに土煙と土砂が巻き上がる。
熱風に顔を守って目をつむった帽子屋だったが、彼はすぐ顔を拭い、小さく息をしながらニィ、と笑った。

「急にやる気になったみたいだね……でもそうじゃなきゃお茶会のお土産話にも……」

そこまで言って、彼は言葉を止めた。
足元で、小さな少女……アリスが自分を見上げていたのだ。

「あ……?」

それを見下ろした帽子屋は、マヌケな声を発して停止した。
アリスの真っ赤な瞳。
それを真正面から見てしまったからだった。
そこには、何も映っていなかった。
自分も、細切れになって崩れ落ちた兎達も。
空中で粉微塵になった市民達さえも。
焦点が合っている、とかそういう問題ではなかった。
空洞。
穴。
何もない底抜けの虚無を間近にして、ナイトメアは動きを止めたのだった。
アリスは血まみれの体で、ゆっくりと口を開いた。
そこから、「何か」が這い出してくる。
見えない。
聞こえない。
感じることもでなきない。
においさえない「それ」がゆっくりと蠢く。
帽子屋は、次の瞬間、反射的に地面を蹴って後ずさろうとした。
空気が鳴った。
キィィ……ン……という高音。
あたりに耳鳴りのような大気の震えが反響する。
一歩、二歩と帽子屋は後ずさった。

「アリス……ああ、アリス……」

彼はブルブルと体を震わせた。
その鼻と口から、ドッと黒い液体が流れ出す。

「お茶会に行かないと……みんなが待ってる……だから、早く行かないといけないんだ……」

彼の首から、ドロリと何かが流れ出す。
次の瞬間、ズル、と帽子屋の首がズレた。
重低音を立てて、異様な生首が地面に転がる。
膝をついた帽子屋の体……その切断された首から、噴水のように黒い液体が飛び散った。
それを真正面から浴びながら、アリスは無表情で周りを見回した。
舌を出して事切れている帽子屋の頭ごしに、生き残っていた兎達が、とたんにグジュグジュの汚らしいヘドロのように崩れ、地面に流れていくのが映った。
そのアリスの瞳が、ゆっくりと輝きを失っていく。
やがて彼女は目を閉じ、帽子屋の血溜まりの中に、濁った水音を立てて崩れ落ちた。
木々に燃え移った炎は、いつの間にか消えていた。
死屍累々の地獄絵図が広がっている。
ポツ、ポツ……と空から水滴が落ちてきた。
黒い雨だった。
帽子屋の血液のような漆黒のそれは、たちまちのうちに大雨になり、アリスと、周りの亡骸達を打ち始めた。
誰も、言葉を発する者はいなかった。

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天寧霧佳

【長編ホラー小説】アリス・イン・ザ・マサクル 【連載中】

記憶喪失の少女が目覚めたのは、血と錆と暗闇が支配する悪夢の国。 彼女を「アリス」と呼ぶ異形の者達が次々に襲いかかる。 訳も分からず戦う事になった少女。 彼女は、覚めない悪夢の中をもがき続ける。
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