ドラコニス - 6

第6話 「香水のにおい」

結局、風呂係の女中の子に体を洗ってもらうことになってしまった。
お湯で体を洗うというのが初めてのことだったので、予想外のその安心感に驚く。
まだ痛い傷や痣もあったが、彼女達の洗い方はかなり心得ていて殆ど痛くはなかった。
風呂から上がった後、アランリースの命令で、身体の傷の処置をなされた。
景観上非常によろしくないらしい。
肩と目の傷は、ラッシュの血を塗りたくられたお陰で塞がっていた。
熱もかなり引いてはいたが、ドラゴンの血は打撲傷や、既にケロイド状となっている怪我を治す作用はないらしい。
最初は、みすぼらしい格好のナキを馬鹿にしている風だった風呂係の二人は、彼女の体についている無数の傷に湿布を当て、清潔な包帯で隠していく過程で、どこか普通ではない、自分達の想像もつかないような異常性を感じたらしかった。
黙々と胸と腹に包帯が巻かれ、ナキは戸惑いながらも彼女達に頭を下げた。
困ったような顔で小さく笑い、二人が、自分達が着ているようなローブを差し出す。
それを受け取り、ナキは促されるままにもぞもぞと頭から羽織った。
下着の上から直接着るような構造になっているが、生地は分厚く、体がポカポカと温かくなってきた。
毛皮などが織り込まれているらしい。
ブーツ型の靴も履かせてもらう。
足を保護する感覚に、物凄い安心感を憶える。
彼女を脇の椅子に座らせると、風呂係の子達は用意していた櫛で髪を梳かし始めた。
かなり恐縮して、硬直した姿勢のまま停止する。
こんなくしゃくしゃな髪はどうにもならないと思っていたが、予想をはるかに超えて女中達の技術は高かった。
髪に油香料を塗りこみ、霧吹きで薬草の匂いがする水を拭きつけながら、無理やりにそれを伸ばしていく。
頭皮が引っ張られて、必死に耐えていると、今度はお湯の中で温められていた鉄製の櫛で、髪にくせがつけられた。
あまり時間も経たずに、ナキはもじゃもじゃ頭から一転し、肩までウェーブがかった、綺麗に垂れ下がる髪になっていた。
さすがに痛みきったものはすぐに元通りにはならなかったが、きたときよりは大分ましになっている。
その様子を腕組みしながら見つめていたアランリースは、女中二人を下がらせ、自分の手で、どうしても癖がついて飛び出している場所をきつく編みこみ始めた。
細い腕の割にかなり力が強く、歯をカチカチと鳴らしながら、椅子から転げ落ちないようにと何とか踏ん張る。
ナキにとってはほぼ拷問のような時間が過ぎ、やっと解放された時には、両耳の脇と、後頭部に、綺麗に垂れ下がった三つ編みのお下げが、計四本作られていた。

「このくらいで良いでしょう」

やっとアランリースの許可が出て、風呂係の二人がこっそりと息をつく。
ナキも、思わず、ふーっ……と深くため息をついた。
それを横目できつく睨みつけてから、アランリースは、化粧室の大きな、大理石にはめ込まれた鏡を見つめているナキに声をかけた。

「惚けている暇はありませんよ。これから食堂で夕餉があります。お前には、その配膳を手伝ってもらいます」

鏡に映った、予想以上に綺麗な女の子をポカンと見ていたナキは、はいぜんと聞いて首をかしげた。
その様子を見て、女中長はゆっくりと言い換えた。

「全員分の食事を、お前が取り分けるのです。離宮に入った女は最初、食事係から始まります。鏡などいつでも見れます。そのだらしない顔をやめなさい」
「ごめんなさい……」

何故怒られたのかはよく分からないが、とりあえず言われたとおりに鏡から視線を外す。
しかしナキは、そこで気になっていたことを彼女に聞いた。

「あの……服、いただいていいんですか? 靴も……」
「お前のものではありません。宮殿の中にあるものは全て、王家の所有物です。施したのでなければ、貸したのでもありません。お前をここで使うために、それにふさわしい格好をとらせたまでのこと。それは権利ではなく、義務です。分かりまして?」
「はい……」

きつい調子で言われる。
しゅんとして、ナキは肩を落とした。
アランリースの言葉はいちいちきついが、難しくて上手く理解ができない。
つまり、着ていていいということなんだろうか……。
脱いだら脱いだで、まだみっともないと怒られるのだろうと思って、促されるままに立ち上がる。
ブーツのカカトが高かったので、とてつもなく歩きづらかった。
今まではほぼ裸足で歩き回っていたのだ。
よたよたしながらナキは、何とか彼女達の後についていった。

西の離宮にいる女の子は、最初に馬車が着いたときに集まっていた三十人ほどで、殆ど全員のようだった。
食堂に向かうまでに、二日ごとに王宮内の給仕と交替しているという話を聞いたので、もう少しはいるようだが、想像していたよりも人数は少ない。
さすがに食事を一から作れと、いきなり命令をされるわけではなかった。
それを覚悟していたが、時間も遅いことがあり、既に別の子が作っていたようだ。
大きな寸胴がバイキングの形式で並んでいて、シチューの香りがあたりに立ち込めている。
先ほどの風呂ほどの広さもある大きな食堂には、いくつも長テーブルが設定されていた。
別段座る場所は自由らしいが、全員綺麗に中央テーブルに集まり、背筋を伸ばしてこちらを見ていた。
その静まり返った、期待と興味が入り混じった空気を受け、人生でそこまで注目されたことのないナキは、どこか逃げ場がないかと、思わず周りに目を走らせた。
それを興味本位できょろきょろしていたととったらしく、アランリースはじろりと彼女を見て、コホンと喉を鳴らした。
慌てて前を向いて、視線を床に落としながら女中長の脇に立つ。

「わたくしたちは、全ての炊事洗濯などを、自分達の手で行います。粗相があってはならないと、常に自分自身を戒め、日常で技術を磨くのです。お前も、例外ではありません」
「はい……」
「返事をする際は、女中長様とつけなさい」
「はい……女中長様……」

いきなり、これから一緒に生活する人たちの目の前で怒られた。
何だか、離宮に来てからずっと怒られっぱなしだ。
たいして時間は経っていないはずなのだが、気疲れと圧迫感で、既に何週間もここにいるような錯覚を受ける。
チラリと顔を上げると、他の西離宮の女中達が、ナキを見てひそひそと話をしている光景が目に飛び込んできた。
全員、清潔になったとはいえ、馬車から降りてきた時のただならぬ格好が気になっているらしい。

「静かに。事前にみなさんには伝達をいたしました通り、今日よりここに、女中見習いとして一人入ることになりました。ラッシュ・クンドルフ殿下のお傍づきとして、教育を施すことになります」

ラッシュの名前が出てくると、相当にそれは意外なことだったのか、ざわつきが一気に大きくなった。
全員怪訝そうな顔に、目を丸くして驚愕の表情をしている。
一部では、何かの間違いでは……という囁き声も飛び交っていた。
アランリースは眉をひそめて周りを見回すと、ついにはパンパンと両手を軽く打ち鳴らした。
その音を聞いて、一瞬でシン……と食堂が静かになる。

「……よろしい。王族様からの勅命であり、本日付けで、このナキ・フランセはわたくしの管理の元、傍女として扱います。これは、あなたたちのおよびつかることではございません。既に決定されたことであります」

そう言って、彼女は周りを見回した。

「何か、質問のある方は?」

皆、戸惑いの顔でナキを見るだけで口を開かなかった。
少し待って頷き、アランリースは言った。

「結構。それでは、夕餉といたしましょう。今日の配膳は、ナキが行います。天と地の豊穣の神、そして全知美壌の神に祈りを捧げましょう」

彼女がそう言うと、女中達は全員、懐からロザリオネックレスや小さな本を取り出し、胸に抱いた。
そして目を閉じる。
そこでアランリースは、ポカンとしているナキに言った。

「皿を、パン、スープ、果物の順で全員の前に並べていきなさい」
「……分かりました。女中長様」

お祈りなんて見るのは初めてのことだった。
ナキが返事をしたのに重ねるように、少し離れた場所の女の子が立ち上がり、胸に本を抱いたまま、祈りの言葉を口にし始めた。
一小節ごとに区切り、周りの子達がそれを復唱していく。
普通の女の子なら、配膳と言われてもすぐには動けないだろうが、ナキは違った。
毎日こき使われていたせいで、そんなことは慣れたものだった。
ちょっぴり人数が多い気がするが、全員お祈りをしてくれているなら、コップや罵声が飛んでくることもないだろうので、かなり気が楽だ。
寸胴などが並んでいるテーブルには、皿と焼きたてのパンが勢ぞろいしていた。
転ばないようにと、ブーツのカカトを鳴らしながらよたよたと歩いていき、皿を抱える。
そしてナキは、慣れた手つきで全員の前に並べていった。
みなさん密集していたので、そんなに時間はかからなかった。
たいして苦にもならず、お祈りが終わる頃には、全員の前に配膳が終わった。
最初の位置から微動だにせずにこちらを見ていたアランリースの隣に戻り、息を整えて立つ。
女中長は、いきなり任せたのに何の苦もなく、祈り終わりまでに終わらせたナキを意外そうに一瞥してから視線を戻し、一言

「全ての神に感謝を」

と言った。女中達が口を揃えて繰り返し、食事に手をつけ始める。
そこでアランリースは、ナキに目をやって、声音を落として口を開いた。

「王宮の外部から来たお前は、今日一日は食事をせず、身体の穢れを落とさねばなりません。ここに立ち、食器の後片付けを行いなさい」

一緒に食事をするという概念がそもそもなかったので、素直に頷く。
恨めしげな目一つされるとでも思っていたようで、女中長はまたしばらく、表情の読めない顔でナキを見下ろしてから、自分の席についた。
いい匂いが鼻をくすぐったが、食事の係とはこういうものなんだろうなと頭の中でなっとくして、じっと立つ。
女中達はおしゃべりもせずに、そんなナキのことを、怪訝そうに横目でチラチラと見ていた。

それから一時間ほどで食事は終わり、ナキは命じられるがままに食器を片付け、裏の厨房に運び込んだ。
慣れた手つきで動く小さい子に、女中達は一様に意外そうな顔を見合わせた。
大概、離宮に入ってくる女の子は貴族の子女だ。
自分では食事の配膳や洗い物などをやったことがない子が殆どのため、アランリースはまず、自分の手で何事も行うことを学ばせようとしたのだった。
しかし想像以上にナキが動いているため、多少面食らったようだった。
食事の後は自由時間が少しとられているらしく、ナキは洗い場で、背の低さをカバーするために台に乗って茶碗をゆすぎながら、こちらを見ている女の子達の視線を、横目で見回した。
隣にはアランリースが立っていて、ちゃんと洗い終わるかどうか見ている。
別にいつもやっていたことだったので、問題もなく汚れをふき取ってから棚に戻していく。
女の子達は口々にひそひそと話をしていた。
ナキにいろいろ聞きたいことがあるようだったが、近くに女中長がいるので、近寄るのがためらわれているらしい。
しばらくして、新人の女中見習いとしては異例の速度で片づけを終わらせたナキは、そこでやっと息をついた。
そういえば、今日は王宮への入場やらなんやらで、朝から何もお腹に入れていない。
慣れてはいたが、ここまで動くとさすがに辛かった。
王宮とはどんなところかと戦々恐々だったが、いざ来てみたらシルフの村の日常と、たいして変わりがないらしい。
これくらいだったら私にもやれるかもしれない。
そんなことを思っていると、アランリースが食器の汚れを確かめてから

「よろしい。ついてきなさい」

と言った。
慌てて彼女の後を追いかけて食堂を出る。
少し歩くと、女中達の部屋となっているらしい一角に出た。
一番奥の部屋のドアを開け、彼女はナキを中に入れた。
天井が高く、かなり広い。本棚が沢山並んでいて、机が数個と、奥の方に柱と布で覆われた、屋根つきのベッドがいくつか見えた。
シーツは綺麗に整えられ、ふわふわの毛布が沢山かけてある。
本棚の間を縫って、窓際のベッドの一つに近づくと、彼女はそれを指ししめした。

「お前の寝所とします。今日からはここで寝泊りをしなさい」

てっきり床で寝させられると思っていたので、ナキは目を丸くしてベッドを見た。
そして女中長を見上げる。

「私、ここで寝ていいんですか?」
「……良いですか? まず、お前と私は対等ではありません。わたくしはお前の管理者であり、お前は、それゆえにわたくしを敬わねばなりません。その、無礼な言葉遣いをまず改めなければ、先に進むわけにはいきません」

また怒られた。
一日のうちに頭ごなしに怒られっぱなしなので、ナキは体を縮めて頷いた。

「……ここで寝ていいのですか? 女中長様」

言い換えると、彼女はどうでもよさそうに頷いてから、脇の小さなタンスを示した。
どうやら最後に「女中長様」とつけなければ怒られるらしい。

「何か整頓の必要がある際は、それを使いなさい。ここは、わたくしの部屋となっておりますが、女中の出入りは自由です。本なども、自由時間にはなるべく読み、可能な限り知識を得るようにしなさい」

それから、朝の起床時間は五時、夜は一時までには必ず就寝するように……しかし、見回りの場合はその限りではないなどと数点説明を受けた。
今日は休みなさいと言われ、女中長は、タンスの中に寝着があると言い残して部屋を出て行ってしまった。
急に広々とした部屋に取り残され、ナキはやっと息をついた。
そしてケープを脱いで、ためらいがちにタンスの中ほどを開いて、たたんでから入れる。
少し探すと、今着ているものと同じローブと、寝巻きと思われる薄く白いワンピースが見つかった。
お腹もすいていたが、立て続けにいろいろなことが起こりすぎて、気持ちがどうしても晴れなかった。
休んでいいのなら、とにかく今日はもう寝たかった。
ローブを脱いでたたんでからタンスに仕舞い、頭から寝巻きを羽織る。
身体の包帯をどうしようと思ったが、特に言われてもいないのでそのままにし、ナキはそっとベッドの上に腰を下ろした。
柔らかい感触が体を包んだ。
思わず息を吐いて、目を擦る。
……私のベッド。
そう、女中長様は言っていた。ここで寝ていいらしい。
部屋の中は十分に温かかったが、この中に入ればさらに温かそうだった。
今まで、何度、もう何枚か毛布が欲しいと思ったことだろうか。
凍えそうな屋根裏部屋で、ゴミ捨て場にあった布きれを拾ってきて床に引いていた自分の姿が、脳裏にフラッシュバックする。
……私は王宮に来たんだ。
そこで初めて、ナキはそう思った。
今までは全く実感が湧かなかったが、生まれて初めて自分のベッドを与えられたことで、やっとここが貴族の場所であることを理解できたのだった。
ベッドのシーツは皺一つなく糊とアイロンがかけられていて、かすかに花の匂いがする。
またタンスに手を伸ばすと、化粧道具や香水などが揃えてあるのが目についた。
どうやって使うのかはさっぱり分からないが、ずっと憧れていたものだったゆえに、ナキは小さく声を上げて、香水瓶を一つ摘んだ。
手の平に開けてみると、甘い花の香りがした。
ごしごしと寝巻きで手を拭い、そしてまた別の瓶の蓋を開け、少しだけ出してみる。
今度はどこかつんとした薬草の匂いがした。
面白くなって次々と手に空け、寝巻きで擦る。
終いにはよく分からなくなって、ナキは適当に蓋を閉めると、満足した息を吐いて小瓶をタンスの中に並べた。
小さい頃からずっと、香水を弄ってみたいと思っていた。
それがこんなところで適うとは思ってもいなかった。沢山の香りが混ざり合って、ナキには心地よかった。
しばらくそのままボーッとしていると、控え目にドアが開いた。
そして本棚の隙間から、そっと白いケープが覗く。
入ってきたのは女中長ではなかった。
黒髪をくるくるとカールさせた、どこかおどおどとした顔をした女の子だった。
背は低いが、ナキほどではない。まつげが長く、目が大きい。子供用の人形のような顔だ。
彼女は部屋の中に立ち込める香水の香りに、一瞬鼻を押さえてから、ベッドの上に行儀よく座っているナキに視線を走らせた。
そして扉を閉め、慌てて近寄ってくる。

「あなた、もしかして香水を空けた?」

アランリースとは違う、ほんわりとした小さな声で問いかけられ、ナキは慌ててタンスを閉めた。

「ごめんなさい……つい……」

口ごもって、香水の匂いがぷんぷんしている寝巻きに気づき、青くなる。勝手に遊んじゃいけなかったのだろう。
黒髪の女の子は、少しの間困ったようにナキを見ていた。
風呂場で、彼女の体を洗ってくれた係の一人だった。
そして女の子は、窓まで歩いていって、音を立てないように開けた。

「香水はね、王宮に出るときにしか、つけちゃいけないのよ。つけ方にも決まりがあってね、香水術っていうお勉強をしななきゃ、扱わせてもらえないの」

ナキの傍らに立って、彼女は少し首を横に傾け、そして続けた。

「寝巻きに色がついてるわ。女中長様に見られたら、怒られちゃう。換えは、私がタンスの中に入れておいたから、それに着替えた方が、いいと思うな」

ゆっくりと言われ、てっきり怒られるものと思っていたナキは、少し緊張を解いて頷いた。
妙に単語と単語の間を区切って喋る子だ。
どうも、この大陸で使われている言語、アムクト語を、流暢に発音することができないらしい。
綺麗な子だった。ナキはその手の甲に、びっしりと鳥の羽毛が生えているのに気がついた。
獣人(けものひと)という、種族の一つだ。
シルフの村にも何人か住んでいたので分かる。
鳥人のビワーフという、とても珍しい人たちだ。
大陸でも辺境と言われる、高地の方に住んでいるらしい。
他ならぬ、シルフ村のビワーフが自分達のことをよく自慢していたのを、なんとなく憶えていた。
彼女らは、胸と腹、腕に羽毛を持つ。爪も長く、鳥のものに近かった。

「はい……分かりました。ごめんなさい」

素直に謝って、寝巻きを脱ぐ。謝罪の言葉をかけられたことに驚いたらしく、ビワーフの娘は、少しの間きょとんとした。
そして、やおらにっこりと柔らかく微笑み、ナキの手から、匂いのついた寝巻きを受け取る。

「香水の匂い消しは、このニンブルの小瓶を使うの」

そう言って、テーブルの上に寝巻きを広げ、彼女はタンスの中から、白いラベルが貼られている瓶を抜き出した。
その中身を手の平にすくい、汚れた部分にトントンとこすり付ける。
香気が外に逃げ、立ち込めていた香水の香りも、段々と薄れてきていた。
ニンブルという液体をつけた寝巻きの部分も、色が薄れて落ちてくる。

「乾かせば、あとは大丈夫よ。念のため、お洗濯をした方がいいね」

優しく言ってから、ビワーフの子はタンス脇のハンガーに寝巻きをかけた。
怖い人ではないらしい。
ふんわりとした、雲のような印象を受ける女の子だった。
彼女は、きょとんとして停止しているナキに、タンスの中から換えの寝巻きを取り出して渡した。

「私はイ・シェンタっていうの。あなたは……女中長様の、妹御ってわけじゃないみたいね。でも、お家に迎えいられるなんて、素敵」

ナキは頷いて、新しい寝巻きを受け取った。そしてもぞもぞと羽織る。

「私はナキ。王宮には、今日初めて来ました。宜しくお願いします。シェンタさん」
「シェンタでいいわ。私の部屋もここなの。気をつかわなくても、いいよ」

少し考えて、ナキは彼女のことを見上げた。

「うん。シェンタ」
「怪我は大丈夫?」

風呂場のことが気になっているのだろう。
尋常ではない体中の痣などについて、少し口ごもりながら聞かれる。
ナキは、なんでもないかのように笑って、腕の包帯をさした。

「ありがとう。もう、全然痛くないよ」
「そう、良かった。どんなお稽古をすれば、あんな風になるの? ナキは、そうは見えないけれど、武術の心得があるの?」

あまりに傷の量が多かったため、何かしらの武術の練習でつけられたと思ったらしい。
隣に腰を下ろしたシェンタに、ナキは少し首を傾げてから言った。

「やってることは、こことあんまり変わらなかったよ」
「へぇ。随分と厳しいお家から来たんだねぇ。私だったら耐えられないな」

純粋に、貴族宅の躾でこうなったと解釈してくれたようで、シェンタは、自分よりも小さな少女を見た。

「ね、あなたが、ラッシュ殿下のお傍仕えっていうのは、本当のことなの?」

問いかけられ、ナキは考え込んでから、曖昧に笑った。

「……分からないの。でも、ラッシュ様と一緒に、ここまで来たよ」

そう言うと、ビワーフの娘は、目を丸くして口の前で手を合わせた。
そして、尊敬のまなざしでナキを見る。

「ナキは凄いんだねぇ。私なんて、まだラッシュ殿下には、お話を賜ったことがないのに……」
「でも、私もラッシュ様とお話をしたのは、本当にちょっぴりだけで……それに、ちゃんとお話した時は、ラッシュ様はおっきなドラゴンの体になってたから、最初は分からなかったの」
「竜体を、ご覧になったの?」

思わずといった感じで、身を乗り出してシェンタは大声を上げた。
少しひるんで、ナキは頷いた。

「うん。とっても大きかったよ」
「まさか……ラッシュ殿下に限って、そんな……」

少しの間シェンタは狼狽していたが、ナキが最初から事情を話すと、じっと黙って、一生懸命聞いていた。
少し迷ったが、自分が奴隷だったということは言わないでおく。
シェンタは一連の流れを聞くと、何度も頷いてから口を開いた。

「……じゃあナキは、殿下が傷つかれているところを、お助けになったのね?」
「全然私なんて、たいしたこともできなかったんだけれど……」
「そんなことはないよ」

はにかんだようなナキの声を、真面目にシェンタが打ち消した。
彼女は、顔の前に人差し指を立ててゆっくりと回しながら言った。

「ラッシュ殿下は、五大アルノーのうち、由緒正しき炎の化身なの。ナキが、小さな火でも火種をお渡ししたのは、とっても大切なことだったのよ?」

どうやら、ドラゴンの中でも、現在は世界に五人、炎や雷などの化身がいるらしい。
ラッシュはその中の一人で、炎を自在に操ることができるとのことだった。
道理で火を食べたり、睨んだだけで火柱を噴出させたりと、異常な力を持っているはずだ。
とすれば、何とか彼を温めてあげようと思って、偶然ながらもナキが起こした小さな焚き火は、消えかけていた彼の炎に、再び火をともすことができたと考えられる。
自覚はしていなかったが、彼の命を救うことができていたんだ、と思ったら少しだけ心が軽くなった。

「もっと誇っていいのよ? みんな、あなたが何かの間違いで離宮に来たっていうから……」

そう言ったシェンタに、しかしナキは困ったように言った。

「でも……本当に間違いかも。ラッシュ様は、私にそれから一言もくれないし……」
「当たり前だよ。殿下は、すっごく、すっごく気位が高いの。王宮の中でも、殆ど誰ともお話をなさらないのよ? でも、武術の腕は、紅蓮騎士団や、黒翼騎士団の誰にも引けを取らないほどのご実力なの。それに、勉学だって沢山修められていて、数十の言語をご理解なさると聞いているわ。そんなお方に、血を授けられたっていうことだけで、ナキは十分凄いよ」

含みもなにもなく、純粋に尊敬された。
生まれて初めてのことだったので、どう返していいのか分からず、ナキは照れ笑いのようにいびつに少しだけ笑った。

「ラッシュ様は、そんなにすごい人だったんだね」
「ええ。狩猟会の途中でご消息が分からなくなってしまって、それはそれは大変な騒ぎだったよ。でも、ご無事で、本当によかった……」

ラッシュのことを話すシェンタの頬が、桜のようなピンク色になっている。
彼は、離宮の女の子達の憧れの的であるようだ。

「それに殿下は、身の回りのお世話を女中に任せないの。だから、あなたが任命されたっていうのには、びっくりしたわ」

あの性格では、沢山の世話係がいるだろうと勝手に想像していたのだが、ナキは意外な事実に驚いた。
しかし、確かに人を寄せ付けないような雰囲気が彼にはあった。
鷲のアーンガットとは普通に話をしていたが、騎士団のリスタルに接する時はそっけなく、シルフの家族との会話は、まるでゴミを見るかのような冷たい調子だった。
ナキ自身も、散々奴隷だの汚いの馬鹿にされたような気がする。
殆ど誰に対してもああなんだ……と、何故か少し安心した。
しかしそこで、彼女はふとしたことに気づき、それをシェンタに問いかけた。

「あれ……でも、離宮の人たちはみんな、王宮の人をお世話するんでしょう? 他には、どんな人がいるの?」
「どんなって……大勢よ? アウグス卿に、メントラン卿、殿下の側室の御方々……王族様の宮殿が別にあって、王家ご親族の御方々も、そこにいらっしゃるの。それに何より、実質帝王としてこの国を治めていらっしゃる、ルケン・アルノー・クンドルフ十二世殿下も」
「殿下って……王子様? ラッシュ様じゃないの?」
「ナキ、知らないの?」

不思議そうに聞かれ、ナキは頷いた。

「私、文字も読めないし……」
「そうなの? それはまずいよ。宮仕えでは、忙しい時は羊皮紙にお仕事の内容が書かれて、回ってくることもあるの。憶えなきゃねぇ」
「そうなんだ……」

文字を勉強する暇なんてなかったし、本を読んでいる余裕もなかった。
でも、仕事の内容が紙に書かれるんなら一大事だ。
それは、早く覚えなければいけない。
いやな顔をされるだろうけれど、アランリースに言う必要がありそうだ。
分からないままにしておいて、それができると踏まれた時が一番辛い、とナキは経験則で分かっていた。
知らないものはできようはずもない。
シルフの村では、教えてももらっていないことを押し付けられ、散々な目に合ったことが多かった。
お金の管理などもそうだ。ナキは、とてつもなく数字に弱かった。
シェンタは、別段そのことを問い詰める気はないらしく、また人差し指を立てて言った。

「ルケン殿下は、ラッシュ殿下の弟君なの。今、この国には皇帝様も女王様もいないのだけれど、実質的に治めてらっしゃるのは、ルケン殿下と、ラッシュ殿下、そのお二人なのよ。でも、殿下方は成人前で、まだ。皇帝様ではないの。お国の決まりで、皇帝様の位には、成人した後にしかつけないから、お二人は、まだ王子様って呼ばれてるのよ」

ゆっくり噛み砕かれるように説明され、ナキはそこでやっと、ラッシュの立場を理解した。
王子様ということだけでも相当偉い人なのだが、実質的には国の頂点、皇帝様の役割を、弟さんとしているらしい。
そんな人に自分は助けてもらったんだ……と、ラッシュの顔を思い出してボーッとする。
まるで、少し前のことがすっかりそのまま夢の中の出来事のようだった。

「まぁ、ナキはここに来たばっかりだし、ゆっくり憶えていけばいいと思うよ。私も、初めての頃はね、何も分からなかったよ」

優しく言われ、そこでナキは、離宮に入ってからやっと、ほっとして気の抜いた笑顔をシェンタに向けた。

「ありがとう……」
「一緒の部屋だから、いろいろ教えてあげられると思うよ。女中長は、言い方がきついからね。気にしなくていいよ。あの人雪女だから、どうしても性格が冷たいの」

雪女、と聞いて、アランリースの肌が透き通るように白かった理由が分かった。
シェンタから説明を受けたが、雪女は体が冷たく、雪の化身とも言われているため、普通ではありえないほど体全体が白いらしい。

「でも、女中長からこれ、みせびらかさないようにって」

そう言って、シェンタは懐から、アランリースに没収されていたウイスキーボンボンの小箱を取り出した。
それを見て声をあげ、ナキは嬉しそうに受け取った。

「お菓子?」

聞かれて頷く。

「うん。嬉しいな……返してくれた」
「それはそうだよ。女中長は、きついけど全然悪い人じゃないよ」
「嬉しい……すごく嬉しい」
「良かったねぇ」

優しく言われ、ナキは蓋を開けてシェンタに差し出した。

「いいの?」
「うん」

一つ受け取り、ビワーフの娘はそれを口に入れた。そして頬を押さえて破顔する。

「おいしいねぇ」

同年代の女の子と、こんなに気を抜いて話をしたのは初めてのことだった。
ナキはためらいがちに微笑んで、また彼女に、もう一つ、と小箱を差し出した。

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天寧霧佳

【長編恋愛小説】 ドラコニス 【連載中】

奴隷の少女、ナキはある日、墜落したドラゴンを助けます。それは王国の王子、ラッシュ・クンベルトの変身した姿でした。王宮に連れられ、ラッシュの付き人になるナキ。彼女はそこで「魔法」を学び始めますが……。
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