治療完了、目をさますよ - 17

第17話 「ロボトミープログラム」

自殺病の原因は分かっていない。
そもそもウィルスとはただの呼称であり、明確な定義があるわけではない。
マインドスイーパーが夢の中で見ている景色が本当のことかどうかも判然としない中、これが原因だと特定できる要素は、ない。
それ故に自殺病を防ぐことはできない。
かかってしまった人間は、ごく普通に、生きることがつらくなる。
それが悪化していき、仕舞いには生を放棄するようになる。
自壊的な破滅思考に頭の中を蝕まれ、それに耐え切れなくなり、自我が崩壊し。
自我の崩壊と共に、肉体も生命活動を止める。
そういう病気だ。
いや。
そもそも自殺病を病気と定義していいものかどうか、それさえも怪しい。
ただの集団ヒステリーの一つなのかもしれないし、流行的な誘導催眠なのかもしれない。
しかし現にそれにより人は死に。
今も、死のうとしている。

圭介は多数の赤十字の医師達が準備をしている中、大河内と睨み合っていた。
彼は松葉杖を苛立ったように鳴らすと、大河内に向けて言った。

「ヘッドセットを渡せ。医療業務の執行妨害だ」

大河内は圭介のヘッドセットを、握りつぶさんばかりに掴んでいた。
歯を噛みながら、彼は、その様子に唖然としている周囲の中で、押し殺した声で圭介に言った。

「……頼む。今回のダイブだけは遠慮して欲しい。これには未来が……沢山のマインスイーパー達の未来がかかっているんだ。理緒ちゃんだって治せるかもしれない。他の重度で、もう手の施しようがない患者だって……」
「知るか。ヘッドセットを渡せ。これは最後通告だ」

哀願するように言った大河内に、淡々と圭介は告げた。

「三十秒待ってやる。それ以上俺の業務を妨害するなら、元老院の拘束規定事項により、お前の身柄を一時的に拘束させてもらう」

圭介の背後から、黒服のSPが数人立ち上がり、大河内を取り囲む。
しかし大河内は、ヘッドセットを離そうとしなかった。

「……大河内。俺は思うんだ」

圭介は静かに口を開いた。

「大多数を救うために、一人を犠牲にするのは、医療行為と言えるのかな」
「必要な犠牲だ。いや……犠牲ではない。礎だ。そう、礎なんだよ、高畑。真矢ちゃんも、坂月君も礎になったんだ。それを使って何が悪い! 助かるんだぞ、沢山の人が! 第一お前だって理緒ちゃんを犠牲にした!」
「……ああ、そのとおりだな。だがそういう風に正当化するのは、俺達のエゴだよ」

圭介はニヤついたような、しかし悲しそうな歪んだ奇妙な表情のまま続けた。

「俺達は一介のエゴイストに過ぎない。救世主にはなれない。創造主にもなれない。誰かを助けるなんて、救うなんて、所詮そいつの自己満足、主観的な感情論でしかないんだ。お前はそれを押し付けることで自己を保とうとしているだけだ」
「だが、それで助かる人が、幸せになれる人が、感謝する人がいる!」

大河内はSPに取り押さえられながら喚いた。

「高畑! お願いだ、そっとしておいてくれ! 見なかったふりをしてくれ! 汀ちゃんだけは……」
「……もう遅い」

部屋の自動ドアが開き、そこで息を切らして車椅子を片手で操作してきた汀が、倒れこむようにして中に滑り込んだ。
転がり落ちかけた彼女を、慌ててジュリアが支える。

「……汀ちゃん……」

大河内が息を呑んで、そして大声を上げた。

「ここを出るんだ! 君が来ていい場所じゃない!」
「……せんせ、私、ダイブするよ……」

ゼェゼェと息を切らしながら汀は言った。

「駄目だ汀ちゃん! 君にはまだ早すぎる!」

SPの一人が、懐から出した拘束用の簡易手錠を大河内にはめる。
汀は悲しそうな顔でそれを見ていたが、ジュリアの手を振りほどいて車椅子を操作し、大河内に近づいた。

「大丈夫だよせんせ……私、救ってくる。だって、私、医者だもん」
「汀ちゃん……」
「だから、少しだけ待ってて欲しいの」
「君がダイブすることは想定の範囲内なんだ。でも、その先を君は……」
「全部知ってるよ」

ポツリと呟くように言った言葉を聞いて、圭介も大河内も、ジュリアも顔を上げた。

「私、全部知ってる。早すぎないよ」
「……思い出したのか?」

圭介に問いかけられ、汀は彼の方を一瞥したが、すぐに近くの医師を見上げて言った。

「早く私を接続して。理緒ちゃんを連れてきて。ダイブする!」

汀と理緒は目を開いた。
そこは、どこまでも広がるリノリウムの真っ白い床だった。
病院だ。
数百メートル先は暗闇に包まれて見えなくなっている。
天井には薄暗い蛍光灯。
どれも切れかけて、ジジ……と音をたてている。
壁には無数のドアが見て取れた。
部屋の中は暗い。
覗き窓からは中を伺うことはできない。
閉塞感に首をすぼめ、汀はヘッドセットに手をやった。

「ダイブ完了。ここが治療中枢?」
「汀ちゃん……私、何だかおかしい。体がうまく動かない……」

理緒が苦しそうに言う。
顔には大粒の汗が浮かんでいて、息が荒い。

『古びた病院のイメージのはずだ。理緒ちゃん、君にはGMDという薬が投与されている。一時的に脳の動きを抑えているが、落ち着いて対処すれば、君の能力なら切り抜けられる』

ヘッドセットから圭介の声が聞こえる。
今回は小白はダイブしてこなかった。
回線が複雑すぎて、ここの夢座標を見つけられなかったせいだと思われる。
理緒はしばらくふらついて歩こうとしたが、やがてペタリとその場にしゃがみこんでしまった。

「大丈夫、理緒ちゃん……?」

心配そうに顔をのぞき込んだ汀に、理緒は泣きそうな顔で言った。

「ごめん、汀ちゃん。私今回役に立てないかもしれない……頭が痛いの……」
「大丈夫。その分私が動くから。だって、私達、友達じゃない」
「私のこと嫌いになったりしない? 汀ちゃんの役に立てない私のこと、捨てたりしない?」
「大丈夫だよ。心配しないで」

理緒の手を握って一生懸命語りかける汀だったが、彼女の体も傷だらけだった。
忠信のナイフでめった刺しにされた傷がまだ塞がっていない。

『時間がない、動け汀。その空間は虚数をはらんでる。十二分に気をつけろ』
「虚数空間なの?」
『接続先がない入口は、虚数だ。存在しないが存在すると仮定された接続先に飛ばされる。下手なドアを開けて中に飛び込んだら、一生出てこれない可能性がある。理緒ちゃんをうまく誘導してやってくれ』
「分かった」

おそらく、この無数に繋がる部屋の入口が、マインドスイープの入り口。
ここを通って、スイーパーはそれぞれの人間達の頭の中にダイブするのだ。
汀は足を引きずりながら、理緒の手を引いて歩き出した。

「全部ドアが閉じてる……」

呟いた汀に、圭介が言った。

『日本中のマインドスイーパーが治療を自粛しているせいだ。今回の患者達の夢座標を読む。その場所に移動しろ』
「うん」
『お前達のいる仮想空間を一階だとすると、三階の奥に固まってドアが開いている部屋があるはずだ。そこに侵入しようとするものを、お前達の判断で、危険因子だと判断したら、出来るだけ撃退してくれ。抜けられて中に入られたら、患者の頭の中まで追いかけて行かなければいけない』
「分かった」

頷いて、汀は階段を登りはじめた。
そこで理緒が足を止めた。

「どうしたの、理緒ちゃん?」

そう言った汀の手をいきなり離し、理緒は彼女を突き飛ばした。
銃声がした。

『どうした!』

圭介の声がヘッドセットから響く。
もんどり打って床を転がった理緒は、右肩を抑えながら立ち上がろうとして失敗し、声にならない悲鳴を上げた。
しかし何とか壁の手すりにつかまりながら上半身を起こし、立ち上がる。
手すりがぐんにゃりと形を変え、重厚な肉切り包丁に変化した。

「テロリスト……! 狙われてる!」

理緒は細い声を振り絞って、左手で肉切り包丁を目にも止まらない速さで振った。
キンッ、という金属音が鳴り響き、理緒が殴り飛ばされたかのように吹き飛んでまた床を転がる。
彼女の頭を狙ってきたと思われる銃弾が弾かれて、壁に突き刺さった。

「うう……」

頭痛が酷いのか、理緒がよろめきながら立ち上がってふらつく。

「圭介! 『T』を理緒ちゃんに投与して、早く!」

汀が踊り場にしゃがみ込みながら大声を上げる。

『無理だ! 彼女に今「T」を投与したら、ショックを引き起こすぞ!』
「このままじゃ理緒ちゃんが死んじゃう!」

また理緒が包丁を振り、銃弾を弾き飛ばしたが、その勢いで吹き飛ばされて壁にたたきつけられる。
ズルズルと力なく床に崩れ落ち、理緒は糸が切れたマリオネットのように倒れこんだ。

「理緒ちゃん!」

どこから銃弾が飛んでくるのかわからない状況だったが、汀は慌てて立ち上がると理緒に駆け寄ろうとして……理緒がそこで右手を自分に伸ばし、手を広げているのを見た。

「来ないで……」
「理緒ちゃん、でも……!」
「行って。私は大丈夫だから」

理緒は憔悴した顔で笑ってみせた。

「また後で、遊ぼうね……」
「理緒ちゃんを置いていけない!」
「早く……! 人を助けよう。一緒に」

理緒がそう言って、よろめきながらまた立ち上がる。
撃たれた肩からボタボタと血が流れ落ちていた。

「汀ちゃんが行けば、沢山助かるんだよね? だから、行って。すぐに追いつくから」
「…………分かった。絶対に、絶対に死んじゃ駄目だよ、理緒ちゃん!」
「うん……分かった」

汀が走って階段を登り、向こう側の暗闇に消える。
理緒はそこで、足音が近づいてくるのを見てそちらに無表情を向けた。
長大なスナイパーライフルを肩にかついだ、赤毛の女の子が少し離れた場所で足を止めた。
岬だった。

「……驚いた。三発も止められて何をしたのかとおもったら、包丁で弾き返したの……?」

驚愕した声で呟く彼女に、理緒は低い声で言った。

「テロリストね。そこで待ってなさい。ブチ殺してあげる」
「あなた……片平さんよね。片平理緒」

岬はそう言って、足を止めた理緒を馬鹿にするように、鼻を釣り上げてみせた。

「なぎさちゃんにまかせて、この前みたいに脇で震えているのがお似合いじゃないかしら」
「大きなお世話よ」
「そう、残念ね。こんなところじゃなければ、私達いい友達になれたような気がするのだけれど」
「…………」
「ごめんね」

岬はスナイパーライフルを軽く振った。
ズンッ、というなにか巨大なものがリノリウムの床を砕いて落ちた。
理緒の目が見開かれる。
良く分からない。
分からないが、あれは危険なものだ。
心の中の本能的な何かが警鐘を鳴らす。
理緒は知らなかったことなのだが、岬の脇には戦車に搭載されるような、巨大な自動機関銃が出現していた。
その銃口が一人でに理緒の方を向き、きしんだ金属音を立てる。
モーターが回転し、大人の指ほどもある銃弾が瞬きする間に何百発も理緒に向けて発射された。
銃弾の雨ではない、嵐が壁を砕き、ドアを砕き、天井の蛍光灯を爆裂させて薙ぎ飛ばしながら理緒に向けて襲いかかる。
理緒はそれより一瞬早く壁を蹴ると、三段跳びの要領で天井を蹴って、まるでネズミのように、およそ人にはできない動きで身を翻した。
そして銃弾の嵐をかいくぐり、まだ壁を吹き飛ばし続ける機銃の脇を通過して、空中を体を丸めてくるくると回さりながら、岬に肉薄した。
肉切り包丁が振り下ろされた。

「……速い……ッ」

岬が悲鳴のような声を上げて飛びすさる。
その肩を浅く包丁がかすめた。
しかし威力は絶大で、岬は病院服ごと腕を袈裟斬りに斬られて、もんどり打って床に倒れた。
理緒は無表情で床に降り立つと、まだけたたましい音と作動音を立てながら銃弾を発射し続ける機銃の操縦席に立った。
そしてハンドルを操作して、銃口を力任せに動かし始める。

「……戻れ!」

自分を撃とうとしていることに気づいて、青くなるより先に岬が叫ぶ。
理緒の足下の自動機関銃がパッと幻のように消えた。
床に崩れ落ちた理緒の目に、どこから取り出したのか、巨大なショットガンを手にした岬の姿が映る。
彼女は理緒が反応するよりも早く銃をコッキングすると、照準をつけずに何度も引き金を引いた。
散弾が前方に飛び散り、床を飛んで避けようとした理緒の右手と右足が、ボロ雑巾のように吹き飛ばされた。
ゴロゴロと床を転がって、理緒は震えながら大量の血液を吐き出した。
何発か散弾が胸を抜けていて、病院服に赤い色が広がっていく。
岬は無表情で理緒に近づくと、頭を足で踏んでまた銃をコッキングした。

「さよなら。生きてても辛いだけだろうから、私が引導を渡してあげる」

理緒の目から段々と光がなくなっていく。

「汀……ちゃん……」

うわ言のように呟いて、理緒は動く左手で、少し離れた場所に転がっている肉切り包丁を拾おうと手を伸ばした。
岬がそこにむけて勢い良く足を振り下ろす。
骨が砕ける音がして、理緒は悲鳴を上げた。

「残酷な殺し方はあんまりしたくない。抵抗しないで」

理緒の頭に銃口を向け、岬は呟いた。

「じゃ……」

何かを言おうとした時だった。
理緒は、床に落ちていた薬莢を砕けた左手で掴んだ。
それがぐんにゃりと形を変え、リボルバー式の拳銃に変化する。
あ、と思った時には遅かった。
一瞬の差で、理緒が引き金を引いた。
岬の体が宙を舞い、彼女は額からおびただしい量の血を流しながら、何度か床をバウンドしてから転がった。
そして鼻から血を垂れ流して動かなくなる。
理緒は、しかし拳銃を取り落とし、右手と右足がなくなった体で、そのままうつ伏せに倒れこんだ。

「汀ちゃん……」

彼女は小さくかすれた声で呟いた。

「高畑先生が新しいゲーム機買ってくれるんだって……一緒に遊ぼう……だって……」

目から生気がなくなっていく。

「私達……友達じゃ……」

そこで、理緒は動かなくなった。

階段を駆け上がる汀は、三階に踊りだすと、そのまま足を引きずりながら手すりを掴んで走りだした。
おびただしい数のドアが脇にある。
暗い病院のどこまでも続く廊下を走りながら、汀はヘッドセットに向かって声を発した。

「圭介! 見つからない、患者達の意識に続く部屋が見つからないよ!」
『…………』
「圭介、どうしたの?」
『何でもない。理緒ちゃんがテロリストと交戦を開始した。彼女のバイタル監視に集中する。患者の部屋はすぐに見つかるはずだ。焦るな』

歯噛みしてヘッドセットの通話を切り、汀は廊下の角を曲がった。
そこで彼女は、十数メートル離れた向こう側に、長大な日本刀をダラリと下げた一貴が立っているのを目にした。
ただでさえ暗がりなのに、凶器を構えて異様な雰囲気を醸し出している。
その脱力したかのような姿に、汀は立ち止まって大声を上げた。

「そこをどいて、いっくん! 私はシステムを止めに行かなきゃいけないの!」
「……分かってる」
「あなた達の目的は何なの? 単純な医療テロが目的じゃないでしょ!」

汀の声に、一貴はつらそうに顔を歪めた。
そして何か言葉を発しようとして失敗し、激しくその場に咳き込む。
左手で口元を抑えて、一貴は何度か餌付くと手の平に広がった血液の痕に目を見開いた。

「……病気なの?」

汀が一歩を踏み出す。
一貴は寂しそうに笑うと、ヒュン、と日本刀を振った。

「残念ながらね。でも自殺病じゃない」
「私は医者よ。あなたを助けてあげたい」
「なぎさちゃんが僕を? ……嬉しいけど、君には無理だよ」
「やってみなきゃ分からないわ」
「君の大切な人を、大切な人達を殺しかけた僕を助けようとしてくれるの?」

静かに問いかけられ、汀は足を止めた。

「……大河内せんせを刺したのは、あなたね」
「うん。腹が立ってさ。君は僕のものなのに、あいつは君を自分のものにしようとしてる。殺しそこねたけど、状況が一段落したら、高畑とかいう医者諸共息の根を止めるつもりだよ」
「…………」
「ごめんね……なぎさちゃんをすぐに助けてあげられない。僕はまだ、それほど強くない」
「いっくんは大きな勘違いをしてるよ」

汀はまた一歩を踏み出し、静かに言った。

「勘違い?」
「ええ。あなたは、私を無力でひよこみたいな存在だと思い込んでる。だから自分が守らなきゃって、思ってくれてるんでしょ? でも私はもう、産毛は抜けてるの。大人よ。一人で歩けるし、一人で鳴ける」
「…………」
「大河内せんせのことが好きなのは、自分の意思。圭介に協力してるのも、自分の意志。あなた達のことを半分以上忘れてるのは悲しいけど、私はそれを乗り越えて前に進むつもりよ」
「なぎさちゃん……」
「だから邪魔をしないで。私が前に進むのを止めないで。私は、沢山の人を救うんだよ」

汀は言い終わると、一貴の目の前で足を止めた。
そして頭一つ分くらいも違う彼のことを、まっすぐ見上げる。

「大丈夫。私は医者よ。怖がらないで。いっくんのことも、すぐに救ってあげる」
「なぎさちゃん……僕には……」

言い淀んで、一貴は日本刀を握る手に力を込めた。

「……時間がないんだ。君がこの領域に到達するまで、待っていられる余裕が無い。だから、僕からもお願いだ。僕を救ってくれるんなら、忠信の精神中核を置いてここからすぐに立ち去って欲しい。今回は何もしない。約束するよ」
「…………」
「じゃなきゃ、僕は、今度こそ本当に君を……殺さなきゃいけなくなる」

数秒間汀と一貴は見つめ合った。
悲しそうな、やるせなさそうな目をしている一貴と対照的に、汀は目を爛々と輝かせ、強い芯をはらんだ視線をしていた。
汀と一貴の手が、同時に動いた。
日本刀を横薙ぎに振りぬいた一貴の腕を、汀が掴んでぐるりと体を反転させる。
次の瞬間、頭一つ分くらいも体格が違う男の子を、小さな汀は軽々と背負って投げ飛ばした。
床に背中からたたきつけられ、一貴が空気を吐き出す。
汀はそのまま拳を固めると、力いっぱい一貴の顔面に振り下ろした。
ドッ、というおよそ人間が発せられる音ではない異様な重低音をさせて、一貴の頭がリノリウムの床にめり込む。
放射状の衝突痕が床に広がった。
もう一度拳を振り下ろそうとした汀の手が止まった。
ざわざわと一貴の髪がひとりでに動き、彼の顔面を覆い隠す。
それはドクロのマスクを形作って定着した。

「駄目……もうスカイフィッシュになっちゃ駄目だよ!」

必死に声を絞り出した汀の前で、マスクをつけた一貴が手を伸ばす。
それに首を掴まれて、汀の小さな体がサバ折りのように曲がり、簡単に押し戻された。
上半身を起こし、一貴はもう片方の手で日本刀を構えた。
それを汀の額にピタリと当てる。
汀は呼吸ができなくなっている状況の中で、手を伸ばして反射的に日本刀の刃を手で掴んだ。
肉が切れ、ずるりと皮がめくれて血が溢れ出す。
一貴は汀の首を締めながら、彼女が押し戻そうとする日本刀を、力の限り押しこみ始めた。
血と脂で滑り、日本刀が少しずつ汀の額にめり込んでいく。

「いっくん……」

汀は、目にうっすらと涙を溜めながら、小さく言った。

「私は行くよ。ごめんね……」

バキィッ、と音がした。
汀の頭蓋骨が砕けた音ではなかった。
一貴の日本刀が、半ばから砕け散っていた。
汀は折り取った日本刀の先端部分を掴むと反転させ、一貴の胸に深々と突き刺した。

「がっ……」

異様な声を上げて、マスク姿の一貴が硬直する。
胸を抑えて、彼はよろめいて、どうとその場に崩れ落ちた。
汀も激しく咳をして、一貴に覆いかぶさるように倒れこんだ。
忠信にやられた切り傷が全て開いていた。
血まみれになっている汀を、一貴は震える手でそっと抱いた。

「……だいぶ、無理してたみたいだね……」
「いっくんこそ……」

「行きなよ。患者が待ってるんでしょ? その結果、君が不幸になるとしても、それは君の選んだ未来だ。後悔しなければ、僕はそれでいいよ……」
「後悔しない……私、行ってくる……」

汀は一貴に押されて、よろめきながら立ち上がった。
そこで、彼女達はパチ、パチ、パチ、と乾いた拍手を聞いて、顔を上げた。
拍手を発していた対象を目にして、一貴の目が見開かれる。

「まずい……もう起動してたのか……!」

彼がそう言って、胸に折れた日本刀を突き立てた状態のまま、汀を庇うように無理矢理に立ち上がり、腕を振った。
両手に二本の日本刀が出現してギラついた光を発する。

「……何……」

一貴はペタ、ペタと足音を立ててこちらに近づいてくる人影を見て、小さく呟いた。

「真矢先生……?」

呟いた先には、真矢と呼ばれた白衣の女性が立っていた。
長い赤毛に、整った顔をしている女性だった。
しかしどこか無機的な笑顔が張り付いていて、薄暗い照明に照らされて、かなり不気味な雰囲気を醸し出していた。
真矢は一貴と汀から少し離れた場所で足を止めると、白衣のポケットに手を突っ込んだ。
そして口の端を歪めて笑い、感情の感じられない目で二人を見る。

「……誰かと思えば、工藤くんと網原さんじゃない。久しぶりね」
「誰……?」

汀が小さく呟く。
一貴は少し言いよどむと、くぐもった声を返した。

「ナンバーIシステムの正体だよ。あれは虚像。システムにアップロードされた、昔のマインドスイーパーの、意識の断片だ」
「……赤十字……『機関』と『元老院』が、マインドスイーパーの意識だけを切り離して、夢世界に閉じ込めたって……そうすれば、生身の人間をダイブさせる必要はなくなる。それがナンバーIシステムの正体ね……」

汀は真矢をまっすぐ睨みつけ、続けた。

「大人が考えそうなことだわ。ねぇ圭介!」

ヘッドセットの向こうに汀が大声を上げる。
圭介はしばらく沈黙していたが、やがて押し殺した声をそれに返した。

『汀、議論をしている暇がない。工藤一貴、聞こえているか?』
「…………」

一貴は血液混じりの涎を口の橋から垂らしながら、それに答えた。

「聞こえてる」
『一旦停戦としようじゃないか。どうやら、お前の目的は俺達の目的と被るようだ。ここで汀と争わせてもいいが、お前にとって、それはあまり得策とは言えないだろうな』
「…………」

一貴は忌々しそうに歯噛みして、低い声で圭介に向かって言った。

「分かった。だが今回だけだ。条件がある。岬ちゃん……片平さんと一緒にいた女の子の精神中核に手を出すな。やられたんだろ?」
『…………』

圭介は一拍置いて、続けた。

『約束しよう』
「なぎさちゃん、これを」

一貴は汀に日本刀を一本渡すと、ふらつきながら自分の刀を構えた。
刃を向けられ、真矢がポケットに手を入れた姿勢のままニヤニヤと笑った。

「あらあら……無理はいけないわよ、工藤君。そんなに血を吐いて、血を流して、あなたの体も精神も、悲鳴を上げてるわ」

真矢は足を踏み出すと、悠々と一貴に近づいて、手を伸ばした。

「なぎさちゃん、説明は後だ! こいつに触られるな、全ての精神情報をスナーク(読み取り)される!」

一貴は飛び退いて、足を踏みしめると真矢に向かって日本刀を大上段に振りぬいた。
しかし、斬撃は振り切らないまま途中で止まった。
真矢が伸ばしていた手で、日本刀の腹を簡単に親指と人差指で掴んで、止めたのだった。

「くっ……」

歯を噛み締めた一貴の両腕の力を、細い腕の女性は片手で簡単に押し戻すと、大して力を込めている風はないのにあっさりとひねりあげた。

「ダメじゃない。大人に刃物を向けちゃ」
「なぎさちゃん離れて!」
「そういうことをするお馬鹿な子には……お仕置きが必要ね」

真矢がパッ、と日本刀から手を離した。
次の瞬間、彼女は一貴の方に手を伸ばし、口をすぼめて勢い良く空気を吐き出した。
それが竜巻のような渦を巻き、途端に轟音を立てて燃え上がった。
炎の渦が目にも止まらない速度で一貴に襲いかかる。
一貴はそれを見て、頭を抑えて体を丸めた。
ざわざわと彼の体から水蒸気のようなものが立ち上り、一拍後、彼はボロボロのシャツにジーンズ、チェーンソーというスカイフィッシュのいでたちに変わっていた。
彼は唖然としている汀に、チェーンソーを持っている方とは逆の手を突き出すと、とっさに大きく振った。
そこから防火マットのような黒い大きな布が出現し、汀の体を覆い隠す。
次の瞬間、二人を巨大な爆発が襲った。
病院の廊下、壁、天井が吹き飛んで、辺りに轟音と爆煙、そして砕けたコンクリートによる土煙が吹き荒れる。
数秒後、爆風が収まった空間で、一貴は回転するチェーンソーの刃で顔面を隠した姿勢のまま、深く息をついた。
体の所々が焦げて、まだメラメラと燃えている箇所がある。
真矢と一貴達の間の廊下が、スッポリとなくなっていた。
バラバラとガレキが落ちていく。
虹色のゲル状になったものが詰まっている空間が、砕けた病室の間から見える。
二階と四階に繋がる廊下と天井がなくなっていた。

「チィ……虚数空間なのか……!」

歯噛みした一貴に、真矢はフフフと面白そうに笑って答えた。

「そう、その先はどこにも繋がっていない暗黒の空間。そこに落ちれば、意識をもう引き上げることはできないわ」

真矢の体が、かげろうのように揺らいで消えた。

「治療の邪魔をする愚か者の子供は、無限の虚無に落ちて、自然消滅するまで後悔すればいい」

一貴のすぐ後ろから声が聞こえ、スカイフィッシュ状態になった彼は、マスクの奥の瞳を光らせながら振り向いた。
その瞬間、真矢は変質してチェーンソーが変化した、振りぬかれた一貴の日本刀を、また掴んで止めた。
そしてためらいもなく「虚数」と言った虹色の空間に、刀ごと彼を投げ飛ばそうとする。

「その手を離しなさい」

そこで、押し殺した汀の声が響いた。
チャリ、と金属音がして、真矢の背後から刀が伸びて、彼女の首筋につきつけられる。

「私は本気よ、意識だけのマインドスイーパー。彼の刀から手を離しなさい」
「あらあら……網原さん。少し見ない間に、すっかり大人びちゃって」

面白そうにフフフと笑い、真矢は一貴の刀から手を離し、白衣のポケットに手を突っ込んだ。

軽く目を閉じて、一貴と汀に刀を突きつけられながら、しかしそれを全く意に解していないように、彼女は続けた。

「自殺病は完全に治ったみたいね。良かった」
「自殺病……?」

汀はそう呟いて、怪訝そうな瞳を真矢に向けた。

「私のこと……?」
「なぎさちゃん、聞く耳を持つな! こいつはただの意識の集合体、プログラムの塊だ!」
「人間の意識なんてプログラムのようなものよ。所詮機械で制禦できる。あなた達子供には、難しすぎる話かもしれないけど」
「僕は子供じゃない……!」

一貴はそう吠えて、日本刀を振りかぶった。
金属音がして、火花が散った。
真矢が、いつの間に何を変質させたのか、一貴のものと全く同じ日本刀を片手に持って、彼の斬撃を受け止めていた。
瞬きをする間に、今度はもう片方の手でも同じような日本刀を構築して汀の刀を受け止め、彼女は二人のマインドスイーパーを簡単に押し戻し始めた。

「患者の治療を、邪魔しないでもらえるかな?」
「させるか! 僕の目的はあんたの消滅だ!」

一貴がそう叫んで日本刀を持つ手に力を込める。
マイクの向こうで圭介が息を呑むのが汀には分かった。
しかし、真矢の力は物凄く、両腕に力を入れて踏ん張っていても、徐々に体が押されて後ろに下がっていく。

「網原さん、あなたは自殺病にかかって全ての記憶と過去を失ったようね」

真矢はそう言ってまたくぐもった声で笑った。

「私は自殺病になんてかかって……」
「まだそれは思い出していないのね。いいわ、教えてあげる……」

一貴を吹き飛ばし、彼が床に開いた大穴を飛び越えて壁にぶつかり、もうもうと土煙を上げてめり込んだのを確認し、真矢は汀の刀も簡単に捻り上げて吹き飛ばした。
汀はくるりと回って壁を蹴り、床に降り立った。
そして真矢を挟んだ対角側で、一貴が床に崩れ落ちて大量に血を吐き出したのを見る。

「いっくん!」
「おっと、動かないほうがいいよ」

真矢がそう言って、日本刀を振った。

「ただのスカイフィッシュと小娘ごときに、どうせ私は止められない」

彼女は両腕に、自分の身長よりも大きな連装機銃……つまるところガトリング銃を構えていた。
本能的に危険を察知した汀がその場に停止する。

「……網原さんは生きてる『私』が、最後に治療した重度の自殺病患者。だから私も覚えてる」
「なぎさちゃん……自殺病にかかってたのか……」

無理やり起き上がろうとした一貴に無数の銃口を向け、真矢は引き金を引こうとして……。

「やめて!」

汀の叫び声で、指を止めた。
いつの間にか、汀は両手で小さな短銃を構えて真矢に向けていた。
そのちっぽけすぎる抵抗を受けて、真矢は面白そうにまたフフフと笑った。

「何、それ。せっかくの夢の中なのに、そんなものくらいしか具現化できないの?」
「あなたのしようとしてるのは、治療じゃない! 患者の精神内に入って、完全に区画……理性ごと自殺病のウィルスを破壊するつもりなんでしょ? そんなことはさせない! 私を惑わせようとしても無駄よ!」
「別に惑わせようとしてるつもりもないし……あなた達じゃ止められない。だって『私』はもう既に、患者の中に入っているのですもの」

汀の背後から声が聞こえ、彼女は慌てて振り返ろうとして、
首を掴まれ、壁に叩きつけられた。
空気を吐き出した汀の目に、少し離れたところでガトリング銃を構えている真矢と……自分のことを壁に押さえつけている真矢が映る。
一貴の脇にも三人目の「真矢」がどこからか現れていて、彼を羽交い絞めにして首を押さえつけていた。

「ど、どうして……」

呟いた汀に、もがきながら一貴が怒鳴った。

「こいつらはプログラムだ! いくらでも複製がきくんだ、早く抜け出して!」
「あなた達の精神を、麻痺させてもらうわ」

三人の真矢が同時にそう言って、ニヤリと醜悪に笑う。

『くそ……汀、「T」を投与した! 効果時間の間に何とかしろ!』

圭介の声がマイクから響く。
押さえつけられていた汀の姿が消えた。

「え……」

呆然とした背後の真矢の首が、落ちた。
凄まじい勢いで血液が噴出し、辺りの壁を真っ赤に染める。
崩れ落ちた首なし死体に構うことなく、汀は地面を蹴って、片手に日本刀を持ち、もう片手に短銃を持ちながら飛び上がった。
実に人間には不可能な程の勢いで、彼女は床に開いた大穴を飛び越えがてら、一貴を押さえつけている真矢に短銃を向けた。
次の瞬間、汀の銃が火を吹き、二人目の真矢がもんどり打って地面に倒れた。
そのまま汀は、目にも留まらぬ勢いで日本刀を振りかぶって、反応が遅れているガトリング銃を構えている真矢に振り下ろした。
袈裟斬りに斬られて、三人目の真矢が胸から血を吹き出しながら崩れ落ちる。
荒く息をついて膝をついた一貴の脇に着地して、汀は四つん這いになり、ものすごい勢いで胃液を吐き出した。
血が混じっている。

「なぎさちゃん!」

慌てて一貴が汀を助け起こす。
汀は体を細かく痙攣させて震えながら、一貴を吐き出した血と胃液で濡れた手で掴んだ。
そして自分の方に向けて引き寄せる。
一貴の背後から伸びた手が、彼の首を掴もうとしていた。
手が空を切り、一貴は振り向きざまに日本刀で、背後から来た四人目の真矢を斬り飛ばした。
しかしそこで、汀と一貴、二人の目が見開かれた。
彼女達はいつの間にか、ポケットに手を突っ込んだ数十人の真矢に囲まれていた。
彼女達全員が一斉にポケットから拳銃を取り出し、二人に向ける。

「今患者全員の『治療』を『私』が開始したわ。あなた達は間に合わなかった。タイムオーバーね」

数十人が一度に口を開く。
巨大なスピーカーからの音のようにウワンウワンと響く真矢の声の中で、汀は悲鳴のような声を上げた。

「どうすればいいの! 増殖するプログラム相手じゃ勝ち目がない!」
『分裂してるのか……! 汀、そこから離れて帰還しろ!』
「でも患者が……」
『もう止められない! 安全な場所まで逃げろ! 回線を強制遮断するまでの時間を稼げ!』

圭介が怒号を発する。

『真矢! 満足か……お前はそれで、満足なのか!』

数十人の真矢は、圭介の声に反応するでもなくフフフと不気味に笑った。

「大丈夫、なぎさちゃんだけは逃がす。僕以外の奴に君が殺されるなんて、そんな未来まっぴらごめんだ!」

一貴はそう怒鳴って、壁を背にしながら汀をかばいつつ立ち上がった。
その時だった。
不意に数十人の真矢の動きが一斉に止まった。

「くっ…………電力供給量が圧倒的に足りない…………」

一人の真矢がそう呟くと、別の彼女が続いた。

「全てのシステムを一時凍結。強制切断、ラインの暗転を確認」0
「システムのシャットダウンを開始。切断まで残り三十秒」
「駄目……また、また暗闇は嫌……やっと出れたんじゃない……やっと外に出れたんじゃないの? 私をまたあそこに閉じ込めるの? 私のことを、また閉じ込めるの……?」

真矢達が肩を抱いて銃を取り落とし、絶叫するように苦しみ始める。

「榊……健吾……助けて! 私また戻りたくない!」
『…………』
「圭介!」

呆然としていた圭介に、マイク越しに汀が怒鳴る。

『回線を強制遮断するぞ!』

ハッとして圭介が叫ぶ。

「待って、なぎさちゃん!」

慌てて一貴が汀に向かって手を伸ばした。
汀はそれを握り返そうとして……その姿がフッと消えた。
沢山の真矢は、いつの間にか消えていた。
一貴はしばらくの間停止していたが、やがて目の前で一人に戻って、肩を抱いてしゃがみ込み、震えている真矢に近づいた。

「……真矢先生、お久しぶりです。夢の中で、前は何度もお会いしていましたね。僕に、変質のイロハを叩きこんでくれたのも、あなただった」

真矢の体がピシピシと音を立てて石灰のように白い塊になり、崩れて落ちていく。

「……まだ、システムは未完成なんだ……いける……」

一貴はニヤァ、と口を裂けるのではないかと言わんばかりに開いて、パンッ、と壁を平手で叩いた。
そこに古びたドアが出現する。
それを開き、彼はクックと笑い呟いた。

「なぎさちゃん、すぐに迎えに来るからね……」

一貴が扉の中の黒い空間に体を踊らせる。
そこで、天井の蛍光灯が一斉に、音を立てて消えた。

「そんな……システムエラー……ダウンだと……?」

大河内が呆然と呟いて、膝をつく。
圭介はそれを冷めた目で一瞥してから、周囲に声を張り上げた。

「片平理緒さんの手術を開始してください! 治療術式は中止だ! 患者の脳接続を全て切るんだ!」
「馬鹿な! システムは完璧だったはずだ!」

大河内が後ろ手に手錠をかけられたまま、大声を上げる。
圭介は頭からヘッドセットをむしりとると、それを床に叩きつけた。
そして大河内に近づいて、ためらいもなくその腹に無事な方の足の爪先を叩き込む。

「ドクター高畑! 何をするんですか!」

ジュリアが慌てて彼を抑えて止める。

「よくも……よくも真矢を……」

ギリギリと歯を噛み締めながら、圭介は殺気を帯びた視線を大河内に落とした。
しかし彼はそれ以上言わずに言葉を押し殺すと、無理やりにそれを飲み込んで背中を向けた。

圭介は薄暗い病室の中で一人、備え付けの電話の受話器を手に取り、しかし思い直してそれを元の位置に戻した。
そして懐から携帯電話を取り出し、窓際に移動してからダイヤルする。
しばらくコール音が鳴り響き、やがて人を食ったような朗らかな調子の青年の声が聞こえた。

『やあ、大変だったようじゃないか。聞いてるよ』
「…………」
『機関は彼女とテロリストを交戦させようとする筋書きまでは組んでいたけど、まさかシステムが自壊してダウンするとまでは予想できなかったようだ。大騒ぎだ』
「……知ってたな。ナンバーIシステムの凍結が解除されたことを。何故俺に黙っていた!」
『僕は君の協力者であって、奴隷じゃないからね。聞かれてもいないことを答える義理はない』

淡々と冷たく返され、圭介は口をつぐんだ。

『相変わらず真矢ちゃんのことになると見境なくなるな。今回の君の軽率な行動で、網原汀という大事なコマが、自分自身の持つ贖罪の意味に気づき始めてる』
「…………」
『冷静になれよ、高畑。僕達が「真矢」と呼んだ人間はもう死んだ。僕のように』

クックと笑い、電話の向こうの声は続けた。

『僕達は生きてはいない存在だ。人間の本質が肉体になるのなら、もうとっくに死んでる。いつも思うよ。僕達って、一体何なんだろうって』
「…………」
『高畑……いや、中萱なかがや、僕は君のことが嫌いだ。大前提として、それを忘れないでもらいたいね』
「坂月……」

歯ぎしりして声を絞り出した圭介に、電話口の向こうの青年は面白そうな笑い声を返した。

『おっと、「中萱榊」という名前はもう捨てたんだっけか? あの頃もそう言ってたな……君はいいよな。そうやって自分に都合の悪いものを全て僕達に押し付けて、自分だけはのうのうと安全な場所に居続けようとする。腐った根性だ』
「…………」
『だから真矢は死んだんだよ。僕も、それに巻き込まれた。君は一加害者の一人であって、被害者面をしてほしくないものだ』

坂月と呼ばれた声は、淡白な調子で吐き捨てた。

『網原汀にすべてを悟らせるのはまだ早い。テロリストとも、もう接触をさせない方がいい。あの少年は、知らなくてもいいことを知りすぎてる。多分真矢のコピーが教えたんだ』
「……コピーでもいい。真矢を助けたい。協力しろ」

押し殺した声でそう呟くように言った圭介に、少しの沈黙の後坂月は言った。

『僕に助けを求めるなんて、君も相当追い詰められてるな』
「するのか、しないのかどっちだ」
『……いいよ。真矢ちゃんのことは、僕にも責任がある。赤十字グループの思うとおりにはさせない』
「…………」
『網原君を、テロリストが動きを止めている隙に「三十五番のエーゲ海」にダイブさせるんだ。そこで、僕は彼女と話をしたい』
「分かった」

圭介はそう言うと、ブツリと一方的に電話を切った。
そして苛立ったように携帯電話をベッドに投げ捨て、どっかと椅子に腰を下ろす。
病室の隣に、ガラス張りの無菌室が設置されている。
精神と肉体の傷は、時として連動することがある。
そこには体中いたるところに包帯を巻かれた汀と理緒が、
多数の点滴と機材に囲まれて静かに眠っていた。
中にはまだ医者や看護師が動いている。
そこで圭介は、入り口のベルが短く鳴ったのに気がついて立ち上がった。
そして松葉杖を鳴らしながら鍵を開ける。
そこには、SPも連れずに青い顔をしたソフィーが立っていた。

「何だ……君か」

呟いた圭介に、ソフィーはぶっきらぼうに手に持った資料を差し出した。

「随分前にあなたに依頼された人間の、夢座標の位置を割り出したわ。受け取って」
「天才にしては随分遅かったじゃないか」
「私も暇じゃないから」

髪をかきあげ、ソフィーは嘲るように圭介を見た。

「……あなたも随分悪趣味なことするわね。他人の夢座標を勝手に割り出すのは、犯罪よ」
「だが医者ならばそれが許される」

暗い表情のまま、圭介は資料をめくって目を通した。
ソフィーが一瞬それを見てビクッとした程、不気味な表情だった。

「……成る程、『三十五番のエーゲ海』か……」

圭介はそう呟いて、ソフィーに目をやった。

「なぁ、暇なら俺達のことを手伝わないか?」
「暇じゃないわ。もう金輪際こんなことはご免よ」
「つれないな……君のその左腕を治してやれると言ってもか?」
「え……?」

スカイフィッシュのチェーンソーで斬られてから、機能しなくなっている自分の腕をソフィーは見た。

「……どういうこと?」
「とりあえず中に入れ。話はそこでしよう」

圭介は戸惑うソフィーを招き入れ、小さく笑った。

「赤十字を、ただじゃ済まさない。君も個人的に恨みがあるようだな。協力体制といこうじゃないか」
「…………」
「俺達の『治療』の開始だ」

暗がりで圭介の表情をよく見ることができない。
だがソフィーは、彼の目を直視することができなかった。
それほど圭介の目は、激しい殺気と狂気を帯びていて。
およそ常人がすることのできない表情をしていたからだった。
眠っていた小白が頭を上げて、彼のことをじっと見上げた。
汀の腕に繋がれた点滴が、ピシャンと水滴を落とした。

>第18話に続く

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