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シープインザゴールド

むかしむかし、悪い王様に捕らえられたお姫様がいました。そのお姫様は、羊に姿を変えられて、眠らない龍の見張りの元、洞窟に閉じ込められていました。
そのお姫様を助けるために、ある国の王子様が魔女から知恵をもらって龍に立ち向かいました。

そんな話を、昔誰かから聞いた気がします。


一 夜明けと月と。

私には双子の友達がいる。
幼い頃からずっと側には彼らがいて、親同士も私たちをきっかけに交流を深めていった。
まるで三人目の兄妹のように彼らは私を受け入れ、共に過ごした。三人でいると本当の兄妹のように間違えられることもあり、一人っ子の私はそれが嬉しかった。
私には変な能力があって、それは、人や物のエネルギーみたいなものが「糸」になって見えるというものだ。
幼い頃からそれは普通だったので、他の人には見えないと知った時はびっくりした。
一人になるとそれを手繰り寄せてはリボンを作ってみたり、編み物のように編んでみたりしてひまつぶしに遊んでいた。
ある日、私が暮らすマンションの入り口で母が出てくるのを待っていると、一際輝くそれを見つけたので追ってみた。すると、そこに彼らがいた。
最初は一卵性の双子である彼らを見分けることが難しかったけれど、男女の違いもあって成長するにつれ間違えることは少なくなった。いや、それだけじゃない。最初は殆ど同じだった「糸」が少しずつ変化していったからでもあった。
小学校の中頃まで彼らと過ごし、私は両親の仕事の関係で少し離れたところへ引っ越した。今住んでいる場所に越して来てからもう、八年程が経つ。
最初は離れていても彼らの「糸」が飛んでやってきたものだったが、どんどん細くなり、最後は消えてしまった。
「きっと、私のことを忘れてしまったのだ」と最初は寂しかったけれど、私自身も新しい学校で友達が出来たりと忙しく、それを気にしている暇はなかった。
でも、新しい友人達に「糸」の話はしなかった。

「陽子。」
名前を呼ばれて反射的に振り返ると、付き合って三週間ほどになる恋人がいた。
ーこの人の糸は、あんまりきれいじゃない。
告白され、ものは試しと軽い気持ちで付き合い始めたのだが、どうも体の関係にいくほどに熱い気持ちにはなれなかった。手すらも、まだ繋いでいない。
私は、相手の顔よりも、声よりも先に「糸」の方へと目が向いてしまう。
糸はいつも変化を続け、体調が良ければきらきらするし、落ち込んでいればその輝きはくぐもってしまう。その輝きだって十人十色で、人の感情と同じように誰かと誰かの糸が、全く同じ色を持つことは殆どありえない。今まででそうであったのは、小さい頃の彼らだけだ。私は久しぶりに双子の友人のことを思い出した。
「ごめん、わたしもう、あなたとは付き合えません。」
気付いたらそう言っていた。
「は?え?」
彼は面食らって、漫画のように口をポカンと開けていた。
我ながら理由も告げずにひどいなあと思うが、まさか『あなたの糸が美しくないので。』なんて言える訳もなく(言ったら余計ややこしくなるだけだ。)わたしはその場を走って立ち去った。
数日は学校内で噂になるかもしれないけれど、それはもう自分が蒔いた種だし仕方がない。
「魔が差したな。残念…。」そう呟きながら、学校帰り、気晴らしにクレープを買って食べた。
だって、糸が見えて違うって思ったら、そのまま相手に合わせて無理やり付き合ってる方が失礼じゃないか。
誰に言うでもなく、私は頭の中で言い訳をした。

『見えてしまうから』というだけでなく、なんでも白黒はっきりつけたい性格だというのも困りもので、
「そんなに頑固でこの先どうするの。」と、よく母にも心配される。
自分でもそう思うけれど、
「みんなは、知らなくていい事を知らずに済んでるからそんなこと言えるんだ。」
内心そう思わずにはいられなかった。

私のこの力は、どうやら母方の祖母から受け継いでいるらしかった。
北国の山奥で生まれた祖母は子供の頃、彼女の母である曾祖母と一緒に村で暮らしていた。
裁縫が得意な人で、家政学校に入るために更に山奥から町へ出てきて、そこで出会った男の人と駆け落ち同然で結婚し、母を産んだ。
私がとても小さい頃に祖母は死んでしまったので、この力について直接話を聞くことはなかったけれど、私は隔世遺伝的にそれを受け継いだらしい。
この力が嫌いなわけではない。でも、不都合なことが多いことも確かだった。
世の中には知らない方がうまくやれることもある。

まあ、それでも、この力がなかったとしても性格はきっと変わらなかっただろうけど。

食べ終わったクレープの包み紙をくしゃくしゃ丸めながら歩いていると、ふっと一際輝く「糸」が目の前に現れた。
こんなに綺麗な糸、持ち主は誰かと流れてきた先を見ると、同い年くらいの眼鏡をかけた男の子がいた。
たくさんの人の海の中で、一人だけ、わたしをじっと見ている。
「曙?」
脳みそをフル回転させ、たくさんの場面をフラッシュさせていくと、その名前が浮かび上がった。
「あたり!」
一見頼りなさそうに見えるその眼鏡君は、かくれんぼで見つけられた子供のような顔で答えた。
「どうしたの?偶然?よくわかったね。」
あまりに久しぶりの、しかも突然の再会でびっくりした。
「会いにきた。」
見た目とは裏腹に、パリッと喋るその感じは全く昔と変わらなくて、わたしはみるみるうちに当時のことを思い出した。ただ少し翳りがあるのが気になるけど。
「月子は?一緒じゃないの?」
「うん、今日はね。でも、次は一緒に来るよ。」
私の記憶が正しければ、彼らの家と私の家とでは、同じ県内といえども片道で一時間はかかる。休みの日でもないのに、一体どうしたのだろう。
「一体どうしたの?」
思ったことをそのまま口にした。
「陽子の、糸の話が聞きたくなったんだ。気付いたら、向かってた。」
その言葉を聞いて、彼らの周りで何か問題が起こっていることを直感的に感じた。
「今日、何時までいられる?取り敢えず、話、聞くよ。」
そう言うと、彼は困った子犬のような顔をして「うん。」と返事をした。
彼の家の遠さを考えるとあまり時間がないように思えたので、私たちは一番先に目についたファミレスに入った。
中に入ると、私たちと同じ年代の子達で席がほぼ埋め尽くされていた。
「もっと落ち着いた場所の方がいい?」
「ううん、今は少し賑やかな場所の方がいいな。」
糸は変わらず光っているのに、彼自身にはあまり余裕がないように見えた。
周りに紛れるように彼女たちと同じドリンクバーを頼み、席に戻る。
「それで?」
「それで…。」
彼は、言いにくそうに話し始めた。
「簡単に言うと、月子を助けたいんだ。うち、父さんに愛人ができてさ、離婚することになったんだよ。正式には決まってるけど、手続きはこれからで。」
「え、うそ。あんなに仲良さそうだったのに。そうなんだ…。」
「うん、それで、俺たち的には母さんの方に付いて行きたいんだけど、母さんずっと専業主婦だったから、収入がないだろう。
それで、親権は父さんが持つことになりそうなんだけど…。」
頭の中でたくさんの質問が駆け巡るのを耐えつつ、じっくり彼の話に耳を向けた。
「そうしたら、月子がものすごくショック受けて寝込んじゃって。飯とか、全然食わなくて。」
彼は今にも泣き出しそうな声で話を続けた。
「月子の好きなもの買ってきたり作ったりしても、全然だめなんだ。家族を助けたいのに、俺だけが宙に浮いてる気がして、途方に暮れてたら、陽子のこと思い出した。」
そこまで言い切ると、曙は喋るのをやめ、グラスに残ったコーラを一気に飲み干した。
年月というものは、簡単に色んなものを変えてしまうのだろうか…。そう思うと寂しい気持ちになった。
しばらく黙っていると、賑やかな景色の中に私と曙だけが取り残されて、テーブルや椅子やお皿の中に紛れ込んだみたいな気持ちになった。
「それで、どうしよう。私が会いに行こうか。でも月子はこっちに来たほうが気持ちが楽なのかな。」
「次の日曜に、二人でこっちに来るよ。俺が陽子に会いたくて来たから、今日のことは月子も知らないんだ。誰にも言わずに来た。」
「そうか…わかった。それじゃあ、来週の日曜日に。時間と場所は任せるから。」
「ありがとう。相変わらず、糸は見えているの?」
話し終えて気が楽になったのか、彼の顔に血の色がすこし戻った。
「うん、見えてるよ。見えすぎて困る時もあるくらい。相変わらず、人混みは、苦手だよ。」
「まだ見えてるんだ…。」とつぶやきながら、曙はグラスの中の氷をストローでくるくるかき回した。
成長するにつれ、少しはこの能力もコントロールできるようになってきた。でもそれは完全ではなく、見なくていいものを見てしまうこともたくさんあるので、雑念が多い場所にはあまり近づきたくないのが本音だ。特に、大人たちがたくさんいる場所には。
以前、試しに自分の部屋で全開まで見られるようにしてみたら、全ての形が消え、光どころか視界が全部真っ白で埋め尽くされてしまった。
それを試してからすこしは、カメラの虹彩を絞るように見える量を調節できるようになったのだけど。
「陽子の力に縋りたいわけじゃない…。いや、ごめん、それは嘘だ。
本当はその神さまみたいなその力が何か奇跡を起こしてくれるんじゃないかって、心の隅で期待してる。でも、そんなの卑怯だって思って、できるだけ考えないようにしてるんだ。」
「うん、わかるよ。大丈夫。曙は昔から変わらないね。」
『どういうこと?』と言いたげに、彼は目を丸くして私を見つめた。
「今は、何も気にしなくていい。できるだけ、今のうちにゆっくりおやすみ。最近、全然寝てないでしょ。」
ふっと、肩の力を抜いて、曙は眼鏡を外し、ソファの背もたれに寄り掛かった。
「そうなんだよ。全然、眠れなくて…。」
「わたしは勉強でもしてるからさ、小一時間くらい寝ていいよ。」
「ありがとう。陽子の顔みたら安心して、ものすごくさっきから眠くて…。」
それだけ言うと、彼はあっという間に寝息を立て始めた。
こんな状態でも、糸が光っていたのは彼が気を張っていたからだと気付いた。命を燃やして燃やして、それでなんとかバランスを取っていたのだ。
そうでなければこんなうるさい場所で、すぐに眠りに落ちることなんてできない。
私はヘッドフォンで音楽を聴きながら、曙が起きるまで静かに待った。
耳の鼓膜の上を、遠い国の音楽が波打った。

だいたい、四十分ほどだろうか。
曙が急に、ぱちっと目を覚ました。
「おはよう。」
寝ぼけまなこの彼に声をかける。
「ん、俺、どれくらい寝てた?」
「四十分くらいだよ。ちょうど、聞いてたアルバムを一周した。」
そっか、と言い曙はスマートフォンで時間を確認した。
「ごめん、そろそろ帰らないと…。月子や母さんが心配する…。」
「うん、また次の日曜に会えるし。今はとにかく、どこにいても心と体の負担を減らした方がいいよ。」
「ありがとう。久しぶりに、ちょっとだけだったけど熟睡できた気持ちだ。」
「よかった。電話番号とメアド、教えておくから。
すぐに返事できない時もあるけど、月子にも教えといて。」
「わかった。伝えとく。」
彼はまだ目が覚めきらない様子で電車に乗り込み、帰っていった。

「今日、遅かったじゃない。友達とでも会ってたの?」
家に帰ると、母がやけに察しよく聞いてきたけれど、
「ううん、ファミレスでちょっと勉強してた。」
と適当に交わしておいた。いつまでも何でもかんでも報告するような年齢じゃないんだぞ、私だって。
それでも、その日の晩御飯は私の大好物である母の作るオムライスで、しまいには
「元気、出た?」なんて聞かれてしまった。結局は、全部お見通しなのだ。
「まあね。ありがとっ。」と、わざとぷりぷりして見せながら自分の部屋に閉じこもった。
すぐに月子からメールがくるかと思ったけど、その夜は結局寝るまで何も音沙汰はなかった。
どうせ日曜に会えるのだし、全てはその時だ。

次の日学校に行くと、昨日私が振った男の子とすれ違った。
向こうは一瞬『あっ。』と、何か言いたそうな顔をしたが、わたしはそのまま歩く速さを緩めずに軽く会釈をして立ち去った。彼の糸はやっぱりふにゃふにゃとして鈍く、それ以上は何も感じなかった。
「私って、ひどいなあ。」
そう思いつつも、仕方ない。ただ、昨日よりも少しだけ深く「ごめんなさい。」と、心の中で彼に詫びた。
友達は、「陽子は短気過ぎる。」というけれど、私としては何でそんなに気を長くしていられるのか不思議に思う。若くいられる時間は短い。それなのに、自分の興味が向かないものに割く時間なんてない。
わたしは今まで、本当に小さな頃から、どんどん輝きを失い消えて行く糸を見てきた。
ただ消えるのと、輝きを失い消えるのとではだいぶ意味が違う。
糸は見ようとしても見えないこともある。それは、その人自身がその生命力を内に秘めている時だ。それは、ただ見えないだけで強さを失っているわけではない。瞳にはその強さが残る。でも、輝きを失い見えなくなっている糸は危うい。
電車に乗っていると、そういう人ばかりで切なくなる。
彼らはどこでどう言う道を辿り、彼ら自身を磨耗していったのだろう。
到底知り得ることはないし、どうにかできるものでもないけれど、ただただ切ない。
昔はみんなと違う能力を持っている自分が、彼らのことを救わなくてはならないと感じていたし、それが自分に与えられた使命だと思い込んだりしていた。
でも、それは全くの勘違いであった。余計なお世話だと友達と喧嘩したりもしたし、どこからか噂を聞き能力を必要としている人が現れても、彼らは底なし沼から足を引っ張るがごとく、どこまでも私から『善きもの』を搾取しようとした。持ちきれなかった。
「なんでもかんでも、口にすれば良いってものじゃないのよ。」
喧嘩した友達からはそう言われた。
それから私は自分の力で人を助けようとは思わなくなった。
人にはそれぞれのあるべきタイミングがあって、それは私がコントロールできるようなものではない。必要であれば呼ばれる。ただそれだけだ。

でも、今回は別な気がする。どんなにお節介と言われても良い。結果、嫌われても構わない。
私は双子の幼馴染を、どうしても助けたかった。
確信はないけれど、呼ばれている感じがした。

日曜、待ち合わせは駅の改札前にした。
家だと母が居てやたらと気を使ってきそうで面倒だし、どこならゆっくり話せるだろう…。できるだけ、楽しいことだけが目につくような場所がいい。
あれこれ考えているうちに、改札の向こうに曙が見えた。多分、曙の後ろを付いて来るように歩いている人影が月子だ。
「月子…。」
彼女はとても小さく見えた。見た目にはそこまで現れていないけれど、衰弱している感じが遠目からでも手に取るようにわかる。そして、まるで蜘蛛の糸のように、彼女の糸は細く今にも消えそうだった。
あちらも気づいたようで、曙が手を振る。
「陽子。おまたせ。」
「遠いところわざわざ、ありがとうね。月子、久しぶり。」
恐る恐る彼女の目を見た。
「陽子ちゃん…。」
月子は無表情で私の名前を呼んだ。でも渾身の力を振り絞って、笑顔を作っているように見えた。
まるで、ビスクドールのような白い顔。瞳はガラスをはめ込んだように美しく、でもそこには何も映し出されていないような、空っぽの色をしていた。真冬の白い満月のようだ。
「月子、何食べたい?食べられる?ご馳走するから。」
私は彼女の手をぎゅっと握った。
「…。」
彼女は無言のままでいる。隣にいる曙も月子の様子を伺っている。。
「よし、こんな時は甘味だ。パフェだ。歩ける?少し歩いたところに可愛くて美味しいパフェがあるお店があるから。」
二人の手を取り、私は勝手にぐんぐんと歩き始めた。
思えば、小さい頃からこうだった。私が二人を連れまわす、この感じ。懐かしい感じが楽しい。ちらっと月子の顔を見ると、彼女も少し嬉しそうだった。
その顔を見て安心すると、二人が疲れないように再び前を向いて歩いた。

向かっているカフェは、駅から歩いて十分くらいの場所にある。最初は普通の喫茶店だったところが、店長がパフェにのめり込み、お菓子作りの修行にフランスまで行ったらしい。そうして最近では、喫茶店というより「美味しいパフェが食べられる店。」として有名になっている。私も落ち込んだ時や元気が出ないときは、よくここへ行く。
「はいっメニュー。好きなの選んで。」
席に着くなり、上着を脱ぐのも待たずにメニューを開いた。
「陽子ちゃん、せっかちすぎい。全然変わってない。」
今までずっと死んでしまったように伏し目がちだった月子が、弱々しくもやっと少しだけ笑った。そのおっとりとしたやさしい喋り方は、まぎれもなく月子だ。
「え、そんなに変わってない?もう十年近く経つのに?」
「陽子の性格は変わらないよ。だって、こないだも、すぐ発見したもん。」
ずっと様子を伺っていた曙が、眼鏡の位置を直しながら茶々を入れる。
「それ、性格関係ないじゃん。見た目じゃん。」
「性格は見た目に現れるんだよお。」
そういう曙は真逆じゃん。眼鏡くんだけど、ハイパーアクティブじゃん。
「私これにする。いちごのパフェ。」
私と曙がじゃれ合っているうちに、月子は注文を決めていた。
「それじゃ、私はチョコバナナパフェにしようかな。」
「二人とももう決めたの。俺は…。抹茶パフェにする!すみません、注文お願いします。」
店員を呼んでそれぞれのパフェを頼むと、三人で黙り込んだ。
私から無理に何かを聞き出すことはしたくない。そう思って、ずっと彼らが話し出すのを待った。
でも、居てもたっても入れなくなり、思わず私は二人の手を握った。すると、二人は優しく私の手を握り返した。三人が三人とも黙ったままで、お互いの体温を感じ合った。
三つの糸は重なり合ってミサンガのように編まれていき、広がって、テーブル全体を包んでいく。おそらく彼らには見えていない。ひとりでそんな光景を見ていた。
うーん、やっぱりただ黙ってるのは苦手だ。どうしよう…。
「お母さんを家から追い出して、お父さんが何も言わずに女の人を連れて来たの。
私それでいっぺんにお父さんのことが信じられなくなった。」
意外にも、先に口を開いたのは月子だった。
「お母さんは、それでも一生懸命私たちを元気つけようとしてくれたの。私がご飯食べられなくなってるの知って、お弁当作って持ってきてくれたりした。お母さんの実家、遠いのに。それなのに、親権はお父さんが持つとか、ひどい。」
月子の口調は、怒りと悲しみとが入り混じり、でもそれ以上に途方に暮れていた。曙は黙って聞いている。月子の糸だけ萎縮し始め、私と曙から離れていこうとする。
「お待たせしました。」
店員の声でハッと顔を上げる。目の前には、芸術作品のようなパフェの姿があった。
「アイスが溶ける前に食べよう。いただきます。」
月子は下を向いたままだ。やがてゆっくり一番上のいちごを一口だけかじると、そのままフォークをパフェの下皿の上に置いた。
私と曙のパフェグラスが空になってもなお、月子のいちごパフェは形をほとんど崩さないままそこにあった。時間の経過に耐えきれず、アイスと生クリームは少しずつ溶け始めている。
「ごめんなさい。わたし、やっぱり食べられない。いちご、美味しかった。ごちそうさまでした…。」
曙は「だめだったか。」と、残念そうな顔をした。
「いちごパフェ、可哀想…。」月子が切なそうにつぶやく。
「だいじょうぶ!私と曙で平らげてしまいましょう!はい、曙もロングスプーン装備して!」
二人でパフェをつつく姿を見て、月子は楽しそうだった。それだけでも、ここに連れてきてよかったと思えた。いちごのパフェはあっと言う間に私と曙によって食べ尽くされた。
「やっぱり、うちに行こうか。お母さんには適当に言って、部屋に近づかないでもらうようにする。うちのお母さんお節介だから。そのお節介さに助けられたりもするんだけどね。今、連絡するからちょっと待ってて。」
母に電話をかけながら、『焦らないで丁寧にいこう。月子はすぐよくなるさ。』
と、彼女の顔を見ながら祈りにもつかない思いを浮かべた。

「曙くんと月子ちゃん!大きくなったわねえ。
どうぞどうぞ上がって!お茶とお菓子くらい用意するね。」
家に着くととびきりのテンションで母が出迎えてくれた。母はいつだって、うらやましいくらい元気だ。
「お菓子はいいよ、パフェ食べてきたから。久しぶりの再会なんだから、三人でゆっくりさせてね。」
「パフェって、あそこに行ったの?お母さんも呼んでくれたらよかったのにい。」そう言いながら、母はキッチンに入りお茶の準備を始めた。
「ああ、もう、騒がしいなあ。」気を使いながらちらちら二人を見ると、
「ううん、陽子の母さんのああいうところ、昔から好きだったよ。」
と、曙は言った。月子はやっぱり、静かに微笑んでいた。
「ごめんね、わたしのせいで。」
部屋に入って座るなり、ポツリと月子がつぶやいた。
「あやまることなんてない、一番大変なのは二人でしょう。
楽しい再会にはならなかったけど、私は二人に忘れられてると思っていたから、こうしてまた会うことができて嬉しいよ。」
外だとそういうことはあまりできないけれど、私は自分の部屋をできるだけ、居心地の良い糸で満たすようにしている。好きなものを置いて、掃除もこまめにして、部屋に置かれている全ての物たちができるだけ満足してそこにいられるように心がけている。
人だけじゃない。物も大切にされると喜んで輝きだす。糸は嘘をつかない。
私は彼らのことをじっと見つめた。
こんなに可愛らしい双子の兄妹を、衰弱させるほどに悩ませている彼らの父親は、一体何を考えているのだろう。でも今は私が腹を立てても仕方がない。私がしたいのは彼らを助けることであって、怒りに飲み込まれることじゃない。
だいぶ時間が経ってから母が部屋に飲みものを届けにきた。
「ちょうどさっき焼きあがったクッキーがあったから、持ってきたわ。」
多分、私たちが部屋に入るのを見届けて急いで焼いたのだろう。手に取って見ると、かなり熱々だった。成長期とは言え、こんなに食べさせて、母はどれだけわたしを太らせたいのだ…と、思いつつ、一枚だけ、とクッキーを口に運んだ。悔しいけど、やっぱり美味しい。口の中が天国みたいになった。
「曙たちはいつから春休み?」
私は思い切って、口を開いた。
「うんとね、来週の金曜が終業式だよ。それから四月の頭まで春休み。」
「そっか、私もそれくらいかな。学校って私立だっけ?」
「うん。もう三年生になるからね。周りのみんなは受験勉強してる。俺らはそれどころじゃないけどね…。」
曙も母の手作りクッキーを一口かじった。さくっと、いい音がした。月子はずっと何かを考えているのか、黙っている。糸は複雑な形と色をして、彼女の周りをぐるぐると蛇のように取り巻いていた。
「月子、寒くない?これ、ブランケット、使って。」
痩せているせいか、とても寒そうに見えて、私は彼女にいつも自分が使っているブランケットを手渡した。このブランケットはやさしい性格をしているので、きっと、彼女のこともよく温めてくれるだろう。物にも、形によって性格がある。
「あったかい…。」
月子はうっとりとつぶやいた。
「ずっと学校休んでて、久しぶりに曙とお母さん以外の人と話しをしたから、実は最初緊張してたの。だけど、もう大丈夫。ありがとう。」
糸も、さっきよりは温かみを取り戻している。それを見て、彼女が気を使って嘘をついているのではないことがわかった。
「春休みは、どう過ごすつもりなの?お父さんは仕事があるからまだしも、その、愛人はずっと家にいるのかな。そうでなくても、急に現れた知らない人とお母さんをいきなり捨てたお父さんと過ごすなんて、きつい気がするけど…。」
「休み中は母親の実家に行こうかなって思ってる。でも、父さんが許してくれるかわからないけど…。ただ、毎日あの家にいたんじゃ、月子もそうだし俺だって参っちゃう。」
何かいい手はないものだろうか…。うちに泊めるにしても、休み中ずっとっていう訳にもいかないし。とにかく、この二人を避難させる場所は…。
直感で、 母の実家なんてどうだろう、と思った。
そこには今、母の姉が一人で暮らしている。だいたい毎年夏になると二泊くらいで家族旅行がてら遊びに行っている。
もしずっとが無理でも、何日かそこに泊まらせてもらって、それ以外は安い民宿でも探せばいい。あの辺りは観光地も近いから、探せばいくらでもあるだろう。空気も水も美味しいし、月子の体調も少しよくなるかもしれない。
彼らが帰った後に、早速母に相談した。
「あのさ、再会した記念に三人で旅行に行きたいって言っていて。伯母さんのところ、止泊めさせてもらえないかな。」
「どうかな、最近忙しいみたいだけど…。でも、もうあなたたちも受験生だし、高校生活の最後に思い出くらい作りたいわよね。頼んでみるわ。」
「うん、ありがとう。」
母はその後すぐに、伯母と連絡を取ってくれた。
「自分たちで食事とか洗濯とかしてくれるなら、何日でもいいって。いつから行くつもり?向こうはいつでもって言っていたけれど。」
決まったら教えてね、と一言残して母は階段を降りて行った。
行くのはもちろん早い方がいい。そう思って二人にメールをすると、さっきまで月子が使っていたブランケットを掴み、ごろんとベッドに寝転んだ。
ああ、少し力を使い過ぎたかなあ…。
手を裏表とひらひらさせて糸の様子を観察すると、いつもより少し細くなっているように感じた。
ミイラ取りがミイラになったんじゃ仕方がない。明日もまだ学校があるし、今日は早く寝てしまおう…。
私はお風呂にも入らず、そのまま優しいブランケットに包まれて眠った。

まだ学校があると行っても、期末試験が終わり授業は午前中で終わってしまう。
その時間を使って旅行の準備を始めた。伯母の所へは終業式の次の日から行くことになった。
廊下を歩いているとまた例の元カレとすれ違ったけれど、やっぱり素通りした。向こうは、ちらっとこちらを見たかと思うと。今回はすぐに視線をそらした。
この休みが終われば、三年生になって、後一年で高校生活も終わるなんて信じられなかった。進学か、就職か、はたまた専門学校か。一応進学校ではあるので、クラスのみんなはだいたいが行きたい大学に目星をつけている。
わたしは…。
わたしも大学に行くことになるんだろうな、とぼんやり考えているが、まだはっきりとは定まっていない。なにせ、この能力付きである。出来るだけ、過ごしやすいと思える場所を見つけたかった。自分の能力が活かせるようなところがあれば最高なのだけどな…。
春が極まり始め、全てのものが生き生きとしている。それに合わせて糸も太さや輝きも増す。でも、人間の持つそれは複雑で、出会いへの不安や別れへの悲しみからか、それだけとは限らない。幼い子供であればそこまでではないけれど、大人となるとそれが著しい。
まして、私たちのような、子供と大人の間に立つような年齢なら尚のこと…。

私は自分から伸びる糸を手繰り寄せると、くるくると指に巻きつけ遊んだ。糸は毛糸玉のようにまるくなりふわふわした光の塊になった。
そんなことをしていたら予感がしたのでスマホをカバンから取り出すと、曙から着信があった。
「あ、もしもし、曙?ごめん、電話取れなかった。」
「今、ちょうどメール打ってたとこだった。うまく父さんと折り合いつけられたから、行けることになったよ。それを伝えようとしたんだ。」
それを聞いてほっとした。
「よかった。じゃあ、予定通り、終業式の次の日からの出発で大丈夫?一日くらい休まなくて平気かな。月子も。」
「家で休む場所なんてないよ。休めてたら、とっくに月子の体調も戻ってる。予定通りで大丈夫だよ。とりあえず、新宿で待ち合わせでいいかな?」
「うん、バスはこっちでまとめて予約しちゃう。」
「ありがとう。」と言うと、曙はこれから電車に乗るから、と電話を切った。
その後すぐ月子に『よかったね。』とメッセージを送ると、にこにこマークの絵文字が帰ってきた。
子供達が四、五人で旅をする、昔、家族三人で見た映画を思い出した。何度も行ったことがある母の実家に行くだけなのに、目的が違うだけで大冒険のような気持ちになる。いっそ、山奥で魔法のランプでも見つけて、現れた魔人が願いを叶えてくれたらいいのに。そうしたら、全部問題が解決する。
もし願いが三つ叶えられるとしたら…。

ー一つ目。月子の体調が良くなりますように。
ー二つ目。二人が落ち着いて暮らせるようになりますように。
ー三つ目…。

三つ目くらいは自分のことにその魔法を使おうかな。

本当にどうでもいいようなことを考えていたら、あっという間に家に着いて、中に入ると台所では母が夕飯の支度をしていた。父は居間のソファで、スマホを片手にニュースを見ている。
のぞいてみると最近流行っているゲームをしていて、
「ふーん、大人でもそんなゲームするんだ。」と、なんとなく思った。
ものすごく平和な我が家のいつもの風景だ。私の幼馴染が両親の不和で辛い思いをしていることを、彼らは知らない。きっと、想像にものぼらないだろう。
やっぱり、知らなくてもいいことは、世の中にたくさんあると、そう思いながら自分の部屋のドアを開けた。

「これ作ったからバスの中ででも食べなさい。」
と、出発当日に母が三人分のお弁当を渡してくれた。紙でできたランチボックスの中をこっそり見ると、サンドイッチが入っていた。
朝からホームベーカリーの音が聞こえていたと思ったら、食パンを焼いていたのか…。
ここまでくると、お節介を通り越して、「さすが。」と思う。
「ありがとう。」
今朝は珍しく素直な気持ちでそう言えた。
久しぶりの新宿は朝から人が多くて参った。いや、学生である私たちが休みなだけであって、世の中の多くの人たちにとっては普通の平日なのか。
物凄い勢いで歩いてくる人と糸の波を避けながら、待ち合わせのバス乗り場にたどり着いた。
「先に着いてたんだね。」
待合室の椅子に座る二人を見つけた。
「陽子、おはよう。」
「おはよう。これ、お母さんが。」
早速さっき預かったサンドイッチを渡すと、二人は大げさに喜んでくれた。
「なんかさ、小学校の頃の遠足思い出すね。わくわくする。」
前回会った時よりも、元気そうだ。家からどうどうと離れられ、気が楽になったのかもしれない。私もつられて楽しい気分になってきた。最初の目的はどうであれ、久しぶりに再会した幼馴染との旅行だ。
「よし、遠足だ!飲み物とおやつも買って乗り込むぞ!」
私は妙なテンションで、ペットボトルのお茶と、普段なら食べないような変なキャラクターのおまけがついたお菓子を買った。二人もそれじゃあ、と、外国のグミとか、ポテトチップスを買っていて本当に小学校の遠足みたいに思えた。
バスは三列で座席があって、窓際の二席に私と月子、通路を挟んでこちら側に曙が座った。長距離バスは初めて乗ったけれど、トイレだけでなくて電源も付いているとは…ある意味電車よりも便利なんじゃ…。
バスが動き出すと、月子が手を握ってきた。すこしやつれた感じが出てるとはいえ、とても柔らかくて温かい手だ。私はその手をぎゅっと握り返した。
小さい頃、月子のマシュマロみたいなほっぺに憧れた。私は骨格がしっかりしていて、髪の毛が短い時はよく男の子に間違えられたりした。月子は満月みたいにまあるくて、物静かだけど誰からも愛されるような女の子だった。彼女が公園の椅子に座っていると、鳥や猫や、小さな動物たちが集まってきて、私の能力なんかよりもそれはとても素敵な才能に思えた。
ちらっと曙を見ると、彼はスマホを横に持ち、真剣な顔をしている。おそらく、対戦ゲームでもしているに違いない。
彼は出会った時から眼鏡をかけている。あの頃、その年齢で眼鏡をかけている友達は、多分彼だけだったと思う。漫画に出てきたら、『ハカセ』なんてあだ名が付きそうだな、なんて出会った時思った。

満月にようにまんまるのマシュマロ月子。眼鏡をかけて、ハカセみたいに好奇心いっぱいの曙。そして、
「陽子はオレンジみたいだね。」
私は二人にそう言われていた。オレンジは大好きだし、お日様みたいにいい匂いがする。嬉しかった。

バスに乗って一時間ほど経ったあと、サンドイッチの入った箱をあけた。ふかふかの食パンで作ったタマゴサンドとジャムサンドに、プチトマトが入っている。ジャムはご近所さんがくれたいちご狩りのお土産で作った、手作りのやつだ。
三人ではむはむとサンドイッチを食べる。月子はやっぱり残していたけれど、パンの美味しさに感動していた。食事することを喜べるようになったのは、回復の第一歩だと思う。お腹いっぱいになると、とろとろと眠くなってきた。
広い空のしたで大きな川を越え、周りが山ばかりになると、見える糸の質も変わってくる。複雑だけど大雑把な都会のものとは違い、繊細だけれど大きく伸びやかで感じる光も強くなった。
四時間くらいバスに乗ったころ、やっと目的地に着いた。
「すげー、全然空気違うよ。」
バスを降りるなり、曙が感嘆の声をもらした。月子も目を丸くしてあたりを見回している。
「でしょでしょ。深呼吸するだけで元気でる。伯母さんが迎えに来てるはずだから、今から電話、してみる。
あ、もしもし、メイさん?今、バス停着いたよ。ハンバーガー屋さん?うん、近くにある。じゃあ、今から向かうね。」
バス停の近くには何十年も前からありそうなチェーンのハンバーガ屋さんがあった。そこの駐車場にひょろっとした一人の女の人が立っている。母の姉のメイさんだ。
「バスで来たの初めてだったから、ちゃんと会えるかなって思ったけど、わかりやすくてよかった。」
「はは、この辺何もないもの。迷いようがないよ。」
たしかに、と言って私たちは笑いあった。
「月子ちゃんと曙くん?はじめまして。陽子の伯母のメイです。何もないけど、いいところだから、ゆっくりしていってね。うちの庭でバーベキューとかもできるし、どこか行きたければ、都合さえ合えば案内するよ。」
メイさんはハキハキと喋った。
「ありがとうございます。」
「よろしくお願いします。」
曙と月子が声を揃えてそういうと、メイさんは二人をじっくり観察した。
「なんか、訳がありそうだね。ま、いいや。追い追いね。」
そして独り言のようにそうつぶやくと、車の鍵を開けた。
「ドライブがてら、ちょっと遠回りしながらうちに向かうよ。途中で買い物もしていいかな?」
車は白いワンボックスカーで、まるで工事現場のおじさんが使うような見た目である。
おしゃれな流線型の車は何も物が積めないから役立たずだ、なんて前に言っていた。
私は助手席に座り、月子と曙は後ろに座る。
メイさんは姉御肌で、昔から頼りになる。 中学二年の夏休み(もう三年以上経つのか)、親の都合がつかずに一人でここに来た時も、この白いワンボックスカーでどこへでも連れて行ってくれた。
この車は、メイさんに運転してもらって、とても喜んでいる。
ものすごくきれいなわけではないし、車体も所々修理されずに凹んだままになっていたりする。でも、この車はどこかで、メイさんが自分をとても大切に使っていることを知っている。そんな感じがする。
道の駅のようなところに着くと、私たちは車から降りた。道の駅というとちょっとした休憩所という感じで、あまり買い物には向かないと思っていたけれど、ここは違う。近所に住んでいるおばちゃんたちがわいわいと、自分たちが作った野菜やお弁当を売っていた。外では、木の端材で作ったおもちゃや椅子を売っているおじさんもいる。
「ずっとさびれてたのだけど、ここにも町がが力を入れ始めてさ、スーパーなんかで買うより断然安いしいいんだ。」
メイさんは何種類か野菜を見繕うと、ぽんぽんとそれらを勢いよく買い物かごに入れた。
「今夜はウェルカムパーティだからね!リクエストあったら言ってね。」
メイさんは、にっと笑う。
「え、でも食事は自分たちでって。」
「ああ、いいのいいの。最近ちょっと忙しくてさ、なんでもかんでも出来ないから期待させたら悪いなって思って言っただけだから。頼まれごともタイミングよく昨日片付いたところ。
あっ!ねえねえ、今夜はみんなで餃子でも作らない?それか、油揚げ買って、山菜たっぷりのおいなりさんとか!」
私は久しぶりのメイさんのパワーに気圧され、よろよろと後ずさった。
「陽子ちゃんが圧倒されてる…。」
「ね、すごいね。」
と曙と月子が話す声が後ろから聞こえた。
その夜は結局、餃子とおいなりさんと、道の駅で買った野菜を使ったサラダに、スープ。それ以外にも、昨日のあまりの煮物やら、私たちが来るからとお隣さんがさしいれてくれたぼた餅やらで、物凄い量の料理がジャンルをひっちゃかめっちゃかに、テーブルいっぱいに広がった。
餃子を包んだり油揚げに五目ご飯を詰めたり、私たちも少し手伝ったけれど、それ以外はほとんどぜんぶ、メイさんが一人で作った。
母の実家はその昔、親戚も一緒に住んでいたこともあったらしく、このテーブルも相当に大きい。そこにめいっぱい料理が置かれているのはすごい。
もっとすごいのは、それのほとんどを私と曙二人で平らげたことだ。ものすごく美味しかったけれど、さすがにお腹がはちきれそうになった。
「明日はそばでも打ってみようか!」
とメイさんが言うので、
「メイさん、私たちまだしばらくお世話になりますから、少しずつ楽しんでいきましょう…うぷ。」
と答えた。
「それもそうね。あっはっはっは。」
と、彼女は大きな口で笑った。母といい、その姉のといい、血は争えない。その血が私にも流れているわけだけど…メイさんには糸が見えたりしないのかしら、とふと思った。
その夜はぱんぱんに膨れたお腹を抱え、みんなで庭に寝転んだ。この辺りは四月を目の前にしてもまだまだ寒く、レジャーシートの上に布団と毛布を重ねた。
少しほこりっぽい毛布の上に寝そべると、私たちが住む場所では到底見られないような星空が広がっていた。
「すご…。」
「うん、こんなの初めて見た。」
二人が感動している様子を見て、私とメイさんは「やったね。」と顔を見合わせた。
虫の声、風が木々の葉をこする音。雲がうっすらと空を泳いでいくさま。そのひとつひとつをつないでいくように、きらきらと糸は宙を舞っていた。
その糸に毛布ごと包まれて、そのまま浮かび上がり宇宙まで飛んでいけるんじゃないか、なんて思った。

こうして、私たちの春休みは始まった。
短くて長くって、時間の概念すら忘れてしまいそうなくらいの、濃密な。

翌日はいつもより早く起きて、今は物置になっている家のはなれに一人で行った。いつも母が一緒だと午前中から色々と連れ回されるため、ゆっくりここに入るのは実は初めてかもしれない。
私の不思議な能力に関する日記とか、そういう祖母のメモが残っていないかいつも気になっていたのだ。
「わあ、全部ほこりっぽい。」
きっとずっと、要るものも要らないものもそのままになっているのだろう。積み上げらられた本の山は、まるで恐竜の化石のように見える。
その中で一冊、他の本とは違う雰囲気を持つ冊子を見つけた。眠るように輝きを閉じ込め、うんともすんとも言わない糸の抜け殻の中に、一本だけ今にも飛び出すタイミングを伺っているようなのを見つけた。それを辿ると、その冊子があった。
「和綴じになってる。」
おそらく、祖母か誰かの手作りなのだろう。古過ぎて黄ばんではいるが、しっかり読める。ぱっと見、ページも抜けたり破れたりしていないようだ。
達筆すぎて判別のつかないような文字をゆっくり追いながら内容を確認してみると、山の草花のことが書いてあるようだった。
「なんだろう、分量も書いてある。料理のレシピかなにかかも。」
時計を見るとそろそろみんなが起きてきそうな時間だったので、一度その冊子を持って母屋に戻ることにした。
埃っぽくなった体を洗い流し風呂場から出て来ると、ちょうどメイさんが台所に立ってコーヒーを淹れていた。
「メイさん、離れ家でこんなの見つけたんだけど、知ってる?」
「?ああ、これ、お母さんの薬草手帳だよ。」
やはり祖母のものであるらしい。
「お母さん、わたし達が小さい頃は風邪薬もキズ薬も山から摘んできたもので作ってたからね。時にはトカゲを焼いて焦がしたのとか飲ませられそうになったりしてたわ、そういえば。その時はさすがに飲むふりして捨てたけどね〜。」
懐かしいなあと言いながら、メイさんはぺらぺらとその埃っぽい冊子のページをめくった。
二人しかいない今がチャンスかもしれないと、私は思い切ってメイさんに聞いてみた。
「あの、メイさんって、不思議なものが見えたりするの?」
「するよ。あんまり見ないようにしているけど。」
彼女は思った以上にあっさりと答えた。目は冊子から離さない。
「やっぱりそうなんだ。あのね、私も見えるの。お母さんは見えないみたいだけど。
今回、ここに曙たちと来たのは実は理由があるの。」
そういえば、昨日二人の顔を見た時にメイさんが『追い追いね。』と言っていたことを思い出した。
「うん、そうなんだろうと思った。」
私は他人の家族のことをどこまで話していいものか考えながら、掻い摘んで説明した。
「なるほどな。」
「うん。あんまり押し付けても嫌だって思って、人のためにこの能力を使うことを避けてきたのだけど、今回はそれが役に立つなら使ってもいいかなって思って。」
メイさんはやっぱり冊子から目を離さずに話を聞いた。
「そっか、なるほどね。」
「うん…。」
なんだか、自分が身の丈に合わないようなことをしでかそうとしている気がして、心もとない。
「じゃあ、やってみるか。」
「?」
「この本、ちょうど、この本なんですよ、陽子ちゃん。その方法が書いてあるのは。この本の通りにすれば、きっとそれはできる。二人を助けられる。
でも、代わりにあなたのその能力を全て失うかもしれない。それどころか、それ以上に、陽子ちゃんの何かを差し出さないといけないかもしれない。
それでも、あの二人を、助けたいと思う?」
いきなりのシリアスな展開に、わたしはごくりと生唾を飲み込んだ。ものすごく恐ろしい気持ちになった。
それでも、
「私はそれでも二人を助けるよ、メイさん。だって、私の大切な幼なじみだもの。」
メイさんは今まで見たことがない鋭い視線で私の目を覗き込んだ。
「……。」
「………。」
「ぷは。ごめん、言いすぎた。」
目をそらすと、彼女は笑いながらコーヒーに牛乳を入れ、スプーンでかきまぜた。
「いやでもね、命を奪われるわけではないにしても、その力を使って『本当の意味』での人助けをするっていうのは、それくらい自分の生命力を使うってことなんだよ。」
はい、陽子の分、と言って彼女がその牛乳を入れたコーヒーを私にくれた。
「私はそこまでの力を他人に使ったことがないからね、本当に力を振り絞ったときに実際どうなるかもわからない。あ、でも妹が…。」
何かを言いかけ、メイさんは話しを続けるのをやめた。
「ま、それも追い追い。二人が起きて来る前に、朝食の支度でもしようか。でも、曙くん、晩御飯あんなに食べてくれてたけど、お腹すいてるかな。残してくれてもよかったのに。言っておかなきゃね、食べきれない程出すのが田舎のおもてなしだよって。」
「え、そうなの?私も知らなかったんだけど。」
「あれ、陽子はたくさん食べるからたくさん作るんだよ?」
もうっと言いながら私は彼女の肩を叩いた。やっぱり、メイさんは楽しくて大好きだ。

「おはよう、陽子ちゃあん…。」
子供のような寝ぼけた顔で月子が起きてきた。
「おはよう、月子。よく眠れた?」
「うん、家でいるより断然眠れた。ありがとう。」
「そっか、よかった。コーヒーか紅茶か、飲む?朝食は一応メイさんが用意してくれてる。月子は、無理に食べなくていいからね。」
「うん、紅茶お願いしようかな。メイさん、気を使わせちゃってすみません…。」
「いいのいいの。旅人をもてなすのは、田舎者の趣味みたいなものだよ。本当に、何も気を使わなくていいからね。」
じゅうじゅうと、ベーコンが焼けるいい匂いがメイさんが持つフライパンから漂ってきた。
「はい、でーきた。」
ベーコンエッグと納豆に味噌汁、その横にはパックの海苔がひとりひとつずつ置かれている。やっぱり和洋折衷なはちゃめちゃな献立がテーブルには並べられた。
味噌汁には大根とじゃがいもがごろごろ入って美味しそうだ。ほうれん草のおひたしと野菜スティックを両手で持ちながら、メイさんが居間にやってきた。やっぱり朝でもメイさんの勢いは止まらない。ボリューミー。
「みんな、パン派?ご飯派?ちなみにパンは手作り焼きたて〜!最近ホームベーカリー買っちゃった!」
ホームベーカリー!メイさんもかよ!と思わずつっこみをいれたくなった。
「寝坊した〜。おはようございます。」
その様子を見ると、曙もよく眠れたようだ。
「わたし、パン〜。」
「俺、米にしようかな。」
「オッケー。月子ちゃんには野菜スティックとかのほうが食べやすいかと思って用意したんだけど、一応トーストも焼いとこっか。」
「ありがとうございます。でも、紅茶とそれだけで大丈夫です。」
メイさんは後ろ向きに指で『オッケー』サインを作るとそのまま台所に入っていった。
「メイさんって、めちゃくちゃ元気だね。陽子ちゃんも、陽子ちゃんのお母さんもかなり元気だけど、その上をいくよ。」
「うん、メイさんには叶わないね。」
「でも、あんなに美人で料理も上手なのに、一人暮らしなんて不思議だ。」
曙がそういうと、たしかに、と思った。今まで全然気にしたことなかったなあ。
なんでだろうと思いつつ、焼きたてのトーストの上に海苔を乗せてその上に納豆を半分、さらにその上にベーコンエッグを乗せる。
「う、まー!」
私とメイさんが同じ食べ方をしているのを見て、
「なにそれ!その食べ方新しいんだけど!俺、トーストにすればよかった!」
と、曙が本気で後悔していると、「そんな気がした!」と、余分に焼いていたトーストをメイさんが奥から持ってきてくれた。
初対面だというのに、母が私にするような対応……やっぱり、メイさんは色んな意味ですごいと思った。

その日の午後、メイさんはわさび農園に連れて行ってくれた。その脇を流れる小川はまるでオフィーリアが飛び込んだ川のように透明で美しく、三人で息を飲んだ。
その近くの製粉所で蕎麦粉を買うと、昨日の宣言通り夕飯は蕎麦と天ぷらになった。
昼間に農園で買った生わさびは、鮫皮で出来たおろし器で粗めに削った。辛さもひときわで、新鮮で今まで食べたことがないわさびの味がした。
珍しく月子もお蕎麦だけは食べていて、自然のものそのままっていうのはやっぱり違うな、と感じた。
挽きたての蕎麦の香りも、わさびの香りも、体全部を浄化して変えてくれるような気持ちになった。
久しぶりによく食べたせいで疲れたのか、食事が終わるとすぐに月子は眠ってしまった。居間のテーブルの前でごろんと寝転び眠る彼女は満ち足りた顔をしていた。少し眉をひそめる癖のついたおでこをそっと撫でると、ふんわりと彼女の体に毛布をかけた。今日の昼間、太陽の下で干したいい匂いのするやつだ。
「よかったね、少し元気で出てきたみたいで。」
月子の寝顔を見ながら曙に言った。
「うん、でも家に帰った後がね、問題だ。いやでも、今はそれに悲観的にならずに喜ぶべきだと思う。陽子とメイさんのおかげだと思う。本当に。
俺も、昨日すごくよく眠れたんだ。あんな最高の星空見せられたら、よく眠れないわけない。本当にありがとう。」
曙は武士が挨拶するみたいに、畳に拳を突き立て頭を下げた。
「曙くん、お風呂用意できてるから、先に入ってきて。二人にはうんとリフレッシュしてもららわないと。ね。」
「そうそう、お客人よ、ゆっくり温まってくるがよいぞ。」
「誰、それ〜。では厚かましくも、先にいただくとしよう。いってきまあす。」
「ごゆっくり〜。」
曙を見送り食べ終わった皿を下げると、メイさんは今朝の冊子を持ってきた。
「陽子、覚悟はできたかね?」
メイさんは冗談ぽく言ったけれど、顔は真剣だった。
「うん、それならとっくにできてるよ。」
それじゃあ、と言ってメイさんが冊子を開くと、一瞬彼女の瞳が金色に輝いた気がした。
「そうしたら、いまから山に出かけよう。まだこの時期寒いから、重ね着とマフラーを忘れないでね。今日は満月だから、ちょうどよかった。今日手に入らないものでも、九日間もあれば必要なものは揃うと思う。」
実をいうと、夜の山は少し怖い。でも、メイさんもいるから、きっと大丈夫。
私は言われた通りに寒くないよう準備した。
ちょうどお風呂から上がってきた曙は、私たちがフル装備で出かけるのを何事かとぎょっとしていたが、これまでに見てきた私たちの勢いに慣れたのか「気をつけてね〜、いってらっしゃい。」と、理由も聞かずに見送った。月子は可愛らしい顔でぐっすり眠り続けていた。
ガラガラと音を立てて古くなった引き戸を開けると、夜空には昨日よりも強く、完璧に焼かれたパンケーキみたいにまんまるの月が輝いていた。
闇の中に白く浮かぶ雲がそこを通り過ぎるたび、端っこが月明かりに透けて幻想世界への入り口に見える。
「途中前では車で行こうね。」
車のエンジン音が、静かな夜の町外れに響いた。
「うん。」
なんて、あつらえたような夜かと思う。私たちはこれから、双子の友人を助けるために、山に薬草を取りに行くのである。まるで海外の映画のようだ。
もう二度と戻ってこない季節。高校二年生というモラトリアムの真ん中の春休み。休みが明けたら受験生。
それをこんな風に使えるなんて、きっと、神さまやら山の妖精やらがくれたプレゼントに違いない。私たちしか味わうことのできない大冒険だ。そう思わずにはいられず、わくわくが止まらなかった。
満月の夜に摘む芍の新芽、ネズミモチ、それと聞いたことがないような草の根っこ。月齢によって栄養価や効能が変わるらしく、満月の夜と指定がないものでも必要なものはなるべく摘んだ。まっくらな山の中でこうしていると、本当に魔女にでもなった気持ちだ。メイさんは慣れた様子で山道を進んだ。
「よし、今日はこんなものかな。曙くんが心配するかもしれないから、帰ろう。」
一生懸命取ったものを袋に詰める彼女をじいっと見つめた。
「ねえ、メイさんはどうしてここまでしてくれるの?」
「んー?なんでだろうね、何にも考えてないよ。手伝いたいから、手伝っているだけ。多分、陽子と一緒。なんで、陽子は二人を助けたい?」
「んー、やっぱり、ただ助けたいと思うから。」
「うん。」
「うん、ね。難しく理由付けなんてしなくていい。やりたいならやればいい。」
「そうだね。」
麻でできた巾着の中に薬草を詰め込んで、私たちは帰宅した。
曙はもう眠っているのか、家は静かだった。月子も布団へと移動したらしい。
二人を起こさないようにお風呂に入ると、湯船にたゆたう糸がいつもよりも鮮やかに輝いて、朝陽に照らされた海に浸かっているように見えた。
「はいこれ、山葡萄で作ったぶどうジュース。」
部屋に戻ると、お疲れ様、とメイさんが用意してくれていた。漆黒にも見えるそれは、明かりに照らすと血液のように赤い。
「いただきます。」
私はまるで毒を煽るかのように、それを一気に飲み干した。

昨日遅かったせいか、今朝は体が布団から離れにくい。台所からは包丁がリズミカルにまな板を打つ音が聞こえる。
まさか、昨日のジュースは本当に毒だったんじゃ、と冗談を思い浮かべながら、のそのそと体を起こした。
台所にはメイさんと月子が立っていて、朝ごはんのしたくをしていた。
「おはよう。陽子、ちゃんと疲れとれた?」
メイさんは全く変わりなく、今日もそこにいた。
今朝は昨日の天ぷらの残りで作った天丼だ。朝からすごいボリューム!と思いつつ、いやこれは我が家でも日常であったと思い直した。
湿気ってぐずぐずになった衣に、甘辛い天つゆがじゅわっと染みる。二日目のカレーみたいでこれはこれでおいしい。
曙もすでに起きていて、朝の散歩から戻ってきたところだった。
「昨日、どこに行ってたの?」
「山だよ。魔女たちの集会に参加してた。」
あながち冗談ではない。
「リアル過ぎて何も言えない。」
と、曙は手伝いに台所に入っていった。
「今日は、何をしようかなあ。」
つゆの染みたご飯を口に掻き込みながら曙が言った。
「あんまり出かけてばかりだと、月子、疲れちゃうんじゃない?別に出かけなくたって、家でゆっくりしたっていいと思うけど。」
彼は「そうだなあ。」と言いながらメイさんの作ったたくあんに手を伸ばした。噛むたびにぽりぽりといい音がしている。
「そしたら、昼はゆっくりして、夜みんなで山に行こう。焚き火できる場所が確かあったはず。」
「メイさんは遊びの天才だね。」
「だてにずっと田舎に住んでないよ。ほんと、今時の子供が遊ぶようなものは何もないんだから。与えられないなら自分で見つけるしかないからね。そのおかげかな。」
彼女がそういうと、この家の、庭の木の、花たちの発する糸がみんな、彼女に寄り添った。まるで、動物たちが温もりを求めて寄り添うように。彼女自身の糸も、周りを支えるようにしなやかに広く長く、伸びていく。私はその様子を惚けながらずっと見続けた。メイさんの目はまた金色に光っていた。
朝食の片付けや洗濯まで終えてしまうと、私と月子は居間の窓をあけ放ち、昔の母の部屋から引っ張り出してきた、埃だらけのギターを弾いて遊んだ。月子はピアノを習っていて、私よりも音感がいい。手先も器用で、大抵のことはすぐものにしてしまう。
「こないだ、音楽の授業で一曲習ったんだ。」
と言って、彼女は『翼をください』を弾いた。それに合わせて歌うと、なんだか胸が苦しくなって泣けてきてしまった。月子はコードを抑えることに必死でだったけれど、彼女の持つ悲しみでできた糸がそのまま心臓まで突き刺さったような気持ちになった。
「陽子ちゃん、どうしたの?大丈夫?」
「大丈夫、感動しちゃっただけ。」
彼女に気取られないように、私は笑って見せた。
「コードね、Fが難しいんだよ。全然押さえられない…。」
と、月子は唇をとがらせながらぼろんぼろん、と鳴らして見せた。そして、数回それを繰り返し、
「…私たち、これからどこに向かっていくんだろうね。」
と、ギターから目を離さずに彼女が言った。
「だって、すごく平和で、信じきっていたものが突然壊れたりしてしまうんだってわかったから、なんの予想もつかなくなってしまった。」
顔を上げた月子の視線の先に目をやると、都会では雑草と呼ばれてしまいそうな、ちいさな花が庭に咲いていた。
「大丈夫だよ、きっと。」
今度は私が、その花から目を離さずに言った。
「きっと、自分の見方が変わっただけ。今までだって、やってこれたんだから。今回のことは衝撃的すぎたけど、どんなにゆさぶられても、『何があっても大丈夫』って、思っていればそうなる。どんなに自分がひとりぼっちに感じても、絶対そうじゃない。
私も曙もいるし、会話できるわけじゃないけど、世界は、私のお気に入りのブランケットみたいに、寄り添ってくれる存在に溢れてる。本当だよ。彼らは、私が悲しんでいるとその糸を腕のように伸ばして抱きしめてくれる。」
視線を隣に戻すと、じっと真剣な目で月子が私の話を聞いていた。
「うん、わかった。私には糸は見えないけど、そう思っているだけで救われる気がする。」
「うん。」
月子は、何かを心に決めたような顔をした。それはとても綺麗に見えて、同性ながらどきっとしてしまった。少女から大人の女になる瞬間が、恋をしているからとは限らない。いや、もしかしたら、彼女はこの世界と、本気の恋をし始めたのかもしれない。
恋というのは命がけだ。まだ、本気で人を好きになったことがない私が言うのもなんだけど、そう思う。
本気で恋をしている人は、糸の輝きが違うのだ。線香花火のように、静かに静かに火花を飛ばす。しかも、一瞬で消えてしまわない。絶え間無く、細く長く光を飛ばし続ける。動物たちの求愛とは違う、人間ならではの恋のきらめきだ。
そしてそれは、相手が人とは限らない。ある人にとっては絵を描くことであったり、ある人にとっては、教えるという行為そのものであったりする。とても複雑だけれど、その複雑さは嫌な色をしていない。とても美しい。

人として生きるための覚悟。
それが少女を、少年を、大人にしていくのだと思う。

私たちの年代はその間にいて、常に揺れ動く。産み落とされる瞬間までは自然そのものであったのに、一歳二歳と年を重ねることによって『人の子』 となっていく。今まではそれがとても残念なことのように感じて抗っていたけれど、そうではない気が、最近ではしている。
どちらにせよ、ずっと妖精のようではいられない。お花の蜜だけでは生きられない。私たちは、望まずとも、勝手に人になっていくのだ。
月子は、その覚悟を決めたように見えた。私よりも、一足先に。

夕方の七時頃から、私たちはキャンプの準備をして山へでかけた。せっかくなので、飯盒でご飯を炊いてカレーを作ることにした。
結局昼間はお腹が空かなくて、お茶だけで過ごしてしまった。透明な時間に月子と二人でいた感覚もまだ残っていて、その後も私はとても幸せな気持ちでのんびりとしていた。曙とメイさんは、買い出しも兼ねてこの辺りをずっと散策していたらしい。
「二人ともこれ見て!マシュマロ!最後、焚き火で炙って食べようと思って。」
だんだんとメイさんに感化されている曙が面白かった。とてもいい傾向だな、と思った。街で育った私たちは、情報を得ること以外の体を使った楽しみを知らなすぎると思う。私も、メイさんと遊んでいるうちに知った、学校や近所では知りようがないような遊びが沢山ある。
山の空気も手伝って、ご飯は信じられないくらい美味しく炊けた。カレーも、スーパーで売っているようなありふれたものなのに、ものすごく美味しかった。おこげの部分はじゃんけんで決めた。月子は気持ちよりも体の方が食事を受け付けないらしく、焦らずゆっくりと噛んで食べた。
「わ、マシュマロまっくろになった。」
「火に近づけすぎたね。もっと遠くても大丈夫。焦げてても美味しいけどね。」
「あっつ。うま。」
とろけた部分が火傷するくらい熱くって、はふはふ言いながらみんなで食べた。マ 食事の後、みんなでぼうっと火が揺れるのを見つめていると、時間は九時を回っていた。
「めっちゃお腹いっぱい…。」
曙は本当に苦しそうに言った。
「ここに来てから、ものすごい量食べてる気がする…。でも、月子も少し食欲戻ってきたみたいでよかった。」
本当に。
「うん、みんなで食事するの楽しくて、気づいたらつられて食べてたよ。」
「だいじだよねえ、食べることは楽しまないとね。人はパンのみに生きるにあらず!」
メイさんが得意げに言った。
「それ、使い方あってるのかな…。」
「あはは、楽しければそれでよし!」
そうです、その通りです。うんうん、と私は頷いた。
上を見ると、やっぱり空には満点の星空が広がっていて、吸い込まれるようにそれを見つめた。昼間に考えていた小難しいことがすべて、どうでもよく感じる。
ここから帰ったら、また普段の生活がやってくる。二人とはまた、離れ離れになる。そうしたら、糸も届かなくなるくらいに心と体も再び遠ざかってしまうのだろうか…。パチパチと燃える焚き火に照らされた二人の顔を見つめると、寂しい気持ちになった。
「俺たちさ、向こうに戻っても、またこうして会おうよ。」
驚いた。そんなことを思っていたら、曙がまるで心を読んだかのようにそう言った。
「うん。私も、陽子ちゃんに会いたい。」
月子もそれに同意する。
「また、うちにも遊びにおいで。」
メイさんも焚き火に枝をくべながら言った。
「うん…。」
返事をしながら、熱くなった頬を両手で包み込む。
「ぶどうジュース、飲む?」
そう言うと、メイさんは一升瓶をカバンから取り出した。
「あ、昨日の?」
「そ、うちで作ったやつね。こんな入れ物だけど、アルコールは入ってないからみんなで飲めるよ。」
きゅぽんと栓がが抜かれ、ジュースがとくとくとコップに注がれる。
「綺麗だね。火に透けると、血みたいに真っ赤だ。」
「やめてよ、曙。飲むのドキドキしちゃう。」
月子がくすくす笑いながら言った。
「あはは、昨日飲んだから、味は保証するよ。美味しいよ。」
「今、こうしてみんなで笑っていられることに、乾杯。」
メイさんが声をかけ、私たちは互いのコップをぶつけあった。曙がさっきあんなことを言ったので、まるでみんなで血を分け合ったような気持ちになった。昨日は一気に飲み干してしまったけど、今日は時間が過ぎるのを惜しむように少しずつ大切に飲んだ。
「もし、なんでも願いが三つ叶うとしたら、何をしたい?」
メイさんが唐突に話を始めた。
私はこの旅を決めた時にした妄想を思い出し、もしかしたら本当に魔法のランプがあるんじゃないかと期待してしまった。
「わたしね、風になりたい。」
メイさんは自分自身がした質問に答えた。
「風、じゃないか。みんなをね、優しく包み込んで、抱きしめられるような、いつでもどこにでもいられる存在になりたいって思う。空気みたいな。泣いている人がいたら、その悲しみを癒すように暖かい風を吹かせたい。喜んでいる人がいたら、おめでとうって、冬でもお祝いに春風を吹かせたい。」
まるでおとぎ話みたいだなあ、と聞きながら思った。でも、焚き火を見つめながら話すメイさんの目は真剣で、それが本気だということがわかった。
「私、それわかる。」
月子も同じように火を見つめながら言った。
「周りのみんなが安らかに、平和に、それぞれの感情だったり思いだったりを味わって生きるの。どんなにひどいことが起こっても…。」
ふと、月子は自分の今の境遇を思い出したのか、急に喋るのをやめた。
「…ひどいこと、かあ…。私は、お父さんを憎むような人になっちゃった。それが一番悲しいよ。お父さんとの楽しい思い出だって、たくさんあるのにね。」
そして再び話し始めた彼女が吐き出す想いを、みんな黙って聞いた。月子は私と違って、感情を溜め込むタイプだ。やさしそうに見える彼女は、実は一番自分にやさしくない。相手に悪い感情を持つことを、彼女は嫌うけれど、結局は他人も自分も許すことでしか前には進めないのだと思う。
「月子ちゃん、体にためこむのはなんでも毒だよ。その毒が自分の体とこころを重たく腐らせていくんだ。吐き出すっていうのは、八つ当たりするんじゃないんだ。自分から流れてくるものを、止めるのをやめなさい。」
メイさんがそう言うと、月子は少しびくっとした。
「うええ…。」
そして、堰を切ったように泣き始め、私からも勝手に涙があふれでてきた。横を見ると、曙も静かに泣いている。
地面から足の先をつたって、山のエネルギーが入ってくる。それに合わせて、まるで蚕が繭をつくるかのように、糸が伸びて私たちを包み込んだ。きっと、メイさんにも見えていると思う。メイさんはぶどうジュースの入ったコップを両手で握りしめ、ただ私たち三人を見守った。
どれくらいの時間そうしていただろう。月子は、もうこれ以上何も残っていないと言うくらい泣き尽くして、眠たそうにしている。最後にいくつか残っていたマシュマロを焼いて食べた。それは、うっとりと甘くて、泣いてからっぽになったこころにじんわり染み込んだ。
泣いた後の目の周りの腫れぼったさを感じていると
「そろそろ、帰ろうか。」
メイさんがやさしく言った。
焚き火を消してしまうと、あたりは真っ暗になった。今まで目の前に明かりがあったからか、異様に暗く感じる。懐中電灯で忘れ物がないかを確認すると、車まで戻った。
月子は子供のように曙に手をひかれ、ゆっくり歩いている。その前と後ろで護衛するみたいに、私とメイさんが歩いた。
玄関の戸を開けると、『おかえり。』と、家が出迎えてくれた。私は『ただいま。』と、こころの中で返事をした。

次の日、月子が「頭が痛い。」と言って一日中寝込んだ。朝食の途中でそう言いだし、しばらくすると熱が上がり始めた。昼を過ぎた今も、うんうんと辛そうにしている。
「感情を吐き出した好転反応が起きているのかも。しばらくしたら、すっと引いていくよ。ゆっくりおやすみ。」
メイさんがおでこに手を当てると、月子は安心したように目を閉じ、そのまま眠った。
「今まで押し殺していた感情が一気に流れたものだから、体もびっくりしたのね。食事は、どれくらいずっととってなかったの?」
「この一ヶ月くらいかな。バナナとか、あんまり胃に負担がかからないものは少し食べてたみたいだけど。みるみるやせてくからって焦ってパンとか食べたら吐いちゃって。それから、食べ物を口にするのが余計に怖くなったみたい。」
メイさんの質問に曙が答えた。
「少しずつね、ここでリハビリしていくといいよ。心因性のものって難しいんだ。なんかのきっかけで一気に治っちゃう人もいれば、時間がかかる人もいるんだよね。月子ちゃんはそこまで時間かからなそうだと思うから、焦らずにね。」
離れにあった、祖母の薬草のレシピ。それを使ったとしても、焦っちゃいけない。治すのは月子自身だ。わがままに、自分のペースを押し付けては、私がしようとしていることは、彼らの父親がしたことと変わらなくなってしまう。そんなの苦しすぎる。二人の会話を聞きながら、私はシャツの胸のあたりをぐっと掴んだ。
一人で月子がいる部屋に向かう。廊下を歩くと、そこに漂う糸が精霊みたいに私をつつみこんだ。
…光のトンネルを歩いているみたい。
歩いても歩いても、月子がいる部屋にたどり着かなくて、でも、おかしいから足を止めようという気持ちには全くならなかった。歩いて、歩いて、その光のトンネルの中をどこまでまでも歩いた。
気づくと、私は月子の部屋の手前で気を失って倒れていた。とりあえず、体を起こす。自分でも何が起こったか分からず、ぽかんとしている。はっと正気を取り戻し、痛いところはないか、どこかぶつけてないか急いで確認した。特に目立って怪我はしていないようだ。
「びっくりした…。」
音もなく倒れ込んだのか、曙とメイさんは気づいていない。私は今起こったことは胸に秘め、月子が眠る部屋に入った。
月子は少し辛そうな顔をして眠っていた。おでこに手を当てると、少しだけその険しさがゆるんだ。月子から伸びてくる糸は、いつもの輝きを持つものにまじって、少しくすんだ薄いむらさき色をしているものもあった。命の輝きとは違う、また別の糸。それは伸びきってしまうと行き場をなくして宙に消えた。

…さっきのあれはなんだったのだろう。
今までで初めてだ、あんな風になったのは。

山に行ったときみたいに、糸の光が強すぎてそれがトンネルみたいに見えることはあるけれど、そうじゃなかった。あの時のは、廊下を、家を越えて、どこまでも長く繋がっているように見えた。
「陽子ちゃん…。」
月子がうっすらと目を開けて私を呼ぶ。
「どう、具合。少しはよくなった。」
「うん、朝よりは。でも、まだ起き上がれそうにない。」
「うん、たっぷり寝ていいよ。もう、寝過ぎてもう一生眠らなくていいってくらい、寝ていいんだよ。休んでいいんだよ。」
そう声をかけると、彼女は安心したようにまた目を閉じ、すぐに寝息を立て始めた。
「ゆっくりおやすみ。」
月子の頭をもう一度撫でると、私は居間に戻った。戻ると曙の姿が見当たらなかった。
「あれ、曙は?」
「曙くんは私の自転車で出かけて行ったよ。」
「すごいな。元気。解き放たれたように満喫してるね。」
「月子ちゃん、どうだった?」
「まだ大変そうだったけど、朝よりはよくなったって。」
「そっか、それなら、よかった。」
私はさっきの出来事をメイさんに相談しようかと思ったけれど、やめておいた。あまりに自分の特異体質に慣れすぎてしまっていたのかもしれない。驚きこそしたものの、過ぎてしまえば気にならなかった。
「今日はまた草摘みにいこうと思ったのだけど、月子ちゃん一人では残していけないからどうしようか。陽子、一人でいける?」
一人か、と一瞬思ったけれど
「うん、だいじょうぶ。行ってくる。」
行くしかない。そう思って、家に残っていた祖母が使っていたという自転車(よく十年以上も残っていたね!)を引っ張り出して、外に出た。ブレーキもちゃんと聞くし、ギアとか余計なものが付いていない分、頑丈にできていそうだ。
一通り乗り心地をチェックすると、私は思いっきり立ちこぎをして、祖母のレシピに必要な植物が手に入りそうなところを見て回った。こないだの満月の日に山で採れるものは用意できた。後は、空き地や道端で自生しているような種類が多く、町の中でも手に入るとメイさんが教えてくれた。
今回ここにきて一人きりになるのは、初めてだな。と、ふと思った。
私の周りには大体人がいる。両親だったり、友達だったり、どこに行っても大体人と一緒にいることの方が多い。それでも、たまに私が孤独を感じる時があるのは、この、ものや人のエネルギーが糸になって見えてしまう能力のせいだと思う。
『私の本当の気持ちは、誰も知りようがない。だって、みんなは見えないんだもん。』
小さい頃は心底そう思っていた。でも、きっと、能力があるにしろないにしろ、誰にも本当の気持ちなんてわかりっこないのだと思う。わからないからこそ、わかりあいたいと思うし、通じ合った時の喜びはまるで蜜を分け合って食べるかのような喜びがある。
そう思うと、たとえ孤独感を感じたとしても、気が楽になった。孤独でも、ひとりぼっちじゃない。それはいつも忘れないようにしてる。
曙と月子のお父さんも、結局寂しかったのだと思う。自分の中の孤独が大きくなってしまって、どうしようもなかったのかもしれない。それを満たすには、双子の子供たちや今まで支えて来てくれた最愛であったはずの妻では物足りなくなってしまったのかもしれない。それ自体は、彼の勝手な思いである。ただ、彼らの間で起こったことの実際のバックグラウンドについて何も知らない私は、どちらが正しくて正しくないとも言えない。言えるわけがない。
言えるのは、わたしは曙と月子が大好きだということ。大好きと言える気持ちを表現することに、誰かを憎んだり罵ったりする必要は全くないのだ。だから、私は彼らの父をひどいなあと思っても、責めたいとは思わない。
「いつか、きっとこれでよかったと思える日が来ますように。」
私は風に向かってつぶやいた。まだまだ日陰は寒いけれど、風がなければ日向は暖かい。
春休みが終われば、もう三年生か…。
ここにいると、どうも時間の感覚を忘れてしまう。このまま、ここにいて毎日綺麗な星空を眺めて、みんなでわいわい言いながらあっという間に百年くらい経ってしまいそうな気さえする。
でも、実際はそうじゃない。私は月子が回復して元の生活を送るために家を出て来たのだし、そのためにこうして自転車に乗っている。一瞬自分の中に嫌なにおいが広がった気がして、慌てて打ち消した。永遠に変わらないものなんて、ありえない。川べりにある大きな石だって、変わらないように見えて長い時間を経て風化していく。彼らだって、一秒一秒ごとに起こる変化を受け入れながらそこにいる。
例えこの瞬間を永遠に続けたいと思ったとしても、例え世界がそれに答えて景色が変わらなかったとしても、私自身が変わってしまえば、その景色は同じものではなくなってしまう。そんなことを考えながらいくつかの材料を調達し終えると、もう空は夜を呼び込もうとしていた。
「そういえば、お昼抜いたんだった。」
朝以来何も口にしていないことを思い出すと、不思議なもので食欲にスイッチが入った。…欲していなくても、ちょっと思うだけで必要だと感じてしまうなんて、体と脳みそってちゃんとつながってるのかな。心配になるくらい単純だ。
ちょうどよく通りがかったスーパーの店頭で焼き芋が売られていた。自分で好きなものを選び、レジに持っていく。
「二百円です。袋にいれますか?」
「いえ、今食べてしまうので。」
「それじゃ、おしぼりどうぞ。」
ぶっきらぼうに見えるレジのおばさんは案外優しかった。
私は熱々の焼き芋をスーパーの前で頬張りながら、いちばん星を探した。焼き芋はしっとりと甘く、母が以前買ってくれた有名店のケーキよりもおいしく感じた。ちなみに、母は「絶対、私の方がおいしく作れる!」と豪語していた。
吐く息はどんどん白さを増していく。私は立ち漕ぎをして急いで家に帰った。
「ただいまあ。」
昼間から夕方にかけて少し出かけただけだというのに、何年か振りに帰ってきたみたいにこの家が懐かしく愛しく感じる。
「遅かったね、どうだった?」
メイさんが出迎えてくれた。
「うん。うまく見つけられたよ。こんなに簡単に道端にあるものなんだね。」
私は上着を脱ぎながら、麻の袋に入れた草たちをメイさんに渡した。彼女はそれを覗きながら「うん、うん、上出来上出来。」と言って、台所に入っていった。思えば今日は、メイさんの言った通り材料を集め始めてちょうど九日目の夜だった。
曙は先に帰っていて、居間で本を読んでいる。
「月子は、どう?」
よいしょ、と私は畳に腰を下ろした。
「まだ起きてはこないけど、でもうなされなくなったよ。寝てる顔も穏やかになった。」
「そっか、よかった。お風呂入ってくる。」
…月子が元気になるのは嬉しい。でも、また二人と離れるのは、いやだな…。
私はまた少し立ち込めた自分の中の嫌なにおいを消すために、風呂場に向かった。
戻ってくると、テーブルには鍋とガスコンロが置かれていた。月子もパジャマのまま起きている。
「今日は、お鍋にしました。お豆腐なら、月子ちゃんも食べやすいでしょ。野菜の出汁がよく出たスープも飲めるし。」
メイさんはおたまで豆腐をすくい、取り皿に入れた。
「それにね、なんだか悲観的になってしまう時って、体が冷えてる時でもあるんだよ。」
メイさんはにこっと笑いながら私の方を見た。今日の晩御飯はこの数日の中でいちばん質素だ。シンプルであったかくて、ほっとする。
「今日で大方材料は揃ったから、後は日を待つだけね。次の新月ね。その前日に最後の仕上げだ。」
「なんの話?」
曙が口の中で豆腐をはふはふさせながら聞いた。
「魔女の秘密のお話だよ。なんてね。」
「こわ!」
「なにそれ、素敵!」
双子なのに真逆の反応をしている二人がおかしかった。
野菜のスープが効いたのか、次の日になると月子の頭痛は消えていた。その日は、みんなでお祝いだと言って昼間から温泉に行った。家の近くからバスが出ていて、それに乗れば十五分ほどで着く距離にある。以前、母とメイさんと三人で行ったこともある場所だ。ここは日帰り入浴でも食堂利用ができて、そこで出される揚げたてのとんかつはとてもおいしい。メイさんはバスで来ているのをいいことに、必ず風呂上がりにそのとんかつとビールを頼む。
「くわあ、生き返るわあ。」
と、今回も例に漏れず、まるでおっさんのような雄叫びをあげていた。
「美人なのに…。」
と、残念そうな声を漏らす曙に、
「曙、まだ女に幻想を抱いているの?」と、まじめに月子が言った。
「曙、夢見れば夢も夢じゃないよ。」と、私は面白がって適当なことを言った。

新月の三日前、メイさんは、
「陽子、どうあがいても、あなたは手助けしかできない。この方法を受け止めて解決するのは月子ちゃん自身なの。二人でじっくり話をしなさい。」
と言った。月子は何をだろうと不思議そうな顔をしてたけれど、あらまし話し終えると、私の手を握りながら
「わかった。陽子ちゃんを、信じます。」
と返事した。
その次の日は、曙と同じように話をした。
そして、新月の前日、メイさんは私を再び夜の山へと誘った。
「これから、仕上げをするね。力む必要はないから、陽子は、目の前のことと、月子ちゃんへの想いに集中すればいい。まず、ここに座って。」
メイさんに導かれるままついていくと、山の中の平坦な丸くひらけた場所に辿りついた。彼女はその真ん中に焚き火の準備をし、鍋をかける。本当に、まるで昔話に出てくる魔女の釜のようだ。友人を助けるためとはいえ、目の前に立つと少しぎょっとする。
「ふふ、怖い?」
メイさんが面白がって言うので、
「全然!」
と強がり、返した。
まず、祖母の家から持ってきた井戸水を一リットルと、取って来た材料の半分がその中に入れられた。そして、 煮立ち始めるのを確認すると、もう半分が入れられた。
「じっくり、これで混ぜて。」
メイさんから渡されたのは魔女のひみつ道具でもなく普段料理に使っている木ベラであったが、状況が状況なだけに雰囲気は満点だ。
「同じペースで、三百三十三回混ぜるの。同じペースでね。」
そんなに?と一瞬思ったけれど、その言葉は飲み込んで集中した。数え終わる頃には、強く握り締めすぎたのか木ベラを持つ手が痺れた。
「それから?どうすればいい?」
メイさんは空を見上げる。私もつられて上を見る。普段通りの星空だ。山が発している糸にも、目立った変化はない。でも、メイさんはまだ空を見上げ続け、何かと会話しているようだった。
また、メイさんの目が黄金に光っている気がした。
「いいよ。大丈夫、今だね。」
促されるままに、鍋の前に座る。
「いい?無理はしないこと。何か、『やばいな』って思ったら途中で止めること。ミイラ取りがミイラになったんじゃ、仕方ないからね?今から、やり方を教えるから。」
そう言うと、彼女は私の隣に座り、両手を合わせた。そして少しずつそれを開くと、そ右手と左手に膨大な量の糸が束になってあらわれ始めた。何千も、いや、それじゃきかないくらいの糸が彼女の手から溢れ、私たちを取り囲んだ。
「はい、こんな感じ。やってみて。」
「えええ。いきなりすぎる。」
私は、糸は確かに見えるよ。それだって十分非現実的ではあるけど、流石にいまのは私の想像を超えているというか…。
その考えを見透かしたのか、
「大丈夫、この世界はどちらにせよ想いでできているのだから。信じるしかないんだよ。それは、今、目の前で起こったことに限らずね。はい、集中。」
メイさんはぽん、と私の肩を叩きながらそう言った。バスケ部かなんかの顧問の先生みたいだ。
気持ちを切り替えて、彼女がやったように両手を胸の前で合わせる。
これ、本当に現実かな。こんな、映画みたいな小説みたいなことあっていいのかな。今更ならが心底思う。
「集中。」と、メイさんがまた肩を叩いた。
ちょっとずつちょっとずつ、手のひらが熱くなってくると、手から発せられる糸も増えてきた。そして、右手と左手のちょうど真ん中あたりに核をイメージすると、それは卵のような形になり、それからどんどん大きくなった。
「あ、まただ。この前廊下を歩いていた時みたいに、光がトンネルになり始めた。」
飲み込まれる前に、どうにかしなきゃ。また気を失ってしまうかもしれない。どうしよう。
「はい、そこまで。」
意識が全部光に飲み込まれる寸前で、メイさんの声が頭の向こうから聞こえた。頭にも体にも何も残っていない気さえする。
「そうしたら、この小瓶の蓋を開けて、鍋の中身を注いで。これで、とりあえずお祖母ちゃんのレシピ通りには作れたかな。おつかれさま。」
私は空っぽのままメイさんの言う通りに小瓶に鍋の中身を詰めた。
眠くて眠くて、家に着くなり、私は気を失うように眠った。「明日は日の出の三十分前には起きててね。」と、メイさんが言うのが聞こえたけど、意味まで理解できないまま、私は深い眠りに落ちた。
はっと目を覚ますと、スマホの時計はあと十分程度で朝の四時半というところだった。
「寝てた…四時間くらいか…。」
のそのそと体を起こし、シャワーを浴びる。水しぶきが糸と重なって、とても綺麗だ。今朝は自分を取り巻く糸が随分とくっきりしている。
「昨日のあれのせいかなあ…。」
お風呂からあがって洗面所で髪を乾かし終えると、みんなが居間に集まっていた。
「おはよう、陽子ちゃん。昨日も、私のために準備してくれてたって聞いた。ありがとう。」
あまりに現実離れした昨日の光景を思い出し、「あ、うん。」と、曖昧な返事しか出てこなかった。曙は目をぎゅっと閉じたり開いたりして、眠気を覚まそうとしている。
「これからは、三人しか関われない。私は側にいられないんだ。邪魔にならないように、出かけてくるね。糸に導かれるままに、やっていけば大丈夫だから。」
「うん。」
そう託されると、急に背筋がぴんと伸びた。
玄関の引き戸が完全に閉まる音がすると、私と曙と月子は顔を見合わせた。
「なんか、変なことになっちゃったね。はは。」
このおかしな展開に不安を感じ、私は苦し紛れを言った。
「いや、陽子の力にすがったのは俺だよ。」
「うん。私は全然、なんの力もないけれど、陽子ちゃんの力はちゃんと存在してるものだって、思う。もし、何も起こらなかったとしても、今回三人でここにこれたことは、本当によかった。それだけで、もう元気が出てる。」
「うん。俺もだよ。」
「なら、よかった。」
そろそろ日の出の時間になる。私は部屋の真ん中にあるテーブルをどけて、二人と手を繋いだ。三人の糸が編み物をするように絡まっていく。十分に繋がったところで一度手を離し、ペーパーナイフで手の平を切る真似をする。
…ここまでは大丈夫。あの冊子に書いてあった通り。
ひとつひとつ頭の中で行程を確認する。その次に例の小瓶を開け、二人の手のひらにその中身を一滴らしする。自分にも。
「わああ、なんだこれ。」
曙がいきなり声を出して驚いた。本当はついていなはずの手のひらの傷から、真っ赤な液体が溢れ出した。それは月子の手のひらからも。一瞬失敗したかと思ってものすごく泣きたくなった。
『集中。』
メイさんの声が聞こえた気がして、気を取り直す。その赤い液体が止まるのを待ち、今度は三滴、それぞれの手のひらに滴らした。

それからは全然覚えていない。

覚えているのはその後、また光のトンネルがやってきて、私もその一部になり魔法の絨毯のようなものに変身して二人を海の向こうに連れて行く、という変な夢だけだ。
「急がなきゃ、捕まっちゃう。」
私はものすごく焦っていて、体がちぎれるんじゃないかというくらいスピードを上げた。二人も、振り落とされないようにとしっかりしがみついた。海の真ん中くらいで、
「だめ、陽子ちゃん。私、落ちちゃう。」
と、月子が言った。名前を呼ばれ、はっとして慌てて速度を落とす。その時に彼女の靴が片方だけ落ちてしまったけれど、彼女はほっとした様子で、
「ありがとう。」
と言った。
海を越え着いた先は、気候に恵まれた農業の盛んな街だった。
「陽子、本当にありがとう。これで、また安心して暮らしていける。」
私は自分が何者なのか全く認識できないまま、
「うん。本当によかった。」と言った。
言った?うん、言ったのだと思う。自分の声はあまり聞こえなかった。

「陽子。」
気づくと、私は居間の真ん中で一人横になっていた。私の名前を呼んだのはメイさんだった。何か言葉を発しようにも声が出ない。
月子は?曙は?やっぱり声が出ない。というか、思うように体が動かない。
「陽子ちゃん。」
月子が涙をぼろぼろ流しながら私の顔を覗き込んだ。
「陽子ちゃん、死んじゃったかと思った…。」
曙も「うん、うん。」と激しく頷きながら、目に涙を溜めている。
「ゆっくり、起き上がって。はいこれ、生姜湯。ゆっくり飲んで。」
こくんこくん、と一口ずつ飲むと、内臓にじんわりと染み渡り、体が暖かくなった。
「はあ〜。生き返った。」
声が出たと同時に月子が思いっきり私に抱きつく。
「大丈夫?陽子ちゃん、大丈夫?」
「あはは、大丈夫だよ。月子こそ、どう?調子は。元気になった?」
「うん、まるで体の中にも春が来たみたいよ。頭のもやもやも取れたし、体も軽くなった。」
「おお、それはよかった。」
へろへろの意識と体で、私は月子をぎゅうっと抱きしめた。彼女の肩越しに曙の顔を見ると、彼も混ざって三人できつく抱きしめあった。メイさんも、満足げに私たちを見つめていた。
「私、どれくらい寝てたの?もうお昼くらい?」
時間を確認すると、まだ七時にもなっていなかった。そんなに短い時間だったんだ。あの出来事は…。
「不思議だったね。なんだったのだろう、あの光のトンネル。あの中にいた時、すごく、気持ちよかった。陽子ちゃんは、ずっとあんな世界で生きていたんだね。」
「いや、今回のは特別だよ。今まであんな風になったことなんて一度もなかったし。正直、私もどうなることかと思った。」
今なら、笑って言える。
「安心したら、お腹すいちゃった。なんか、食べたい。」
月子がそう言い出したのが、死ぬほど嬉しかった。
「よしじゃあ、朝ごはんの支度をしましょう。何が食べたい〜?」
「うーんとね、何がいいかなあ…。」
月子がは宙を見つめながら、真剣に考えている。
「メイさんの作るフレンチトーストは絶品だよ〜!」
「俺、フレンチトーストめっちゃ好きなんだけど!」
私がそう言うと、曙がすかさず食らいついてきた。
「じゃあ、それで!昨日の昼間にちょうどバケット焼いててよかった〜〜。野菜のスープもつけよう。陽子、手伝って〜。」
台所の扉を開けながらメイさんが私を呼んだ。入るなり、くるっとメイさんが振り向く。
「成功、したね。」
私はぱあっと気持ちが明るくなった。
「うん。」
私とメイさんはパチンっと無言でハイタッチをした。手のひらがぴりぴりするくらい、力強く。
「バケット、おいしそう。ね、ね。フレンチトーストと別に、ベーコン乗せて焼いたのもつけていい?」
「もちろん!」
フレンチトーストの甘い香りがフライパンからじゅわじゅわ部屋に広がる横で、わたしはオーブンにバケットを放り込んだ。
野菜のスープにメイさんの作ったフレンチトースト、そしてわたしのリクエストのバタートーストとサラダ。サラダのトマトがつやつや光っている。
「いただきます!」
一番に月子が元気よく言った。
「ん〜〜…。」
曙は一口食べておいしさに悶えている。
「卵も牛乳もこのあたりで採れた新鮮なやつなんだよ!」
思わず私は自慢げに言った。
フレンチトーストは外側の固さをのこしつつ、甘い牛乳でひたひたになったところが口の中でとろけた。バタートーストに添えたベーコンを少しだけかじって食べると、ちょっとお洒落な感じがした。塩気が甘みを引き立てておいしい。バタートーストの方はサラダも乗せて、オープンサンドのようにして食べた。パリッ、といい音がする。
さっきまでの非現実的な感覚はとっくに過ぎ去り、『おいしい朝食をみんなで食べる』という、日常が戻ってきた。
「もう、明日帰るのか。」
曙がつぶやく。
そうか、日常が待ち受けているのは、これからだ。
「そうだね、また、遊びにきてもいいですか。メイさん。」
月子がとびっきりにきらきらした笑顔で言った。
「うん、いつでもおいで!」
その笑顔を見たら、一瞬よぎった不安なんてすっかり消えてしまった。

どんなに汚い世界を見ても、どんなに美しい景色を見ても、どうであれ歩き続けるのだと、そういう生きる決心が私たちの中で芽生えた気がした。
きっと、自分が思っている以上に私たちは幼くて、両親やメイさんは思っている以上にたくさんの場面を乗り越えて生きているのだ。あんな、何も考えていないように見える母だって。

「陽子ちゃん、どうしたの?」
急に黙り込んだ私の顔を月子が覗き込んだ。
「あ、いや、なんか、ね。」
フォークをお皿に置き、コーヒーの入ったマグカップを両手で持つ。
「人生って、色々だねえ、と思ってさ。」
色んな想いをまとめにまとめたら、そんな言い方になってしまった。
「じじくさ!」
曙がフレンチトーストの最後の一切れを口に放り込み、笑いながら言った。
「なんだよー!」
私は怒っているふりをして、彼の皿に残ったトマトを奪って食べてやった。
朝食の後に、メイさんが行きたい場所があるというので、みんなでそこに向かうことにした。
道路を挟んだ向こうの、山のふもとにある民家のとなりに小さな神社があった。
「ここだよ。」
車を降りると、家の方とはまた違う風が吹いているのを感じた。
「ここはね、小さい頃陽子のお母さんと、そのお母さん。お祖母ちゃんね。その三人で新月の日にお参りにきてたんだ。今回はだいぶお世話になったから、お礼がいいたくて。」
鳥居は小さくて木でできており、はしっこが少し風化している。それがなんだか暖かくて、かわいらしくて、愛着が湧いた。メイさんから順番に一人づつお参りをする。
私は心の中で
「山のもの、この土地のもの、たくさんいただきました。おかげで友達は元気になりました。本当にありがとうございます。」
と、お礼を言った。
帰りの車の中で、
「ねえ、陽子ちゃんは神様っていると思う?」
と聞くので。
「神様かあ。それ自体がいるかわからないけど、私はみんなが神様と同じくらいの力を持ってると思う。みんなの糸を見てるとね、そう思うよ。」
と答えた。月子は嬉しそうに頷き、そのまま窓の外の街明かりに視線を戻した。
あっという間に二週間が経って、その間に月子も元気になった。曙も嬉しそうにしていて、メイさんも一緒に喜んでくれた。ただ、今がどんなに良い時であっても、再び私たちは元の生活に戻っていく。明日の夜にはそれぞれの家にいる。
でも今は確かに、彼らに会っていなかった十年近くもの年月や距離が、この二週間で一気に消えて同じ時を過ごしている。時間の流れは不思議だ。
帰ったら、二人にまた次いつ会えるのかわからないくらい離れ離れになってしまうんじゃないかと思っていたけれど、何ヶ月経ったって、何年経ったって、会えた瞬間には全部ちゃらになってしまうんだ。そう思った。
庭に車を止め、玄関に近づくと、山盛りの野菜が袋に入って置いてあった。
「きっと、お隣さんがくれたんだね。お、山芋も入ってる!今夜はホットプレート出してきて、お好み焼きを焼こう。」
「やった!俺、お好み焼き屋で少しバイトしてたから、焼くの得意!」
「本当?じゃあ、今夜は曙くんに焼いてもらおうかな。」
メイさんがそう言うと「へへへ。」と曙は嬉しそうだった。
台所に入ると、炊飯器が乗っている棚の上に祖母の冊子が置いてあった。柔らかくてあったかくてふかふかした子猫の背中のような糸がまとわれていた。あたたかくて、いい光の糸だ。一方で、自分からは頼りなさげな糸が行くあてもなくさまよい浮かんでいた。少し力を使いすぎたのかもしれない。
「メイさん、私、これ元の場所に返してくるね。」
そう言って、私は家のはなれに向かった。
中は相変わらずほこりぽくて静かだ。部屋の奥まで入っていくと、冊子が戻ってくるのを待ち構えていたように、本の化石たちがうごめきだした。
「元の場所にお返しします。」
私はその古い冊子を、神様に捧げる供物のように両手で持ち、最初にあった机の上に戻した。
役目を終えたと言わんばかりに、すとん、と力が抜け、その場に座り込む。止まっていたこの部屋の時間が、目覚めたように色を持ち始めている。
座り込んだ横にある戸棚によりかかり、ほうっと、深く息を吐くと改めて「終わった。」と感じた。
この日、今までの人生の中でいちばんに、世界のすべてがやさしく微笑んでいる気がした。
「お祖母ちゃん、ありがとう。」
はなれに向かい、ぺこりとお辞儀をしながらお礼を言うと、私は母屋に帰った。
「ちゃんと、戻せた?」
「うん、戻してきた。みんな、やさしかったよ。」
「うん。」
そういうと、メイさんは私の頭を撫でた。普段なら「子供扱いしないでよ。」というところが、今回はとても嬉しく感じた。
「ねえ、メイさんは、どうして糸を見ないようにしてるの。」
「んー?あんまり、楽しい話じゃないよ。聞きたい?」
少し怖いと思いつつ、私はこくんと頷いた。
「私もね、陽子みたいに人を助けたいと思ったことがあったの。それでね、やっぱりお母さんの薬草手帳を借りて、今回みたいに色々準備したんだけど…。」
少し切なそうに話すメイさんはとても綺麗だ。そして幻想的で本物の魔女みたいに見える。
「最後の最後で自分の力をコントロールできなくなってね、失敗しちゃったの。結局相手を救えないまま、離れ離れになってしまったんだ。というか、彼は死んでしまった。死んだ理由は、病気だったんだけれどね。絶対に治せると信じていたから、まるで自分が殺してしまったような気持ちだった。」
「それって…。」
「私の旦那さんだった人よ。」
そう、前に一度メイさんは結婚していたことがあると母から聞いたことがある。こんなに美人で料理も上手なのに、ずっと一人で暮らしている彼女を不思議に思って尋ねたのだ。
「彼の家族とは仲がよくなかったから、彼が死んだことで籍は抜いてしまったんだよね。それで彼への愛が偽物だったことになるわけではないし、もしそう思われたとしてもかまわなかった。何にせよ、彼の願いだったから。私に自分の家族を背負わせたくないって、ずっと言ってた。
それでね、世界一大切な人を救えない、こんな煩わしい能力なんていらないって思った。そうしたら、次の日にはもう見えなくなってた。今はね、コントロールできるようになって、使ったり使わなかったりできるよ。まあ、殆ど必要ないけどね。」
私はずっと黙って聞いていた。
「でもさ、陽子は今回友達を救うことができた。それで、陽子を手伝うことができて、私も救われたんだよ。陽子が救ったのは、月子ちゃんや曙くんだけじゃない。」
そうか、そうだったんだ。私は、熱心に手伝いをしてくれた理由がわかった気がした。
「さ、最終日!何して遊ぼうか!また別の温泉でも行こうかね〜。今日は月子ちゃんの復活パーティだ!」
いつものメイさんに戻った。
「月子ちゃんと曙くんのご両親の問題も、早く解決するといいね。全く元には戻らなくても、必ず道はあるから。落ち着くまではは大変かもしれないけれど、陽子のお祖母ちゃんのスペシャルレシピで救われた二人だ。きっと大丈夫だよ。」
「うん、そうだね。それは確信してる。」
二人のところに戻ると、各々、スマホを見たり本を読んだりしていた。
「何飲んでるの?ミルクティ?」
それにしてはスパイスの香りが強く香る。
「チャイだよ。ここの家にはスパイスがたくさんあるから、作ったの。陽子ちゃんの分も作ってくるね。前にカフェで飲んだの、気に入って作り方調べたんだ〜。」
月子が私と入れ違いで台所に入っていった。曙はスマホから目を話さないでいる。ゲームでもしてるのかとそっとしていると、
「陽子。俺、メイさんのこと好きになっちゃったかもしれない。」
ぼそっとつぶやいた。いきなり過ぎて驚いた。親子ほどの年齢差であるし、もし同年代だとしても急な話だ。
「年、離れ過ぎてるよね。うーん。まだ、『かも』だから、わかんないけどね!」
彼は気まずさを取り除くようにそういうと、またスマホに集中しはじめ、話すのをやめた。
「おまたせ。できたよ、チャイだよ。」
月子が台所からメイさんと戻ってきた。甘くてスパイシーな、いい匂いがする。私は熱々のチャイをちょっとずつすすった。月子に続いてメイさんが台所から出てきた。手には焼きたてのアーモンドクッキーを持っていた。
「ねえねえ、今日は何する?どこに行く?」
楽しいことを話している時、メイさんの顔はきらきらする。私はその顔が見たくて、小さい頃会うたびにたくさんたくさん楽しいことを彼女に持ちかけていたことを思い出した。
「なんだろうなあ。もう一回くらい温泉行きたいなあ、私!」
月子がクッキーに手を伸ばしながら言うと、
「あ、俺もそう思ってた!」
曙もそれに同意して二人ではしゃいだ。いつものペースを取り戻したらしく、彼らは年頃の双子の兄弟に戻った。少し大人びてきた顔つきに、幼さの残る声の調子。
…そして、その双子の兄は、今、静かに恋をし始めている。
メイさんも、罪な女だねえ。と、チャイを飲む横目で彼女を観察しながら思った。やっぱり、綺麗な人だ。私もそう思う。彼の恋がうまくいきますようにと、おまじないをするようにカップを回すと、またチャイを一口飲んだ。
未知のものは怖くないけれど、突っ走ってしまったあと振り返って、大切なものが置き去りになっていたり、ものが壊れていたりするのはとても悲しい。でもそれは、突っ走る前には気づけない。必ず、それに気づくのは後になってからなのだ。
私と曙は似たところがある。ただ、私は思いったって周りも驚くような速さで走り出すのに対して、曙は、気つくとあんなところにいる!と言った感じだ。私は準備をするのが苦手で、曙は思いついたらしっかりと丁寧に、しかも確実に準備を始めていく。私のようにやたらにものを壊したりはしない。
だから、この、彼の恋ももしかしたらうまくいくんじゃないかなって、思う。希望的観測も含め、そう思う。
底の方に少しだけ残ったチャイをぐいっと飲み干した。

月子のリクエスト通り温泉に行くと、春休みに旅行中の家族連れがちらほらいて、それぞれ幸せそうに過ごしていた。風呂上がりにアイスクリームをねだる子供や、その横でビールを飲むお父さん。イメージ通りの長期休暇中の風景がそこにはあった。
「陽子ちゃんは、家に帰ったら何するつもりなの?」
湯船に浸かりながら月子が言った。
「んー。まだ何も考えてないや。色々ね、決めなきゃいけないんだけどね。」
この温泉の泉質は乳白色をしていて、湯船から腕をだすとするすると滑り落ちた。
ーこれからのことを月子に聞くのは酷だろうか…。
そう思って黙っていると、月子が先に話し始めた。
「私、いくつか行きたい大学があって、その寮に入ろうと思ってるんだ。家族がこんな感じだったから、お父さんやお母さんに相談するタイミングも逃しちゃって、全部ひとりで決めたの。学費も、バイトして貯金してたし、それで払おうと思ってて。」
昔からしっかりしてはいたけれど、彼女の思った以上の考えに正直驚いた。
「曙はね、まだ色々決めかねてるみただけど、お母さんのことすごく心配していて。目を付けてた学校もあるみたいだけど、就職も考えているみたい。あんまりね、お互いの進路の話してこなかったから、そんなこと考えてたんだ〜って、最近知ったんだよね。
双子だからって、ずっと今ままで一緒にいたけれど、私たちは別の人間なんだって最近すごく感じる。」
と、彼女は自分の腕をさすった。メイさんは空を見ながら黙って話を聴いている。
「せっかく混浴スペースがあるのに、みんなで入らないとか言うしい。」
それは、察してくれ、月子。曙も、もう年頃なのだ…。
「私は、帰ってから全部決めるよ。」
中途半端に答えを出したくなくて、そう言った。
風呂を出て休憩スペースに行くと、曙は一人で設置されているテレビを見ていた。
「おまたせ。曙、ごめんねえ、ゆっくりしてきちゃった。」
「んあ。ああ、全然、大丈夫。俺もさっき出てきたよ。体ぽかぽか。」
朝早かったせいもあるのか、曙は少し眠たそうな顔をして振り向いた。ぽかぽかの体で、風呂上がりに四人でならんで食べるソフトクリームは格別だった。
辛い過去があるならば、楽しい思い出で塗り替えていけばいい。でも、そんな考えも必要ない程に、彼らは彼らの道を見つめているようだった。

曙が焼いてくれたお好み焼きは言っていただけあって、焼き加減も、山芋と小麦粉のバランスも最高であった。メイさんも美味しそうに食べて、今日はもう運転しないからと缶ビールを開けていた。曙はその姿をみて、近くにいるのに届かない感じがもどかしそうだった。
「夏休みにでも、またおいで。」
次の日の午前中、私たちは祖母の家を出た。最後つぎに会う約束をすると、メイさんは大きな山のように私たちをひとりひとり抱きしめてくれた。あたたかくて、新しい季節の匂いがした。
曙と月子とは新宿で別れた。彼らを改札の向こうまで見送る。人が多すぎてすぐに見えなくなってしまった。それまでずっと、彼らは私に手を振ってくれた。
「終わってしまったなあ。」
久しぶりにひとりきりで、話し相手がいない感じが物足りない。
「早く帰ってお父さんとお母さんにお土産渡すか。」
私は寄り道をせずに、まっすぐ家に向かった。
こちらに帰ってくると、人の多さにびっくりする。この中で、自分が人として、本当に存在しているのか。私からは私の姿が見えていないわけで、それを確認するために体を触って確認する。一応、ちゃんと存在しているようで、安心してまた前を見て歩く。
メイさんのところで、全部が光になってしまった時、体は何も感じなかった。意識も、一瞬だけだったけど、どこか行ってしまった。あれを体験してしまっては、もはや、自分というものが、存在が、『確固たるもの』であるという約束がどこにもない。
そういえば、こちらに帰ってきてから『糸』が見えていないことに気づいた。人の輪郭もクリアに見える。自動改札も、売店で売られているお菓子たちも、糸の光にかき消されることなく、はっきりと。
おかしいのか、これが通常なのか…。どきどきしながら私は家に向かう足を早めた。
家に着くと、父と母は並んでソファに座っていた。父はやっぱりスマホに夢中で、母は最近凝り始めたのか、旅行に行く前には家になかった小さな棒を使ってレース編みをしていた。
「おう、おかえり。」
「陽子、おかえり!楽しかった?」
いつも通りの二人の姿は、向こうで入った温泉よりもほかほかと胸の奥に染み込んだ。
「はい、これお土産。わさびの漬物と、お蕎麦だよ。お母さん、何か作るかなって思って、蕎麦粉も。」
父は私の糸のことをあまりよく知らないので、最初に母に話そうと思った。父がソファを立って自分の部屋に入ったのを確認すると、私は母の隣に座った。
「お母さん、あのね、大変なことが起きたかもしれない。糸が見えなくなっちゃった。」
母は、レース編みをしていた手を止めて、こちらを見た。
「それで、二人のことは助けられたのかな?」
母には何も言っていないはずだし、メイさんもわざわざそういったことを報告するタイプでもない。やっぱり、今回もお見通しだったということだろうか。
「うん。」
内容については、母は深く聞いてこなかった。
「それなら、よかったね。」
「うん。」
休めていた手を再び動かしながら、母はそう言った。
しばらくすると、玄関の方で「ちょっと出かけてくる。」と父の声がした。
「陽子がさ、生まれる時難産だったって、言ったじゃない?」
母がまた話し出す。今回は手は止めずに。
「うん。」
「その時にね、私も全部、力を使い果たしちゃったの。」
「え?」
私は母の顔をまじまじと見た。
「私も、お姉ちゃんや陽子みたいに、糸が見えてたんだよ。」
初耳だ。
「陽子は生まれるときに、逆子でしかも首にへその緒が巻きついて窒息寸前だったの。それも、話ししたっけね。」
「うん。」
手元でレース編みの糸が自由に動き回り、可愛らしい花のモチーフが編まれていく。
「ちゃんとあなたの体は外に出て来られたのだけど、それからが大変だった。なにせ息をしていなかったんだもの。それでね、私は自分から発せられる光の糸をすべて、根こそぎよ。あなたへと集中させた。ふにゃふにゃのあなたのへその緒から、私の生命力のすべてを注ぎ込んだの。」
私はその話しに真剣に聞き入った。
「首に巻きついてしまったへその緒が丁寧に取り払われると、あなたはやっと、産声をあげた。私は、助産婦さんの『もう大丈夫ですよ。』っていう声を聞くなり気を失ってしまった。で、次に目が覚めた時にはもう、世界は静かになってたわ。糸は全く見えなくなってた。お姉ちゃんもさ、糸が見えなくなった時期があったんだよね。今は見ようと思えば見られるみたい。でも、私の場合は、本当にうんともすんとも、見えなくなっちゃんだよね。
誰かを助けるってことは、自分の一部をちぎってあげるってことだと思う。それが命に関われば関わるほど、対価も大きくなるんじゃないかな。陽子の場合はこれからまた見えるようになるのか、どうなのかわからないけれど、でもそれ程大きなエネルギーを使ったってことだね。本当に、心底、二人を助けたかったのね。」
手元から目を話し、母は私を見つめながら言った。
「私はね、自己犠牲は好きじゃない。誰に対してもそう。でもね、大切なものを守るためなら、とことん納得がいくまで自分の持っている力を使えばいいと思う。だから、いい経験ができて、とてもよかったね。さ、夕飯何にしようかな〜。陽子のおかえり記念ごはんね〜。」
母はご機嫌で歌うようにそう言うと、台所へと消えて言った。
「そっか。」
私、見えなくなったんだ。気楽にも思えるけど、ずっと付き合っていたものがなくなるというのは、寂しいものだ。
「そっか。」
私は同じ言葉を繰り返し、ソファにごろんと寝転んだ。うとうとしていると、玄関が開く音がした。夢との間で父の声が聞こえる。
「なんだあ、せっかくアイス買ってきてやったのに、寝ちゃったのかあ。」
そう言って、ふんわりと体にブランケットをかけてくれた。
「ふふふ。大仕事をね、あっちでしてきたみたいよ。」
そうなの、お母さん、とても大仕事だったんだよ。糸、見えなくなるくらいだよ。あの時に、月子の靴を海に落とした時に、私もなにか落としちゃったのかな。夢の中で夢を思い出しながら、私はそう思った。
じゅうじゅう、かつかつと、何かを炒める音で、私は目を覚ました。
「ごはん…。」
「あ、起きた?そろそろ起きる頃かと思って。」
一人占領していたソファから、ゆっくり体を起こす。やっぱり、糸は見えない。台所からは、玉ねぎとピーマンをケチャップで炒める匂いがした。母は、いつも、私が食べたいものがわかってしまう。私は、すこししょぼくれている時に、無性に母が作ったオムライスが食べたくなるのだ。
「オムライス…?」
「残念、はずれ!オムナポリタンでした!オムライスのほうがよかった?」
「ううん、オムと名前がつけば私はどこにいても飛んでくるよ…。」
寝ぼけながら私は再び、ソファに寝転んだ。
ーやっぱり、寝て起きても見えるようにはなってないかあ…。
私はあまり考えず、『視界がすっきりしてラッキー!』くらいに思うようにしておいた。食後に食べた、お父さんが買ってきたいつもなら絶対買わないようなオシャレで高級なアイスは、とても美味しかった。
「お父さん、美味しい、ありがとう。」
素直にそう伝えると、
「ん〜?ああ。」
と、テレビから目を離さずに答えた。母がこっそり
「あれは、とびきり喜んでるのよ。照れ隠しなの。」
と教えてくれた。

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