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番外編1「雫ちゃんの照れ顔」(前編)

本編未読の方は、先にストーリー&登場人物紹介をご覧ください。

(今回の文章量:文庫見開き強)

 できるだけ音を立てずに襖を開けたが、小林さんはキャンバスから俺に顔を向けた。

「お邪魔してすみません」
「もう終わるところだから構わんよ」

 絵筆をパレットに置いた小林さんは、俺の手にある麦茶を見て口許を緩める。

「こっちこそ、お茶を持ってきてもらったり、調べ物をしてもらったり、何度も呼び出して悪いな」
「いえ、そんな」

 むしろうれしいです、と内心で応じつつ、俺は雫にこっそり目を遣る。

 雫は金屏風を背に、緋袴の前に両手を重ね立っていた。小林さんがいるので、他所行きの愛らしい顔つきなのはいつものことだが、白いほおは、ほんのり赤い。

 明らかに恥ずかしがっている──あまり見たことがない雫は、新鮮でかわいい。

 いま雫は、絵のモデルになっている。描いている小林さんは、源神社の氏子さんで、アマチュア画家。「中学で美術部に入って40年。培われた芸術家としての勘が、君を描けと言っている。フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』や、ルノワールの『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢』に匹敵する名画が描ける!」と頼み込んできたのだ。

 美術に詳しくない俺でも、フェルメールやルノワールの名前くらいは知っている。そんな巨匠に匹敵するなんておこがましいにもほどがあるし、雫も困っていたが、兄貴に「小林さんはよく寄附してくれる大事な氏子さんだから、協力してあげて」と言われ、やむなく引き受けたのだ。

「お役に立てているでしょうか」

 よほど恥ずかしいのか、雫の声は少し上ずっている。

「もちろんだ。俺の人生最高傑作になる」

 大袈裟だな、と思いつつ、俺は小林さん越しにキャンパスを覗き込む。
 その瞬間、息を呑んだ。

 ルノワールやフェルメールに匹敵するとは思えないが、すばらしい絵ではあったからだ。

 雫は冗談のような美少女顔なので、忠実に写実さえすれば、それなりにきれいな絵になることは間違いない。でも小林さんの絵は、写実的なだけでなく、生命力に充ちていた。ほんのり赤いほおは、触れればじんわりあたたかそう。

 小林さんが、神職になる前に巫女をしていたときの琴子さんを描いた絵を見たことがある。あっちは、あの人の堂々とした姉御肌の雰囲気が全然描けていなかった。
 琴子さんが巫女をやっていたのは高校生のときだから、10年以上前ではある。
 その間に腕を上げたにしても、同じ作者とは思えないレベル差だ。

□□□□

 30分後。小林さんは「いい絵になった」と満足そうに帰っていった。

「モデル、お疲れさまでした。随分と恥ずかしかったみたいですね」

 鳥居をくぐった小林さんの姿が見えなくなるなり、俺は雫にねぎらいの言葉をかけた。
 息をついた雫から、愛嬌が抜け落ちる。「参拝者さまに愛嬌を振り撒くのが巫女の務め」と考え、大真面目に実践しているが、同僚の俺たちには素顔の氷の無表情。それが久遠雫なので、この表情変化は意外ではなかった。

 でも、口にした言葉は意外だった。

「小林さんのために、恥ずかしがっている『ふり』をしただけです」

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