擬キャラ化を止められない

勘違いしないで欲しいんだけど、これは私の考えていることをそれらしく文章にして無料で公開しているだけです。読みたい人だけ勝手に読んで下さい。

先日、母と6歳児が今やっている仮面ライダーの映画を見てきました。母は「奥野くんめちゃくちゃ演技よかった、からよかった」「近くの席に座っていた大きなお友だちがしゃべっていてキモかった」と言っていました。まあジオウという作品自体が本質的にこれから仮面ライダーを見始めた子どもに向けられていない作品なのは自明と言いますか、子どもがニチアサを見るのは精々未就学児〜小学生低学年の頃の数年間ですから、平成という30年以上の中のたった少ししか殆どの子どもは仮面ライダーを知らない訳です。その点では仮面ライダー公式はずるいなあと思いますが。しかし私も仮面ライダー龍騎とディケイドのオタクなので本編該当回はとても楽しんでいました。でも母と6歳児は龍騎も知らないしディケイドも知らない。6歳児に関しては当たり前ながら、当時生まれていなかったのです。
という訳で見に行けていないんだけど、私の中でジオウの映画の評判はあまり芳しくない。しかしツイッターのタイムラインには毎日の様にジオウ映画を称賛するツイートが流れてくる(それに特に「お気持ち」はないのだけれど)し、クロームはおすすめ記事にジオウの映画を推す記事を載せて私に見せようと頑張っている。この様にして、私は見てもいない映画を様々なバイアスやフィルターで評価しています。
これと逆の話をしますと、ツイッターでめちゃくちゃにドラクエの映画が酷評されていますね。デビルマンと比較されていてそんなにひどいのかと思いました。勿論まだ見に行けていないけど、私の中でドラクエの映画は全く酷い映画ではないのです。なぜならタケルが出ているから。ンタケルゥ~~!!顔がいい!演技もいい!!ラインの文章もいい!!!!愛。私はタケルが大好き。

結局私たちはコンテンツをコンテンツのみで消費できません。主語がでかいんじゃないのかと言われても、昨今オタク女性に人気の文豪擬人化ゲームや人気スマホゲームの過去に実在した歴史的人物の擬人化を見ればわかる様に、どんなに作品を作品として消費したくても背景事情が主役となってしまう場合や、それとは別に作者の主張が出張ることがよくあります。文豪擬人化ゲームなんて顕著で、彼らは元になった人物の人間性を微量に残しつつ(勿論、キャラクターとして消費できる様に簡略化をして)彼らの作品を「キャラクター」に混ぜ込まれています。
ここで怒られる前に言っておきたいけど全くこれらのコンテンツが嫌いではありません。マリー・アントワネットを「マリー」と呼ばれない限り私は特にこういう小説やゲームを激楽しんでいます。文豪擬人化ゲームに関してはあまりやっていないけど「最強大蔵省DX2019」という名前でやっているので見つけたら鼻で笑って下さい。
上手い表現が見つからないんだけれど、私が推している研究者が何人かいます。その内の一人、山中剛史先生、いつもツイッターで何か言うときは私は山セン(検索避け)と言っているのだけれども、とにかく山センはめっちゃ偉人(えらびと)だと思います。山センの文章はわかりやすいし、私が知っている限り三島由紀夫(ゆきりん)研究マンの中では若手なのでこういうオタクコンテンツ化した文豪擬人化ゲームにも実際にプレイをして、その内容や感想のコラムを結構前に書いてくれていました。リンクは貼らないけど山センの名前で検索すればぱっと出てくるからなんとなく読んで欲しい。
山センは文豪擬人化の「擬人化」の部分を「擬キャラ化」と仰っていたんですね。

なるほど、擬キャラ化、非常にいい言葉だと思っています。
ダンス・クリスティークという本があって、私はそれに非常に影響を受けてゆきりんの本を「ゆきりんの書いた本」として読み始めたのだけれど、私たち人間は社会生活を営む上で「見せる部分」を選んで生きているのは多分ほとんどの人が納得して頷いてくれるでしょう。人間という数十年間を生き続ける個。その人と一緒に数十年間を生きてきた人が何人いるのだろうか……だから私たちは記号化されたキャラクターになって自分を理解してもらおうとする。出会って数分の人に自分のウン十年間積み重ねてきた個性を理解されるかなんて聞いたら絶対ない訳だから、「○○キャラ」を装って、そのキャラを演じ続けている。まあずっと一緒にいればボロが出ることなんてしょっちゅうだけど、とりあえず「他人にどう見られたいか」を無意識に私たちは考えて仮面を被り続ける。言語化というのは捨てることでありますから。
この過程で、自分に対しての擬キャラ化は当然の様に行われています。しかしこれとは別に、他者Aが他者Bに対して擬キャラ化することがこの十数年のオタクコンテンツで浮き彫りになってきたんじゃないかなってボケボケ思っているのです。

私(オタク)たちは作品を作品だけで終わらせることが苦手です。「○○という作品が面白かったから作者△△の他の作品を読もう」という行為がひどく普通であります。そしてそれは責められるべきではなく、自分の見聞とかほにゃららがなんかよくなると思うので作品を消費するのは結構なことでしょう。けれどツイッターやピクシブといった普通の人(プロや専門的な知識を持って活動している人ではない人)が普通に作品を提供し普通の人が消費するサイクルが「やりやすい」サービスの登場により、作者メンヘラみたいな人が多く見られる様になってしまいました。「絵描きは絵描きしかフォローしない」「あなたが言うフォロワーは相互フォロワーのことだから相互以外のフォロワーにも配慮をして欲しい」「同ジャンルマンが別ジャンルマンになって悔しい」だの言ってしまえば「仲良くなりたい」みたいな感情を拗らせて「読者を見てくれない作者はクソだ」の方向性に行ってしまって変なマシュマロを送りつける人を何度も見てきました。擬キャラ化とは物語を継続させる為の積極的装置だとすれば、他者Aから他者Bに行う擬キャラ化とは「こうであって欲しい」という傲慢な願望が含まれている。そう考えると「萌え絵製造機」と思われることはなんだかんだ言って作品そのものを消費されていることになるのかもしれませんね。
これは読者である他者Aが作者である他者Bに行った擬キャラ化の話だけれど、作者から他者に行う擬キャラ化もよく見ます。コミックエッセイが流通し始めてカラーコーンの人は超有名だし、オタク同士でシェアルームした漫画もある。作者が自己に行った擬キャラ化のみではなく、自分を取り巻く環境の内にいる他者を擬キャラ化した例はもはや数え切れません。今あげた例は作者がちゃんと許可を取っているけれど、この前はてな匿名ダイアリーで「妻が自分のことを漫画にしてくる」内容の文章を読んでから「まあ嫌だよな、個人のやり取りを無許可で載せられるのは……」としみじみと思いましたね!人間と人間のやり取りをキャラ同士の会話文にされるのを嫌がる人がいて当たり前だと思います。自分の生活を、他人の感情に訴えさせるのはやはり抵抗があってしかるべきだと思います。

ここまでのまとめ
・人間のその人物の人間性、付属物、背景事情などを受け取る相手に受け取りやすい「物語」の形で提供するにあたって「キャラクター」化させることを擬キャラ化と解釈する。
・擬キャラ化には①作者が自己に行う擬キャラ化、②読者が作者に行う擬キャラ化、③作者が他者に行う擬キャラ化がある。
・この内②と③は昨今のツイッター文化やピクシブ文化で急成長し、ときどき擬キャラ化によって他人を攻撃してしまう人がいる。悲しいね。

ここからいつも通り4400字分ストロング女衒ゆきりんの柘榴の国について書き散らそうと思ったけど今日は割ガチ熱中症気味なのでこの辺にしておきます。ゆきりんが嫌いだと言っている割によくやりますね。またいつか会いましょう。

山セン!!!!ゆきりん研究19巻のアダプテーション作品の生態学めっちゃよかったです!!!!マジで舞台見に行かなかったのを後悔しました。先生のツイッターでゆきりん作品の舞台化などの上演が盛り上がっていることを存じております。
出口先生の本でゆきりんのことを昭和の迷宮って書いている本があったと思うんだけれど昭和に生きたゆきりんが「タブー」を意識し続けた作品たちを昭和に置いていくの、限りなくキャラクターとして満点です。「どうせなら何か僕の証を刻んでいきたいよ」を昭和という機構を使っていったのかと思うとオタク、笑顔。

2020/03/31 加筆修正、内容に変わりはないです。

100円コーヒーが!!!!飲みたい!!!!