H29.12.6受信料判決批判(草稿)

平成26(オ)1130受信契約締結承諾等請求事件(最大判平成29年12月6日)

※まだ、「注」もつけていなし、校正もしていませんが。

事実の概要

 本件は、日本放送協会(以下「NHK」)の放送を受信することのできる受信設備を設置していながらNHKとの間でその放送の受信についての契約を締結していない者(以下「被告」または「弁護側」)に対し、受信料の支払等を求める事案である。
 放送法に基づくNHKに係る制度の概要、および、被告が、平成18年3月22日以降、その住居に、NHKの衛星系によるテレビジョン放送を受信することのできるカラーテレビジョン受信設備を設置していること、NHKは、平成23年9月21日到達の書面により、被告に対し、受信契約の申込みをしたが、被告は、上記申込みに対して承諾をしていないことは、原審において適法に確定している。
 NHKの請求は、被告に対し、主位的請求として、放送法64条1項により、原告による受信契約の申込みが被告に到達した時点で受信契約が成立したと主張して、受信設備設置の月の翌月である平成18年4月分から平成26年1月分までの受信料合計21万5640円の支払を求めた。
これに対し、被告は、放送法64条1項は、訓示規定であって、受信設備設置者に原告との受信契約の締結を強制する規定ではないと主張し、仮に同項が受信設備設置者に原告との受信契約の締結を強制する規定であるとすれば、受信設備設置者の契約の自由、知る権利、財産権等を侵害し、憲法13条、21条、29条等に違反すると主張するほか、受信契約により発生する受信料債権の範囲を争うとともに、その一部につき時効消滅を主張している。

判決要旨

 各上告棄却
 放送法64条1項は、受信設備設置者に対し受信契約の締結を強制する旨を定めた規定であり、NHKからの受信契約の申込みに対して受信設備設置者が承諾をしない場合には、その者に対して承諾の意思表示を命ずる判決の確定によって受信契約が成立する。
 公共放送事業者と民間放送事業者との二本立て体制の下において、前者を担うものとしてNHKを存立させ、これを民主的かつ多元的な基盤に基づきつつ自律的に運営される事業体たらしめるためその財政的基盤を受信設備設置者に受信料を負担させることにより確保するものとした仕組みは、憲法21条 の保障する表現の自由の下で国民の知る権利を実質的に充足すべく採用され、その目的にかなう合理的なものであると解されるのであり、これが憲法上許容される立法裁量の範囲内にあることは、明らかというべきであって、このような制度の枠を離れて被告が受信設備を用いて放送を視聴する自由が憲法上保障されていると解することはできない。放送法64条1項は、同法に定められたNHKの目的にかなう適正・公平な受信料徴収のために必要な内容の受信契約の締結を強制する旨を定めたものとして、憲法13条、21条、29条に違反しない。


検討

 本件は、NHKと受信設備設置者との間の契約締結を求める訴訟であるが、法務大臣が意見書(以下「意見書」)を提出するなど、受信料制度の憲法適合性も注目された事案である。もっとも、結果的には、高等裁判所で見解の別れていた受信契約の成立時期が明確になったものの、受信設備設置者が主張した「知る権利」を含む憲法問題はほとんど触れられないまま合憲と判断された。本稿では、裁判所の判断の根拠が不明確な点を指摘する。

(1)契約の自由について
 契約自由の原則は、憲法上明記されてないが、近代法の前提たる平等を実現するには当然の原則であり、具体的条文を求めるなら憲法13条に含まれる人権である。したがって、その制約は必要最小限度でなければならないことは、憲法学界では自明のことである。勿論、私法の領域において、すでに契約自由の原則は修正されているが、その制約も、憲法の公共の福祉のもと(一般に言われる、「実質的公平の原理」である)、必要最小限度の制約でなければならない。多数意見および意見書は、NHKの社会的役割を強調しているがそれをもって制約できるものではない。

①受信契約承諾請求権の存否
 裁判所は、これまでも、NHKに受信契約承諾請求権が存在することを前提に、訴訟を受け入れてきている。しかし、放送法64条1項からは、そのような請求権が直ちに認められるかは甚だ疑問である。というのは、放送法が規定するのは「協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。」であって、受信機設置者に契約義務があるとしているだけだからである。義務の相手方がNHKだからといって、当然に受信契約承諾請求権があるわけではない。例えば、自動車損害賠償保障法5条が「自動車は、これについてこの法律で定める自動車損害賠償責任保険又は自動車損害賠償責任共済の契約が締結されているものでなければ、運行の用に供してはならない。」と規定しているからといって、保険会社が自動車を所有しながら、無保険で公道を走行する者に対して、保険契約締結請求権を有しないのと同様である。「放送法は、主に原告その他の放送主体の組織及び業務について規定しており、公法であると性格付けられるものである。しかし、公法であっても私権の発生要件について規定することもあり得るところであ」るとしても(岡部裁判官補足意見、最判S55.12.11民集34.7.872)、私権についての規定である以上、一方が、他方の自由な意思に反して請求できるとするには、「必要かつ合理的な制度」という根拠では不十分である。そこには、電気事業法やガス事業法や医師法にみられるように、事業者が消費者や患者の申込みを拒否することによって生じる、生命や健康への危険を回避するため等の強い理由が必要である。しかし、放送の受信は、生命や健康に関わるものではなく、また、その契約によって、危険を回避できるものでもなく、単にNHKの維持運営費にすぎないのであるから、NHKからの受信契約承諾請求を、受信設備設置者に強制する理由とはならない。
 もし、受信契約承諾請求権があるとすれば、それを有するのは、逆に、受信設備設置者の側である。NHKが受信契約の申込みに応じないということがあれば、受信設備設置者が放送法に違反する状態に置かれるからであり、また、「知る権利(岡部裁判官補足意見にいう「情報摂取の自由」)」を阻害することになるからである。その意味で、NHKは受信契約を承諾する義務が課されているのである。
 NHKが特別な理由から設置された特別の存在であろうとも、そのような請求権が当然に認められるわけではない。岡部裁判官補足意見は「放送法の規定中に受信契約締結義務が定められたのは、同法の立法に至る経過において、原告の財政基盤確保の方法が変遷したことによるものである。その規定を読めば,①受信設備を設置したこと、②原告による受信契約申込みの意思表示がなされたことというニつの要件を充足することによって、原告が当該受信設備を設置した者に対して受信契約承諾請求権を取得することになると理解できる。」とするが、これは放送法の制定過程の一面しか見ていない。というのは、NHKを主体としたなんらかの権利は、条文上、否定されてきたのである。
その過程をみると、放送法が制定された昭和25年は、わが国はまだ占領下にあったので、放送法の制定にあたってはGHQの意向を確認する必要があった。そこでの、わが国政府とGHQの間に放送法制定をめぐるやり取りを見ていくと、GHQは様々な「示唆」をしたことになっている。その中で受信料については、当初、すべての受信器所有者から聴取料を取る権利を規定によって与えられるべきとしており、これを受けて作られた放送法案(1948年6月18日)では、「協会は、その提供する放送を受信することのできる受信設備を設置した者から、受信料を徴収することができる。」と規定された。明確にNHKに対して、受信料徴収権を与えていたのであるが、この案は、全体として国家による統制色が強かったために、民政局から、NHKの性質は、日本国有鉄道公社と日本専売公社と同様の公社であるとし、公法による法人であることを考慮するようにという意見がつけられた。そこで新たに放送法案(1949年3月1日)が作られたのであるが、その際、受信料については、「協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約を締結したものとみなす。」と変更され、NHKに権限を付与したものとは読めない規定となった。さらにこの案は変更され、閣議決定された放送法案(1949年10月12日)では、法文中に受信料月額が明記されるとともに、受信契約については「協会の標準放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。」となったのである。
 このように、NHKに明示的に権限を与えた規定から、国民に対して契約を命じる規定に変わり、NHKの財源を確保する手段から強制性が減らされてきた事実については、意見書にも記載されている。意見書が本判決にあたって参考に留まる程度のものであっても、NHKの受信契約承諾請求権の存否に関して、根本的な事項である。しかし、裁判所は、一切、検討していない。

 また、意見書に記載された「日本放送協会がここに何らかの法律的な根拠がなければ、その聴取料の徴収を継続して行くということが、おそらく不可能になるだろうということは予想されるのでありまして、…強制的に国民と日本放送協会の間に、聴取契約を結ばなければならないという条項が必要になつて来る」、「この料金は日本放送協会と聴取者の契約ではございますが、法律でもつてこれを強制しておるのであります。自分がいやだからと言つて、契約を結ばないというわけには行かないのでありまして、最後に裁判所で問題になつたときも、やはりこの条文が生きて来ると思うのであります。」(電波庁網島毅電波監理長官昭和25年2月2日第7回国会衆議院電気通信委員会議録第4号)との答弁が憲法上許されるのかも検討していない。
 意見書は、法制定までの変遷に続いて、昭和41年以降の改正の動きについても記載しているが、その間の昭和28年8月7日衆議院電気通信委員会で、「受信料は一定性能の受信機を備えつければ、当然受信契約をしたものと見なされるようになつておりますが、これは法律論といたしまして、そこに若干無理があるのではないか。契約自由の原則に反し、場合によれば憲法にも違反して参りますが」と問われたのに対して「この点は、私も一般の観念からすれば、まさに御指摘のように、若干の無理があると思います。ただこういう特殊のものでありますために、そういうようにどこかで規律をいたしませんと押える場所がないものでありますから、こういうように、急いで法律にそのように御規定を願つて認めるということになつておるので、御承知のように三十二条に、契約しなければならないというようにしてあるわけであります。これはこういう放送聴取とういものの性質から来る特殊のものであるというように、私は了解をしておるわけであります。」と、大臣さえも疑問を持っていたことは記載していない。
 さらに、放送法制定過程で示された公社としての性格を考慮するのであれば、受信料についても「特殊な負担金」とすることはできず、「サービスに対する対価」とするほかない。そうであれば、かつて国鉄が、鉄道を利用する機会があるからといって、乗車しない者から運賃を徴収したわけではないのと同様、NHKの放送も、受信できるからといって、視聴していない者から徴収することはできないことになる。仮に、公社にも様々な性格があるとして(最終的にNHKは公社とはならなかったが)、NHKについても特殊法人としての性格を強調し、視聴しない者からも、その維持運営費を徴収することができるというのであれば、同じく特殊法人である高速道路株式会社に対しても、高速道路の維持管理費等として、高速道路を利用しない者からも、自動車を所有しているというだけで、特殊な負担金を聴取することも、「必要かつ合理的な制度」としなければならない。
 放送法が公法であり、その64条1項に、受信契約承諾請求権者が明示されていないことからすれば、請求権者は、法の執行者たる政府、とりわけ管轄する総務省・総務大臣ということになる。しかも、契約の申込みという名目で、実質的には「届出」を強制するものであるから、それは権力的行政であって、その権限の行使は、代表民主制を人類普遍の原理とするこの憲法のもとでは、憲法上の機関ではないNHKに委任することはできない(なお、高速道路株式会社に料金所の通行方法を定めさせ、その違反者に対して刑罰を科す構成となっている道路整備特別措置法の問題を指摘するものに、松宮孝明「白地刑罰法規の規範補充を私人に委ねることと罪刑法定の原則」立命館法学2008年5・6号(321・322号)がある。)。

②民法414条2項但し書きによる意思表示の可否
 最高裁は、契約における意思表示を重視し、NHKが受信機を設置した者に対して、受信契約を申込んだことによって、一定期間の経過の後、自動的に契約が成立するとした高裁判決(例えば、その最初は東京高裁平成25年10月30日)を否定した。これにより、契約成立時期に関する争いは、一応の解決を見たといえる。しかし、最高裁が支持した民法414条2項但し書き「法律行為を目的とする債務については、裁判をもって債務者の意思表示に代えることができる。」を、一般的に受信契約にも適用できるのかは疑問なしとしない。この規定は、債権債務の内容が具体的でなければ適用し得ないからである。この点については、鬼丸裁判官補足意見でも、木内裁判官反対意見でも指摘されている。
 鬼丸裁判官は、放送法64条1項の規定からは、放送受信規約2条1項が定める世帯単位の契約を導くことは困難だとし、さらに、世帯単位であっても、契約締結義務が世帯のうちいずれの者にあるかについて規定を置いていないことから、受信契約の締結を強制するについて疑義を生じさせかねないとしている。また、契約強制は「契約締結の自由という私法の大原則の例外であり、また、締結義務者に受信料の支払という経済的負担をもたらすものであることを勘案すると、本来は、受信契約の内容を含めて法定されるのが望ましいものであろう。」と言う。その例外を認める根拠が示されていないだけでなく、本来、法定されるべきものを、国家機関でないNHKに委任している現状をどう理解するのかも述べられていない。そうでありながら、多数意見と同様、契約締結強制を認めているのだから補足意見としては意味不明としかいいようがない。
 これに対して、木村裁判官は、判決によって受信契約を成立させようとしても、契約成立時点を受信契約設置時に遡及させること、また、判決が承諾を命ずるのに必要とされる契約内容(契約主体、契約の種別等)の特定を行うことはできず、受信設備を廃止した受信設備設置者に適切な対応をすることも不可能として、多数意見に明確に反対している。加えて、そもそも受信契約承諾の義務があるかどうかも確認できない場合がある。本件では、被告が、テレビを所有し、受信できる状態にあることを、NHKが、被告の自発的発言あるいはその他なんらかの方法で知り得たから、契約承諾を求めることができたにすぎない。私法上の契約であるならば、NHKと私達は対等関係にあるから、自己の所有する財産状況について回答する法的義務はない。つまり、テレビの有無、パソコンの有無、カーナビの有無、携帯電話の有無等、回答しないことも可能であり、現に、近時は、受信契約のお願いに伺っても、取り合ってくれない者もいるそうである。つまり、民法414条2項但し書きは、承諾義務の存否すら不明な受信契約には適用できない。本判決多数意見は、受信契約を締結させることを前提に、適用できそうな条文を検索したにすぎないのである。
 しかし、木内裁判官は民法414条2項但し書きの適用の可否について詳述しているものの、放送法は受信契約の内容を定めておらず、NHKの定める放送受信規約がその内容を定めていることの「当否は別として」と、肝心な部分を避けてしまっている。この立法の、国家機関でない者への委任と思われる状態は、国民の間に優劣関係を認めることになるため、平等の原則の観点からは、極めて重要な問題なのである。これが立法でないとするならば、受信契約締結後に、受信規約の変更によって、対等関係である契約の相手方(NHK)から一方的に契約内容を変更すること(そもそも、受信規約が契約内容というわけでもない。)の説明がつかない。たとえ、総務大臣の認可が、受信機設置者の利益のため、つまりNHKが不当な受信料の値上げなどをしないようにするためであっても、立法としなければ法理論として説明できないのである。また、木内裁判官は、受信契約締結が義務付けられていることについて「『受信契約を締結せずに受信設備を設置し原告の放送を受信しうる状態が生じない』ことを原告の利益として法が認めているのであり、この原告の利益は『法律上保護される利益』(民法709条)ということができる」とする。しかし、ここで、「受信可能性」だけで「法律上保護される利益」とすることで、受信を望まない者の利益を反射的に侵害することを考慮していない。多数意見同様、NHKの社会的役割を当然としているかのようである。受信設備設置者は、NHKの放送サービスの恩恵をうけることを望んでいるとは限らないし、受信料をNHKの維持運営のための「特殊な負担金」として、NHKの放送との対価性を否定するならば、なんの恩恵もうけることはないのだから、なおさらである。かえって、承諾を義務付けられることで、経済的不利益を被ることになり、それを回避するには、受信設備を廃止するしかなく、結果、民放の視聴によって情報を摂取する自由が侵害されることになる。
 受信料の性格は、特殊な負担金であることを前提としている。しかし、サービスの対価ではない、つまり給付と反対給付のないものを私法上の契約といえるのか。逆に、特殊な負担金は私法で認められるかが検討されていない。

③NHKが契約強制によって不利益を被っている点
 民事裁判では当事者の主張しないことは裁判所は取り上げず、また、当事者の主張であっても、憲法判断が回避される傾向にある。しかし、裁判所が、NHKの設立経緯を確定した事実関係とするのであれば、その経緯に憲法的問題があることも取り上げるべきであった。
まず、裁判所は、公共放送たるNHKと商業放送の二本立てをとることは立法裁量であるとするが、その公共放送の設立経緯からみて、裁量の範囲をこえる。大正15年に社団法人日本放送協会が設立されたときは、同協会のみが放送を行っていたのであるから、国民が受信設備を設置するにあたって、主務大臣の許可のもと同協会との聴取契約を締結する制度に特段の問題はない。同協会の放送を聴取したい者だけが、聴取料を負担するにすぎないからである。昭和25年、現行憲法のもと、放送法制が整備されるが、このとき、社団法人日本放送協会は、その財産をそのまま引き継ぎ、「公共の福祉のために、あまねく日本全国において受信できるように放送を行うことを目的とする」、放送法に基づく特殊法人となるが、ここでまず、特定の団体に対してのみ適用される法律の違憲性を検討しなければならない。憲法41条における立法は、不特定多数に対して適用される「一般性」を有していなければならないからである。放送法によって設立されたNHKのみが、日本全国において受信できるように放送を行う義務を課されたのであるから、本来、NHKが、その違憲性を主張しなければならない事項である。平等の原則に基づき、法律が原則として一般性を要請されているからこそ、ひとつの地方公共団体のみに適用されるような特別法は、住民の同意を必要としている(憲法95条)のであって、憲法に根拠もなく(公共放送について憲法に規定する是非は別として)、国家機関でない特定の団体に不利益を課すことは許されない。もし、NHKがその負担を受忍するのであれば、理論上、違憲であるとはいえ他の国民には負担がないから、実質的に大きな問題はないが、放送法は、NHKの負担を補填するために受信機を設置した者から受信料を徴収する制度を設けている。NHKのみが放送を行っているのであれば、受信機を設置することはNHKの放送を受信することにほかならないから、当初の放送法案のように、NHKに受信料徴収権を付与したり、契約を強制することも、法理論上の問題は別として、実質的に問題はない。放送法施行からまもなく民間放送が活動を開始し、無償で視聴できる環境となった。この時点で、法理論としては歪が生じたが、それでもNHKに対する信頼と、他の娯楽の少なかったことを考えれば、受信料支払いに対する疑問を声にだす人は少なかったかもしれない。とはいえ、民放が充実している現在、裁判所が「放送をめぐる環境の変化が生じつつあるとしても、なおその合理性が今日までに失われたとする事情も見いだせない」とすれば、裁判所の事実誤認でしかない。
放送法64条1項は、「協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。」とする。下級裁も意見書も、この表現に誤魔化され「受信設備設置者の不特定多数に適用され得る一般的・抽象的な法規範」とするが、この規定は同時に、NHKに対して受信契約の申込みがあった際に承諾することを義務付けているものであって個別法に該当する。前述のように、他の法律にも事業者に対して契約の承諾を義務付けるものがあるが、その場合であっても、「正当な理由」があれば拒否できる。現実には、NHKが承諾を拒否する必要性はないが、法理論上は、水道、ガス、電気といった国民生活に不可欠な他の事業よりも強く規制されている。また、NHKは任意に受信料を免除することができない。他の事業者は、使用料等の不払いに対して、契約を解約し、以降のサービスの提供を拒否したり、支払いを求めて訴訟を提起したり、場合によっては、その債権を放棄することもできるのに対して、NHKは、どんなに少額であってもであっても、必ず受信料を徴収しなければならず、そのために、必ず訴訟を提起しなければならない。
 このようなNHKに対する不利益と、ある国民(NHK)に対する不利益を補填するために、他の国民に対して不利益を転嫁する受信料制度を立法裁量と片付ける裁判所の論理はあまりにも乱暴である。

(2)知る権利について

 多数意見は、「放送は、憲法21条が規定する表現の自由の保障の下で、国民の知る権利を実質的に充足し、健全な民主主義の発達に寄与するものとして、国民に広く普及されるべきものである。」とした上で、どのような放送制度を採用するのかは「憲法上一義的に定まるものではなく、憲法21条の趣旨を具体化する前記の放送法の目的を実現するのにふさわしい制度を、国会において検討して定めることとなり、そこには、その意味での立法裁量が認められてしかるべきであるといえる。そして、公共放送事業者と民間放送事業者との二本立て体制の下において,前者を担うものとして原告を存立させ、これを民主的かつ多元的な基盤に基づきつつ自律的に運営される事業体たらしめるためその財政的基盤を受信設備設置者に受信料を負担させることにより確保するものとした仕組みは、前記のとおり、憲法21条の保障する表現の自由の下で国民の知る権利を実質的に充足すべく採用され、その目的にかなう合理的なものであると解されるのであり、かつ、放送をめぐる環境の変化が生じつつあるとしても、なおその合理性が今日までに失われたとする事情も見いだせないのであるから、これが憲法上許容される立法裁量の範囲内にあることは、明らかというべきである。このような制度の枠を離れて被告が受信設備を用いて放送を視聴する自由が憲法上保障されていると解することはできない。」とする。
 しかし、多数意見は、放送の意義を述べるも、知る権利については詳述しない。それにもかかわらず、放送制度の枠を離れて「被告が受信設備を用いて放送を視聴する自由が憲法上保障されていると解することはできない。」と言うのである。
これについて、岡部裁判官は補足意見で、被告が、知る権利を明確に主張しなかったからとしているが、被告は、知る権利が侵害されることは主張しているのだから、知る権利を明確にすることなく、その制約を論じることはできないはずである。なお、本件弁護団は、いくつかの下級審において「知る権利」を定義した上で主張しているが、下級裁は、一切、知る権利を分析していない。意見書が知る権利(民間放送を視聴する自由)に言及しているのも、弁護側の下級審での主張が影響しているものと思われる。
 岡部裁判官は補足意見で「憲法は表現の自由の派生原理として情報摂取の自由を認めている(最高裁昭和63年(オ)第436号平成元年3月8日大法廷判決・民集43巻2号89頁参照)。情報摂取の自由には、情報を摂取しない自由(情報を摂取することを強制されない自由)を含むものと解することができる。」として、「被告は、このような情報摂取の自由について明確に主張するものではなく、多数意見もこれに触れるものではないが、放送法64条1項は、原告の放送の視聴を強制しているわけではないとはいえ、受信することができる地位にあることをもって経済的負担を及ぼすことになる点で、上記のような情報摂取の自由に対する制約と見る余地もある。」としながら、多数意見と同じ理由で、その制約は合理的であるとしている。
 岡部裁判官の参照している箇所は、いわゆる法廷メモ採取不許可国家賠償請求事件の「憲法21条1項の規定は、表現の自由を保障している。そうして、各人が自由にさまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取する機会をもつことは、その者が個人として自己の思想及び人格を形成、発展させ、社会生活の中にこれを反映させていく上において欠くことのできないものであり、民主主義社会における思想及び情報の自由な伝達、交流の確保という基本的原理を真に実効あるものたらしめるためにも必要であつて、このような情報等に接し、これを摂取する自由は、右規定の趣旨、目的から、いわばその派生原理として当然に導かれるところである(最高裁昭和52年(オ)第927号同58年6月22日大法廷判決・民集37巻5号793頁参照)。市民的及び政治的権利に関する国際規約(以下「人権規約」という。)一九条二項の規定も、同様の趣旨にほかならない。」という部分であるが、さらに遡れば、その中で参照している、いわゆる、よど号新聞記事抹消事件である。そこでは、「それゆえ、これらの意見、知識、情報の伝達の媒体である新聞紙、図書等の閲読の自由が憲法上保障されるべきことは、思想及び良心の自由の不可侵を定めた憲法19条の規定や、表現の自由を保障した憲法21条の規定の趣旨、目的から、いわばその派生原理として当然に導かれるところであり、また、すべて国民は個人として尊重される旨を定めた憲法13条の規定の趣旨に沿うゆえんでもあると考えられる。」と、派生源として憲法21条のほか、憲法13条および19条も明示されている。
知る権利については、昭和44年11月26日、最高裁が取材フイルム提出命令に対する抗告棄却決定に対する特別抗告(最大決刑集23巻11号1490頁)において言及して以降、教科書等でも目にするようになり、その後の事件でも国家機関に対して情報開示を求める権利を含めて「知る権利」、「知る自由」等と用語は統一されないまま用いられるようになったが、本件における「情報摂取の自由」と性質を同じくするものとして言及されているものは多くない。「知る権利」や「知る自由」、および制約原理としての公共の福祉に言及しているのを時系列に沿って並べると、①昭和44年10月15日、猥褻文書販売および所持が争われた裁判の田中裁判官反対意見(最大判刑集23巻10号1239頁)、②昭和58年6月22日、よど号新聞記事抹消事件の多数意見(最大判民集37巻5号793頁)、③昭和59年12月12日、輸入手続において税関職員が行う検査による輸入禁制品該当通知処分等取消事件(最大判民集38巻12号1308頁、同日集民143号305頁)の多数意見、④平成元年3月8日、法廷メモ採取不許可国家賠償請求事件(最大判民集43巻2号89頁)の多数意見、⑤平成元年9月19日、岐阜県青少年保護育成条例違反(最判刑集43巻8号785頁)の伊藤裁判官補足意見くらいである。
 それぞれの事件における知る権利の制約原理を見ると、①は、いわゆる人権の内在的制約説に基づき「この限界を超えて、『公共の福祉』の要請に基づくというような名目のもとに、立法政策的ないし行政政策的見地から、外来的な制限を課することを目的とする法律の規定やその執行としての処分のごときは、憲法の保障するこれらの自由に対する侵害として許されないところというべきである。」とし、②は、未決勾留者は、「原則として一般市民としての自由を保障されるべき者であるから、監獄内の規律及び秩序の維持のためにこれら被拘禁者の新聞紙、図書等の閲読の自由を制限する場合においても、それは、右の目的を達するために真に必要と認められる限度にとどめられるべきものであ」り、「制限の程度は、右の障害発生の防止のために必要かつ合理的な範囲にとどまるべきもの」とし、③は、②を参照し、「知る自由」と「知る権利」といわゆる「情報収集の自由」が同一の意味で用いられていることが明らかになっただけであるが、藤崎裁判官の意見で知る自由は、「二次的」なものと位置づけられ、「かかる自由に対する制限は発表の自由に対する制限と同程度に厳しく抑制されなければならないものではないであろう。」とし、④は、知る権利に言及はしているが、適正な裁判の実現のためには、傍聴それ自体をも制限することができることを示し、「傍聴人に対して法廷においてメモを取ることを権利として保障しているものでない」が、「傍聴人が法廷においてメモを取ることは、その見聞する裁判を認識、記憶するためになされるものである限り、尊重に値し、故なく妨げられてはならないものというべきである。」とし、さらに、四ツ谷巌裁判官の意見では「傍聴人は、法廷においてメモを禁止されても、そこにおける五官の作用によつての情報等の摂取それ自体は、何ら妨げられていない」とし、⑤は、伊藤正己裁判官が補足意見で、「西ドイツ基本法5条2項の規定は、表現の自由、知る権利について、少年保護のための法律によって制限されることを明文で認めており、いわゆる『法律の留保』を承認していると解される。日本国憲法のもとでは、これと同日に論ずることはできないから、法令をもってする青少年保護のための表現の自由、知る自由の制約を直ちに合憲的な規制として承認することはできないが、現代における社会の共通の認識からみて、青少年保護のために有害図書に接する青少年の自由を制限することは、右にみた相当の蓋然性の要件をみたすものといってよいであろう。問題は、本件条例の採用する手段方法が憲法上許される必要な限度をこえるかどうかである。」、「もし成人を含めて知る自由を本件条例のような態様方法によって制限するとすれば、憲法上の厳格な判断基準が適用される結果違憲とされることを免れないと思われる。そして、たとえ青少年の知る自由を制限することを目的とするものであっても、その規制の実質的な効果が成人の知る自由を全く封殺するような場合には、同じような判断を受けざるをえないであろう。」としている。
 これら先例を見るに、受信契約を合法的に回避すると、一般に近づくことのできる民放の情報を摂取することができなくなることと比較しうるものはない。犯罪によるもの、国家の管理する施設の秩序維持によるもの、青少年の保護によるものであって、秩序を乱すわけでも、危険を生じさせるものでもない民放の受信を制約する根拠として参考にはできない。むしろ、先例よりも、違憲性の判断にあたって「厳格な基準」が求められるレベルである。つまり、岡部裁判官補足意見は、過去の判例をもとに、知る権利を人権と位置づけながらも、その制約原理については多数意見を繰り返しただけであって、より多数意見の不備を補足しただけである。
知る権利を人権と見ているのであれば、その制約は、必要最小限度であることが求められる。少なくとも、憲法判断をする者や憲法学者はそれを否定しえないはずである。本判決の人権を制約する原理、すなわち、知る権利を制約する正当性の根拠を見ると、「公共性」という過度に広範で曖昧な理由でしかない。被告によって、知る権利が明確に主張されていないとしながら、最高裁は、それを「公共性」というだけで制約することを疑問としていないのである。

(3)その他、法務大臣意見書で示された憲法関係について

 法務大臣が裁判所に意見書を提出した根拠は、「国の利害に関係のある訴訟についての法務大臣の権限等に関する法律」(4条:法務大臣は、国の利害又は公共の福祉に事大な関係のある訴訟において、裁判所の許可を得て、裁判所に対し、自ら意見を述べ、又はその指定する所部の職員に意見を述べさせることができる。)にある。意見は訴訟において、参考として扱われる。昭和62年には、共有林の分割を制限する森林法の規定の合憲性が争われた訴訟で(最大判S62.4.22民集41.3.408)、法務大臣が「合憲」との意見を述べたのに対し、最高裁は「違憲」と判断した例がある。すでに本稿で触れた以外の意見をみると、憲法論としてはかなり杜撰かつ意味不明である。
 意見書の構成は、「第1 はじめに」で全体のサマリーを示し、「第2 我が国の放送法制の沿革」、「第3 諸外国の放送制度」、「第4本件規定の趣旨・目的」、「第5 本件規定の憲法適合性」、「第6 その他の法の解釈論」、「第7 結論」となっている。このうち、第2に言及していない大臣答弁があることは前述した。第3は、わが国と憲法体制が異なる国との比較であり基本的に不要である。他の箇所でイギリスのBBCを引き合いに出しているが、成典憲法を持たない国との比較はできない。なお、NHKは、かつてイギリスの制度を参考にしていたようであるが、近年はドイツの例を研究対象にしているようである。意見書が言及する憲法問題は、これまでに弁護側が訴訟で指摘してきた事項であり、一部は下級裁の判断を繰り返したものとなっている(天野2017)。ここでは、第5について検討する。
 意見書は「公共放送は、天災や有事等が生じた緊急事態に、国民に対し、生命、身体、財産等といった重要な法益を自ら守るのに必要な的確な情報を提供するという重大な社会的使命を負っており、受信設備設置者には、このような生命、身体、財産等に関わる重要な情報にアクセスすることが可能な地位が確保される。」ことを強調し、これが契約自由の原則や財産権等の自由および権利の制約根拠となる論理を展開している。それほど国民にとって重要な情報であれば、それは受信設備を有しない者にも提供されなければならないものであって、「アクセス可能性」とは無関係に、国民はその情報を享受できなければならない。有事等のために、Jアラートが運用されているのは、アクセス不可能な国民を保護する必要があるからであろう。公共放送によって、国や自治体の提供する情報以上の情報を得られるとしても、その情報を必要としないアクセス可能な国民に負担させるという論理は合理性がない。戦前とはことなり、現在の受信設備は公共放送以外の放送も受信できるからである。また、契約自由の原則について、水道・電気・ガスなどの公共サービスを例示し、「契約自由の原則を貫徹させると、国民生活に支障を来したり、事実上の力関係から弱者の利益が保護されないといった不都合が生じることなどの理由から、国民の生活保護や、弱者の保護等といった一定の目的の下に、様々な制限を受けている」としている。このことは、そのとおりであるが、これらの制約は、サービスを提供する側に課されているのであって、サービスの受領側には制約がない。公共放送が、重大な社会的使命を有するとしても、その公共放送も「報道の自由」等の自由を享受しているのであっって、アクセス可能な国民が望む情報を提供するとは限らず、「公共の福祉のために」(放送法15条)活動することが求められていても、そのとおりに活動するとはかぎらない。そもそも、すべての者が公共の福祉に適合した活動を求められているのである(民法1条1項)。公共放送の情報を不要とする者に対しても、アクセス可能というだけで負担を課すことに、なんら合理性はないのである。
 意見書は財産権も基本的人権と理解しうえ、NHKの放送を「サービスの対価」(第2では「負担金」という性格を説明しているが)としている。サービスの対価とする以上は、いくら重要な情報であっても、それを得るかどうかは個々の国民次第であって、強制することはできない。そうであるから、憲法26条2項は、教育サービスを強制することになる義務教育について、無償とする規定を置いているのである。
 「公共放送を視聴したくない自由」という見出しの付け方も疑問がある。弁護側が主張してきたのは、公共放送を視聴する必要がないのに、契約の強制によって、その維持運営費を徴収されることの違憲性である。視聴を強制するとかしないとかという問題ではない。「自己が視聴したくない公共放送を提供する協会のために、受信契約の締結及び受信料の支払という形で一定の負担を課せられるという意味で、公共放送を視聴したくない自由が一定の制約を受ける面があるとしても、公共放送は、究極的には公共放送を視聴したくないと考える受信設備設置者の生命、身体、財産等を守るためのインフラストラクチャーとしても整備されており、このような者の公共放送を視聴したくない自由に優る利益を守ろうとする点に本質的な意義がある」と言うが、公共放送の受信によって、生命、身体、財産等が直接に守られるわけではない。情報が入手しやすいというだけである。前述の通り、非常時に、受信設備を有する国民と有しない国民とを差別なく、生命、身体、財産を守るのは国の使命であり、公共放送の使命ではない。受信料制度は、公共放送の情報を不要とする者の自由を制限するものである。
 弁護側の主張する、協会との受信契約を強制され、受信料の支払を強制されることになれば、受信料を支払わない限り受信設備を設置できず、民間放送も視聴できなくなるから、民間放送を視聴する自由が侵害されるという点については、「受信設備設置者は、受信設備を設置しさえすれば、民間放送を視聴することが自由にできる。」とし、放送法は、「協会の放送を受信することができる受信設備を設置した者に受信料の支払を義務付けるものにすぎず、民間放送の視聴については何ら定めるものではないから、仮に受信設備設置者が受信契約を締結しなかったとしても、民間放送を視聴することが妨げられることはない。」と、契約義務を無視すれば民間放送を視聴することができるというように、いわば「違法行為」を勧めることを言うのである。これは、下級裁が、なんらかの工夫をすれば、各自が受信設備を設置しなくても、民放を視聴できるという趣旨の発言をしたものよりも、「一歩進んだ」見解である。
 弁護側は平等原則違反も主張しているが、裁判所も意見書も、その趣旨を理解していない。放送法が、「協会との間で受信設備設置者に契約締結義務を課すことにより、協会にのみ受信料徴収の利益を与えている点で、民間放送事業者に比べ協会を優遇し、両者を区別して取り扱っていることが不合理な差別に当たるというもの」と解し、「そもそも受信設備設置者には、自己の権利利益と無関係に民間放送事業者と協会の区別が平等原則に反することを主張する適格がない」と解している。しかし、弁護側は、そのような区別によってNHKにのみ特別の義務が課されており、その不利益を補填するため、NHKの放送を必要としない者からも維持運営費を聴取することを問題としている。つまり、憲法41条の立法の一般性との関係で平等原則を引き合いにしているのである。
 意見書も、知る権利の内容を明確にすることなく、その制約の合理性を主張するものでしかなく、憲法にある用語は用いているが、憲法問題として認識しているかは甚だ疑問である。

(4)おわり

 本判決は、憲法13条、21条、29条を、すべて「必要かつ合理的な制度」というだけで制約できると解している。日本国憲法13条がいかに基本的人権を強く保障しているかを考慮せず、知る権利や契約の自由を基本的人権としながら、知る権利の内容を明確にすることなく、「公共性」を重視し、不明確で曖昧な根拠によって制約できるとしているのである。
 基本的人権の制約は必要最小限度であることは、憲法を学んだ者であれば当然に知っているはずである。裁判官は法律の専門家であって、憲法の専門家ではないかもしれないが、違憲審査権を付与された機関に所属する以上、憲法問題を法律問題と同様に考えてもらっては困る。そして憲法学者には、こぞって、この判決が、憲法論としては不十分であることを非難することを期待する。どの教科書にも書いてあるような基本事項をも無視するものだからである。

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