裁判員制度の違憲性

裁判員制度は憲法上も運用上も多くの問題を含んでいる。国会の議事録を読む限り、(いつものごとく)ろくに審議しないまま、ほぼ全会一致で可決したアヤシイ制度だ。この制度と同時に導入された、検察審査会による「強制起訴」も、同様の憲法問題を含み、また、その運用に批判的な見解もみられるようになった。ここで改めて、2009年に執筆した大学紀要をもとに、両制度の問題点を指摘しておく。他、SAPIOとVOICEに掲載されたものも合わせて。

※裁判員制度の違憲性(2009年;相模女子大学紀要vol.72c)[全文]http://ci.nii.ac.jp/naid/110007089172

SAPIO 2009.1.28 裁判員制度に莫大な税を使う意義

09年から裁判員制度が始まるが、この制度のために莫大な税金が投入されるということは、国民に説明されただろうか。

制度の広告宣伝費、裁判所に裁判員席を設置する費用、裁判員のために資料等を整理するための裁判所職員の増員、裁判員および補充裁判員、裁判員候補者への宿泊費や日当、さらには裁判所のバリアフリー化、外国が被告人となった場合の通訳だけでなく、日本語でも点字翻訳や手話を行う必要もあるだろうし、裁判員を免れるために虚偽の陳述を行った者に、罰金を科すための捜査にも費用はかかる。

国家予算は決して潤沢ではない。この制度の目的たる国民の司法に対する理解と信頼を得るには、費用のかかる制度に参加を強制しなくとも方法はあるはずである。医療、福祉、介護など生命に関わる喫緊の問題を差し置いて、この時期に税金を投入する必要があるのか再考を要しよう。

Voice July, 2009 憲法に抵触する裁判員制度

裁判員制度について運用上の問題点のみを指摘し、憲法上の問題点を無視する(あるいは気づいていない)メディアが多いなか、貴紙6月号のように、この制度の違憲性を指摘する論文を掲載した姿勢に、少々の驚きとともに感心しました。大久保太郎先生の論文で取り上げられた問題のほかに、この制度はかなりの憲法規定に抵触すると考えられます。

まず、代表民主主義を人類普遍の原理とまで宣明する前文に反し、国民の司法への直接参加を要請しますが、これを認める明文規定はありません。仮に参加が許されるとしても、憲法と法律のみに拘束されるはずの裁判官(76条3項)を、評議において裁判員の多数意見で拘束することは許されません。戦前の陪審制度は、国民の意見を聴きながらも裁判官を拘束しないように仕組まれていたのとは正反対です。

また、素人に重大犯罪を「迅速に」裁かせるためにかえって公平さが失われ(37条1項)、迅速性を担保すべくなされる公判前整理手続きは、原則非公開である以上、裁判の公開に反します(82条)。複雑な事件は迅速化のために区分して審理するとなれば、法廷の構成員が変わるのですから審議の一貫性を欠き、これも公平に反します。

制度上の問題のほか、裁判員に選任されれば、人権や国民の権利をも侵害しかねません。真理探究の名の下に、血なまぐさい証拠写真を見ることを強要され(18条)、思想と良心と信教の自由(19条、20条)に反する判決をしなければならないからです。裁判員の職務を果たしたために精神的障害を負ったとしてもなんの補償もありません。この制度は、構想された当初から違憲の疑いがもたれていましたが、それについて国会で審議した記録はほとんどないようです。

わが国では憲法の意義など忘れ去られてしまったのでしょうか。それとも正義の名の下に憲法をねじ曲げてしまうのでしょうか。

憲法前文違反

日本国憲法は、その前文で「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである」と代表民主主義を原則としているわけで、国政への国民の直接参加が認められるのは、憲法自身が例外として規定している国政選挙、最高裁裁判官の国民審査、憲法改正、地方特別法の住民投票、現行犯逮捕に限られる。

10年ほど前には、行政の一部門に国民が介入する情報公開法が制定された。この制度も、一見、国民の利益になりそうだということで、憲法の姿勢を無視して導入された。だいたい、行政の監視は本来議員の仕事だ。国民は議員を通じて行政にアクセスしなければならない。

裁判員制度は、国政の一部門たる司法に参加するのだから、これも憲法を無視するものである。仮にいわゆる国民の声が圧倒的に高まり、憲法を改正して導入するとしても、前文は「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」とまで宣言しているから、理論的には、現在の有権者による改正手続きによっても実現できないのである。

憲法というのは、確かに人権や国民の自由および権利を権力者から護るためにあるが、そのためであれば、他の憲法の規定を無視してもいいというわけではない。

義務づけ、明文規定なし

そもそも憲法というものは、権力者による恣意的な権利の行使を制限するために創られたものだから、憲法には国民を義務づける規定が非常に少ない。わが国の憲法は、国民に対する最低限の義務として、納税の義務、教育を受けさせる義務、勤労の義務を規定しているので、それにもとづく法律が整備されるのは当然だが、裁判員となる義務は憲法にない。つまり、裁判員法は、憲法に根拠のない義務を課すものであり、国民の自由を侵害するものである。

もっとも、主権者として国家の維持存続に必要不可欠な義務は憲法に明文の根拠を必ずしも要するわけではないが、裁判員となる義務が国家の維持存続に必要不可欠とは思われない。これまで、実施していなかったのだから。

司法への国民参加は不可

仮に、裁判員が義務でなかったら、国民が司法に参加することが許されるのか?裁判員制度推進派は、憲法を創った人たちが、この憲法と同時に制定した裁判所法3条3項が「この法律の規定は、刑事について、別に法律で陪審の制度を設けることを妨げない」としてることが主な根拠としているらしい。憲法を創った人が国民の参加を認めているじゃないか、と。しかも、最高裁の構成員は裁判官と規定されているが(憲法79条)、下級裁にはそのような規定はないじゃないか、と。

なるほど、もっともらしい理屈だ。だが、裁判員制と陪審制は本質的に違うものだ。陪審制は、有罪か無罪かのみを決定するもの。しかも裁判官を同席させない。裁判員制は、欧州のいくつかの国で採用されている参審制のことで、裁判官と一緒に、有罪か無罪かを決定し、かつ法を適用し、量刑を決定するもの。陪審制=裁判員制とは無茶な解釈ではないか。

下級裁の構成員に国民を含めることも可能だと?憲法がそのつもりなら、裁判官についての規定以外に、裁判に参加する国民についての規定があってもいいはずだ。司法という国政の一部を重要な職務なんだから。内閣については、国会議員以外の参加について規定しているではないか(憲法68条)。

それなら、裁判所法3条3項は何を意味するのか?憲法を創った人たちが、かつてのわが国の陪審法を考えていたなら簡単なこと。帝国憲法にも司法への国民参加を認める明示的規定はなかったけど、陪審員の決定が裁判官を拘束しないとすることで、裁判官の独立を侵害しないように仕組んであったから。そもそも、帝国憲法下では、違憲立法審査の制度もなかったのだが。

他に、陪審制というのを詳細にみると、有罪無罪を決める審理陪審と起訴するか否かを決める起訴陪審ってのがある。わが国で、起訴は検察がすることになっているが、これは憲法の要請ではない。だから、法律で起訴に国民を参加させることはできる(もっとも、それに強制力を持たせることには問題がある【別記事参照】)。これなら裁判所法も無意味ではない。憲法制定者が創った裁判所法とはいえ、形式的には法律なのだから、現行憲法に反した解釈はできない。

憲法制定の審議過程では、確かに参審制も可能とする見解があった。司法省刑事局の意見として憲法32条(審議中は28条)は「陪審、参審等の採用にも支障なきものと諒解」していて、内閣法制局が枢密院及び帝国議会での審議のために用意した想定問答では、最高裁以外の裁判所は、裁判官以外の者で構成しても差し支えないだろうと考えていたこと、帝国議会の場でも、政府は、憲法に規定がなくとも陪審制を否定する趣旨ではないと答弁しているのだと。

このような立法者の意思は無視できないとしても、結局、法律で認められたのは、司法への国民の関与が参審制よりも小さい陪審制までだし、憲法施行後、最高裁判所は、その陪審制でさえ違憲と考えていたことは、説明できない。少なくとも第30回司法制度改革審議会までは、法務省も最高裁も国民の参加に懐疑的だった。

いずれにせよ、他の憲法条文に抵触するから、この立法者意思だけでは合憲とは言えない。また、権力の行使に国民が直接かかわることは、日本国憲法には明示的根拠がない場合、日本国憲法制定以前から国政に慣習として存在していたことが示されない限り憲法違反となることは前文が示している。

裁判所の独立を侵害

権力分立を採用した近代憲法においては、司法権の独立も重要な原則となっている。帝国憲法時代も、司法権の独立はだいたいにおいて守られていたという。日本国憲法は、司法権を行使する組織の独立をより確実なものとするため、最高裁の規則制定権(77条)を認め、行政機関による裁判官の懲戒を禁止している(78条)。さらに、内閣による下級裁判所裁判官の任命が、最高裁判所の指名した者の名簿にもとづくこととしているのは(80条1項)、組織の独立を強化するためだ。

裁判員推進派が言うように、裁判所構成員のうち、裁判官は最高裁名簿にしたがった任命を必要とするが、裁判員は国民主権に基づくから任命は不要という分離論が認められるならば、現存する国民は、主権者国民の意図を無視してあらゆる権力を行使できることになってしまう。国民主権を振りかざせばなんでもできると思っているのならば思い違いも甚だしい。反対の立場から見れば、国民主権に基づいて制定されたと言われる憲法が、現在の裁判制度を創って、せいぜい陪審制までは認めようか、としたにすぎない。そのときの都合で「国民主権に基づいて...」なんて言われても。なお、主権者たる国民というのは、過去・現在・未来と連綿とつづくわが国を構成している国民の総体のこと。つまりは、抽象的で観念的な存在である以上、なんらかの決定権を行使しようもない。

ちなみに、法的拘束力はないが、最高裁の司法研修所は、「控訴審は、裁判員の参加した裁判の判決をできるかぎり尊重すべき」という趣旨の報告書を出している。これはまた大胆な裁判所の独立を侵害しかねない報告書だが、結局は、裁判員の裁判を覆す判決がでている。

裁判官の独立を侵害

100歩も200歩も譲って、国民が裁判に参加できるとしても、憲法76条3項「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定するから、ここに規定された以外のもので、裁判官を拘束することはできない。裁判員法67条は「前条第1項の評議における裁判員の関与する判断は、裁判所法第77条の規定にかかわらず、構成裁判官及び裁判員の双方の意見を含む合議体の員数の過半数の意見による」と規定するから、例えば、裁判官全員が有罪と判断しても、裁判員5人以上が無罪と判断すれば、有罪にはできないことになる。このとき裁判官は、裁判員の「多数意見」に拘束されてしまう。

裁判所法77条が「裁判は、最高裁判所の裁判について最高裁判所が特別の定をした場合を除いて、過半数の意見による」と規定していることから、現行制度でも、裁判官の意見が2対1に分かれたら、一人の裁判官は、良心と憲法と法律以外の多数意見に拘束されているじゃないか、と言う人もいるが、憲法上の機関同士が衝突した場合は、特別の規定がない限り、多数決によるのは自然なこと。裁判官の合議体としての判決に際して、少数意見の裁判官が存在することは、裁判官は憲法上の存在として相互に対等の立場にあるから容認されるが、憲法外の存在である裁判員の多数意見に拘束されるのは違憲となる。憲法上の機関と、法律上の機関を同列におき、「民衆裁判」を容認するような制度は違憲だ。

裁判の公開に違反

裁判員法49条は、裁判所は「対象事件については、第1回の公判期日前に、これを公判前整理手続に付さなければならない」と規定する。裁判員の負担を軽くするために、あらかじめ法律家が争点整理をしてくれることになっているのだが、これは原則として非公開らしい(公開要件不明)。これでは裁判の公開を規定した憲法82条に違反する。しかも、密室で裁判のあらすじが作られ、裁判員の評議が誘導されてしまうおそれがあるわけで、公平さも失われる。証拠や争点が予め整理されているというのであれば、その整理に関わった者の石によって結論を誘導することも可能だ。それならば、国民を裁判員として拘束する必要はない。

公平で迅速な裁判を受ける権利を侵害

憲法37条1項は、被告人に対して公平な裁判所による迅速な裁判を保障している。公平性を担保するため、裁判所の構成員を裁判官とすることで、ある程度、等しい「憲法及び法律」に関する能力を持つ者をそろえ、各地方裁判所で量刑のばらつきが生じる恐れも有る程度抑制している。それでもなお公平を実現するため、わが国の裁判システムは三審制をとり、終局的に最高裁の1つの判断に集約されるようになっている。しかし、ここに素人が参加することでこのバランスが崩れかねない。無作為に抽出される以上、素人とは言え法律に詳しい者が6人集まる場合もあるだろうし、まったくの素人が集まる場合もある。「常識」の内容は都市と田舎でも、高齢者と若者でも大きく異なるだろう。つまり裁判員に公平な裁判は期待できない。地方裁判所での判断のばらつきは、必然的に、高等裁判所の負担が増えることに繋がる。

さらに、補充裁判員の存在も公平な裁判所の構成をさまたげる。補充裁判員は、評議にあたる裁判員が、意見を述べなかったために解任されたり(裁判員法66条2項、41条1項4号、43条2項) 、そのほか体調不良など、なんらかの事由で裁判員が欠けた場合、評議に加わることになるが、それまでの評議に参加しているわけではないので、それまでになされた評議内容を知らないままに判断することになる。これは構成員が異なる以上新たな法廷となるので、最初から評議をやり直さねばならない事態のはずである。

また、裁判所は複雑な事件については、裁判員の負担を軽減するため、審理をいくつかのグループに区分して審議させることができることになっているが、各グループの意見を集約して最終的に評議する裁判員のグループは、その事件全体の一部分について、自らの意見を表明できないままに判断しなければならないから、なんらかの偏見がはいりこむ余地ができてしまう。

だいたい、これまで専門家でさえも、公平と迅速を両立させることが困難だったのだから、素人が入ったらどうなることか。重大な事件であればあるほど、審議に時間がかかって当然だと思うのだが。

苦役からの自由を侵害

憲法18条は「...又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」と規定する。簡単に言えば、イヤなことはさせられない、ってこと。もちろん、なんでもイヤだったら強制できないかというと、そういうものではなく、教育の一環であれば、義務教育の生徒に掃除をさせてもいいわけだし、消防法や災害対策基本法には、延焼や災害拡大を防止するため、その場にいる人になんらかの作業を命ずることもできるし、戦争ともなれば、国防の義務を課すことだってできる。もちろん、武器をもって戦えというわけではない。軍人以外の者がそんなことしたら戦時国際法違反だ。ま、被災地での救護活動とかかな。裁判員制度推進派は、こういった理由から裁判員も苦役にあたらないというけど、それはちょっとおかしい。上記の例は、どれも公共の安全にかかわるものだから許されているにすぎない。掃除の例は、教育と関連している。

殺人事件における現場写真・証拠写真など見ることによって精神的に苦痛を伴うことは避けられない。イヤなことです。自ら望んでその職業についた、裁判官・検察官・弁護士、警察官ならともかく、裁判員は強制的に呼び出される。これによって、精神的疾患をわずらった場合、裁判員法上は、なんらの補償規定もない。PTSDを患う可能性は医学界からも指摘されているところ。

裁判員の職務によりPTSDになったら補償されるのか、という問題につき、裁判員制度啓発推進室に確認したところ、「裁判員の方がその職務に起因して、PTSD等の精神的な疾病を含む何らかの疾病を発症したときには、国家公務員災害補償法の規定に従った補償を受けることができます。この点、裁判員は、非常勤の裁判所職員ですので、常勤の裁判所職員と同様に、裁判所職員臨時措置法第5号により国家公務員災害補償法が準用されることになります。」との回答があった。

もっとも、裁判官と同一の職務を行う裁判員を裁判所職員に含めることの妥当性や、そもそも、「補償すればいい」という問題ではない。しかも、その後、実際には、たいした補償が受けられないことが示されている。違憲なだけでなく、わざわざ病人を作る制度は不要だ。

精神的自由権を侵害

思想及び良心の自由 死刑が濃厚とみられる事件に、死刑廃止論者が混ざっていたらどうなるのだろう。判決文に裁判員の名前は記載されないとしても、たとえひとり死刑に反対したとしても、裁判官・裁判員全体の結論として死刑になったら、良心が痛むだろう。うっかり、「自分は反対したのに...」なんて外部にもらしたら、守秘義務違反にもなる。裁判員法18条や93条2号で、不公平な裁判をするおそれがある裁判員は裁判に参加できないことになっているが、それによって除斥されたら、、国家によって「不公平な思想をもつ者」とレッテルを貼られることになりかねない。

信教の自由 宗教によっては人を裁くこと自体を禁止しているものだってある。たとえば、マタイの福音書には「人を裁くことなかれ、しからば汝らも裁かれざらん」とある。また裁判員法では裁判員に宣誓を義務づけている。そもそも宣誓という行為は、天主に対してなすものだから、これを強制するとはできない。裁判員が義務だというのなら、信教の自由を守るために、代替措置くらい予定しておいてもらいたいものだ。信教の自由を根拠に、剣道の授業を受けられない生徒への代替措置は認められるのに、裁判員にはない。

表現の自由 表現しない自由もある。それにもかかわらず、裁判員は発言を強制される。

制度目的の妥当性

裁判員制度は「国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資すること」を目的としている。理解をもとめるなら、とりあえず最高裁HPの判例検索システムを使いやすいようにして、判決文の誤字脱字をないくしてもらいたいものだ。裁判員に守秘義務を課すというのも、かえって、国民の理解を妨げることになる。信頼を向上させたいのなら、裁判員制度についてのタウンミーティングで某新聞社と一緒になってサクラなんて投入しないことだ。だいたい、司法の信頼を決定的に失墜させたのは、裁判官の不祥事だ。これは国民が裁判に参加したところで防ぎようもない。

たしかに、歴史において、陪審制が誕生したのも、司法に対する不信感からだけど、当時は、専門の裁判官はまだまだ少なく、法の素人でも地方の有力者ってことで裁判をさせていたから不公平な判決だと、不満もつのったわけ。陪審制の国アメリカでは、植民地時代、植民地人が受ける裁判は、イギリス国王の法の下で、国王が任命し、派遣した裁判官が主宰し、国王が任命した検察官が訴追するというものであったから、同じ植民地人から構成される陪審以外、信用できなかったからだ。そこから長い年月をかけて根付いたものだから、わが国がマネしようといったって簡単でないことは明らか。

大日本帝国憲法起草の際に議論されてはいたが、伊藤博文ら憲法審議会は「日本人に合わない」というグナイストの助言を受けて陪審制を切り捨てたくらいだ。そうそう、アメリカでは、陪審裁判を受ける「権利」が憲法で保障されているのであって、わが国のように「義務」で参加させられるわけではない。


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AMANO Seietsu

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