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弓と禅を読んで改めて思う日本の道という稽古の卓越さ

今から時を遡ること100年。1924年にオイゲン・ヘリゲルというドイツ人哲学者が日本の地を踏んだ。訪日の目的は日本の大学で哲学とラテン語等を教えるためであった。時代は大正末期から昭和初期にかけて。

彼はこの機会に、かねてから興味のあった禅について学ぼうと意欲的だった。華道を習っていた夫人の先生から、弓道は禅に通ずると聞くと、それではとドイツ語通訳をする知人に弓道の師匠を紹介してほしいと依頼した。

師匠の名は阿波研造。当時、大日本武徳会から免許皆伝を授かった三名のうちの一人であった。

6年ほど師の元で習った後、ドイツへ戻ってから10年を経て彼はこの体験をもとに講演を行った。師から学んだ不可解な指導や、独特の稽古法、師匠との会話や体験、また自己の変容過程などを綴った講演録は後に書籍化され、英語や日本語などの外国語に翻訳された。欧米では、弓道の紹介というよりも、禅についての入門書として有名になった。英訳本はアップル創業者故スティーブン・ジョブズも愛読したという。この本からいくつか興味深かった箇所を取り上げてみたい。

*師に就いて術の高尚な精神を究めることができるようになる前に、まず私が学ばなければならなかったのは内心の抵抗、あまりにも批判的な心の持ち方を克服することであった。

*師匠は「弓術はスポーツではない。筋肉を発達させるための運動ではないのだから、弓を腕の力で引いてはいけない。心で引きなさい。筋肉を弛めて力を抜いて引く事を覚えなさい。」と言われた。

*あなたがそんな立派な意志をもっていることが、かえってあなたの一番の欠点になっている。あなたは意識的すぎる。

*快・不快の間を行き来することから離れなければなりません。ゆったりとした平静さで、まるであなたではなく、他の人が良い射を射たかのように、超然としていることを学ばなければなりません。これがどんなに重要か計り知れません。

頭脳明晰、ライフルの射撃の経験もあったヘリゲル氏であったが、最初の数年は師匠の指導の意図が全く理解できず、何度も質問攻めにしては師匠を困らせた。師匠はこの理論攻めしてくる弟子をどうにかして助けられないかと彼の慣れ親しんでいる哲学の入門書を数冊買って読んだところ、「こんなことを仕事にしている人間に、正しい心の持ち方を会得するのは極めて困難だと言うことがよく分かった」と漏らし、本を置いたという。

四十過ぎから稽古を始め三年が過ぎた頃、深い行き詰まりの中そこから脱却しようと懸命だったヘリゲル氏は、休暇中に猛烈に一人稽古に励み技巧を上げ、ある日その成果を師匠にみてもらった。自分で努力して覚えこんだ射方で射て見せた。自分では上達した自信があった。師匠からお褒めの言葉を期待していた彼は、そっけない師匠の態度に訝った。「もう一度」と言われ、次に放った矢は、最初より更に良くできたと思ったので、誇らしげに師匠の顔を見た。ところが、師匠は一言も言わずにヘリゲル氏のところへ歩み寄ると、彼の手から静かに弓を取り上げ、それを脇に置いた。そして無言のまま座布団に座り、前をぼんやりと見た。翌日、彼は破門を言い渡された。

驚いたヘリゲル氏は「僕には心でと何度言われても理解できない。だから、技で解決する以外他に道はないと思った」と窮状を述べ師匠に謝罪した。師匠に二度と背かないことを条件に入門を再び許された後は、教えに徹底的に忠実な稽古を繰り返した。一年ほど経ったある日、弓離れの後、師匠が深々とお辞儀をした。最初は意味が分からなかった彼は、正しく射てたのだとわかると嬉しくて喜びが沸き起こってきた。すると師匠はその歓喜する姿をたしなめて、「これは賞賛ではなく確認にすぎない。さあ、何事もなかったかのように、さらに稽古しなさい」と言った。

”的を狙わずに的を中てる”ということがどうしても理解できずに苦心した彼は、堪らず師を訪ね説明を求めたが、埒があかない。師匠は夜改めて訪問するようにと彼を一旦帰した。夜9時過ぎ、師匠は暗い道場に線香一本を立て、的などあるかないかすら見えない闇の中、二本の矢を発した。先に放った矢は命中した。二本目の矢は、最初の矢の筈に当たり二つに割いていた。この離れ業を実際に見て以来、彼は変わった。疑うことをきっぱり止め、一切のことを気にかけなくなった。

ヨーロッパの大学教授であった彼が、弓道の稽古を通して、日本の伝統的な教授法の特徴について挙げている点が興味深い。担当教科をはるかに超えた責任を負う師弟関係。礼法、型の重要性。呼吸法。無我無心。平静さなど精神の修練に重きを置いた日本の教育を伝えたかった想いは理解できる。

日本には武道、書道、茶道など、道のつくお稽古事が多数存在するが、「道を学ぶ」とは即ち仏道に触れることであると思う。技の上達は、人としての人格形成が熟した結果得られる副産物であって、主の目的ではない。道には繰り返しの稽古の先に到達する昇華された精神性という奥深さを秘めている。

日本文化の特徴である、人間を天地自然に含める「道」の奥義を再認識させられた良書であった。

日本人は明治維新以降、脱亜入欧などというスローガンを掲げ、あたかも西洋文化の方が日本文化より優れているかのような錯覚を教え込まれてきたが、果たして本当にそうだろうか。私たちは自らに問いかけて見た方が良いはずだ。



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