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自称作家の読書感想文 海と毒薬

みなさん、おはようございます! 自称作家の あまおう まあお です。

作家が全員こういうサイクルで生きているかは知らないが、とにかく私は「執筆期」と「読書期」を繰り返しながら生きている。周期はまちまちで、とにかく出力した後はこころも身体もからっからに渇いてしまうので、何でもいいから読みたくなる。

実は活字中毒というほどの症状ではなくて、文字ならなんでも、とまで渇望した経験はないのでやっぱりまずは文学でお腹いっぱいになりたいなあ、なんて思う。そんな読書期に、いま、入ったばかりなんだよ。

それで今朝は遠藤周作先生「海と毒薬」を読んだんだけど、意外にもこれが初読で自分でも驚いた。そういえば私、彼の作品全文きちんと読んだことがないんだなあと気づいた。

たぶん試験か何かで抜粋でいくつか読んだりしているんだけど、これといって感慨もなかったから素通りしてしまっていたんだ。世の中には読むべき本が溢れている。あとは彼はわりと最近の文学者の枠に入れてしまっていて、そして私は現代の文学というやつがちょっと苦手だったりも、する。

そういうわけで、なんと初めて読ませていただいたのだが、なんてよくできた小説だろうと驚いてしまった。遠藤周作先生の中では初期も初期作というから、恐れ入る。

ある事件について描かれた作品で、これが解説には「神を持たざる日本人への罪と罰」と書かれていて、当然それはひとつも間違っていないと納得するしかないけれど、私が読んだのはもう少し切実なことだった。

たぶん、私にとってだけ、切実だった

私の一番だいじな問いはいつだって「何が純文学か」これだと思っている。純文学という言葉自体、まやかしみたいなものであって、世界でこれに相当する言葉は存在していない。文学にピュアもクソもないよ。

だけど「海と毒薬」は非常に現代の純文学らしさを感じて、私にとっては答えのひとつになり得ると思ったんだ。

この作品を書こうとしてこの形になるひとは少ない。たぶんみんなもっと、センセーショナルに書きたくなるだろう。もっと激しく狂おしく叙情的に書くだろう。

断罪的に書けば「社会派」悪魔的に書けば「暗黒小説」弁解的に書けば「自省小説」になりそうで、そして「海と毒薬」はそういう書きぶりでなかった。

事件とか時代とかそういう「海」的なものが静かにひたひたと満ちていて、そこに浮かぶ人間たちはなんだか「普通」の市井の人だった。

彼でなくてもこうなった、と思わされた。彼の心理は描かれているけど、でも、彼は全く突出した人間ではない。こういうひとは掃いて捨てるほどいる。その説得力がどこか芥川先生的だと思った。

文豪作品を読んでいても、主人公が彼でなければならない作品と、彼でなくてもかまわない作品とがある。エンタメ系の作品は前者であるべきで、純文学は後者でもいいんだろう。

人間を描こうとすれば個人という特質ははぎ取れるだけはぎ取ってしまうのがふさわしいのかもしれない。そんな風に思う。

昨日は山月記を読んだけれど、あれはかなり個性的な主人公に思うし、もうずっと愛され続けている心中マニアのはた迷惑な文豪さんなんかはどこからどう見てもご本人が登場しているわけだから、純文学でキャラが立っている主人公を書くひとも多いし、それでいい。

ただこういう極限まで薄めた名もなき人間を描写されたとき、ふと、そこに普遍性なんてものを見出してしまう。美しいかどうかはさておいて、身につまされてしまうよ。

そういう遅効性の毒薬みたいな作品も、愛してしまうもんなんだなあと思った。思っただけで、そういうのが書けるとか書きたいとか、それとは別問題なんだけどさ。

純文学とかどんどん読むわりにひとつも頭のよくない自称作家の最新作はコレ!! 主人公がゲスすぎて、なんかあんまり読んでもらえないかわいそうな作品。読まれれば読まれるほど嫌われるだけな気がするので、読まれなくてもひとつもかまいはしないと思うけど、このゲスいところが私は非常に気に入っている。普段、自分の小説なんて読み返しもしない あまおうさん にとってはたいへん珍しいタイプの実験小説だ。

あまおう まあお オープン・ザ・ボックス!

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