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あこちゃんの文学道中膝栗毛 #2 「安部公房『赤い繭』を読んだときの衝撃」

私が純文学のおもしろさに目覚めたきっかけは夏目漱石先生の『こころ』だったため、原点を忘れないように、この私の宣材写真では、夏目漱石先生の『夏目漱石文学全集』の初版を手に持って撮影しております。

前回のつづきですが、高校生だったときに、夏目漱石先生の『こころ』を読んだ後、次は安部公房(あべこうぼう)先生の『赤い繭』を読みました。皆さん、『赤い繭』って読まれたことありますか?

安部公房先生は世界的に評価が高く、特に東欧において高く評価され、西欧を中心に評価を得ていた三島由紀夫先生と対極的とみなされていました。急逝されてしまいましたが、ノーベル文学賞に最も近かった作家と言われています。

ネタバレになりますが、『赤い繭』の内容をご紹介。
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日が暮れかかっても、主人公の「おれ」には帰る家がありません。
住宅街をさまよい歩きながら(家がないのは何故だろう?)と疑問を覚えます。
(家がないのではなく、単に忘れてしまっただけなのかもしれない)と思い、偶然通りかかった家のドアを叩き、窓から顔を覗かせた女性に、「ここは私の家ではなかったでしょうか?」と訊ねます。
女性は「私の家ですわ」と答え、窓を閉めてしまいました。

(何故すべてが誰かのものであるのか?)
「おれ」は、公園のベンチを家とすることにしました。
けれども、「こんぼうを持った彼」に「ここはみんなのもので、誰のものでもない」と言われ、追い立てられてしまいました。

すると、「おれ」の足に、いつの間にか絹糸がまとわりついています。
つまんで引っ張ると、ずるずるとのびていきます。
たぐり続けると、なんと「おれ」の足がどんどんほどけていき、糸はやがて「おれ」の全身を袋のように包み込みました。

そして、ついに「おれ」は消滅し、後には大きな空っぽの繭だけが残りました
家が出来ても、今度は帰ってゆく「おれ」がいません
繭の中は夕焼け色に赤く光っていました。

「彼」は繭になった「おれ」を、踏切とレールの間で見つけました。
「彼」は繭をポケットに入れ、その後、繭は「彼の息子」の玩具箱に移されたのでした。
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エエエェェェΣ(゚ω゚ノ)ノ!?!?

衝撃的SF内容でした。
そして、セーラー服を着ていた若かりし当時の私は、感動したのです!
「美しい!この作品はもはや芸術だ!純文学の世界って、こんなにもおもしろいものなのか!」と胸が高鳴り、一種の高揚感に包まれて、『赤い繭』の世界観にずっとひたっていたい気持ちでした。

この『赤い繭』が書かれた当時は、敗戦直後という時代
厳しい言論弾圧のなかで、前衛的・革新的な手法で政治的意図を含めて書かれたとも言われています。社会からの疎外感、国家権力に屈すること、自己の消失

現代に生きる私たちがこの作品を読んだとき、誰しも心に持つ闇「孤独感や疎外感」に共感を覚え、「自分の居場所とは」「自分の存在意義とは」と考えさせられることでしょう。

また、「帰ってくる人のいない家に意味はないこと」ひいては「自分以外誰もいない共同体に価値はないこと」など、他人と共に生きていくことについて、今一度考えさせられる作品だと思います。

「歴史の終わるところに、文学は始まる」
文学を学ぶことは、歴史的背景や哲学、人間心理を学ぶこと、そして、人の生き方を探究することにつながります。文学を知ることによって、あなたの人生がより豊かになることを祈っています。

あこ(甘利亜矢子)

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