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居心地の良い場所

今日、お客さんとして出会ったおじいさんと少し話した。今の若い人達はあんまり肉を食べないのかな?私らの時代は肉があったら、みんな飛びついてたけどねぇと笑いながら話す。このおじいさんは奥さんと二人で長野のホテルに旅行に来ていた。

少しだけお話よろしいか?と前置きをしてから話しだす。

私は戦前に生まれて、戦時中は空から焼夷弾がたくさん降ってくるような時代だった。逃げ惑いながらも防空壕に逃げ込んだりしてね。その時は本当に食うものが無くて大変だった。

彼には恨みや怒りと言うものがない、むしろ客観的に、読み聞かせるように話す。そんな雰囲気や相手への気遣いや礼儀があって、品格があった。息子さん達は国立大学に通っていたり医者だったり。立派な家庭なんだろうなぁと思った。

こうやって若者と話すのが好きなんだよ。大阪のホテルで毎週囲碁をやってるから、来たかったらいつでもおいで。腹いっぱい食わしてやるから。と微笑みながら言ってくださった。出会いって不思議で、本当に面白い、こうやってお話できた事もとても良かったよ。と言った。

ほんの10分程度立ち話をしただけだったが、雰囲気というものからその人がどんな人間であるのか、おおよそ検討がつく。僕はいつも他人と話すときは、愛想笑いで聞き役に徹して声は小さいが、意見を聞かれたなら嘘偽りなく心の内を開示する。そしてよく人間を観ている。

悪いことを考えてるか、失礼な人間か、思いやりのない人間か、思慮深い人か、浅はかな人間か、建前で話しているか、本音で話しているか。

自分の価値観とかけ離れている人と話すと、無駄にエネルギーを使うし、愛想笑いで頬がつる。違和感というか、この人はなにか違うと思ったらすぐにフェードアウトしたくなる。

僕は本当に限られた人間としか意思疎通できないんだな、とつくづく思う。僕は何様でもないけれど、関わる人間を無意識のうちに厳選している。人間関係とは居心地の良さだったりするからだ。

けれども、生きていれば色んな人間が同じ空間にいる事を強要される。家族、学校、仕事はその代表である。僕は社会不適合者かどうか分からないけれど、居心地の悪さから時々、盗んだバイクで走り出したい衝動に駆られる。

友達においても、腹筋が割れるほど馬鹿笑いできるがあまり物事を深く考えない友、豪快な遊びを共有できるが価値観が違う友。冗談が面白くないが真剣に話し合えて頼りになる友。笑

一部は通じているのに、全部は共有できない。でも一部だけでも通じ会える人がいる事が幸せで、そもそも人間は一生孤独な生き物なのだ。恋人でさえも分かりあえない事が多いのだから。

けれども居心地が良いのだから、それでいい。すべてを分かり合おうとする事は傲慢なのである。居心地の良さを求める事って幸せになる事じゃないかな。我慢しなくても良いでしょう。

何より、こう言った場で自己開示する事によって誰かと一部を共有出来る事が嬉しいし、誰かの心を覗いて見る事も楽しい。自己開示によって居心地の良い場所が出来て来る事もあるね。

それでは、ボンニュイ。

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