「自分の言葉」は誰の言葉
借り物の言葉でなく、自分の言葉で書け、と言われる。
「自分の言葉」で話すのが、作家の始まり
何となく納得してしまうけど、そもそも「自分の言葉」とはなんだろう。自分の中に眠ってる自分固有の言葉、のことだろうか。
いや、「バスケットがしたいです」は井上雄彦に眠っていた言葉ではない。井上が固有の「魂」を吹き込んだ言葉だ。
あのケンカ、あの事情、そしてあの人達の登場というドラマによって、固有の「魂」が吹き込まれた言葉なのだ。
じゃあその「魂」って何なのか。三井の切実な苦しさと希望と救済、この三つを一瞬で体感させる「力」のことではないか。他人事としてではなく、自分のことのように切実な感慨をもって体感させる力。この力を纏うことによって、ありきたりな言葉は「井上雄彦の言葉」となった。
「自分の言葉」というとき、「書き手が<自分の言葉>と感じる言葉」というイメージが暗黙の前提となっている。しかしそこからすでに間違っていたのではないか。
きっと真逆だった。
書き手に本当に求められるのは、「読み手が<自分の言葉>と感じる言葉」なのだ。
「バスケットがしたいです」
言葉が孕む切実な感情を体感したとき、それはもう読者にとって、自分に響く「自分の言葉」になる。
これこそが書き手の求める言葉だと思う。
糸井 :なんだかぼくは、結局、読み手としての自分が書いてるような気がするんですよ。 言葉が生まれることと読むことがひっくり返しになって、読み手が読んでることと書き手が書いてることがおなじになってきちゃって。 谷川俊太郎×糸井重里対談
書き手は自分の物語を構築しながら、読み手としての自分の言葉を探し求める。
いつのまにか、自分が書き手か読み手かわからなくなる。
そんなとき見つかる言葉が、「自分の言葉」になるのかもな。
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