見出し画像

【湯けむりダンス】


お医者さまでも 草津の湯でも
ア ドッコイショ
惚れた病は コーリャ
治りゃせぬよ チョイナ チョイナ



 マーサの運転する車は草津温泉街近くの駐車場に入る。場内はがらんとしていてどこでも停め放題だ。それもそのはず、時刻は午前0時を回ったところ。わたしはマーサとユキジに続いて車を降り、地面を踏むとざりりと音が鳴る。ピッ ピッ という電子音が続いて車にロックがかかる。どちらも夜に遠くへ来たときだけの響きかたをする。

 温泉街へ下っていく途中に人の姿はほとんど見ない。夜食の買い出しだろうか、温泉宿の浴衣を身に着けた男女が数人、足早にコンビニへ身体をすべり込ませていくのが見えたくらいだ。温泉街の中心、熱湯に近い温泉がごうごうと湧き出す「湯畑」にも人影はない。名物のライトアップもじきに終わろうという時間だ。しかし、草津の尽きることをあんまり知らないらしい源泉は、人間の営業時間関係なしにその圧倒的湯量を惜しみなく放出し続けるので、わたしとマーサとユキジは遠慮なく、車から降りて歩いてくる10分とかで簡単に冷え切っためいめいの手足をまっすぐ足湯に突っ込んだ。

 足湯はそこそこ熱い。外気温との差で湯気がもうもうと立っている。それでも湯畑の圧倒的な熱気と湯量を目にしたあとではかなりやさしめの設定に思える。あの煮えたぎる湯をどうにかこうにかいさめてここにいい感じでかけ流してくれているのだ。ありがたい。まったく、人の力ってやつは。
 「あっつ」「あっつ」と足を浸けるやいなや、わたしたちは互いのすねや腕に湯をかけはじめる。「やーめーろーよー」。ほかに人がいないのをいいことに、すぐふざける。

 草津に来るのははじめてではなく、マーサと草津に来るのもはじめてではない。前回はふたりで来た。そのときわたしたちはなんだかんだいって恋仲にあった。交際をしていたわけではなくて、でもそれゆえにってところもあるのか、わたしたちの仲はけっこう燃えさかっていた。
 その後またなんだかんだあってそうではなくなったあとの今回である。わたしはマーサとユキジの思いつきのドライブに突然誘われて、気軽に同乗したかたちだ。

 わたしとマーサは大学で知り合った。ユキジはマーサの中学からの友だちだ。わたしは一時期、ふたりの同級生連中がよく集まる飲み屋でバイトをしていたこともあって、ユキジともすっかり顔なじみである。ユキジとは気が合って、何度かふたりで飲みに行ったこともある。でもよく考えたらこの3人で遊ぶのははじめてだ。はじめてでも3人ともそれぞれに仲が良いから、自然とこのドライブは心地よいものになった。それでも、わたしがひとり後部座席に座って、運転席のマーサと助手席のユキジに身を乗り出して話しかけたり、ユキジがたんたんとカーナビを操作するのをぼーっと見ていたり、そういうときに、ああ。わたしとマーサは以前とはもう別の関係になってしまったのだ、と突きつけられるような思いがした。車中、マーサの言い回し、言葉尻、しぐさのひとつひとつから、着実に思い知らされるようにして草津にやってきた。2008年、22歳の冬、わたしはまだどうしようもなくマーサに恋している。

 どんなに切なく複雑な思いを抱えていても、脚部を完璧な湯に浸した状態では、ほがらかな気持ちに支配されてしまう。人は。というか、単純な動物であるところのわたしは。頭のほうまでいきわたったぬくもりにうかされて、「草津の冬が寒いのは〜〜、この温泉のためなんですねえ〜〜」などと口走ってはユキジの失笑を買う。マーサは意外にもあっはっは! と笑っている。あっはっは、というのはマーサのデフォルトの笑いだ。さてはこの人も足湯にあてられて気分が良くなっているくちだな。単純な動物がここにも1頭。

 ズボンをたくしあげてほんのりと顔を上気させたマーサとユキジを、持ってきた小さなデジカメで撮る。フラッシュに目を細めるふたりをかわいく思う。マーサはカメラを取りあげてユキジとわたしを連写する。いつの間にかライトアップの終了していた湯畑をバックにもう数枚。しかしフラッシュを焚いたところで写真は浮かれたふたつの顔のうしろには暗黒を写すのみだ。確認して3人で笑う。どこだよこれ。

 時間が遅いから立ち寄り湯にも入れずにわたしたちは草津をあとにする。滞在1時間。車を発進させたあと、前方のふたりがおかしそうに「せっかく草津まできて足湯だけして帰るとか」「温泉街いって、買ったのセブンで肉まんだけだよ。バカじゃん」と、口々に言うのをにこにこして聞く。わたしたちはみんなそのバカなことが楽しくて、きっと、3人ともがそれをわかっている。
 草津のセブンイレブンで買ったペプシを飲み、運転手のマーサの手もとにときどきコアラのマーチを運ぶ。高速の上で夜は更けていく。途中、巨大なSAに寄ってご当地土産を買いあさる。ゆべし。ハイチュウ。信玄餅。草津関係ね〜とまた笑う。つないだiPodの曲目は3周目に入る。けだるいなりにおしゃべりは続き、わたしもユキジも眠らない。
 ユキジが何度か面白がってマーサの現在の想い人について話を振る。その話題が続く間、わたしはつとめてへらへらする。ユキジはマーサとわたしが恋仲にあったことを知らない。それはマーサとわたしの双方を知る人間の誰も知らないことだ。知られずに始まり、知られずに終わったこと。
 それで進展はあったん。ユキジにしつこく訊かれたマーサが、んー、今度ごはん行くことになったわ。と普通のトーンで答える。わたしは静かに顔を上げ、バックミラーのマーサを盗み見る。ふうん。そんな顔はじめて見た。いや、わたしがしていた顔に似ているかな。ふたりで会っていたころ、マーサが撮った写真のわたし。その表情に。恋。

 午前4時すぎ、わたしのアパートの前に車が停まる。わたしは助手席に座っている。マーサは先にユキジを送り届けた。てっきりわたしが先だと思っていたから、ユキジと別れたあと、束の間のふたりきりのドライブに心がはずんだ。心がはずむくらいならいいのだけれど、しっかり期待もしてしまう。あのころ毎日のように会っていた。わたしの部屋。エンジンが切られる。

「ついたよ」
 マーサがわかりきったことを言う。
「楽しかった。ありがとね。」
 わたしもわかりきったことを言う。
「急だったけど、空いててよかったよ。今度は昼間に声かけるわ。」
「あーね。次は温泉入りたいよねえ。あれはあれで楽しかったけど。」
 わたしはごちゃごちゃ言っている。スマートに降りていくことができない。助手席に背中が張り付いているみたい。だってマーサとこんなふうに別れること、今までなかったから。マーサの顔を見る、目が合う、どちらからともなくキスをしてしまう。マーサからは気づかいの味がする。わたしからは期待の味がしたはずだ。

 マーサは帰っていく。
 テールライトが角に消えるのをにこやかに見守ったあと、肩の力がフッと抜け、表情が消えるのがわかる。見慣れた住宅街の、いままででいちばん暗いのに驚く。これはあれか。夜明け前がいちばん暗いっていう、あの時間? こんな世界にひとり置き去りにされちゃった。なーんて。

 道路に背を向けアパートのチープな門扉をひざでやさしく蹴り開ける。なさけなくため息なんてついてしまう前に勢いをつけて階段をのぼる。悲しいくらいに足どりが軽い。疲労回復、足湯の効能。からだの奥にまで陣取ったこのぬくもりはたぶん、今しばらくわたしをあたため続けることになりそうだ。いやだなあ。

 鍵を使うとき、合鍵のことを考える。ここの合鍵は、マーサが1本持っている。マーサのことだ、鍵をわざわざ突き返すのが最後通牒みたいでしのびなく、また面倒くさくて、使うつもりもなく所持したままでいるだけだろう。でも、持っていたら。——わたしにはまんまとそれが希望になる。持っていたら、使う機会もあるかもしれない。マーサが今すごく好きだとはばからずに言う会社の同僚とかいう女性には、長い付き合いの恋人がいるらしい。それでもめげずにマーサが誘ってなんとか食事の約束にこぎつけて、予定ではこんどの週末だって。でもそのディナーはうまくいかないかも。相手に脈がないのを悟ってがっかりするのかも。そんな夜、ここに足が向かうマーサを想像する。そう、鍵を持っているかぎり、それを使う可能性がないなんて誰にも言えない。言わせない。

「バカなのはわかってますよ、っと。わたしだってね。」

 誰にともなく言い訳を口にする。玄関から手を伸ばして照明のスイッチを入れる。部屋の真ん中アホみたいに吊るされた60wの電球ひとつで小さな部屋はアホみたいに明るくなる。

『いいや、あんたはわかってないね。』

 返事が聞こえたような気がした。頭上から、冷たい水滴を落とされたみたいに。いつも布団を敷いて寝ているロフトのところから。マーサとも寝ていたロフト。……ふふ。部屋が意見した。そうか。あんたはわたしがここに越してきてから2年間、わたしの恋模様をつぶさに見せられてきたんだ、意見くらい好きにはさんでくれ。

 うん。

 本当は少しもわかっていない。わたしがバカ? いいや、バカだなんてちっとも思えない。
 わたしの知性なんて、まったく。この程度なんだよね。


 歯をがしがし磨いて化粧をぐりぐり落として化粧水をバシャァーと浴びて、ロフトの布団にもぐりこむ。こんどの週末のことを考える。デートの予定を入れるんだ。なんとしても。映画とか、イタリアンとか、そういうの。今からでつかまる人、いるかなあ。誰でもいい。ちゃんと心躍るような楽しいデートをする。でも夜は、遅くならないでこの部屋に帰ってくるんだ。帰ってきて、デートのメイクは落とさずに、シャワーして、かわいい部屋着を身につけて、ロフトで横になる。そうしていると、やがて——



 身体の芯がまだぽかぽかとあたたかいために、愚かな(愚かなんかじゃない)恋の思惑は、強烈な眠りの渦にやさしく飲み込まれてぶつりと途切れてしまう。わたしはそれをいまいましく思うこともかなわずに、あたたかな渦をくるくると落ちていく。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?