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カモの親子を見た夫と、見れないわたしの違いとは

ある夏の夕方に公園を散歩していると、後ろから夫がやって来て、ワクワクした顔でこう言った。

「さっき、カモの親子がこの道を渡ってるのを見たよ!」

夕方の散歩は、わたしたちにとって日課だ。公園にはわりと大きな池があり、その池の周りはウォーキングコースになっている。

わたしがこのコースを3周する間に、夫はわたしを追い抜いて5周する。つまり、わたしたちの歩幅は2周分違うということだ。

2周多く歩いている夫は見た。カモの親子を……。縦に並んで、左右にお尻を振る親子だったらしい。さぞ可愛かったのだろう。嬉しそうだ。

夫は以前も同じ場所でカモの横断を目撃したことがあるという。「今度見たら写真撮ってね」と伝えたけれど、きっと写真では夫と同じ感動を味わうことはできないだろう。

同じ道を通っているはずなのに、見られないものがある。

タイミングの違い、外周の回数の問題。でも、それだけではないような気がした。

・・・

以前、わたしの欠点について、夫に聞いてみたことあった。

「自分のことしか考えてないところ」と返って来た。

いつものわたしだったら「こんなに尽くしてるのに、どの口が言うか!?」と逆上していたかもしれないが、思い当たる節があった。

人のために時間や労力を使っているように見えて、実は自分の都合のいいように言葉を発したり、行動したりするところがある……かもしれない。そううっすらと考えるときがあった。一番近くにいる夫は、わたしの裏の顔を見透かしているのかもしれないと思ったのだ。

「人のためにやるとか、やめるとか言うけど、ホントは自分のためじゃないのって思う。だったら最初から『自分のためにやる』ってはっきり言えばいいのに」

そこでハッとした。「自分ためにやる、やめる」って言うの、いけないことだと思ってた……。

こういう固定観念を持っているから、自分のことしか考えていないと思われてしまうのかな。

一方、彼は私と比べると、他者やものに意識が向いている。人に対して自然な配慮ができる人だと思う。けれども、誰に対しても損得しないし、人の意見に翻弄されない。「嫌われたらどうしよう」とか、「こう言わなくちゃ」とかは考えてないんじゃないかな。ふしぎな人。よくわからないまま8年が過ぎた。

たぶん、見ている世界が違うと思う。彼には野に咲く花も、公園を歩くおじいさんも、歩道を歩くカモの親子も優劣がないように見えるのだろう。すべては一つであり、その中で自分らしく生きるという考え方がある。

彼が見ている世界は、地球という大きな箱なのかもしれない。

一方、わたしが見ている世界は、自分の内面や感覚という、小さな箱。その箱で悩んだり、落ち込んだりするわたしを、彼は「くだらない」と思うのかもしれない。

道端に落ちている100円玉を拾ったのを誰かに見られたような恥ずかしさがあった。わたしって、本当はあざとくて利己的で、腹黒いのかしら……。行動に理由をつけようとしている過去の自分を思い返して、唸った。

いままでの生き方を否定されたように感じていることを察したのか、夫はつづけて言った。

「自分のことを考えることが悪いってことじゃないよ。だからこそ、生み出せるものもあると思う」

そういえば、夫がカモの親子を見たその日も、わたしは自分について考えていた。そしてカモの親子を見ることができなかった。もしかしたら、自分のことを反芻するばかりで見過ごしたのかもしれない。

外に目が向いている夫と、内に目が向いているわたし。これからもわたしたちは、お互いの違いを知っていくのだろうか。

(記:池田アユリ)



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