見出し画像

一筆小説「恋をした」


恋をした。

いや、正しくは「恋におちた」のだと思う。
小説や映画で、雑誌で耳に慣れていても「おちる」なんて大袈裟なと思っていたけれど。

心と頭の境目辺りに突然底の見えない穴が開いて、右足から踏み外したように落っこちていった。そんな感じだった。理性なんかじゃなく。


彼が立つ花屋の店先で英理子は立ち止まる。黙々と働いている彼をほんの10数分見詰めるために、帰り道とは逆の道を歩いて。

「何も知らないのに」
彼のことは、何も知らない。たまたま友達に送る花束を買いに立ち寄った。一緒に花を選んで英理子の理想通りの花束を作ってくれた。ただそれだけのことなのに。





ただ、そのときの笑顔が、柔らかな言葉遣いが、花に触れる骨ばった長い指が。英理子を恋の穴に落としてしまった。
「もっと知りたい。その指に触れたい」と思ってしまった。


大学でも、就職でも、語学の勉強でも。自分の手にしたいと思ったことは、人一倍努力して手に入れてきた。
恋だって。そう思うけど、恋は勉強しても手に入れられるものじゃないことくらい英理子にだってわかる。

そして、どうすればいいのかわからないまま、こうやって窓越しに佇んでいるのだ。




「また来てる」見ていないふりをしながら、健吾は窓の向こうの気配に気をとられている。
2ヶ月ほどまえに、ブーケを買ってくれた女の子。

毎日、ブーケを買っていく女の子なんて何人もいるのに彼女は印象的だった。花を選ぶ神妙な顔つきや、出来上がったブーケを胸に抱える仕草や、神妙さから一転した幸せな子どもっぽい笑顔が。なんとなく微笑ましかった。

彼女を意識しているのは、その第一印象からなのか、それともこんな風に会社帰りに花を覗きに立ち止まってくれるからなのか。健吾自身、よくわからなかった。
こんなとき、女の子に慣れたタイプ(それこそ親友の孝之みたいな奴だったら)、声をかけてそっと「売れ残りだけど」と花を渡したり出来るんだろうけど。

「どんな花が好みなんだろう」
健吾は、窓の外に気づかないふりをしながら考える。
そして、彼女の部屋にどんな花だったら似合うのだろうか、と想像してみる。

「何も知らないのに」
ただ一度、花を買いに来てくれたに過ぎない女の子なのに。胸が、微かにざわめくのはどうしてなんだろう。

明日、また帰り道に立ち止まってくれたら。
「明日こそ、声をかけてみよう」と、健吾は思う。明日こそ。




「明日こそは」英理子は、思う。
勇気を出して、花を買いにいこう。話してみないことには、何も始まらない。(話してみても始まらないかもしれないけれど)
明日こそ、何か花を買って帰ろう、選んでもらおう。花瓶はないけれど。

明日こそ。

そう心に決めながら、後ろ髪を引かれる気持ちで店のまえを通りすぎた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?