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わくらばの殯

あらすじ


美貌以外に取り柄のない青年、竜胆は困っていた。しばらく前から自宅に起きる怪奇現象によって眠りを邪魔され、挙句の果てに洗面台を髪の毛まみれにされるという邪智暴虐に怒り狂い、彼はついに非科学的な手段に訴える。そして腐れ縁の紹介で知り合ったのは年齢不詳の胡散臭い霊媒師、紫苑だった──。
因習村育ち、化け物は大体友達な陰キャ美青年×怪しすぎて逆に怪しくない、でもちょっと怪しい術師のバディによる明るい軽やかホラーコメディー、ここにスタート!

本文

 二週間前から家に、なにか、いる。

 例えば帰宅時きちんと施錠したはずなのにいつの間にか開いている玄関の鍵。例えば最上階の角部屋なのにも関わらず夜中に天井裏から聞こえてくる人間の足音。例えば誰も連れ込んでなどいないのに洗面台一面に散らばる髪の毛。例えば自宅に一人でいると鳴り止まない家鳴り。
 あっ霊障ってやつじゃんホラー映画で見たわ、と竜胆りんどうは即座に察した。察しはしたが、オバケや幽霊なんてものが現代日本に実在するものかよ、とイマドキの若者らしく懐疑的であった。そのため怪奇現象が発生してから既に二週間以上経過していたが放置し続け──さすがに慢性的な睡眠不足に陥ったことで、いよいよ解決しないとまずい、と重たい腰を上げたのである。
 竜胆は眉目秀麗という四字熟語を体現したかのような美貌を除けばごく普通の大学一年生だ。大抵美形はハイスペックと思われがちだが成績や身体能力は並か良くて中の上であるし、特別にお人好しで優しいという訳でもない有り体に言えば凡人である。ただし見た目だけは良かった。見た目だけは。
 そんな竜胆は昔から周りに誤解を受けたり過剰に期待をされやすく、地元では「連れて歩くと女子が寄ってくるから」という理由でスクールカースト上位層に連れ回されたりしがちで、人間関係では色々と面倒を被ってきた。かといい外見以外はパッとしない竜胆はすぐに飽きられ、結局孤立していた。都合のいい男としていいように使われる日々にほとほと疲れ、進学を機に田舎を出て都会でひとり暮らしを始めた、その矢先の悲劇である。
 入居してまだ半年と経たない二階建て木造アパートは、築年数はかなり古いがリノベーション済みで内装はモダンかつオシャレな、初めての自分の城とも言うべき家だったのに。蓋を開ければ事故物件とやらである。本来は契約前に心理的瑕疵物件であると告知すべきではないのか。このような邪智暴虐など許しておけぬ、とメロスのごとく怒り狂い、竜胆は不動産屋へと駆け込んだ。
 が、しかし。担当の営業マンはおかしいですね、と首を捻った。彼曰く、竜胆に紹介した物件にそのような事故事件が起きたことはないという。竜胆の住まうアパートの他にもいくつか条件に合う部屋はリストアップしていたが、そのいずれも入居者が不幸な亡くなり方をしたり、刃傷沙汰が発生したりといったケースはないと。念の為過去に遡って調べてもらったが、やはりどれも事故物件ではなかった。
 じゃあ現在進行形で起きているこの異常現象はなんなんだよ。というのが竜胆の悩みである。更に困ったことに、竜胆には入学から数ヶ月経っても未だに友人と呼べる存在がいなかった。ただ一人、高校時代からの付き合いで、偶然にも同じ大学に通う腐れ縁の女性──菖蒲あやめを除いて。
 大学デビュー組である菖蒲はとにかく派手なルックスの持ち主だ。白に近い金髪を二つに結わえ、つり上がった眼に濃い化粧、そして両耳はピアスまみれで露出の激しい服装と遠目からでもよく目立つ。この日も彼女はひらひらふわふわしたピンクのトップスにミニスカート、ごつい厚底靴という出で立ちであった。俗に言う地雷系というやつだろうか。
 文系学部の竜胆とは違い、理系の彼女は一年のうちから課題にレポートに実習にと日々忙しい。たまたま昼休憩に学生食堂で見かけたところを慌てて捕まえ、相談料として缶コーヒーを貢ぐことでどうにか話を聞いてもらえた。主に顔面が原因で日頃悪目立ちしている竜胆と二人きりという状況のせいか周囲からチラチラ視線が飛んできているというのに、平気そうな面をしている彼女はなかなかに豪胆な人物である。

「じゃあアタシの兄貴に掛け合ってみる?」
「え、お前きょうだいいたの? 初耳なんだけど」
「うん、まあ。彼氏にも誰にも言ってないし。竜胆だけだよ、この学校でアタシに兄貴がいること知ったの。それはともかく、アイツなら何かしら知ってると思う……多分」
「多分って。断言できないのかよ……」
「だって最後に顔合わせたの小学校入る前だし。それ以降ずっと音信不通だったし。あのバカが生きてること知ったの最近だし。でもちっちゃい頃から、なんていうのかな……不思議な力みたいなもんはあったよ。その、オバケとか、ユーレイとか? 視える人っつうのかな。なんかそんな感じ」
「曖昧だな……でも今は猫の手も借りたいって状況だし、良かったら紹介してほしいんだけど」
「いいよ。じゃあ明日、午後三時に神保町の『キマイラ』って喫茶店に来て。そこ、兄貴のやってる店だから。ま、アタシも明日初めて行くんだけどね」

 という訳で翌日。
 相変わらず収まる見込みのない霊障に大いに睡眠を邪魔され、寝不足のまま彼は例の店へと向かった。八月も半ばを過ぎ、いよいよ猛暑が本格的に牙を向いてきた東京の夏はあまりにも厳しい。額どころか全身から汗が噴き出し、コンクリートによる照り返しと熱気を孕むビル風に体力を大幅に削られつつ、赴いた先は雑居ビルの地下にある喫茶店だった。
 ビル横の階段から地下へ下っていくと、入口にドアベルのついた今どき珍しい純喫茶風のカフェがある。ブラックボードには乱雑な字体で本日のおすすめが書かれ、ガラスケースの中には年季の入ったオムライスやパフェなどを象った食品サンプルが飾られており、褪色した玄関マットに掠れた文字で「純喫茶・キマイラ」という店名がかろうじて読める。ずいぶん古い店のようだが、本当に菖蒲の兄が店主なのだろうか。訝りつつも入店してみる。

「いらっしゃい。あー……君が菖蒲の言ってた子か。悪いけど看板、クローズにしてもらえる? んで玄関の鍵閉めて。ドアの下にあるから、そうそれ。ありがとう。まあ適当にかけてよ、外暑かったでしょ? 炭酸とかがいいのかな……今時の若い子って何が好きなのかイマイチよくわかんないなあ」

 うーんとカウンターで首を傾げている青年は、なるほど確かに菖蒲とよく似た姿をしている。伏し目がちのつり目など特にそっくりだ。足元まである長いサロンにベストと腕まくりしたシャツ、半端に伸びた髪を後ろで無造作に束ね、さっぱりした顔立ちに見る者を安心させるような柔和な笑みを湛えている。人畜無害で人の良さそうな好青年、という趣だ。

「えーっと……君が竜胆くん、で合ってる? いやあこの歳になると人の顔ってなかなか覚えられなくてさあ。俺は紫苑しおん。よろしく。この店の雇われ店長やってます。もう元々のオーナーは亡くなってるんだけどね」
「どうも。ああ、それで……菖蒲のお兄さんがやってるにしては年季入ってんなと思ってたから」
「前に色々あってビルごと店を譲ってもらったの。だから主な稼ぎは家賃収入で、この店は──まあ先代もなんだけど、趣味みたいなものかな。定休日もないから好きな時に閉めたり開けたりって感じ」
「それだけ聞くと定年後のおじさんが道楽でやってるみたいな感じっすけど……もしかして『本業』もそうなんですか」
「まあね。術師の仕事は趣味というには手広くやりすぎちゃって変に名前が売れちゃったもんだから、今じゃ家賃収入より店の売上より高い時もあるんだけど。あーあ、本当だったら今頃さっさと引退してるはずだったのになあ」

 やれやれとばかりに肩を竦め、紫苑と名乗る青年は手馴れた手つきで自分と竜胆の二人分、アイスコーヒーを淹れてくれた。店内の至る所に置かれたアルコールランプの明かりを受け、プリズムをつくるグラスには透き通った氷とコーヒーが並々と注がれている。チェーン店だがカフェでアルバイトしたこともある竜胆は、透明度の高い氷を作るのは難しいこともよく知っていた。
 道楽だとか趣味の一環だとか言う割に、紫苑はそれなりにこだわりを持って店を切り盛りしているのだろう。実際、店内にあるビンテージ物であろう革張りのソファはよく手入れされているし、洒落たデザインのテーブルは一つ一つ拵えが違う。板張りの床は埃ひとつなく磨かれていて、提供されたアイスコーヒーだって苦味と酸味のバランスがちょうどよく美味しかった。ブラックが苦手な竜胆でもガムシロップやミルクを入れずとも飲めたほどだ。
 思わずこのところ頭を悩ませ続けている事案も忘れてコーヒーの味に舌鼓を打っていると、いきなり店のドアが激しく叩かれた。そういえば菖蒲も来店すると言っていたのを今更思い出す。怒り狂った彼女が無理やり入ってくる前に慌てて紫苑がドアを開けてやり、足音荒く入ってきたふくれっ面の菖蒲が一言、アイスティーとだけ口にする。

「ったく信じらんない! 妹を締め出すとかありえないでしょ、このクソバカ兄貴! ただでさえ十年以上も音信不通でしかも行方不明になった挙句に入店拒否ィ? マジふざけてんのか!」
「ごめんて。お前がうちに来るの聞いてなくて、無関係のお客さんが急に来ても困るから竜胆くんにドア閉めさせたんだよ」
「ふーんつまりお前が悪いってことか。竜胆、今日の支払いお前持ちな」
「こら。いくら友達って言っても奢らすのはナシだ。大体、身内とそのお友達から金は取らないよ」
「えーっ、なになに奢ってくれんのお兄ちゃん! サンキューありがと愛してる! 今だけ!」
「安っぽい愛だなあ。まあいいけど」

 言いつつ彼はテキパキとアイスティーを用意し、グラスの淵に八分の一にカットしたオレンジを添えて妹に差し出す。嬉しそうにドリンクを受け取る菖蒲は無邪気そのもので、荒っぽい口調や刺々しい態度とは裏腹に兄を慕っているのが見てとれた。菖蒲の彼氏がこの様子を見たらどんな顔をするか見ものだな、と思いつつ竜胆は自身の受けている被害について掻い摘んで説明し、本題を切り出す。

「それで、俺の頼みは引き受けてもらえますか」
「……ハア。仕方ないなあ、他ならぬ妹の友達からの依頼だし、引き受けない訳にもいかないでしょ」
「ありがとうございます! これでゆっくり眠れる……!」
「ええ……そこで怖がるとかビビるってことないんだ。変わってんね君」
「いやだって安眠妨害されんのが一番ムカつくし……正直、寝てるとこ邪魔さえしなきゃ別にどうでもよかったんですけど、夜に限って足音立てたりとか耳元でなんか喋りかけてくるとか、もう本当うるさくてうるさくて」
「ああそりゃイラつくわ。俺ならその場でぶん殴って叩き出すけど、素人さんじゃそうもいかないしなあ。おっけー、なら今晩にでもさっそく君の家に伺わせてもらおっかな、事故物件じゃないならオバケの正体も概ね予想つくし」
「えっ今日!? そんなすぐ!? 俺から相談持ちかけておいてなんですけど大丈夫なんですか……? その、紫苑さんにも予定とか、」

 竜胆の頭を過ぎったのは彼にも恋人など親しい相手との用事があるのではないか、ということである。兄妹揃って人目を引く姿をしているのだ、仲のいい女性の一人や二人、居てもおかしくないと思ったのだが、あははと笑い声をあげたのは菖蒲である。小馬鹿にしたような顔で兄を指し、あっさり否定した。

「んな訳ないでしょ、女心もろくに分かんねー朴念仁の鈍感野郎なんか女の子がまともに相手してくれると思う? 兄貴に恋人なんか百パーありえないって。兄貴の貞操を賭けてもいいね」
「その場合勝っても負けても俺だけが損するじゃん……賭けになってないだろ……」
「問題そこですか? ええとじゃあ本当に今日、うちに来るんですか。えっどうしよう、部屋の片付けってしたかな……」
「そっか、いきなり訪ねるのも良くないよね。ごめんごめん、生きてる誰かの家に行くなんて仕事でも滅多にないから久しぶりで、つい」
「存命でない人の家に伺うことはよくあるんですね……」

 時刻は午後四時をそろそろ過ぎるかといった頃合いだった。夏場なのでまだ日が落ちるには早いが、怪異と出くわしやすい時間帯である逢魔が時はなるべく避けたいという紫苑の意向で、早めに出発することになった。菖蒲はこのあと彼氏とデートだというので店先で別れ、ビル横の駐車場に停めてある紫苑の愛車へ乗り込む。結局、菖蒲は単に兄会いたさに用事もないのに店までわざわざ来ただけのようだった。
 先に車内で待機しているよう言われ、一度ビルへと戻った紫苑を待っていると、彼は浄衣に着替えてから運転席に乗り込んできた。しかも何やらやたらと大きなアタッシュケースまで持参している。先ほどのギャルソンスタイルも似合っていたが、深紫の浄衣は更に着慣れているように竜胆の目に映った。

「いやー遅れてごめんごめん、おまたせー。それじゃ出発しよっか」
「え!? 格好についての説明なし!?」
「そっか普通はびっくりするよね。これね浄衣っていって神主さんが着る正装で、」
「いやそこじゃなくて! なんでわざわざ着替え!?」
「うーん、だってこれから挨拶しに行く訳でしょ、君んちにいるひとのところに。なら相応の服装とかお土産とか用意すべきじゃない? 最近はTPOっていうんだっけこういうの」
「なるほど……それならスーツでもいいんじゃ……」
「『普通の人間』相手ならね。まあいいや、時間ないしそろそろ行こう。案内ナビお願い」
「あ、はい。わかりました」

 おそらくファミリー向けであろう六人乗りのミニバンが紫苑の愛車だった。てっきり既婚者なのかと勘違いしそうになるが、後部座席は楽器ケースやら何やら荷物で溢れており余分に座れるスペースがないので、基本的に一人で使っているようだ。今も竜胆は自宅までの道順を教えるためもあるが、助手席に座らされていた。
 紫苑の店からは車で約一時間ほどの距離に竜胆の暮らす部屋はある。途中で夕食のおかずを買うためスーパーに立ち寄り、ついでに榊を買ってきてほしいと紫苑に頼まれたので、店内併設の花屋で榊も購入した。紫苑本人は大変悪目立ちする服装なので車から降りられないせいである。こうしてなんだかんだと時間がかかり、無事にアパートへ着いた時にはもう時刻は夕方五時を指していた。
 建物自体は昭和後期に建てられているので築年数はそこそこ経過しているものの、近年リノベーションされたばかりなので内装はなかなかにシャレている。ロフト付きのワンルームに風呂トイレ別の水周り、更にコンロも二口とくれば都内の学生向けアパートとしてはかなり上等な部類に入るだろう。陽当たりも悪くないし、キャンパスからも徒歩圏内なので竜胆としてはできれば引越しは避けたいところだ。
 入室するなり間取り全体をきょろきょろ眺める紫苑の目には何が映っているのだろうか。不安になりつつ竜胆は買ってきたものを冷蔵庫にしまい、干しっぱなしの洗濯物を取り込む。すぐに解決するからいつも通り過ごしていていい、と事前に紫苑からは言われていたのでその言葉に従う。普段であればそろそろ夕飯の支度に取り掛かるところだが、さてどうしようかと竜胆が頭を悩ませていたその時。

「ねー竜胆くん、君はさ穏便に済むけど月単位で時間のかかるやり方と、速攻で終わるけどその代わり荒療治になるやり方だったらどっちがいい?」
「は? なんですかその質問。えっもしかして怪奇現象の件について言ってます?」
「それ以外にある訳ないじゃん。で、どっち?」
「どっちって言われても……そりゃできればさっさと終わらせてほしいですけど」
「よっしゃ分かった後者ね! じゃあさっそく準備するから手伝ってくれる?」

 にこにこと胡散臭い笑顔の紫苑につい釣られる形で頷き、竜胆は青年の指示に渋々従うこととなった。あまり部屋に物を置かない主義なのでリビングには座卓と座椅子にラグくらいしかないが、車から持ってきたアタッシュケースや楽器ケースの中身を次々に取り出してセッティングしていくと、さして広くない室内がいっそう狭苦しく感じる。
 出来上がったのは神棚を模した紫苑曰くお迎え基本セットだ。お社、紙垂、注連縄、御神酒、盛り塩、米といったものが座卓を埋め尽くすような形で飾られている。今から怪しげな儀式でも始まりそうな気がして竜胆は落ち着かない気持ちになった。ただ夏頃によくやる心霊番組でも似たようなセットは見た覚えがあるし、確かに「らしい」といえば「らしい」のだ。

「よし。そろそろ始めるか。竜胆くんは俺の隣でただ座ってるだけでいいから」
「はあ……これで本当に上手くいくんですか?」
「まあまあ、大舟に乗ったつもりで任せてよ。ちょーっと苦しい思いをするかもしれないけど我慢ね」

 にっこり。
 胡散臭いという言葉をこれでもかと煮詰めて濃縮したような、まるで本心が見透かせそうにない笑顔を貼り付け、お迎え基本セットの前で竜胆と向かい合うようにして座る青年は玲瓏たる声で祭文を読み上げ始める。もしかして人選間違えたかも、と顔を引き攣らせた竜胆だったが既に遅い。祝詞のような真言のような、謎の言語が部屋に響き渡った瞬間、突然身体の自由が奪われる。

(え、なに、なんで急に身体が……)

 戸惑う竜胆だがもはや声を出すこともできなければ指一本動かすことも不可能だ。まるで誰かに肉体を乗っ取られたかのようで、視界すら見え方がなんだかおかしい。モニター越しに誰かの視点を見せられているみたいだった。もう確信できる。今の自分は、自分じゃない。もう一人、誰かがいる。この肉体の中に。

『くるしい……くるしい……どうして彼は私を見てくれないの……いつもひとりぼっちで、誰かと仲良くする様子もなくて、だからせめて私が彼の孤独を癒してあげたかったのに……なんで、なんで私を見てくれないの、私を見てよ、どうして……ねえ、どうして?』

 自分じゃない何者かが、自分の声で何かを喋っている。声質までもが変化した訳ではないので、それが女性のものであると気づくのに少し時間がかかった。この身体に乗り移っているのは、竜胆の知らない女の子だ。

「君がどこの誰かは存じ上げないけど、彼はすごく困ってるみたいだよ?」
『だってこうでもしなきゃ、彼は私に気づいてくれないじゃない!』
「だから足音を鳴らしてみたり勝手に鍵を開け閉めしたり、些細な嫌がらせをしたの? でも彼、まだ君の正体に思い当たってないみたいだけど」
『そんな……嘘、嘘だ、あんなにいっぱいアピールしたのに! 無言電話とかメールとか夜中にたくさん送ったし、彼のアカウントだってフォローしたし、いつも物陰から見守ってたし、そうそう夏休み前には匿名で誕生日プレゼントだって……』
「……へえ、そう。それで君から話しかけに行った? 授業で一緒になった時にさりげなく隣に座ってみるとか、直接彼の自宅に投函するのではなくて普通にラブレター送るとか、そういうのは?」
『馬鹿なこと言わないで! そんなの彼の迷惑になっちゃうじゃない! そんな恥知らずな振る舞いできる訳ないでしょう!? 大人のくせにそんなのもわかんないの!?』
「そ、そっかあ……俺の手には負えそうにないな……で、結局のところ君はアピールだのアプローチだのとほざいて迷惑行為に勤しんだばかりか、こうして生き霊飛ばして好いた相手の安眠妨害してる訳だけど、その点についてはどうお考えで?」
『安眠妨害? なんのことか分からないけど寝ている彼をおはようからおやすみまで見守るのってとっても素晴らしいと思うけど?』
「……こりゃダメだ。地雷女の話なんか大人しく聞いてやるんじゃなかった」

 これってオバケが怖いんじゃなくて人が怖いオチのホラーじゃねえか! というツッコミが喉まで出かかった。出なかったのは肉体の主導権を奪い取られているからだ。人より少々鈍感な自覚のある竜胆だが、まさか現在進行形でストーカー被害にまで遭っているとは夢にも思っていなかった。しかもストーカーはストーキングでは飽き足らず生き霊を飛ばして自分の睡眠を邪魔していたらしい。無自覚に。
 キーキーと金切り声を上げる生き霊もといストーカー女は今にも紫苑に掴みかかりそうな勢いだ。どうにかして身体を取り戻したいが、彼女の自我があまりに強すぎて竜胆の意識はずっと引っ込んだままである。気持ちばかりが焦る中、紫苑がふとこちらへ向けて視線をよこした。案ずるな、と言われているかのようでからまわっていた精神が少し落ち着きを取り戻す。

「君の言い分はわかった。でもアプローチとしては大いに間違っているし、君は明確に彼に迷惑をかけている。そこは自覚した方がいい。俺から言えることはただ一つ。付きまとうな、これ以上この子に」
『やだ……やだ、だって、見てくれないもの、私が何をしたって彼は全然ッ、私のことなんか、私のことなんて、ちっとも見てくれやしないんだから! だったら、それなら、こうして傍にいることくらい許してくれてもいいじゃない!』
「……君は、好きな子にそうやっていつまでも我儘を押しつけ続ける気でいるの? 彼の望まないことをずっと。彼の嫌がることばかりを延々と。それってさ、ずいぶん独りよがりな『愛』だよね?」
『私は……でも、別に彼に迷惑かけたりなんか、』
「もういい。言い訳は聞き飽きた。説得でどうにかなるならその方が安く済むからと思って呼び出してみたけど、案の定無意味だったな。くだらない時間を浪費した。──消そう」

 酷く冷ややかな物言いだった。遥か高みから竜胆を、いや竜胆の中にいる「彼女」を見下ろす青年は浄衣の袂から霊符を取り出す。達筆すぎてなんて書いてあるのかは読めないが、それが彼女に致命的な一撃をもたらすことを咄嗟に竜胆は悟った。このままでは言葉通り、彼女は消える。否、消される。確かに早期解決を望んだのは竜胆だが、それは加害者の消滅を許容してのことではない。

「待って! 待って……紫苑さん、もう少しだけこの人に時間を……あれ? 喋れる」
『あ! り、竜胆くん、ああそんな……私に会いに来てくれたの? 嬉しい! ねえお願い助けて、この人酷いの、私に酷いことばかり言うの、ねえ私を助けてよ、お願い……』
「往生際の悪い……これだから人間ってのはろくでもないな。言い分なんか本当に聞いてやるんじゃなかった。ああ失敗した。もういいや、全部めんどくさい、消しちゃおうか。竜胆くん、悪いけど──君には少し痛い思いをしてもらうよ」
「いやあの、待って俺の話を、」

 温度のない声と凍てつく眼差しが、竜胆とその横にいる彼女へと注がれる。いつの間に肉体から飛び出してきたのか、ゆらゆらと半透明に揺らぐシルエットが彼の隣にいた。
 緩く巻いた髪に化粧っ気のない素朴な顔立ち、綿シャツとスカート姿の女性をおそらく竜胆は一度だけ見た記憶がある。とはいえ入学間もない頃オリエンテーションでたまたま席が隣だった、ただそれだけだ。それだけのことで彼女は竜胆に付きまとい、あまつさえ霊障まで引き起こしたのか。生き霊を飛ばしてまで。

『私……私っ、そんな、迷惑かけるつもりは、ただ見てほしくて、あなたに私を見てもらいたくて、でも私をあなたは見てくれないから、だから』
「うるさいなあ。ごちゃごちゃと惨めったらしく囀るなよ。だから嫌いなんだよ……愛だの恋だの、ぎゃあぎゃあ騒ぐ人間なんて生き物が……」

 嫌悪感を隠しもせず、もはや憎悪に近い感情を滾らせて紫苑が霊符をかざす。あれを使わせたらまずい、と慌てて竜胆は横からタックルをしかけて霊符を取り上げた。拍子抜けするほど青年は身が軽く、浄衣で誤魔化されているが相当に線が細い。思わずちゃんと食事しているのか疑わしくなるくらいに。

「……は? 何、急に。解決してほしいんじゃなかったの。それ返して」
「解決はしてほしいですよ。でもこんな、無理やり消すとか、その……そんなのは望んでません。確かにさっきから何言ってんだこいつって呆れたし正直キモイなとも思いましたけど」
『竜胆くん……! 私のことたすけてくれた! ありがとう竜胆くん、ねえ私を見てくれる? ずっと見てくれる? ねえ、ねえったら!』
「……あのさ、そういうの、もうやめてほしいんだけど。あんたと俺は別に仲良くもないし、もちろん友達でもない。だから……その、普通に話しかけてよ。それでよくない?」
『竜胆くん……? 私を見てくれないの、ああ、そう。ならいい。もういい。知らない。私を見てくれないなら、もう、どうだっていい』

 彼女の瞳が今にも泣きそうに潤み、やがて朧げだったシルエットがどんどん薄れて消えていく。それまではっきりと滲んでいた好意の色が完全に失われたのを見てとり、竜胆は思わずその場に膝から崩れ落ちた。身を呈して庇ったのになんだその言い草は、と徒労感が全身を包む。やっぱり紫苑に逆らわない方がよかったか、と後悔していたその時だった。
 あはは、と軽やかな笑い声が聞こえる。声の主は当然ながら紫苑その人であったが、さっきまでの威圧感はどこへやら、妙に上機嫌そうに微笑んでいた。

「いやー、おもしろいもん見せてもらったわ。君ほんっと度胸あんねえ。その霊符、霊だけじゃなくて人にも効果あるから、下手したら消えてたのは君の方かもしれないのに」
「……え!? うっそ、それもっと早く言ってくれません!? ていうか……もしかして俺のこと試してました?」
「試したつもりはないけど。君はどうするかな、って様子は窺ってた。割って入るならそれでよし、静観するようなら……まあ、それもそれでよしってことで。とりあえず合格かな」
「は、はあ……ってなんの!?」
「いやー、そろそろ業務拡大の時期かなぁと考えていてね、いい感じの助手が欲しかったんだよ。でもこの仕事って特殊だろ? 物怖じせず度胸のある馬鹿ってのがなかなか見つかんなくてね。でも君が来てくれた。うち給料はいいよ、その辺のサラリーマンより稼げる。うちの店で賄いも出してあげる。もちろんタダで。──で、どう?」
「ど、どうって言われても……その……」

 返答にまごつく竜胆に対し、あらぬ方向を見やって紫苑がダメ押しのように告げた。

「君に憑いてる『それ』も俺がなんとかしてやる、って言ったら?」
「……ッ! それ、本気で言ってます? マジで可能なんですか!? こいつを『祓う』ことが」
「もちろん。術師だからね、嘘はつかない。できないことをできるとは言わないよ」
「……っ、じゃあ、ほんとに……本当の本当に『できる』んですね?」
「ああ。ただし代償は支払ってもらう。それでもいいなら。ま、返事は急がないから、いつでもまたうちの店に来てよ。歓迎するからさ」

 あえかな笑みを浮かべ、お迎え基本セットをそそくさと元のケースにしまうと紫苑は荷物を片手に部屋を出ていく。慌てて見送ろうとしたが拒否されてしまった。お代はまたの今度に、と台詞を残して彼は去っていく。華奢な後ろ姿がミニバンの中に消えていき、しばらくして住宅街を走り抜ける車を玄関先からぼんやり眺めながらも、もう竜胆の腹は決まっていた。


 ◆◆◆


 竜胆が生まれ育ったのは、東北でもかなり辺鄙なところにある、山間の寒村である。人口は百人にも満たず、痩せた土地ではろくな作物も育たず古い時代には幾度も飢饉に見舞われてきたような、行政と人々に見捨てられてきたかのごとき小さな集落。冬の寒さは厳しく春はあまりに短い。そんな土地であったから、村全体が閉鎖的で排他的な気質なのも無理からぬことだったのだろう。
 村には奇妙な風習があった。七年に一度、七月七日から始まり七日七夜ぶっ通しで行われる祝祭にて、その年に七つを迎える子供をその間ずっと御堂で生活させるというものだ。「神おくりの子」と呼ばれる、選ばれた子供は村を守る女神へ捧げられる花婿なのだという。祝祭の年、七つの子は竜胆だけだった。というか竜胆以外に子供と呼べる年頃の人間はいなかったのだが。
 神おくりの子に選出された竜胆は、めいいっぱい着飾らされて御堂で一週間暮らすことになった。当然親はいない。身内どころか他の大人も、神おくりの子以外は誰も御堂の中に入れないしきたりなのだ。もちろん期間中、外出も禁じられている。電気もガスも風呂もない、トイレしかない六畳ばかりの小さな部屋に閉じ込められ──七日七晩。
 きっと死んでいてもおかしくなかった。いやおそらくはそれが狙いで目的だったのだ。今ならわかる、元は口減らしの儀式だったのだろうと。何度も飢えに苦しめられてきたこの土地で、ただ飯を食うだけで労働力にもならぬ子供など邪魔なだけだ。だから神様への「捧げ物」ということにして間接的に殺した。
 本来なら形骸化してもいいはずの、まったくもって時代遅れという他ない、恐ろしき因習が蔓延り続けたのも「余所者」が長きに渡りやってこなかったからだ。今はもう居ない、竜胆の両親を除いては誰も。儀式に反対し、我が子が殺されるのを阻止しようとした二人のことを今でも彼は忘れることができない。そして無惨に命を奪われ、理不尽に死んでいった両親は最期まで案じていた。竜胆が生き延びることを。
 水も食料も充分に与えられず、七日間もじわじわと真綿で首を絞めるかのように苦しめられ続けた彼はそれでも死なず命を繋いだ。皮肉にも竜胆が死にかける要因となった、ある者が──彼の故郷を護る女神が竜胆少年の生命を守った。七日七夜経ち、様子を見に来た村の大人たちは息のある神おくりの子を見てこう叫んだという。「この子供こそは『無貌の美姫』の愛し子だ」、と。
 そうして竜胆は今度こそ村の一員として迎えられ、義務教育が終わるまでを村長や大人たちに囲まれて……というより監視されながら過ごした。なにせ彼は儀式という名の殺人未遂の生き証人だ、当然ながら村にとって野放しにできる人間ではない。竜胆は高校入学をきっかけに村を出て仙台で一人暮らしを始め、そして大学進学に合わせて上京した。もう二度とあの村に捕まらないために。
 けれど誤算はあった。基本的に村から離れられないはずの彼女──守り神であるはずの無貌の美姫を連れてきてしまったのだ。顔の無い女神はいつだって竜胆の背後に控えている。今なおずっと、これからも永遠に。竜胆に危機が迫った時、助けてくれる代わりに彼女はあるものを奪う。命の代価となりうる「それ」を未だ、竜胆は知らないままに生きている。
 ただ、何かとても大切なものを失ったという、途方もない喪失感だけを抱えて。

 けれど青年は、あの男は言った。自分なら「それ」を引き剥がせると。彼女をこの身から解放してやれると。竜胆を自由にできるのだ、と。ならばそれに縋るしかない、今は。
 ‪──たとえ、代償に何を失うとしても。

 神保町にある古い雑居ビルの地下で、ひっそりと営まれている隠れた名店「純喫茶・キマイラ」──そこで竜胆りんどうがアルバイトとして働くことになったのは、とある偶然がきっかけだった。
 ビルオーナーであり店主の紫苑しおんは霊媒師として怪異や怨霊・悪霊に苦しめられている人々を助けることを生業としている。だが多忙のあまり助手を探していたところ、白羽の矢が立ったのがたまたま依頼人として店を訪れた竜胆だった。
 現状、助手の仕事をするか否かは保留にしている竜胆だが、間の悪いことに金に困っていたのは事実である。授業料、教材費その他を含めた学費にアパートの家賃、水道光熱費、食費、それ以外の生活費など必要な金は挙げればキリがない。
 幼い頃に両親を亡くし、同じ都内に住む親戚の援助で生活している彼はちょうど求職中で、店員としての雇用であればまさに渡りに船だったのである。客入りも少なく適度に暇で、しかも賄いまで出るとあればやらない理由がない。さっそく翌日から出勤することとなり──。

「ちくしょう! 騙された! これのどこが喫茶店の店員の仕事なんだよ!」
「あっはっは。そう簡単に大金稼げる甘い話なんてある訳ないでしょが。これに懲りたら労働契約書はちゃんと隅々まで読んでからサインするんだね」
「詐欺だこんなの……ちくしょう労働基準監督署に訴えてやる……」
「俺あそこの担当さんに顔が効くんだよね。浮気相手の生霊に取り憑かれてたのを助けてあげたから」
「……社会って、怖い」

 時刻は深夜一時半を回っていた。いわゆる草木も眠る丑三つ時、ユーレイの出る時間帯である。
 紫苑の運転する愛車に乗せられ、竜胆が連れてこられたのは国道沿いにある深夜営業のファミリーレストランであった。だだっ広い駐車場は意外にもほとんど埋まっていて、ドライバーが休憩中に食事しに来たのだろうタクシーやトラックなどが何台も停車している。
 結局、助手として働くことが決まった竜胆は紫苑の手伝いとして荷物運びや祭壇の組み立て、場合によっては現場の下見や依頼者へのヒアリング等を今後担当していく流れになった。今回はいわばデビュー戦ということで紫苑いわく簡単な案件をチョイスしたという話だが、そもそもこういう業界が存在すること自体よく知らなかった竜胆にしてみれば、ホントかよというのが本音だ。
 そして今回の現場は都内某所にあるファミレスであり、依頼者はそのオーナーである。数ヶ月前までパートとして勤務していた女性が退職して以降、怪奇現象に悩まされているのだという。
 きちんと閉めたはずのウォークイン冷凍庫がいつの間にか開いている、仕入れたばかりの食材が原因不明の腐敗を起こす、包丁やナイフなどの刃物という刃物が一夜にして全て錆びてしまい使えなくなる、等々。
 主に物理的な被害が発生するせいで既にかなりの額の損害が計上されており、このままでは経営に差し支えるとのことで、早急の解決を望むというのが依頼者からの要望だった。
 当初は他のアルバイトによる迷惑行為と疑われたが監視カメラ等に証拠が記録されなかったこと、またオーナー当人が俗に言う「視える人」だったため霊障と断定されたのだとか。
 紫苑は大々的な営業や宣伝こそしていないが、オーナーのような霊や怪異が視える人間は、彼が「本物」だということを知っている。そのため口コミや噂話などを経由して、時折依頼が舞い込んでくるのだという。
 それでも最近は紫苑の名前が広まりすぎてしまい、喫茶店の仕事もままならないほど忙しくなってしまったそうだが。竜胆が助手にされたのもそうした経緯があってのことだった。

「……怪しいのはその数ヶ月前に辞めたっていうパートの人ですよね。念のため聞きますけど、その人生きてるんですか?」
「残念ながら。彼女は件のファミレスが開店する時オープニングスタッフとして雇われて以来、早朝から三時までのシフトで長いこと厨房業務全般を仕切ってたみたいだね。ベテランとして信頼もされていたし、それが突然辞めるとなって店は結構困ったらしいよ。賃金も値上げするから辞めないでくれって熱心に引き止めていたというし。でも──」
「その人は退職した……そして亡くなってしまったんですか。でもなんで? ていうか死因は?」
「そこまでは教えてもらえなかったけど。まあ十中八九自殺だろうねえ。だとしたら店の、それも自分が一切を取り仕切っていて厨房にばかり現れて霊障を引き起こすのも頷けるんだけど……ま、そんな簡単な話でもなさそうだ」

 昨今では二十四時間営業の飲食店というのは減りつつあるが、深夜でも客入りの見込めるロードサイドの店舗とあって、遅い時間でも店内はそこそこに賑わっている。大学生の集団からタクシードライバーやトラックの運転手、サラリーマン風の客などで席の大半は埋まっており、あちこちから笑い声や歓声が聞こえてきた。
 入店すると、やや疲れた顔をしたホールスタッフにフロアではなくスタッフオンリーと書かれたドアの向こうに案内される。従業員の休憩室と事務所を兼ねた室内は雑然としており、キャビネットには乱雑にファイルが突っ込まれ、デスクの上も大量の書類やチラシにパンフレットが積み重なっている。スタッフ用のテーブルも私物が放置され、あまり整頓が行き届いていない印象を受けた。
 適当な席にかけてくれと店員に促され、二人は手近なパイプ椅子に腰掛ける。そのまま退出した店員と入れ違いに依頼者──店のオーナーである三木みきという男が入室してくる。年齢は三十代半ばくらいだろうか。小太りな体格に闊達とした雰囲気の男はこの場にそぐわない、やけに陽気な笑顔を浮かべていた。

「どうも。紫苑といいます。こっちは助手の竜胆。さっそくですが料金について改めて軽くですが説明しますね、初回ということで成功失敗に限らず三万、成功の場合はプラス一万五千円いただくことはご依頼していただいた際、説明したかと思いますが──異存はありませんか?」
「……はい。この霊障が収束するのであれば、いくらかかっても構いません」
「そうですか。では経緯についてお聞かせください」
「たぶん笑子えみこは俺のこと恨んでるんじゃないか、って思うんです……まるで当てつけみたいに、わざわざ繁忙期を選んでトんだあたり、きっと……」

 ため息まじりに言いつつ、男はあらぬ方向を睨みつけている。つられて竜胆が同じ方向へ視線を向けても何もいないので、騒ぎを引き起こしている悪霊はこのスタッフルームへ近づく様子はないようだ。では一体何を見つめているのだろう。

「笑子さん、というのは亡くなった元従業員の女性ですよね。何か彼女に恨まれる心当たりでもあるんですか?」
「……付き合ってたんです。俺には彼女がいたし、あいつに旦那がいることは知ってたけど、向こうから迫られて、仕方なく……そんなとき他店舗で働いてる女の子と仲良くなって、その子に乗り換えるつもりなのかと問い質されて、つい面倒くさくなって、その気もないのにそのつもりだって。そしたら翌日から仕事に来なくなって……あいつの旦那から死んだ、って連絡があって」

 だんだん声を震わせながら吐露した男は、まるで紫苑に対し懺悔しているようにも見えた。やはり最初のあの取り繕ったような笑みは演技だったのだろう。三木は相当に悔やんでいる様子だったが、果たして何に後悔しているのか。胃の腑がムカムカしてくるような不快感を覚えながらも竜胆は口を挟まない。
 依頼者にヒアリングしていく紫苑の顔つきは至って冷静そのもので、思わず憮然とした表情になってしまいがちな竜胆と違い、感情らしきものは欠片も見受けられなかった。彼の質問に答え続けていた三木は、やがて深く項垂れながら絞り出すような声で告げた。

「お願いします。あれを早くどうにかしてください。このままじゃ赤字になっちまう。スタッフにも迷惑がかかりっぱなしだし、これ以上損害がデカくなれば本社からも処分が下る。さっさとあれを片付けてください、頼みます、ほんと」
「……分かりました。とはいえ必ずしも穏便に済むとは限りませんから、お約束はできませんが。ま、最善は尽くしますよ」

 飄々と答え、席を立つ紫苑に続いて慌てて竜胆も着いていく。二人が向かった先はスタッフルームの隣にある厨房だ。臨時で急遽店じまいすることになったため、数人のキッチンスタッフが閉店作業に追われている。だが、

「あー……見ろ、またやられてる。ほらこれ、明日のランチに出す予定の具材。全部ダメになっちまってるよ……どうすんだこれ」
「こっちも。ほら、また冷蔵庫の中身がやられてる。しまってたもの全部ひっくり返されてぐっちゃぐちゃだよ……片付け面倒だなあ」
「食洗機もずっと調子悪いまんまだし、水道からはたまに錆まみれの水が出てくるし、洗い場もダメだ。もうこの店ダメなんじゃないか? 営業続けられるとは思えないんだけど」

 口々にぼやきながらも作業の手は止めない彼らの顔はすっかり疲れきっている。この霊障騒ぎで皺寄せを食らっているのはオーナーではない、働いている普通の従業員たちだ。彼ら彼女らはもちろん騒ぎの原因が幽霊であるとは知らされていないし、ましてや幽霊の正体が元スタッフだとも明かされていない。ただ原因不明のアクシデントに悩まされているだけだ。
 しかし、だからといって現状を説明したところで信じてもらえるとも思えないし、ただいたずらに混乱を招くだけなのも彼は理解できていた。
 チラリと忙しそうな厨房の様子を見やってから、煙草吸ってくる、と言葉少なに裏口から一度店を出た紫苑についていく。喫煙者のスタッフもいるため従業員用入口付近が喫煙スペースになっており、申し訳程度に灰皿と吸殻入れも置かれている。
 スーツの内ポケットから見たことのない銘柄の煙草を取り出し、一本口に咥えてライターで火をつける彼は、特に美味くも不味くもなさそうな顔で紫煙をくゆらせていた。平静を装っている、というより心底どうでもよさそうな顔といえばいいのか。
 訳の分からない出来事に仕事を増やされるアルバイトたちや身勝手なことをのたまうオーナーに対し、大した感慨を抱いているようには見えない。冷淡といえば確かにそうだが、いちいち感情移入もしていられないのだろう。

「……俺の目には特に悪霊っぽいものって視えなかったですけど。本当にあの騒ぎって悪霊の仕業なんですかね」
「狂言かもしれない……って言いたいの? たぶんだけどそれはないよ。巧妙に姿を隠してはいるし、今のところ確かに人的被害は起きてない。でも時間の問題だろうね。『効いてない』とわかれば即座に次の手を打ってくるだろうよ、あの手の霊はしつこい。執念深いんだ、恨みの対象がハッキリしてるから」
「恨みっていうとあのオーナーですかね。なんかずいぶん発言が、その……」
「君くらい若いとまあ確かに不愉快に感じるだろうなあ。俺はもう慣れちゃったから今更どうとも思わないけどさ、まあ酷い言いようかもね。仮にも不倫関係にあった女が死んでるって言うのに、悲しんでる様子もなかったし。そりゃ恨んだって仕方ないだろう。ということでガス抜きさせるとしよう」
「……ガス抜き? 根本的解決には繋がらなさそうですけど」
「うん。そう。ガス抜き。あの男を死なない程度に苦しめりゃ少しは溜飲も下がるでしょ、彼女がスッキリしたところで交渉する。無関係の他人に危害を加える前なら強制除霊なんて乱暴な真似をせずとも、あの世にお帰りいただくようお願いすればいい」

 にんまり悪どい笑みを湛え、紫苑が言い放ったその時だった。開きっぱなしのドアの向こう、店の奥から鼓膜を劈く絶叫が突然響き渡る。それが三木の声であると一瞬遅れて竜胆が気づく間に、既に紫苑は店内へと走り去っていた。

「どうしたんですか! ……っ、クソ、やられた!」
「紫苑さん! いきなり走り出したりして一体……ってこれ、依頼者さん?」
「ああ。……どうやら無事みたいだな。おい、しっかりしろ! 三木さん起きれますか!?」
「ヴ……ッ、あ、し、紫苑さん……お願いします助け、あの女が……あの女が俺を!」
「彼女にやられたんですね。他に痛いところは?」
「と、特には……さっき閉店作業を手伝おうと厨房入ったら、いきなり突き飛ばされて転んでしまって」
「そうですか。現場を見た人は?」
「それが……その、みんな自分の仕事に夢中で、誰もオーナーが転んだところを見てなくて。あの、一体何が起きてるんですか……?」
「……悪いけどそれは言えない。とりあえず全員もう今日は帰りな。あとはオーナーがなんとかしてくれるだろう。三木さん立てますか」

 言いながら紫苑はまだ床に倒れたままの三木を無理やり立たせる。少々ふらついてはいるものの、自分の足でしっかり起立できているので、捻挫や打撲などの怪我は幸い避けられたようだ。慌ててスタッフが厨房を離れていき、竜胆・紫苑・三木の三人だけが空間内に取り残される。
 それを見計らったようにパチパチと不穏なラップ音が不規則に鳴り始めた。ピシッ、パシ、パキンと厨房のあちこちから聞こえてくる乾いた音と共に、蛍光灯の明かりも不自然に明滅し始める。
 作業台に置かれたままの調理道具が地震でもないのに小刻みに揺れ、掃除したばかりの床に点々と血の跡が浮いている。大してオカルトに詳しくない竜胆でも、これがポルターガイストだというのはわかっていた。

「紫苑さん……これマズくないですか。なんか彼女、すごい怒ってるみたいに見えるんですけど」
「まあそうだろうね。俺の煙草の匂いがよっぽど気に食わないんじゃない? これ、怪異が嫌う香木を刻んで詰めた特別製だから」

 言いつつふぅっ、と煙を帯びた呼気を吐き出す紫苑。ふわりと香る独特の馥郁が厨房全体に広がった途端、「それ」はとうとう姿を現した。
 他の厨房スタッフと同じエプロンに店の制服を身につけ、長い黒髪が顔面を覆うようにだらりと垂れ下がっている。重たげな髪の隙間から覗く血走った目は、前に立ち塞がる紫苑や竜胆を素通りし、最奥にいる三木をまっすぐに睨めつけていた。

『呪ってやる……呪ってやる……お前も、あいつらも、この店のやつら、全員……呪ってやる!』
「ヒッ……く、来んな! こっちに来るな! てか、なんで、みんなを狙う? 他の人たちは関係ないだろ!?」
『うるさい……うるさい……死ね……殺す……』

 一歩、また一歩と彼女──笑子が近づく度にベチャベチャと床上に血の足跡がこびりつく。よく見れば手足のあちこちに、まるで大型の獣か何かに噛みつかれたような咬傷が残ったままだ。開きっぱなしの傷口からは絶えず赤黒い血が吹きこぼれ、女の腕や足を汚している。

「これ……なんか変じゃないですか? もしかしてこの女の死因は自殺ではない……?」
「呪いだよ。いやはや女ってのは怖いねえ。たとえ自分が呪い殺されようとも、憎いかたきを苦しめるためならば、いかなる代償も厭わない。俺には全く理解できないな」
「いや俺だって理解とか無理ですけど……じゃあ笑子さんは自ら命を絶った訳じゃなくて、別な怪異に殺されたってことですか」
「簡単に言うとそう。どうせコックリさん的な儀式でも試して逆に殺されたんでしょ、手順を間違えて本来召喚される低級霊ではなく、マジモンの化け物を引き当てちゃったみたいなとこかな。ほら、俗に言うSSRってやつ」
「SSRの代償あまりにデカくない? むしろ大ハズレじゃない?」
「まあまあ。とりあえず三木さんを苦しめるだけ苦しめたら満足するでしょ。そしたら俺らの仕事だ」

 二人が呑気に雑談している間にも、彼女は万力のような力で男の首を絞めあげている。だんだんと顔が青紫に変色していく三木が縋るような目で紫苑を捉え、彼は盛大にため息を吐いた。
 更にもう一本、火のついた煙草を咥え、紫煙を漂わせたまま血の滴る女の手を振りほどく。大して力を込めているようには見えないのに、するりと彼女の両手は男の首から離れた。解放された三木は床上に倒れ込み、ゲホゲホと汚らしい音を立てて咳き込む。

『あ……あ……』
「もういいでしょ。さんざん痛めつけて満足した? なら、そろそろ君は君のいくべきところへいく時間だ」
『いやだ……こいつだけは、私を裏切ったこの男を道連れにしてやる、でないと気が済まない!』
「ふうん、でもこいつを殺せば君は堕ちる。そして、その代価を支払わされるのは──次の君だ」

 いやに抽象的な物言いで、傍で聞いているだけの竜胆には紫苑の言葉の真意は分からない。だが「堕ちる」というワードに滲む不穏さに、背筋が泡立つ感触がした。彼とは逆に放たれた台詞の意味を正確に読み取ったのだろう、彼女はびくりと肩を震わせ、怯えたように後退る。

「俺としちゃ別に君がどうなろうと構わない。どうでもいいからね。けど当事者である君はどう? そんなに責め苦を味合わされたいの? たかが人間一匹を殺した程度の咎で、畜生にも劣る扱いを受けて尊厳を踏み躙られて。挙句、来世はとんでもない不幸と不運が襲う。外道へ堕ちるとは、そういうことだ。君のように身勝手で我が身かわいい生き物が、そんな理不尽を甘んじて受け入れられるとは思えないけどなあ」

 ニヤニヤと意地の悪い笑みを口元に刻み、紫苑がゆっくりと女の方へと近づいていく。黙したまま彼女は凍りついたように動かない。そろそろ潮時だろう、とうっかり竜胆が緊張を解いたその時。力をなくしたかに見えた両手がそろりと再び動き、今度は紫苑の首めがけて伸びる。

「紫苑さん!」
「来るな! ソイツ連れてあっち行ってろ!」
「で、でも……」
「いいから! 俺のことはいいから、早く!」
「……っ、わかりました」

 腰が抜けたのか上手く歩けない男の襟首を掴んで無理やり引きずりつつ厨房から出ようとする竜胆の目の前で、ものすごい力で絞められている紫苑の首がみるみるうちに青黒く鬱血していく。だが彼の瞳にはなぜか変わらず余裕が垣間見えた。
 黒髪を振り乱しながら紫苑を引き倒そうとする女に足払いをかけ、逆に仰向けに転倒させると、彼女が起き上がる前に片足で下腹部を踏みつける。全体重を思いっきりかけられ、うぐ、と悲鳴を微かにあげる女へ笑いかける青年の横顔はいっそ穏やかだった。

『クソ、クソっ、ころす、殺してやる! お前も、あいつも、全部全部みんな殺してやる……!』
「はは、お前ごときが俺を殺す、だって? ナマ言ってんじゃねえよ、戯れ言も大概にしろ。もう聞き飽きたわ」
『うるさい、うるさい、うるさぁぁぁぁい! お前みたいなガキに何が分かる、私の、何が!』
「知るかよ。知る気もないね。とっとと失せろ。目障りだ」

 カチリとライターのフリントが回る音が深夜のキッチンにリバーブし、青い火がたちのぼる。紫苑はケースに入っていた残りの煙草全てに着火すると、勢い良く煙を撒き散らすそれらを女の顔へと叩きつけた。
 ギャッ、とたちまち聞くに耐えない怒号が彼女の口から漏れ出す。じたばたと手足をばたつかせ、もんどり打ってもがき苦しむ女は、やがて全身が黒い泡と化して溶けるように消えてしまった。あっという間の出来事に、三木の襟首に手をかけたまま竜胆は思わず目を瞬かせる。

「チッ、どいつもこいつも要らん手間かけさせやがって。あーめんどくさ、これだから痴情のもつれ絡みの仕事って受けたくないんだよなあ」
「えと、終わった……んですか?」
「うん。もう終わり。解決。もう二度とこの店には現れないよ。ていうか霊魂そのものを消滅させたから生まれ変わることもできないんだけど」
「それってあんまり良いこととは言えないような……まあ解決したからいい、のかな?」
「そ、そんな……笑子、ああ、笑子……っ」

 その場に膝から崩れ落ち、もはや残骸すら一切残っていないさっきまで彼女が倒れていた箇所を震える手で撫で、三木は嗚咽する。何度も何度も床に拳を叩きつけて涙をこぼしながら慟哭する様子には、ある種の滑稽さがあった。

「満足だろ? もうこの店が霊障に遭うことはない。良かったじゃないか。あんたにとっては大団円、ハッピーエンドのはずだろ? 何をそんなに後悔してるんだ。大体、往々にして後悔するのが遅いんじゃないか? もっと前に──彼女が生きているうちに、やり直すチャンスはあっただろう。自業自得のくせに、一丁前に悔やんでるんじゃないよ」

 紫苑の情け容赦ない一言に対しても男は無反応を貫いている。無言でひたすら拳を床へ向かって振るう彼を強引に立たせ、紫苑は片手のひらを差し出した。にっこりと笑顔を形作っているが明らかに演技と分かる嘘臭い笑みに、三木が歯を軋ませながら舌打ちする。

「成功料金、四万五千円になりまーす。毎度あり」
「……ッ、クソ! この人でなしが……! さっさとこれ持って消え失せろ、二度とその面を見せるんじゃねえ!」
「あら酷い。俺がいなかったら今頃死んでるのはお前なのに。まあいいや、貰うもんは貰ったしお暇しよっか竜胆くん」
「ここで俺に話振らんでくださいよ……すみません、お邪魔しました。では俺たちはこれで」

 こちらを射殺さんばかりに睨んでくる男から、そそくさと立ち去り二人は駐車場に停めてある車へと乗り込む。手渡された茶封筒には提示した金額よりも多い枚数の紙幣が入っており、少しばかりイロをつけてくれたらしい。ある意味口止め料の意味も込められているのだろう、本部にこの騒ぎを知られればオーナーの首が飛ぶのは間違いない。

「仕事も終わったし帰るかー。それともどっか寄って食べてく? 腹減ったでしょ」
「いや今何時だと思ってんですか。俺もう眠いし帰りましょうよ」
「えー。最近の若い子って夜型って聞いたけどそうでもないんだな、じゃあ家まで送るよ」
「助かります……ちょっと仮眠取ってもいいすか……」
「いいよー。君んちまで遠いし寝ときな」
「はい……おやすみなさい……」
「おや、もう寝ちゃった。まあ今日が初仕事だし疲れるよねえ。やれやれ仕方ないな、安全運転でいきますか」

 助手席ですっかり寝入ってしまっている竜胆を横目に、紫苑はエンジンをスタートさせゆっくりと車を走らせる。暁降あかときくたちの空は最も暗く、濃い夜の色をしていた。バイパスを走行する車の姿もほとんどなく、彼の運転する車体だけが滑るように走り抜けていく。車内は絶えず吐き出される冷房の風の音と青年の静かな呼吸音だけが聞こえる。

「……どうにも、ひとに優しくするって難しいねえ。君には俺のああいうところ、あんまり見せたくなかったんだけど。……嫌われちゃうのは、いやだな」

 どうにも口寂しくなって内ポケットの中を探ったが、先程煙草を全て使い切ってしまったのを思い出して、彼は小さく嘆息した。破邪退魔に効く様々な香木を使用した特別製の煙草は、あらゆる怪異や悪霊に効力を発揮するアイテムだ。だが、それは紫苑にとって諸刃の剣でもあった。
 すうすうと穏やかな寝息を立て、真横で深く眠りについている青年は、見た目だけなら充分に美しいと言えるだろう。長身に見合う均整の取れた肢体に肩にまで届く無造作に伸びた艶やかな髪、冷たげな美貌は艶美さと精悍さの双方を備えている。
 これほどに完成された見た目だからこそ「あれ」が取り憑いているのだと、どうにも率直に綺麗だと思い難いものがあった。
 紫苑には変わらずに「視えて」いる。青年にまとわりつく不穏と不吉の影を。この世のものではない、異形の姿を。なぜならば。紫苑もまた、ひとではないものだからだ。

「お前はこの手で、俺が必ず祓ってやる」
『おすきにどうぞ? できるものなら、やってみるがいい』

 くすくすと嘲るように放たれた、人ならぬ笑声が耳朶をくすぐる。不快感に眉を顰め、紫苑はアクセルを軽く踏み込んだ。

「こんな朝早くからなんなの? 営業時間外に来るならアポ取れって口酸っぱく言ったよね俺」
「んもう、せっかく『親友』が訪ねてきてやったというのに無視なんて良くないよ紫苑くん」
「見ての通り店開ける準備してるんだけど。今何時だと思ってんの?」
「えー、もうすぐ朝の七時でしょ? まあいつもなら僕は今からが寝る時間なんだけどさ!」
「いい加減にしろ生活破綻者、普通は起きる時間なんだよバカタレ」

 営業開始前の「純喫茶・キマイラ」を訪れたのは、明らかにまともな客ではなさそうな、得体のしれない人間だった。目元をすっかり覆う長い前髪にマスクで口元を隠しており、服装も黒で統一されている。背格好でかろうじて男と分かるが、どう贔屓目に見ても彼の容貌は不審者そのものだった。顔見知りなのか、紫苑しおんは気安い態度で彼に接している。
 今日は休日なので早朝からシフトに入ってオープン準備を手伝っていた竜胆りんどうは、通報することも一旦は考えたものの、とりあえず様子見しながら作業に戻った。男は店内に入るなりマスクを外し、馴れ馴れしい笑顔で何やら紫苑に話しかけている。どことなく男に見覚えがあるような気がして、竜胆は内心で首を傾げた。

「取材旅行でこの前南米に行ってきたんだよね、ということで今日のお土産はコレ! アステカの少数民族に伝わる呪いの仮面! ひとたび被ればアラ不思議、骨針が飛び出し装着者を不老不死の超人に変えるんだとか! ねえねえモノは試しというしちょっと被ってみてよ」
「嫌だよそんな得体のしれないもん……そもそも呪いの仮面なんか土産にするな。どうせなら酒買ってこい酒。十四代なら手を打ってやってもいい」
「えーやだよ、僕かわゆい見た目してるから酒屋行くと年確されるしさ、もう二十九だよ!? さすがにおかしくないっ? そんな幼いかな!? 高校生くらいのガキにしか見えないってこと!?」
「お前は見た目だけじゃなくて性根もガキそのものだろ。それよりこんな早朝に何の用?」
「まったまたー。隠さなくてもいいって! ネタは上がってんだよネタは。取ったんでしょ、弟子。ああ名目は助手だっけ、まあどっちでもいいけど。一体どういう心境の変化? 終活するにはまだちょっと早くない?」
「人を勝手に死にかけのジジイみたいに言うな。あとそれどこで聞いた? 誰にも話してないはずなんだけど」
「何言ってんのさ、杜若かきつばたくんと君と三人で呑んだ時にそりゃもう自慢げに惚気けてくれちゃったじゃない。あっそうか君って酔うと記憶飛ぶタイプだったね! メンゴ!」
「えっうそ……この前の俺そんなこと話したの……もうお前らと絶対酒なんか飲まん」

 舌打ちし、頭痛が痛いみたいな顔をしながら項垂れる紫苑は珍しく表情豊かだ。普段は悪霊や怪異相手に煽り散らかしたり意地悪く笑う様子ばかり見ているので、素の紫苑というものは案外と目にかかる機会は少ない。
 未だ名前を教えてもらっていない彼とは長い付き合いなのだろう。まだ知り合って間もない竜胆は、紫苑の交友関係などほとんど知らない。

「話は変わるけどさ、最近なんかネタにしても良さそうなやつってある? いやーそろそろ新作書いてくれって依頼は来てるんだけどさあ、なんか良さげなアイデアが思いつかなくって。君ならネタに事欠かないんじゃないかと期待したんだけど、どう?」
「どうではないが。そりゃ毎日のように依頼は来るからね、そういう意味ではネタになりそうなものはいくつかあるけど……ていうか杜若の方がお前の作風に合うんじゃないの?」
「うーん彼の持ちネタは面白いんだけど毒気が強いというか。同人や個人的に発表する分にはいいんだけどね、僕的にも刺さる系統のものが多いし。一般ウケを狙うとなるとやっぱり君のところに集まるエピソードかなって、それで例の彼──竜胆くんだっけ? 彼にも話とか聞きたいなって思ってるんだけど」

 ちら、と簾のような前髪の隙間から鋭い視線がこちらへ飛んできて思わず竜胆はびくりと肩を震わせた。蛇に睨まれた蛙のような青年の怯えた顔を見遣って、紫苑は男の頭に軽い手刀を見舞いつつたしなめる。

「勘弁してよ。あの子まだ一応未成年だしネタにするのはやめてやって。まあでもお前にねだられると思って、とりあえず使えそうなやつはピックアップしといたから、これでも持ってけ」
「サンキュー! 助かるよ! あとで君好みの大吟醸を贈答品でもらったから送るね。それにしても因習蔓延る寒村の生まれで生贄にされかけたなんてアクの強いエピソード持ちだと聞いたから取材するの楽しみにしてたのに、残念」

 ちぇっと唇を尖らせる男だが、あまり残念がっているようには見えなかった。長すぎる前髪を軽く手で梳いて顔面を晒したことで、ようやく彼の素顔が明らかになる。あっと小さく声を上げた竜胆は、どうりで見覚えがある訳だとやっと得心した。
 そういえば最近、ある小説家が国内の有名な賞を獲ったとニュースで報道されていた記憶がある。授賞式後の会見にこの男は出ていたはずだ。色素の薄い大きな瞳に甘やかなベビーフェイス、小柄な体格をした彼の名前は確か──。

「はじめまして。君が噂の竜胆くんだね! 僕は桔梗ききょう。しがない物書きの端くれさ。彼とは長い付き合いでね、腐れ縁と言ってもいいかもしれないな。今日は君のことを色々と取材しに──それ以外にも彼のもたらすネタはどれも新鮮かつ面白いからね、いいのが手に入ったかどうか伺いに来たのさ。ここまで何か分からないことはあるかな?」
「は、はぁ……紫苑さんの知り合いなんですね」
「やだなー、友達って言っただろう? なんでだか彼には友達と呼んでもらえないんだけどねえ。それより君のことだよ! なんでも神様憑きなんだって? いやはやこれは実に興味深い! 良ければ詳細について教えてもらっても?」
「え、あ、あの……ど、どうしたらいいですか」
「あー……桔梗のそれはもう職業病みたいなものだからスルーしていいよ。言いにくいことだろうし。ほら、いい加減に未成年を困らせるな。いい年した大人だろうが」
「むう。それを指摘されちゃうと弱いなあ。ていうか究極の若作りの君にだけは言われたくないんだけど?」

 頬を膨らませる桔梗だが、何度も紫苑に怒られたのでようやく懲りたか、竜胆の話題について深堀りするのは諦めたようだ。ペラペラとよく回る舌で紫苑の話をする桔梗に対し緊張を解いた竜胆を見て、これ以上余計なことを言われてもたまらないとばかりに、紫苑は本題に入るよう促す。

「それで? 結局、ここに来た本当の目的はなんだ? ネタ集めだけなら別に朝方じゃなくてもいいだろ、何があった?」
「アハハ、やっぱり隠し事というのはできないもんなんだなあ。勘のいい君相手なら特に。杜若くんが相手なら騙しきれそうな気がしたんだけどさ、まあそれはともかく──これを見てよ」

 ぐい、と桔梗が羽織っていた上着を脱ぐ。もうじき夏も終わるとはいえ残暑厳しい今の時期にどうして厚着などしているのか、と訝しんでいたが、この有様ではとても半袖など着れないだろう。
 シャツから伸びる桔梗の両腕は悲惨な状態になっていた。大小無数の赤い斑点が素肌に散らばっており、一見すると根性焼きを更に酷くしたようにもみえる。一部などは焼け爛れ、膿んでじくじくと黄色っぽい体液が滲み出していた。これがただの火傷痕などでないことは明白だった。

「……こんなの一体いつから、この前会った時はなかったよな。さっき言ってた南米旅行の後か?」
「違う。それより更に後だ。僕が君たち術師に先行して霊障が起きている可能性のある場所へ調査しに行くことがあるのは知ってるよね。まさにその調査後うっかり呪いを貰ってきちゃったって訳」
「うっかりどころじゃないだろ……潔斎は? 禊はやったのか」
「ぜーんぜんダメ。考えつく限りの対処法を片っ端から試してみたけど、さっぱり効き目がないんで最終手段として君のところに駆け込んできたんだよ。いやあ、いきなりで悪かったねえ」
「本当にな。せめて事前に連絡くらい寄越せ……ていうかこんなに進行するまで我慢するな。痛みでまともに寝れなかっただろう」

 たはは、と苦笑する桔梗の顔は、よく見れば血色が悪くじっとりと脂汗が滲んでいる。相当の苦痛を感じているのは違いなく、元通り上着を羽織り直した腕は微かに震えていた。
 火傷が広範囲に渡ると、破壊された皮膚組織が体温を保持できず寒気を覚えると聞く。慌てて竜胆は湯を沸かし、熱めのお茶を淹れる。包帯やガーゼによる応急処置も提案したが断られてしまった。

「いやー助かるよ、お茶ありがとう。竜胆くんって性格悪い君にはもったいないほど良い子じゃーん、大切にしなよ」
「その言い方やめてくれる? 別に助手として便利だから雇ってるだけに過ぎないから。それより、どうしてこんなに重い呪いを身に受けたんだ。お前ほんと何したんだよ」

 竜胆から手渡されたカップを受け取った桔梗は、猫舌なのかふうふうと息を吹きかけて冷ましてから口をつける。重傷を負っているとは全く思えないほど、やけにはしゃいだ様子の彼は立て板に水とばかりに説明し始めた。

「九州にあるデカい幽霊屋敷って知ってる? 絶対に近づくなって作家連中の間で噂になってたとこなんだけど、事前調査した方が良さそうだなと思ってこっそり潜入したのが確か十日前。その日は何事もなかったけど翌日からこのザマでさ、もう両腕の感覚ほとんどなくなってるんだよね」
「九州の幽霊屋敷……ってもしかして『門真御殿かどまごてん』か!? あんなとこに、しかも一人で!? バカか、なんでそんな無茶した!」
「いやあ、無茶というほどのことでは。あの辺り一帯を再開発したいから噂が事実かどうか確認してきてほしいって自治体からも要請されてさあ……仕方なく、つい」
「つい、じゃないし……仮に行くにしても、せめて杜若くらいは連れてけよ……」

 肺の中の酸素全てを吐き出すかのごとく盛大にため息をついた紫苑は、カウンターの上に突っ伏してしまった。ディスプレイを一切見ることなくスマートフォンを操作し、誰かにメッセージを送っているようだ。二人から少し離れたところに座る竜胆の位置からではさすがに、文面までは読み取れない。
 しかし、先ほどから会話の中に何度も出てくる「杜若」なる人物に何か用事を頼んでいるらしく、しばしメッセージのやり取りが続いている。その間、手持ち無沙汰になった竜胆は自分でも「門真御殿」なるものを検索してみた。どうやら有名なホラースポットらしく、次から次へと心霊体験に遭遇したレポート記事やSNS上でのつぶやきがズラリと並ぶ。

「おっ、君も『こういうの』に興味ある感じ? ならば説明しよう! 門真御殿っていうのはあくまでも通称でね。明治時代に九州で炭鉱を経営していた、ある一族が住んでいたという御屋敷のことなんだ。かつて火事で焼失し、当主とその家族、更に使用人など含む計四十四人が犠牲になったとされる大変痛ましい凶事なんだけど──話はここで終わらない」

 確かに検索ページの上位にサジェストされていた全国の有名なホラースポットを一覧で紹介しているサイトにも桔梗の解説と似たような文章が綴られていた。現在は生き残った子孫の手により再建されているそうだが、住む者がおらず廃屋同然と化しているらしい。火事、というワードで桔梗が現在進行形で受けている呪いがまさに火傷そのものであることに思い至る。

「『門真邸に存在する"開かずの間"は決して入ってはならないとされている。それがどこにあるかは分かっていないが、侵入した者は生きて帰れないと言われている』……でも桔梗さんは現に今、生きてここにいますよね」
「それがねー、僕にもどうして生き長らえたのかは分からないんだよ。まあ所詮はネットに転がってる時点で眉唾物だからね、間違った情報が書かれてることはあるさ」
「いや、おそらく何か条件があるんだ。それを満たさなかったから桔梗を即死させられなかった。あるいは他の目的があって生きて帰したのかもしれない、だからタイムリミットとして呪詛を付与したのかも」

 大きなものでは握り拳くらい、小さなものでも一円玉サイズはある、皮膚の表面に点在する傷口は、門真邸を焼き尽くした火事で死んだ人々の受けた痛みそのものなのだと。紫苑は淡々と考察を口にしながらも、どこか痛ましいものを見るかのような眼差しを桔梗の両腕へと向けている。
 常々彼を人でなしと思っている竜胆にしてみれば、それは少し意外な姿として目に映った。この、時として外道極まりない発言が次から次へと飛び出てくる男にも人並みの情めいたものがあったのか、と。哀れんでいるのは調査の結果として呪いに罹った青年ではない。想像を絶する苦痛を味わいながら死んでいったであろう、過去の死者たちだ。

「……なんつーか、紫苑さんにも普通の人らしい感性ってあったんですね」
「おっ、生意気を言うのはこの口かー? いいだろう今日の賄いは胡瓜のサンドイッチにしてやろう。あーあ、美味しいベーコンが手に入ったからナポリタンでも作ってやろうかなと思ってたのに」
「え! 今の取り消すからナポリタンにしてくださいお願いします! 俺、紫苑さんの作るメシめっちゃ好きだなー!」
「めっちゃ必死に媚び売るじゃん。確かに紫苑くんって料理上手いよね。いや喫茶店のオーナーなんだから当たり前なんだろうけどさあ、宅飲みの時もよくササッとツマミ作ってくれるし」

 やだな褒めてもなんも出ねえぞー、などと言いながらも満面の笑みでキッチンに向かった紫苑は手早く人数分の朝食を用意する。蜂蜜とバターを大量に塗って焼いたトーストに、ラズベリーのジャムをトッピングしたヨーグルト、それとサラダにコーヒーという組み合わせだが、メニューにはない一品なので今は竜胆と桔梗しか食べられない。
 いつもなら既に店を開けている時間に差し掛かっているが、桔梗の問題を解決するのが先なので臨時でクローズドにしておき、朝食にありつきながらも対策を練る。検索して得た情報だけでは呪いに関する具体的な内容は分からず、ひとまず現地に行ってみるということになった。
 さっそく三人分の飛行機のチケットを取る紫苑の横で、桔梗がスマートフォンで撮影したと思しき写真を竜胆に見せる。窓も照明もない、光源のない室内に大量の仏壇がズラリと並び、それぞれにおびただしい数の位牌が置かれている。ひどく不気味な一枚だった。

「……なんすか、これ」
「例の開かずの間。やっぱり解像度粗いねコレ。撮った時はもっとくっきり見えてたはずなんだけど、日増しに画質悪くなるな……」
「急に怖い写真見せてこないでくださいよ、せめて一言なんか言えって! てか入ったんすか、開かずの間に!? 入っちゃダメなのになんで……」
「だってぇ、ちゃんと開かずの間も含めて全てチェックしないと調査したとは言えないじゃん。でもこれで確定した。門真御殿は本物だし、開かずの間さえ入らなければ問題はない。正確には──『あれ』と遭遇しなければ無事に帰ってこれる。僕はたまたま呪詛を食らうだけで済んだけど、警告通り死人が出てもおかしくないよ」

 そもそも呪いにかかった「だけ」とは言えないのでは、と思いつつも竜胆は頷く。写真からでも禍々しさがはっきりと伝わってくるのだから、とても中に入ってみる気にはなれない。よく桔梗は実際に内部へ侵入できたものだ、とつい感心してしまう。
 使った道具や食器などの洗い物を済ませた紫苑が、なんだなんだとばかりに横合いから覗き、ゲッと嫌そうに顔を顰めた。術師の仕事関係では何事にも滅多に表情を変えず、平然としている彼が露骨に顔に出すのは珍しい。よほど撮影された風景に厭なものを感じたのだろう。

「……普通、仏間に仏壇を何個も置いたりしない。仮に犠牲者の弔いだとしても、こんな縁起の悪いことをわざわざする必要はないだろう。亡くなった者の中には門真一族とは無関係な使用人もいる以上、彼ら彼女らの分まで門真一族が祀っているというのも変だ。それに元々の屋敷が焼失し今ある建物が後に再建されたものであるというなら──現状、廃屋と化していること自体おかしい。なぜ再建した人間はここに住まなかったんだ?」

 スマートフォンに映し出されたままの画像から、なんとなく覚えていた違和感の正体について言及され、竜胆と桔梗は二人して押し黙る。ぼろぼろに朽ちた床の間に腐りかけた畳敷きの室内には、確認できるだけでも四基もの仏壇が隙間なく設えられていた。どれだけ拡大してみても位牌に書かれているはずの戒名は読めない。
 なぜ焼け落ちた屋敷は再建されたのか。どうして再建したのに住むでもなく手付かずのまま放置されているのか。発端となった火災の原因はなんだったのか。そしてもう一つ、位牌の数が四十四ではない理由はなんなのか。この写真からだけでは、次々に浮かんでくる疑問への解答は導き出せない。

「そういえば、このこと杜若くんにもメールで相談したら彼も来るってさっき連絡あったよ」
「は? 嘘だろあいつも来んの? え、やだ……悪いけど断っといて」
「朝イチで現地入り予定だってよ」
「じゃあ拒否できねえじゃん! 頼むからそれもっと早く言ってくんない?」
「なんでそんなに杜若くんのこと嫌がるのさ。彼、口も悪けりゃ性格態度も最悪だし横暴な俺様野郎だけど腕はいいよ? 君の方が実力についてはご存知だろうけど」
「だからだよ……あいつのそういうところが俺は本当に嫌いなんだよ。あれで雑魚なら可愛げあんのに、そうじゃないし……」

 紫苑が他者に関して心底嫌そうに眉根を寄せ、悪態をつく姿など竜胆は初めて見る。今日は彼の新しい一面ばかり目にしているな、となんだかむず痒い気持ちになりつつ、食べ終わったあとの食器を桔梗のものと合わせて手早く洗って片付けた。
 泊まりがけの大仕事になる以上、今から支度をしなければ飛行機の時間に間に合わない。さっそく一泊二日の着替えを二人分、それと簡易的なお祓いやお清めに使う道具もまとめて旅行用のキャリーケースに詰める。ついでに今日から数日間ほど休業する旨をいつもおすすめメニューを書いているブラックボードに記しておけば準備完了だ。
 諸々の作業を終え、紫苑の運転する車で空港まで向かう。出発時は平気そうにしていたものの、店でのハイテンションさが嘘のように桔梗はぐったりと後部座席にもたれかかっている。やはり火傷の痛みがかなり堪えるらしく、気休め程度に市販の痛み止めを飲ませたが効き目は薄いようだ。もう時間があまり残されていないのは明らかだった。

「桔梗さん、すごい辛そうですけど、本当に大丈夫なんでしょうか……」
「これまでにも何度か修羅場はくぐってきてるし、しぶとい奴だから、そう心配しなくてもいいよ。ただ、なるべく今日中に解決しないとまずいかもね」
「そうなんだよねえ。リミットは多分、今日の深夜か明日にかけてだろう。ねえ、四十四を割り切れる数っていくつだと思う?」
「えっと十一……桔梗さん、最初に現地に入ったのって十日前って確か言ってましたよね」
「……予想だけど、この呪いは十一日かけて相手を蝕むものだ。一日につき四人ずつ、ひとを傷つけ痛みを加える。そうして最終日、つまり明日、同じ苦しみを与えて殺す」
「なんでそんな……だって桔梗さんは、その『開かずの間』とやらに入っただけじゃないですか」
「相手は化け物だよ? 僕たちと同じ理屈や常識なんか通用する訳がない。それに『見るなの禁忌』や『入らずの禁忌』を犯した者に罰が下る、というのは当然だ。どれほど理不尽に思えても、決して破ってはならないルールを踏み越えたのは僕なんだから、これは自業自得でしかないんだよ。君が憤る必要はない……でも優しいね、竜胆くんは」

 思わず声を荒らげて反論する竜胆だが、隣の席で背もたれに全身を預けたままの桔梗が諫めた。苦痛を押し殺して穏やかに笑いかける顔は青ざめ、荒く呼吸する様子は今にも死にそうな重病人にしか見えない。

「俺は……桔梗さんにそう言ってもらえるような人間じゃないです。だけど桔梗さんが死ぬとこは見たくない。そんだけ」

 桔梗──「空園葵そらぞのあおい」という筆名で活躍する気鋭のホラー作家が過去に発表した作品に、それほど興味がある訳ではなかった。話のネタに、周りの本好きが絶賛しているのを見かけたから、そんな軽い気持ちで彼が賞を取ったという代表作を試しに読んでみただけ。
 だが、惹かれた。竜胆はさほどホラー小説に詳しくないし好んで読むタイプでもない。それ以前に読書家でもない。たまに友達から勧められたものを借りて読むくらいだ。自分で書店で本を買うことも年に数度ある程度か。そんな彼でさえ、手放しで面白いと素直に思えた。
 ホラーというジャンルに抱いていたイメージを粉砕する、躍動感に満ちた軽やかな筆致。それとは対照的な、登場人物たちの生々しく仄暗い情念。そして何より目を引いたのは、濁流のごとく進む起伏の激しいストーリーの中で、キャラクターを恐怖に突き落とす怪異たちのリアリティに溢れた描写だ。
 空園葵の代表作「地に満ち、増えよと神の宣う」は古の時代、飢餓に苦しむ寒村で繰り広げられる土着信仰と奇祭をテーマにした怪異譚である。そして腹を痛めて産んだ我が子を生贄として神に捧げねばならなくなった母親である主人公によるグランギニョルでもあった。
 その筋立てに竜胆は己の半生を重ねずにはいられなかった。なぜなら作中の舞台はどう読んでみても、彼の生まれ育った故郷そのものでしかなかったから。きっとこれを書いた著者は「知る側の人間」だと、あの村で起きた惨劇も災禍もその全てを知っていると。ゆえにさして本読みでもない竜胆は、空園葵というペンネームを覚え続けていたのだ。
 彼は理由を語るつもりはない。けれど桔梗という人間に死んでほしくない理由わけがある。いつか、あの作品を書くことになったきっかけを稀代のホラー作家が自らの口で語り出すまでは。

「……おい、お前らもう着いたから降りろ。これから二時間ちょいフライトだから、機内ではしっかり休んでおけ。現着したら忙しくなるからな」

 空港内の駐車場に愛車を停め、三人はターミナルへと入る。黒山の人だかりというに相応しい、旅行客やビジネスマンでごった返す中をすいすい進む紫苑にくっついて歩く。予約した航空券を引き換えてから、待機ロビーや保安検査場をスルーし、彼らは離陸を待つ旅客機へと向かう。
 本来の手順をすっ飛ばせるのは社会的地位のある桔梗が、自治体から非公式とはいえ要請を受けて門真御殿に関する調査を引き受けているからだ。コトは一刻を争う事態なのだから少しは融通を効かせろ、と紫苑が脅しかけたせいでもあるが。
 三人がたまたま空いたエコノミー席に腰を下ろした瞬間、彼らの到着を待っていたかのように機体が微かに振動しながら滑走路を走り出し、分厚い雲に閉ざされた曇天へと舞い上がる。時折、遠くで雷鳴が雲間にひらめく様は、道行きの不吉さを暗示しているかのようだった。

「ダーッハッハッハ! なんだなんだ、お前また呪いもらってきたんか? 会う度毎回死にかけててウケる。よく無事だったなー! 普通なら即死してんぞ、悪運だけはマジで強いな」
「うるさいな。僕の献身のおかげで君ら術師が無駄な犠牲を払わずに済んでるってこと忘れんなよ」
「機嫌わっる。まあいいや、門真御殿かどまごてんは辺鄙な場所にあるから急がないと日没までに間に合わねえ。さっさと行くぞ」

 紫苑しおん竜胆りんどう桔梗ききょうの一行が空港に到着した頃には正午を過ぎていた。彼らの来訪を待っていたのか、ロビーで一人の男がコーヒーのテイクアウトカップ片手に佇んでいる。腰近くまである長いストレートヘアに、二メートル近い長身は遠くからでも目立つ。強面に刻まれた、額から顎先にかけて走る大きな刀傷が特徴的だった。
 初秋とはいえまだ暑さの残る本州の南端だというのにも関わらず、全身黒で統一したスーツを着込んでいる。見るからに暑苦しい格好だが、紫苑も同じく常時暗色のスーツ姿であるし今は桔梗も厚手のカーディガンで火傷痕を隠している状況だ。季節感のある服装をしているのは竜胆しかいない。
 三人を見つけるなりギャハハと大口を開け、腹を抱えて呵呵大笑する男は「杜若かきつばた」と名乗った。チラチラとこちらにぶつけられる外野の視線に、彼が鬱陶しそうに眉を顰めるのを見て、竜胆は慌てて場所を変えようと提案する。
 機内では着いたら食事でもしようか、などと話していたが、東京から遠く離れた九州でも雲行きが怪しいのを見て先に仕事を済ませることになった。現場まではレンタカーでの移動となるが、運転は紫苑担当だ。その間、部外者扱いの竜胆は気まずい気持ちのまま車内で過ごす羽目となった。
 空港周辺は付近に市街地もあるものの全体的に寂れており、だだっ広い田園風景が広がるのみだ。何物にも遮られない空は高く広く、見渡す限り平野が続く。生まれ育った北東北の寒村は山間にあり、現在住んでいる東京もビルだらけなので、こんなにも平らな土地を目にするのは初めてのことだ。
 見慣れない景色をぼんやり眺めていると自分と同じく後部座席に腰掛けていた杜若から、おい、と話しかけられる。酒に焼けた重低音からはカタギっぽくなさを感じさせた。霊媒師という職業がカタギかというと確かに怪しいのだが。

「お前、あの紫苑の弟子なんだってなぁ。はは、ウケる。あの人間嫌いな紫苑が人間のガキを手元に置くとか、一体どうやって取り入ったんだ?」
「弟子っていうか助手ですね、大したことはできないし、やらされてませんけど。むしろ俺の方がなんで雇われてるのか知りたいくらいで」
「なんで、って……そりゃあ『それ』のせいだろ。もしかして気づいてねえのか?」
「……まさか、紫苑さんは『あれ』が目的で、俺を」

 さっと顔を青ざめさせた竜胆が杜若を問い詰めようとしたその時。レンタカーが停車し、運転席の紫苑がくるりと何事もなかったような顔でこちらを向く。いつも通りなんの感情も読み取れない瞳には、怒りも何も浮かんでいない。後部座席での会話など、まるで耳にしていなかったかのような様子に、竜胆は余計に気まずくなった。

「……着いたぞ。一応、傘持ってった方がいいかもな。風が出てきた」

 厚い雲が重たく垂れ篭める鉛色の空は、今にも泣き出しそうほど薄暗い。湿気を帯びた風が前髪をそよがせる。肌寒さを覚える風の冷たさに、三人のように厚着してくるべきだったかもしれないと今更ながら竜胆は軽く後悔した。半袖から伸びる両腕を軽くさすっていると、紫苑が羽織っていたスーツのジャケットを脱ぎ、投げて寄越す。

「それ着てな。寒そうで見てられない」
「ありがとうございます……でも紫苑さんが寒いんじゃ」
「そん時はそこで無駄に着込んでる兄弟子から追い剥ぎするからいい。それより急ごう、グダグダしてるとこいつが死ぬ」

 出発前のハイテンションさが嘘のように、既にぐったりしている桔梗は空港を出てからほとんど口を開いていない。もはや喋るのも辛いのだろう。とはいえ当事者である以上、車中に放置する訳にもいかず紫苑がおぶって連れていくことになった。見た目は細身でウェイトも軽いのに、よくも成人男性を軽々と背負えるものだと竜胆は驚嘆する。
 民家が疎らに点在する田園地帯の真ん中にこんもりと木々の生い茂る小高い丘があり、問題の門真御殿はその頂上にあるという。標高はさほどでなく、登山家でなくても余裕で登りきれそうなものだが、私有地なので当然ながら歩道が整備されてなどいない。獣道というほかない道ならぬ道を四人は無言で歩く。
 ただでさえ曇りで視界が良好とはいえないのに、ろくに管理されておらず手付かずの森がすっかり空を隠しているため、日の差さない道は先頭を行く紫苑がスマートフォンのバックライトで照らさなければならないほどだ。のたうつような木の根が行く手を邪魔し、足元に気をつけていても転びそうになってしまう。

「ずいぶん歩きにくいですね……これ、再建したっていう子孫の人らも屋敷にほとんど来てないんでしょうか」
「かもねえ。ま、曰く付きの家だし住んでもないんだから放置してんでしょ。なら、なんのために再建したのか、って話だけど」
「おい竜胆つったか。お前、家ってなんで建てると思う?」
「なんでって……そりゃあそれ住むためでしょう。違うんですか?」
「じゃあ神社は? 寺は? なぜそこに『在る』と思う」
「なぜって聞かれても……あ、神様とか仏様がそこに『居る』から?」
「ほお、予想よりは勘がいいな。じゃあ本題だ。あの家には何がいる?」

 三白眼を歪め、不敵に笑う杜若がごつごつと骨ばった指先を向けた先に、巨大な邸宅が鎮座していた。お寺の山門によく似た造りの門が音もなくひとりでに開き、その奥に西洋建築と伝統的な日本家屋を足したようなお屋敷が垣間見える。かつては立派な庭園もあったのだろうが、経年により自然に呑まれ、今は雑木林のなり損ないと化していた。
 元の建物は明治時代に建てられたというから、当時の建築様式をそのまま再現したのだろう。再建間もない頃は瀟洒と呼ぶにふさわしい威容を誇っていただろうに、今となっては見る影もなく朽ち果てている。風に飛ばされたか穴あきの瓦屋根に無数の罅が入った壁、窓ガラスは全て割れて破片が散らばり、腐食の進んだ柱は今にも折れそうだ。
 怪異がどうのというより単純に崩落による命の危険がある、と判断し四人は折り畳み式のヘルメットを被っておそるおそる内部へ侵入を果たす。当然のごとく鍵はかかっていなかったし、それ以前に玄関扉は外れかかっていて役目を果たしていなかった。過去に門真御殿へ忍び込んだ者達が作成した見取り図がネット上にアップされていたので、それを頼りに一行は例の「開かずの間」を目指して進む。
 とはいえ、この手の案件は全ての部屋を順繰りに確認しないと本命に辿り着けないと相場が決まっている。いわばホラー映画のお約束みたいなものだ。全員が健康体なら手分けしてチェックしていく手もあったが、死にかけの半病人がいる状況では得策とはいえない。四人は大人しく入ってすぐの客間から順番に見ていくことにした。
 客間、あるいは応接間と呼ぶのだろう部屋は庭園に面しており、本来はガラス張りだったのだろうが現在は吹きっさらしの状態だった。革が剥がれて内部の綿や骨組みが丸見えのソファ、薄汚れたアンティーク調のテーブル、原型を留めていない絨毯など、ここだけ洋風のデザインとなっている。

「……思ってたより普通ってか、あんまり怖くないですね。もっとこう、ホラゲーの探索パートみたいな感じでバケモンがわらわら寄ってくるみたいな状況を想像してたんですけど」
「あー、まあそういうパターンもあるっちゃあるけど。ここは屋敷に巣食う怪異が一帯を支配してるから、雑魚が住み着ける環境じゃないんだよ。人間には感じ取れないレベルで薄い瘴気が常に漂ってる。雑鬼みたいな弱い化生じゃ即死するな」
「なんでそれを紫苑さんは感知してるっぽいんですかね……あんたなんなの……」
「さあ? なんでだろうねえ。それより後ろのこいつがくたばる前にサクサク行こう。巻きでいかないとまずいな」
「……しょうがねえな、桔梗貸せ。そいつ祓う」

 忌々しげに舌打ちした杜若が、紫苑の背中で荒い息をついている桔梗を無理やり引き剥がす。ずるりと抵抗もできず男の手に摘みあげられた青年は、血の気の引いた顔に脂汗を滴らせていた。長い前髪の隙間から覗く目は虚ろで、もはや意識がはっきりあるかどうかも疑わしい。
 埃っぽい板張りの床の上へと座り込み、ぼんやり虚空を見上げる桔梗に対し、杜若はスーツの内ポケットから何やら小瓶を取り出した。よく見ればそれはウイスキーなどを持ち歩くのに使うスキットルである。洋画では時々目にするが、まさか普通の人間が携帯しているところなど初めて見た。二人が見守る中、杜若はキャップを開けるとスキットルの中身をドバドバと桔梗めがけて振り注ぐ。

「え! ちょ、相手は怪我人ですよ! 何してるんですか!?」
「……呆れた。おい紫苑、テメェこいつに何も説明してやがらねえのか」
「あれ、教えてなかったっけ? ごめんごめん。あのねえ、杜若がやったのは超簡単な浄化だよ。呪いによる穢れが桔梗の心身を蝕んでるから、お酒で一時的に浄めたの。っていっても対象療法だから、時間経過でまたすぐ具合悪くなっちゃうんだけど」
「おい桔梗、気分はどうだ」
「う……、少しマシになった……いてて、まだちょっとふらつくなあ。ごめんね紫苑くん、おんぶさせちゃって」

 よたよたと足取りは覚束ないが、自分の足で立って歩く桔梗の顔色には少し赤みも戻ってきている。まさか酒をぶっかけられただけで改善するとは、と非難するのも忘れて目を瞠った。琥珀色の透明な雫が髪の上を滑り落ち、ぱたぱたと床に垂れている。その残滓だけでも室内に溜まっていた厭な気配が薄れるのだから、杜若の持つ浄化の力がどれほど強いかが分かる。

「桔梗さん、ほんとに大丈夫なんですか」
「あはは、さっきよりはね。だいぶラクにはなったけど時間がないのには変わりないし、次の部屋に行こうか」
「……はい。足元、気ィつけてください」

 ある程度回復したとはいえ決して本調子ではない桔梗の介添え役として彼の隣を歩き、客間を後にする。次に一行が訪れたのは夥しい数の子供部屋だった。子供部屋とすぐ分かったのは、どの居室にも男女どちらかの玩具や衣服が置きっぱなしにされていたからだ。それが玄関から真っ直ぐ伸びる廊下の左右にズラリと並んでいるのである。異常だった。
 当たり前だが各部屋とも使用された形跡はない。しかし後述する厨房や風呂場に厠、あるいは家主が使う私室や執務室と比べても劣化が穏やかだった。黴や埃の酷さは相変わらずだが、壁や床の腐食はさほどではなく、放置された鞠や積み木などの玩具もまだ使えそうなくらいだ。部屋数は十一。右に五、左に五、そして廊下の突き当たりに十一番目の部屋がある。

「……四十四人。十一で割れば一部屋につき四人、寝起きできる計算になる。押し入れにも布団は四組ずつあった。玩具の数、衣紋掛けにあった羽織や浴衣も全て四組。例外はない。玩具の種類も、衣服のデザインも揃えたように……」
「ずいぶん徹底してるな。几帳面な性格だったのか。四十四人に差が出ないよう、全員の待遇が平等になるよう、よっぽど注意してたんだろう」
「大事な大事な捧げ物だもんね。いびつであるより、粒が揃っていた方が見映えもいい。ワケあり品はいらない、全てが正規品である必要があった。だから分け隔てなく扱った……ってとこかな」
「……あの、あんたら一体、なんの話してんですか? よくわかんないんですけど」

 三人がそれぞれ口にする言葉がなんのことやら理解できず首を傾げる彼に対し、おやと紫苑が目を瞬かせた。まるで竜胆がなぜ理解できないのか、それこそ理解に苦しむと言いたげに。

「かつて君は『当事者』だったんだから分かるはずでしょ。これは──贄の住処だよ、正しくは檻と言うべきか。まあ鉄格子や鍵はないけどね」

 贄。
 生贄、人身御供、人柱、捧げ物、生き餌、神の嫁、言い方はなんだっていい。結果として死ぬことが求められるという点は何一つ変わらないのだから。そして竜胆はかつて「それ」だった。くだらない、前時代的な、悪しき風習と呼ぶほかない儀式とやらのせいで幼き彼は命を落としかけた。助かったのは神とやらが気まぐれに与えた偶然でしかない。
 水もなく、食事もなく、光の差さない暗い部屋に閉じ込められ、ただ死ぬ時を待つしかなかった。飢え、渇き、暗闇に何度となく気を違えそうになり、それでも辛くも生き延びた。あの地獄のような七日間を竜胆は決して忘れはしない。忘れることなどできない。それは、おぞましく苦しみと恐怖に満ち満ちた時間として精神と肉体に刻まれている。

「……まさか、この家は、ここに囚われてた子供達は、じゃあ火事で死んだ四十四人って」
「やっと気づいたのか、つくづく鈍いやつだな。そうだよ、死んだのは大人じゃない──この家で生活してたガキどもだ。不自然に感じなかったか? どうして火災で全焼したというのに、子孫が生き残ったとされているのか。死んでねえからだよ、門真家の人間は誰一人として」
「でも……でも、当主含む四十四人が、死んだって」
「当主が『大人』だってどこに書いてあった?」
「えっ。それなら、もしかして死んだのは」
「そう。死んだ子供らの中には幼くして当主の座を継いだ者もいた、ってことさ」

 杜若は説明しながら折り畳まれたコピー用紙を広げて三人に見せた。それはある古い名簿をカメラで撮影しモノクロ印刷したものだ。名簿のタイトルは旧字体が使われているので簡単に要約すれば「門真家使用人一覧」となっている。
 コピー用紙は二枚綴りになっており、ホチキスで留められたもう一枚は犠牲者一覧となっていた。こちらは一枚目の名簿にプラスして、更に数人の名前とおおよその享年が記載されている。おおよそ、とつくのは犠牲者の年齢が幼すぎるのと遺体の損壊が激しく、断定できなかったからなのだろう。

「全員、最長でも七歳を迎える前に死んでる……ひでえ、生まれたばかりの赤子まで……そうか、七歳を過ぎたらダメなんだ。贄の資格を失うから」
「そういうこった。ガキじゃなきゃダメだ、大人じゃ神さんは喜ばねえ。と当時の馬鹿どもは考えたんだろうな。まあ間違っちゃいねえ。なんせ『座敷童子』ってなァ、ガキの成れの果ての怪異だかんな」
「座敷童子……って、あの? 家に幸運をもたらすとかっていう」
「若いのによく知ってんねえ。まあ最近のアニメとか漫画にもちょくちょく登場するからかな、じゃあこれは知ってる? なんで座敷童子という化け物が生まれたのか」
「さすがにそこまでは……でも子供の姿のおばけって多いし……ていうか、化け物じゃなくて福の神なんじゃないんですか?」

 竜胆の知る座敷童子といえば、赤いちゃんちゃんこに着物姿の、童女のなりをした神様である。妖怪モノのアニメや漫画、ゲームでもおなじみの存在だ。岩手には座敷童子が出る旅館もあるという。商家などにご利益があり、座敷童子の出た家は繁栄するとかなんとかという解説を見た覚えがあった。

「門真家も商家だろう? なんせ炭鉱を経営してたんだから。当時の日本は遅れてやってきた産業革命真っ只中だ、さぞ儲かったろうなァ……それも石炭が採掘できるまでの間だが」
「でも次第に石炭は枯れ、鉱山は閉じざるを得なくなった。さて、ここで問題だ。見てわかる通り、これほど立派な家を建てるほど栄華を極めた門真家がそんな簡単に──炭鉱経営なんて儲かる仕事を捨てて、新しい事業をスタートできるか?」
「それは……やっぱり無理だったんじゃないですか。養蚕とか他にも仕事はあっただろうけど」
「ぴんぽーん、大正解! 竜胆くんの言う通り、門真家は忘れらんなかったのさ。あの頃は珍しい自動車が買えて、牛鍋が毎日食えて、社交界では連日連夜ドレス着て踊って、なんつう享楽の日々が。額に汗して働く日々に逆戻りなんて絶対に嫌だったんだよ彼らは」

 今にも笑い出したくてたまらない、と言うかのように口角を吊り上げ、紫苑は皮肉と嘲りを込めて言い放つ。いや笑っていた。ケタケタと、けらけらと、悪意をたっぷり込めた哄笑を高らかに響かせている。いつの間にか、母屋にある全ての部屋を見回り終えていたことを今更になってようやく竜胆は思い出していた。

「……紫苑、さん?」
「本ッ当にさあ、馬鹿だよねえ! できると思ったの、そんな稚拙な方法で! 福の神が! 人工的に神様を創る、なんつう所業をマジで考えやがったんだよこの愚か者達は! マヌケだとは思わない? だって無理に決まってんだろそんなの、ましてや生きた人間を間引|いてころしてなんてさ!」
「本題に戻ろっか。座敷童子の生まれた理由って知ってる? 東北は吹き降ろすやませによって冷害が酷くってねえ、しかも当時は今ほど農業技術も発達してない時代だ。飢饉によって大勢の人間が死んだよ。何十何百って数じゃきかない、もっとたくさん。もっと多くの人間が。その多くは子供や年寄だった。働けない、あるいは働けなくなった人間を間引いたのさ。自ら腹を痛めて産んだのに、息の根を止めなきゃいけなかった親の気持ちってのはどんなだろうねえ。僕にはちっとも理解できないけど──座敷童子は、そんな間引かれた子供らの成れの果て、なんだよ」
「もうわかったろ、座敷童子福の神を創ろうとしたんだよ。子供を間引いて、人為的に──炭鉱が枯渇し経営に行き詰まり、にっちもさっちもいかなくなって。座敷童子とかいう神様がうちに来てくれれば、また石炭が採れるようになる、とか考えたんだろうよ。……なあ本当に火事で死んだ四十四人だけだと思うか? 犠牲者の総数が。そんな訳ねえだろ。もっと死んでんだよ、この家じゃあな!」

 想像する。幻視してみる。「儀式」のための部屋に小さな小さな子供達の亡骸がうずたかく積もり、室内が子供達の血で真っ赤に汚れるその様子を。大人どもはこれも門真の繁栄のためだと、恨むなら我らではなく天命を恨めと言い聞かせながら、血脂に染まる刃を振り下ろす。悲鳴、絶叫、怒号──それらが折り重なる惨劇の夜を。
 あの部屋は確かに檻だった。鍵もかかっていない、鉄格子が嵌め込まれている訳でもない、けれど子供らはどこへも行けぬよう常に監視されていた。相互に監視できるよう、しかし相談などさせぬよう廊下を挟んで向かい合わせに。わざわざ大人達の居住区と分けなかったのも、環境が決して劣悪ではなかったのも、全ては逃がさぬために。

「……来たな、本命が」

 この上なく楽しげに笑みを湛え、紫苑が指し示すその先に。廊下の突き当たり、十一番目の子供部屋から「それ」はのそりと這い出てくる。べちゃ、べちゃと半透明に濁った羊水を垂らし、へその緒を引きずりながら。手のひらが床を這う度、赤い血が廊下にドス黒い痕を残す。おぎゃあ、と幾重にも襲ねた鳴き声が、いや泣き声がけたたましく鳴り響き、邸内全体を揺らした。

「なんだ……なんだよあれ!」
「決まってんだろ、座敷童子だよ。ただし福の神ではなく──俺達おとなを憎み、焼き殺すただの怪物だけどな!」

 おぎゃあ、おぎゃあ、というおぞましい咆哮が鼓膜を引っかく。天井を突き破らんばかりの巨躯を誇る、体液にまみれた赤子が凄まじい速さで突進してくる。慌てて四人は左右の部屋へ逃げて避けるが、巨大な身体に不似合いな俊敏さで赤子は急制動をかけ、一番動きの遅い桔梗へ狙いを定めた。
 顔面いっぱいに焦燥を浮かべ、彼は慌てて逃げようとするが、血に濡れた手のひらがむんずと青年を掴んで持ち上げる。ぎゅう、と加減を知らない赤子の力が桔梗を今にも握り潰ぶそうとする。たまらず彼が痛みのあまり金切り声を上げた途端、気に障ったのか赤子が火のついたように泣き始めた。

「どうする!? このままじゃ死ぬぞあいつ!」
「クソッ、こうデケェと生半可な攻撃じゃ通らねえし、どうにか気を逸らして桔梗を手放すよう仕向けるしか……」
「ガキのあやし方なんか知るもんか! 何年独り身だと思ってんの!?」
「そりゃこっちの台詞だバカ! 俺だって恋人なんか居たことねえよ!」
「あんたらなんの言い争いしてんの!? この非常時に! いい加減にしろ、いい大人だろうが!」

 ぎゃあああ、と赤ん坊の泣き声と桔梗の絶叫と二人の口喧嘩が廊下全体に響き渡り、凄まじい音量が竜胆を襲った。攻撃はそれだけに終わらない。赤子が泣き出したのと同時、屋敷のあちこちに火がつき始めたのだ。これが本物の炎か、それとも怪異による異能かは不明だが、どちらにせよ火に巻かれれば助からないのは確実だ。
 真っ赤な炎は建物だけに留まらない。赤子本体にも着火し、脂肪と肉の焼ける匂いが辺りに充満する。あっという間に水脹れ、ケロイドと化し、黒く炭化していく皮膚に合わせて赤子の咆哮もより凄まじさを増していく。これが単なる自滅行為ではなく、この家で焼死した子供らの死に様を「再現」しているのは明白だった。
 燃え盛る炎に取り囲まれる赤子の手の中で、圧死に加えて焼死の可能性まで出てきた桔梗がじたばた暴れているが、次第に手足の動きが弱まっていく。もう時間がない、一秒だって無駄にできない。ここで動かなければ、桔梗は死ぬ。
 火の勢いが強すぎて近づけない大人達を尻目に、竜胆は意を決して一歩、また一歩と赤子の元へ向かう。

「……っ、竜胆くん!? ダメだ、危ない、戻ってこい! 君には無理……ッ」
「おいガキ! そっちに行くな、死にてえのか!」
「うるさい。ふざけんなよ、死にたくねえに決まってるだろ。でも──死ぬんだよ! このままじゃ、俺も、あんたらも、あの人も!」

 真紅を通り越して青く輝く炎に舐められ、ごうごうと床も屋根も壁も黒ずみ焼け落ちていく中で、ぎゃあぎゃあと赤子は目尻から大粒の涙を零して短い両手を振り乱していた。あつい、いたい、くるしい、しにたくない、そんな殺されていた子供達の今際の叫びが聞こえてくるようだった。
 ついに桔梗を握り続けることも難しくなったのか、火に溶けて癒着した手のひらから青年の身体がするりと抜け落ちる。慌ててキャッチするが、かろうじて服に引火して燃えることはなかったものの、熱気によるダメージが深刻なのか意識がない。何度か横っ面に張り手を食らわせると、痛みによってか彼はゆっくりと目を開けた。

「桔梗さん! 桔梗さんッ!? おい、聞こえるか! 死ぬんじゃねえ、まだ助かる、だから目え覚ませ!」
「ゔ……うっ、あ、あれ……りんどー、くん……?」
「よかった……息はある、誰か! 誰でもいい、桔梗さん連れてここから脱出しないと!」
「ハア!? 竜胆くんはどうするつもり!?」
「俺は……この子を泣き止ませないと」
「……やれやれ。しょうがねえな、おい紫苑、お前がついててやれ。俺はこいつと先に外で待ってる。だから必ず竜胆連れて戻ってこい。いいか、絶対だぞ」

 脱力した桔梗を荷物でも持ち歩くかのようにヒョイと肩に担ぎ、離脱する杜若は行きがけに何かを投げて寄越した。思わずキャッチした紫苑は、受け取ったのがいつも自分が愛用している煙草なのを見てとり、にやりと笑う。
 幸い火には事欠かないので、封を開けて中から一本取り出しと火をつけ、ふうっと煙を肺に送る。青白い白炎が建物全体を燃やし尽くそうとする中、白檀の濃い香りがふわりと辺りに広がった。

「……ずいぶん余裕っすね。まあ紫苑さんらしいか」
「まーね。この程度じゃ俺は殺せないし。それより竜胆くんは平気? だいぶ煙とか吸っちゃったんじゃない?」
「それが不思議なことに、なんか分からんけど平気みたいで。座敷童子のご利益かな」
「ハッ、言うねえ。それでこそウチの従業員だ」

 まるで恐ろしいものを本能的に避けているかのように、炎は二人に近寄らない。着衣も髪も全て、火が炙ることはない。ごうごうと建物が軋み、焼き尽くされていく音が不気味に轟く中、竜胆はすうっと深呼吸する。火災時には決してやってはいけないことのはずだが、ほとんど空気中の酸素が残ってないにも関わらず青年が酸欠を起こすことはない。
 息を吸って、吐いて、再び吸い込み、深呼吸を三度繰り返し──青年は静かに子守唄を口ずさみ始める。なんてことのない寝かしつけによく使われる、子守唄としてはありふれた。なぜなら竜胆には、母親に寝かしつけてもらった記憶など、もうどこにも残っていないから。知らないものは歌えない、けれど聞きかじったものを思い出しながら懸命に歌い続ける。
 ねんねんころりよおころりよ、から始まる微かな歌声が轟音に混じる。あやふやな歌詞を脳内で補完し、うろ覚えのメロディーを必死に辿りながらも、彼は喉を嗄らして歌う。喘鳴をこぼし、口の端から血が垂れても。
 やがて泣き声が止まった。同時に炎も。

「ごほっ、げほ……お、終わっ……た……?」
「お疲れ様。よくやった。さすが俺が見込んだだけのことはあるね、竜胆くん」
「あれ、紫苑さん……なんで、逃げなかったの」
「そりゃ君を置いてトンズラこく訳ないでしょ。ほら行くよ、あと一つだけ行かなきゃいけないところが、まだ残ってる」


 ◆◆◆


 仏間──「開かずの間」は地下にあった。なぜならこの屋敷で起きた惨劇の舞台こそが地下室であり、再建された際に仏間として改築されたからだ。記録によれば、生き残った子孫のうちの一人が地下室を仏間とすることを提案したという。
 異形の赤子が起こした地上階の火事による被害を免れたこの部屋だけは静謐に包まれている。スマートフォンのバックライトで照らすと、とても四十四ではきかない数の大量の位牌が、いくつもの仏壇に飾られているのが視認できた。位牌に刻まれているのは戒名ではなく、おそらく死んだ子供らの本名と思しき名前だった。
 窓のない、上階へ繋がる階段以外に出入口もない、仏間とするには不似合いな一室だ。なぜ再建に関わった者はあえてこの部屋を仏間にするよう言ったのか。ましてや、ここは「儀式」の中心だったとされているにも関わらず。

「腹を痛めて産んだ我が子がむざむざ殺されるのを許す母親なんてさ、いると思う?」
「……思いません。俺が仮に母親なら絶対に抵抗するだろうし、たとえそれが叶わなくても何かしらの形で復讐を企むと思う」
「君と同じだよ。『彼女』は決して許さなかった、我が子を取り上げられ、座敷童子の材料にされることを。そのために呪詛を執り行った。門真の者全てに災いあれと、この部屋に立ち入った者全てに禍あれと──だから桔梗は呪われた」

 二本目の煙草に火をつけ、紫苑は淡々と告げる。吐き出される紫煙が一瞬、暗い部屋に揺らめいて消えた。四方にそれぞれ仏壇は設置されているが、そのどれも位牌を乗せるのに精一杯でお供え物を置くスペースはない。それだけ多くの子供が儀式に「使われた」ことを示している。
 子供は無から生まれてくるのではない。彼ら彼女らには必ず親がいる。門真家に生を受けた子も亡くなっているが、ほとんどは使用人や屋敷周辺に住む者達の子供が犠牲者の多くを占めていた。なんの罪もない幼い子が無為にその命を奪われたのだ。親が門真家で働きていたというだけで、あるいは門真家の近くに暮らしていたというだけで。
 戒名すら与えられることもなく、縁起が悪いのにも関わらず一つの仏間に位牌も仏壇もまとめて寄せ集められ、まともに弔われることもなかった命の集合体があの赤子だとするなら。そんな子供達を守れなかった親の無念もまた、この部屋に吹き溜まっている。

「……桔梗はホラー作家だ。この地に起きた悲劇を作品という形で後世に伝え、書き残すことができる。だから見逃された、ただしリミットとして呪詛を与える形で。それはなぜか。桔梗の周りには、俺や杜若のような存在がいるからだ」
「術師を必要としていた、ってことですか」
「誰だってさ、こんなジメジメした暗い部屋で何年も何十年も過ごしたいって思う? 嫌でしょ? 解放されたいんだよ、無念も恨みも全ては魂を摩耗させ、やがて記憶と共に朽ち絶える。そんなのはさ、迎える必要のないエンディングじゃないか?」

 煙草の煙をくゆらせながら、ある仏壇の前に紫苑は正座する。線香の代わりに咥えていた煙草を供え、お鈴を鳴らし、手を合わせる──それはごく普通の「挨拶」にほかならない。一つ目が終わると次に、更に三つ目、と全ての仏壇に順繰りに挨拶を済ませたその時だった。
 いつの間にか仏間の隅で、一人の女がこちらを見つめている。高島田に結い上げた髪に白絹の婚礼装束、そして大きく前にせり出した腹が着物越しでも目立ってみえた。白粉をはたいた顔は美しく、気品ある花嫁といえる姿はとても人外のばけものには見えない。

「こんにちは。あなたは晴子はるこさんですね、この家を再建すること、そして地下室を仏間とすることを決めた門真最後の当主は」
『……ええ、そう、わたしがきめたの。わたしのこども、だいじなこども……ころされちゃったのだもの、くるしい、つらい、かなしい……にくい。にくかった。みんなも、わたしも』
「だから、あなたは呪った。家に火をつけ、何もかも燃やした。村から集められた子供も、あなたが産んだのではない門真の子供も全て。薮入りで他の使用人が里帰りし、他の家族が出払った隙を見計らって」
『にくかった。にくかったの。あまたのこどもがころされてくのをみてみぬふりをして、あのこがしぬのをうけいれたわたしも。でも、しねなかった。わたしはいきのこってしまった。だから、せめてのろいをのこすことにした』

 殺された怨念と恨みが、行くべきところに行けず留まるしかなかった子供の魂を異形の赤子に変え。そして憎悪を募らせた母の魂が呪いを残し、ばらまき続けている。母の呪いと子の呪いが混ざり合い、絡まりあって生まれたのが幽霊屋敷の「門真御殿」だ。
 なぜ屋敷に火をつけたとき、邸内に囚われていた子供達をも巻き込んだのかを女は黙して語らない。仮に自死を図るだけなら、罪なき子供らまで死に至らしめる必要はなかったはずだ。仮に理不尽な犠牲を強いられる子供を悼んでの行いだったとしても、殺した事実は覆らない。
 怨嗟の果てに家も子も灰燼に帰した挙句、死ねずに生き残った女は自ら焼き放った家を建て直し、呪いを残して今度こそ死んだ。病に倒れ、天命と共に。

「あんたのやったことは許されない。けれど、あんたはもう死者だ。死した者に罪は問えない。それができるのは、あの世の裁定者だけだからな。よって──お前は地獄に送る」
『……すきにするといい。だってもう、わたしはじゅうぶんのろって、のろって、たくさんのろったのだから』

 生前の美しさそのままに、穏やかに笑う彼女は一見すると恐ろしい呪詛を仕掛けた怨霊には見えない。それでも確かにこの女は元凶なのだ。この土地に穢れをもたらし、長きに渡りこの家を訪ねる者全員に呪いを振りまき続けてきた。
 般若のごとき女の前で、紫苑は平素と変わらぬ声で祭文を唱える。祝詞のような、真言のような、複雑な響きを持つ音色が室内に反響する。綺麗だ、と素直に感じられるのに、どこか恐ろしくも思えるのは紫苑の喉が奏でるその呪歌が魂を地の底へと突き落とす意味を持つからか。
 謡い終わりと同時に、女のシルエットはだんだんと空気に溶けて消えていく。痕跡はなく、あとには何も残らない。つい、はじめからそこには誰もいなかったのだと錯覚してしまいそうになる。屋敷に入ってからずっと感じ続けていた、厭な気配がなくなったのに竜胆はやっと気づいた。

「……終わったんでしょうか」
「とりあえずはね。元凶は消えた。消えたっていうか文字通り地獄に叩き落としたんだけど。あとは地獄で罰を受けるだけだよ、俺らの仕事はもう終わり」
「えっでも確か上は大火事……消防とか呼ばないとまずくないですか?」
「さっきまではね。元凶が消えたから赤子も呪いから解放されて輪廻の輪に戻るし、火事は一種の幻覚みたいなものっていうか……呪いが発動してる間、異空間に俺達が取り込まれてただけだから、もう大丈夫」

 紫苑の言葉通り、階段を上がると先程と同じ廃屋があった。火災の形跡などどこにもなく、ただ荒れ放題に荒れ果て、今にも倒れそうなほど朽ちた建物が静かに佇んでいる。建物の外に出た記憶はないが、気がつくと二人とも玄関扉の前で立ち尽くしていた。
 とうとう堪えきれなくなったように、鈍色の曇天からポツポツと雨粒が降り出した。雨音はあっという間に激しくなり、天泣の雫が強くあばら家を打ちつける。燃えてなどいないのに、まるで炎をかき消そうとするかのような、いやに強い降り方だった。

「……帰ろっか。あーあ疲れたー! 帰りがけになんか美味いもん食べていこ、甘いもんとしょっぱいもん、どっちが好き?」
「ええと別にどっちでも……そういえば今日はどこに泊まるんですか?」
「……あ。やべっ、ホテル予約してないや、しくった。まあ杜若か桔梗がなんとかしてくれてると信じるしかないね! いやー普段は気ままに一人で車中泊だもんなあ」
「そんなことだろうと思った。ビジホの部屋とってて正解でしたよ……」
「お! さすが助手、頼りになるぅ! そうと決まれば荷物置いてさっそくメシ食いに行くとするか! 俺長崎ちゃんぽん食べたーい!」

 喜び勇んでたったか走って下山する紫苑をよくもまあ転ばないものだ、と感心しつつ後に続き、一度だけ竜胆は背後を振り返る。降りしきる雨にかすむ幽霊屋敷は、二度目の死を待っていた。

 紫苑しおんが依頼人と打ち合わせをすることになったのは珍しく自分の店ではなく、都内某所のカフェチェーン店だった。コーヒーの安さだけが取り柄のような店では勉強中の大学生や黙々と静かに本を読み耽るご老人、旦那の愚痴で盛り上がる暇そうな主婦達と多種多様な人間模様が見受けられる。
 なんてことのない平日の昼下がり。ランチタイムはとっくに終わっているが、賑やかな店内には気だるげなイージーリスニングが流れ、大きな採光窓から差し込む日差しが眠気を誘う。特に美味くも不味くもないブレンドコーヒーを啜りつつ、とりあえず依頼人に語りたいだけ語らせてやることにした。
 相当切羽詰まっているのか、そもそも話すのが下手くそなのか今ひとつ要領を得ないが──曰く。依頼者が働いていた老犬や捨て犬を預かる保護施設では、犬への虐待や暴力が常態化していたという。賃金が安い上に福利厚生もしょぼく、なのに労働内容は過酷でサービス残業やら上長からのハラスメントが日常的にあるとくれば、更に弱いものへストレスの矛先が向くのは自明の理であろう。
 結局、近隣住民からの通報でコトは明るみになり施設は閉鎖、まだ息のあった保護犬達は別なボランティア団体等へと移送された。大抵、動物愛護団体というのは無償のボランティアである。この施設では営利を目的に運営されていたが、実態はいわゆる闇ビジネスに近いものだった。ほとんどの職員は何も知らず雇われただけだったが、とはいえ動愛法に違反していたのは確かである。
 依頼者自身は愛情を持って犬を世話していたというが、たかが一人二人がきちんと面倒を見たところで他の職員が虐待などしていれば無意味である。やはりというか、受け入れ先の施設でも犬達が人間不信に陥って餌や水を拒否しそのまま餓死するケースもあるようだ、と涙ながらに語った。
 それはさておき、保護施設とは名ばかりの引き取り屋そのものはとっくに解体されたわけだが、話はそう簡単に終わらない。最高で百を軽く超える数の犬が飼育されていたそうだが、劣悪な環境に耐えきれず亡くなる犬もまた相当数あった。酷い死に方をした生き物が「祟る」ケースは決して少なくない。今回もそれである。つまり例の団体に関わった職員や関係者は見事に祟られたのだ。
 今回、依頼者本人が直接何かをした訳ではなかったが、そんなの相手にとっては「どうでもいい」のだ。彼らは相手を選んだりしない。自分たちを苦しめた「人間」という括りで判断し、祟る。細かい条件付けをしてはいない。だから積極的に虐待に加担しないまでも、止めることはできなかった依頼人も連座で被害に遭っているのだ。
 なお施設関係者以外が今のところ無傷なのは、怪異と化した死んだ犬達が他の人間を認識してない、または興味関心の埒外だからだろう。そのため近隣住民への損害は出ていないようだ。これが周囲にも影響が波及するケースなら即刻他の同業者を集めて対策チームを結成しなければならない。
 呪詛も怖いが祟りは更に恐ろしい。長引くからだ。それこそ零落した神崩れによる祟りなど、数千年単位の事案になることもある。生きているうちの解決など望みようもない場合に比べれば今回はまだ楽な方だ。さてその具体的な祟りの内容だが──、

「……狂犬病様の症状ですか。日本は狂犬病清浄国ですから、そのような影響が出ているならニュースになっていてもおかしくはなさそうですが」
「正確には狂犬病ではなく、それに近い『現象』であることのウラが取れているからです。具体的に言うと狂犬病をもたらすウイルスは検出されていません。罹患した全員が、です。私自身はまだ初期症状しか出ていませんが……発症が早かった人の中にはもう亡くなっている方もいます」

 初期症状、とは言うが依頼人は購入した飲み物を未だ手をつけず、テーブルに放置している。恐水症だ、咽頭に痙攣と激痛が走るため水を飲めないのだ。秋口とはいえまだ残暑の厳しい時期であるというのに長袖をまとい、冷房が直接当たる席を避けたのも、風にすら痛みを覚えているからだろう。狂犬病患者は光にも反応するため、待ち合わせた時も店内の照明が気に障るのか、少し辛そうにしていた。よく見るとノイズキャンセリングイヤホンを耳につけている。
 目下の懸念はタイムリミットがいつ頃かだ。通常、罹患から約二日から七日ほどで昏睡状態に陥り、やがて死に至る。だが依頼人は症状が出て今日で一週間以上はとうに経っていると答えた。あくまで統計とはいえ、症状の進行速度を加味するとインターバルが長すぎる。実際の狂犬病の情報や知識はアテにならないと彼は内心で判断する。もしかしたら発症後ではなく潜伏期間の方を参考にすべきかもしれないが。
 料金や支払い時期について話し合いを終え、このまま帰宅するという依頼人と別れて、ひとまず問題となった施設跡までのルートを確認する。できれば他の罹患者にも話を聞きたいが、先に現場を見ておきたい。退店し最寄り駅の方向へと紫苑が歩きだそうとした、その時だった。

「あれっ、紫苑さんじゃないですか! お久しぶりです。ふじです。こんなところでお見かけするとは思いませんでした。珍しいですね、紫苑さんが一人でいらっしゃるのって」
「……えーと、あー……菖蒲あやめの彼氏くんかあ。こちらこそ久しぶり。前にあいつと付き合ってる件で店に来て以来だったかな」
「もしかして俺のこと忘れてました? ひっどいなあ。まあいいです、それよりどこへ行くんですか? よかったらお手伝いしますよ」
「藤くん俺が依頼人と会ってるところ、実は覗いてたでしょ、全くもう。それより手伝ってくれるってんならちょうどいいや、今から現場を下見しに行くんだけどついてく? 多分おぞましいものを目にする羽目になると思うけど」

 紫苑の隣に並び、あれこれと聞いてもいない雑談を振ってくる彼は、いずれ義弟となるかもしれない人間だった。紫苑より頭一つ分ほど身長が高く、目鼻立ちのはっきりした整った美貌に、テーラードジャケットと細身のデニムというシンプルな装いがよく似合っている。今日は店番を任せている助手の竜胆りんどうと外見の良さではいい勝負だろうか。
 ニコニコといつも人当たりのいい笑顔を絶やさない好青年、藤に受けた依頼の詳細を説明すると案の定、嫌そうに眉根を寄せる。彼は大学近くに住まいを借りて一人暮らししているそうだが、実家では犬を飼っていた。大の動物好きで菖蒲ともよくデートで猫カフェや動物園に行くという彼からすると、あまり聞いていて気分のいい話ではないだろう。
 やはり下見に付き合わせるのはまずいか、と申し出を改めて断ろうとした紫苑だが、ガシリと両肩を捕まれ逃げられなくされた。力加減をコントロールできていないのか、握られた肩の骨がみしりと軋む。紙のように白い血の気の引いた顔には引き攣った笑みが浮かんでいて、それが本気で怒った時の藤の表情である、と遅れて彼は気づいた。

「……絶対に俺を現場に連れてってくれますよね。この期に及んで俺をハブるとか、そんなのありえないですよね、ねえ紫苑さん」
「うぐ、わかったわかった、わかったから手ぇ離してくんない? さすがに痛いってば」
「わ! すみません、つい……それで現場はどこにあるんですか?」
「一時間くらい電車乗り継いでいったとこにある山ん中だけど……ここからだと行くのに時間かかるよ、本当に大丈夫?」
「ええ。今日は特に何も予定はないので。ちょうど講義が終わって家に帰るとこだったんですよ」

 それじゃ早速行きましょうか、と強引にぐいぐい腕を引っ張られる形で仕方なく紫苑はオマケ一人を連れて向かうこととなった。名目上助手として雇っている竜胆ならともかく、部外者を突発的に連れ歩くことは滅多にない。困惑しつつも始めに誘ったのは彼の方である。やれやれ、と肩を竦めつつ紫苑は藤と共に駅の方へ足を向けた。
 いくつか電車を乗り継ぐこと数時間。県境付近の山間部に作られた、保護犬施設というには些か手狭に思えるこぢんまりしたコンクリート製の建物に着いた頃には、もう日没に近い時間帯だった。秋の日は釣瓶落としというが、彼岸を過ぎるとあっという間に日が落ちるまでが短くなる。
 まだ青さを残した木々と見事に紅葉する樹木の混じる深い木立の中、ドッグランらしき柵に囲まれた広場を併設した保護犬施設は静かに佇んでいる。とっくに摘発が済んだ後なので規制線が貼られている訳ではないが、仕事でなければとても入りたいとは思えないような、異様な雰囲気をまとっていた。
 外壁は経年により褪色しており、汚れで曇った窓ガラスからはうっすらと内部が透けて見え、錆びついたケージや空っぽの餌皿などが放置されているのが確認できた。糞尿の跡がこびりついた床にうっすらと埃が積もり、生ゴミの類も散乱しているのを見るに、現場検証や実況見分しにきたであろう警察も清掃などはしていかなかったのだろう。

「えーと……外で待ってる? キツいでしょ」
「は? 何言ってんですか、入るに決まってるでしょう。入口ってどこなんですかね」
「あ、そう……いや大丈夫ならそれでいいんだけどさ。エントランスは……あ、あれかな」

 長方形の建物のちょうど真ん中にエントランスを見つけられたのだが、やはり施錠されていた。分厚く重たい鉄扉は中にいる動物を逃がさないためだろう。紫苑が侵入方法を考えている横で、藤は手にしていた通学バッグから小物入れを取り出した。針金の代用にするつもりなのか、安全クリップをまっすぐ引き伸ばすと鍵穴に差し込み、あっさり解錠してみせる。
 イイ笑顔で開きましたよ、と言いつつ道具を元通りしまう彼に紫苑は引き攣り笑いで感謝を述べ、いよいよ突入する。が彼らは途端に後悔した。悪臭が酷い。鼻が曲がりそうだ。事件後それなりの月日が経っていてもこれなのだから、発覚前はもっと酷かっただろう。人より嗅覚に優れる犬達は更に辛かったに違いない。
 建物内部には端から端まで続く一本の長い廊下、その両端に保護犬を管理するための各部屋と職員が使うオフィス等が並ぶ。各部屋はドアで区切られ、これまた四足歩行の犬では自力で出入りできないようになっている。室内にはケージが天井付近まで積み重なり、隙間がほとんどない。そのケージもほとんどが移動用の小さいもので、あれでは中にいる間は身動きなど取れないだろう。
 悲惨という言葉ですら生ぬるく感じるほど、えげつない光景が広がっている。そんな部屋がいくつもあるのだ。一つだけではなく、いくつも、いくつも。それは多くの、たくさんの罪なき命が無意味に打ち捨てられたことを意味している。
 対して職員用オフィスは綺麗なものだった。整然と並ぶデスクは大半の書類が持ち去られたか何も置かれておらず、埃で薄汚れてはいるが壁紙も床も爪などで傷つけられた様子はない。つまりこの部屋は無事だったのだ。犬が入ってこられないよう対策されていた。ここにいた者はみんな理解していたはずだ、自分達は「恨まれている」と。

「……どうして、どうしてこんな、ひどいことができるんでしょうか」
「分からない。分からない方がいいんじゃないかな。依頼人が死の淵に立たされており、代価をもらっている以上、俺は助けなくちゃいけない。ここに囚われている子達だけじゃなく──彼ら彼女らも」
「紫苑さんは大人ですね……俺は今にも腸が煮えくり返りそうなのに」
「俺も別に良い気はしないよ、当たり前だけど。でもこんな仕事してると慣れてくるんだよね、人の悪意に鈍感になる。怒りや悲しみを覚えない訳じゃない、だけど冷静でいられなければ次に死ぬのは俺だ」
「過去にも……こういうこと、あったんですか。酷い、本当に酷い、今回みたいな事件に関わるような経験って」
「まあね。口外できないことが大半だけど、それなりに。一丁前に義憤めいたものを抱いて、そのせいで死にかけたことも何度か。だからさ、いちいち悲しくなったり怒ったりってのはしないことにした。俺は感情に振り回されて死にたくないし、君を危険に晒すつもりもない」

 まあ俺は死ねないんだけどね、と冗談っぽく付け足して紫苑は薄く笑う。どこか人間味に欠ける演技くさい笑顔は、藤が初めて目にするものだった。以前、彼が単独で紫苑の店を訪れ菖蒲と交際している件について説明した際は、始終大人っぽく穏やかな青年として目に映っていたからだ。

「それにしても、施設全体を見て回ってみたけど特に異常というか何か起きる気配はないねえ」
「でしょうね。ここに居る子たちは、生き物を慈しむものには手を出さない。つまり犬猫の『まともな』飼い主です」
「やっぱりそうか、あまりに敵意が無さすぎるから不思議だったんだよね。不躾に自分のテリトリーを侵したものに怪異は基本、容赦しない。でもこの子たちが俺らに牙を向ける様子はなかった」
「殺す気がない、というより殺す理由や必要性を俺たちに対して感じていない、ということでしょうか」

 人類最初の友と呼ばれるだけあり、犬は人間に非常に友好的で、かつ従順だ。そのように品種改良したからといえばその通りだが。たとえば災害発生後に飼い主が一緒に避難できなかったため、他の人間がのちほど首輪を外してやっても、どこへも逃げずにそのまま留まり続けたという話もある。
 これは番犬として飼われていたのも理由の一つにあるのだろうが、ともかく犬は人間を友として認め、見返りを求めない献身を向ける生き物だ。例外はあるにせよ、家畜化された動物の中でも人間への信頼度が高いことは明らかである。そして頭がいい。
 だからこそ介助犬や盲導犬という職種に就く犬がいるのだ。彼ら彼女らは話せずともコミュニケーションを取る。ちゃんと思いがあり、心があって、人へ感情を伝えてくる。
 それは、たとえ生きていなくても──もう化け物と成り果ててしまったとしても変わらない。同じだ。くぅん、と小さな鳴き声が聞こえた。いつの間にか藤の足元にじゃれついてくる気配があった。
 犬種は色々と混ざってしまって分からないが、なんとなく和犬に近い姿をしている。赤、茶色、白、黒などまだらに混ざる体毛はふわふわとした艶やかな毛並みで、大きな丸っこい瞳が無邪気に二人を見上げてくる。痩せすぎても太りすぎてもいない体躯は、きっとこの子の描く理想の自分なのかもしれない。
 ふさふさのしっぽもぴんと立った耳も、遊んでほしそうに揺れている。くーん、と再度、微かに鳴いている。撫でて、遊んで、構って、こちらを見て、一緒にいて。そんな飼い犬としてなら当たり前に持つだろう要求を込めて。

「……ごめんね。本当に、ごめん」

 もう、この犬と遊んでやれる者も構ってやれる者も──ましてや飼ってやれる者などいない。してあげられることなど何も。それでもたった一つだけ、どうしても成さなければならないことがある。それは。
 思わず抱き上げようとするが叶わず、虚空をすり抜ける自身の両腕を見つめながら、藤は宣告するかのように呟く。

「必ず君を還す。いくべきところへ」


 ◆◆◆


 実のところ紫苑と藤は浅からぬ関係ではない。十年以上のキャリアを持つ術師である紫苑だが、その初仕事は藤の祖父からの依頼だった。初孫がどうにも視える人のようだから一定期間でいいので護衛してもらいたい、また可能なら自衛の手段も身につけさせてやってほしい、という内容である。
 世の中には一定の割合で「視える」人間がいる。竜胆、桔梗、杜若、菖蒲などはその典型だ。だが幽霊やおばけの存在を認識できるといっても見え方は人それぞれで、なんとなく気配を感じる程度から姿がはっきり捉えられる者まで様々だ。その中でも藤は群を抜いてよく視える、いわゆる「見鬼」の持ち主だった。
 見鬼の何が問題かというと、視えすぎるせいで莫大な情報量を処理するため常時脳に負担がかかっていることもそうだが、一番は索敵能力が高すぎて狙われやすいことだ。隠形中の霊や怪異を容易く見つけ出し、些細な変化も見逃さない眼は役に立つが、視える人は相手からも視られているという事実を指す。化け物からしたら、自分達の邪魔になるような見鬼など、真っ先に殺さねばならない人間だ。
 見鬼なのが発覚してから多種多様な怪異や悪霊どもに命を狙われ、そのせいでろくに外出もできず学校へも満足に行けていなかった藤は、当時まだ若かった紫苑を警戒していた。顔を合わせる相手といえば家族か祖父の知り合い程度だった幼い藤にしてみれば、自分より年嵩で風体の怪しい青年など、なかなか信用に足る相手と思えなかったのだろう。
 それでも紫苑が傍についてやることで少しずつ外へ出かける機会も増え、学校へ通うこともできるようになったからか、少しずつではあるが藤は紫苑に心を許し始めた。きっかけになったのは、たまたま紫苑の実家と藤の自宅が近く、妹の菖蒲が紫苑経由で藤の家へと招かれたことだろう。二人が友達として親しくなるうち、見鬼を一時的に抑える術も見つかったので御役御免となり、紫苑はフェードアウトした。
 とはいえ幼少期の自分が紫苑と関わりがあったことなど藤は覚えていないだろう。というか、そのようにした。ちょっとした暗示をかけ、紫苑を忘れるよう仕向けたのだ。藤少年が「視える」という事実自体を忘却させ、本人にもそうであると思い込ませることで、記憶を取り戻さない限り見鬼の力を眠らせておける。ただし思い出したが最後、今度こそ二度と力を抑えられなくなるのだが。
 今はごく普通の青年として平和に生活している彼だが、いつまた見鬼の力が目覚めるか分からない。少しでもその確率を下げておきたかった。仮にまた見鬼に戻ってしまっても身を守れるよう、自衛の術は叩き込んでおいたが、どうせなら活用される機会などない方がいいはずだ。
 それにしても紫苑が引き合わせたとはいえ菖蒲とまさか交際するとは、と後に何も覚えていない藤が自分の店へ挨拶しに訪ねてきた時には驚いた。すっかり恐縮しきった態度で、この度は大事な妹さんを云々などと話し始めたものだから、内心で腹を抱えて笑い転げていたのは紫苑だけの秘密である。以来、彼はごく稀に「キマイラ」を訪れるようになった。普通に表の客としてだが。
 しかし今日の様子を見るに、紫苑の本業について知っている──否、それだけではなく紫苑が何者かであることも見抜いているようだった。おそらくは幼い頃の出来事についても思い出しているとみていい。もっとも彼の見鬼が既に復活していると知りながらも、対処を面倒くさがって放置していた紫苑にも原因はあるのだが。
 帰路に着く藤と別れて紫苑が店へ戻るとカウンターで課題をやっている竜胆がおかえりなさい、と出迎えた。客が来ないようなら勝手に閉めていいとは言い置いていたが、店主が戻ってくるまで待っていてくれたようだ。コーヒーでも淹れますよ、と笑って厨房に立つ彼は喫茶店の店員としても霊媒師の助手としても、だいぶ板についてきた。そういえば藤と竜胆は同じ大学に通っていたはずだ、と思い出す。

「そういえば打ち合わせどうでした? 外でなんて珍しいですね」
「まーね。呼び出しくらったとこは依頼人の自宅から近いし、移動が負担だったんじゃない。あの様子じゃ二日……保って三、四日ってとこだろうな」
「そんなに酷いんですか……じゃあすぐにでも解決しないと助からないかもしれないですね」
「念の為前払いにしてもらったからタダ働きにはならないけどね。どっちでもいいんじゃない、あんなの助からなくっても。それより藤って子、知ってる? 君と同じ学校に通ってるらしいんだけどさ」

 心底どうでもよさそうに言い放ち、紫苑は竜胆と藤が同じ大学の学生であることについて水を向ける。彼にとっての懸念事項は、もはや依頼そのものより藤本人にあった。打ち合わせをしたチェーン店は住宅街の中にある。学生がうろうろしているのは不自然だ。ましてや藤の生活圏でもない。あんなところになんの用事があるというのか。

「藤は確かにウチの学生ですけど、お互い関わりないですよ、学部も違うし。目立つ奴ですから、いつも取り巻きに囲まれてるのは見かけますけどね、前に菖蒲と話してるところを見られて牽制されたくらいかな、あいつとの関わりらしい関わりといえば」
「牽制って。あの子そんなことするんだ……意外」
「まあ正直、余裕ないなこいつとは俺も思いましたけど。そういや紫苑さんのお店に来たこともあるらしいですね。本人から聞きましたけど。菖蒲は紫苑さんのこと無事に話してないって言ってたから、自力で探し当てたのかな……」
「うわ。クソ、あのバカ前から記憶取り戻してたのかよ最悪。あの辺うろついてたのも説明つくわ、視えてたんだ。初めから俺にコナかけるつもりで待ち伏せてたな」

 ちっ、と舌打ちしてコーヒーを飲み干すと、紫苑はスマートフォンを取り出しコールする。電話に出た相手へ何やらクレームめいたものを訴えている様子を横目に見つつ、竜胆はカップを片付けた。彼は先ほど、紫苑に伏せたことがある。
 今日の下見には藤も付き添ったそうだが、実は彼が視える側の人間であることは学内でも有名だった。というのも藤と同じくらい目立つ人間がもう一人おり、そちらは何故かどんなホラースポットに行っても心霊現象が起きないことで知られている。
 二人が動画配信者として活動しており、時折肝試しを企画して心霊スポットで配信している事実は学生なら誰でも耳にしていた。おそらく紫苑に目をつけたのも動画のネタにするためなのだろう。原因は竜胆が紫苑の件で菖蒲と会っているところを藤に目撃されたことにある。
 会話を盗み聞きしたのか、恋人の兄が本物の術師であると知った藤は、あれから竜胆に対し紫苑を紹介するよう幾度となく求めていた。菖蒲を介さないのは、彼女が紫苑の存在を隠していることに加え、その場合は「妹の恋人」として振る舞うしかないからだ。
 自分の彼女が知らない男と話しているのを見て気分を害さない人間はそうそういないだろうから、牽制されたのも仕方ないと諦めはつく。だからといって彼を紫苑へ取り次ぐ気は起こらなかった。藤の配信者としての活動に彼が巻き込まれれば、助手である竜胆も必然的に巻き込まれるに決まっているからだ。
 しかし痺れをきらした藤は自ら紫苑にアプローチをかけてきている。妹の恋人がまさか有名な配信者だとは露ほども知らないであろう紫苑は、通話を終えるとテーブルへ突っ伏した。おそるおそる声をかけてみるが応えはない。ふてくされているらしい。

「……もうやだ、あの一家。俺に全部丸投げする気だ。自分とこのガキだろ、手前でどうにかしろよ……クソ、結局俺があいつの面倒を見るしかないのか」
「えーと、紫苑さん?」
「竜胆くん、あいつが配信者なの知ってて俺に隠そうとしたよね。その件で今、どうにかしろって彼の親からクレーム受けたところなんだけど。あのバカ、見鬼を利用して各地の心霊スポット突撃生配信なんつう戯けた真似しやがって……!」
「いやだって俺が巻き込まれるのは嫌だったんでつい……え? もしかして今日あいつが紫苑さんの下見に無理やりついてきたのって」
「そうだよ! あいつ配信に俺のこと利用する気だ、クソ! 菖蒲のバカ、男運だけは本当に最悪!」

 うっわ、とドン引きした竜胆はやはり紫苑へ藤を取り次がなくて正解だった、と内心で胸を撫で下ろす。過去の自分の判断を褒めたたえつつ、無理やり押しつけられた藤の連絡先へメッセージを送った。真偽を確かめるためだ。もし紫苑の言う通り、自分達を企画に利用するつもりなら縁を切る。でも他に何か理由があるのなら、それを聞いておきたかったのだ。
 果たして数分と立たずレスポンスが返ってくる。内容を見て、竜胆は薄く笑む。

「……なるほどね。それならまあ協力してやるのもやぶさかでないかな」

 しばしば混同されがちだが、呪いと祟りは似ているようで少し異なる。その最たる違いというのは対処法だ。呪いの場合、呪った者やその原因を叩けばそれで解決することが多い。なんなら呪詛を行った当人が死ねば解呪は成る。
 ところが拡散性を持たせ、不幸の手紙のように対象を選ばず無差別に被害を撒き散らすタイプとなると話は別である。呪われた者が別な人間へ呪いをバトンタッチする関係で、大元自体を探り当てるのが困難だからだ。
 それに最初に呪いを広めた人間を奇跡的に見つけたところで無意味でもある。呪詛を行った人間全員──本来は被害者である呪われた側もまとめて殺さないと消せないためだ。そうした感染型はもう呪いの効果を打ち消す別な呪いを広めて相殺する、呪いの上書きでしか対応方法がない。
 では、祟りはどうなるかというと祟った相手を殺そうが何しようが祟りそのものはどうにもならない。祟りは根を張る。祟った者の手を離れ、いつまでも禍根として残り続けてしまう。
 よく末代までの祟りなどという言い方をするが、文字通り祟りは末代まで続くのだ。家系を祟れば家系が滅ぶまで、土地を祟ればその地は永遠に。しつこいカビのようなものとでも言えばいいのか。
 ならば祟りは消せない、解決できないのかといえばそうでもない。一番メジャーなやり方は神として祀り上げ、相手の性質をリセットしてしまうことである。過去に怨霊として恐れられた歴史上の偉人が神として今なお篤い信仰を受けていることからも、その効力は明白だ。
 怨霊悪霊から御霊あるいは守護神に。権能や霊威をプラスの方向へと変えてしまうことで祟りを「鎮める」……新居を建てる時に行う地鎮祭もある意味では似たようなものだろうか。許しを得る、という点においては。
 しかし今回のケースに当てはめて考えてみると、この方法は使えないと判明した。紫苑しおんふじが出くわした動物霊、というか祟りの主犯にあたるあの犬は敵意を向けてこなかった。それは祟るべき相手ではないからだ。
 おそらく何度足を運んだとしても何も起こらないだろう。それでは現状、祟られている人々は死ぬだけである。
 あの犬を退治する、という手もありそうだが実はそれも難しい。犬の姿をした怪異は電話でいう子機だ。あの建物自体が怪異のテリトリーであり、そこへ侵入してきた者を祟るべきか、それとも祟らなくていいのか判別する役目を持っている。
 ゆえに二人以外であっても動物に酷いことをする人間でなければ犬は反応しない。ただ無邪気に懐いてくるだけだ。今回の一件が高難度なのは、そもそも祟りの要因を排除不可能だからである。調伏しようにもその前段階に持ち込めないのではお手上げだ。

竜胆りんどうくんさあ、犬嫌いとか動物が苦手な人間に心当たりってある?」
「ないですね。というか交流範囲も狭いし、犬猫の話もあまりしないんで……いたとしても分からないです。そういえば依頼者さんは? さっきの話聞いて、なんか変だなと思ったんですよ。本当に保護犬たちに酷いことしてないのだとしたら、なんでその人も祟られてるんですか?」
「それは……あ、そうか。今回は違う。自動的に祟ってくるタイプじゃない、誰を標的にすればいいか見定めてるんだ、あれは。つまり祟られているイコール、あそこで『何か』したのは確実だ」
「ってことは紫苑さんに嘘をついた……?」
「やられた。クソッ、バトンタッチだ……俺に押しつけようとしたな」

 感染型の呪詛と祟りは、一見するとメカニズムがよく似ている。根本を叩いても無意味という点も同じだ。けれどバトンタッチは起こらない。祟られた側がどう頑張っても自分を苦しめているものを他の誰かに押しつけることなどできない。
 依頼人はそれを知らなかった。だから紫苑に祟りを移し替え、助かろうとしたのだ。こうした事案では祟る相手を選ぶケースもあれば、条件に当てはまる者を自動的に標的にするケースもある。
 後者だと勝手に判断したせいで重要な点を見落としてしまったのだ。慌てて依頼人へ連絡しようとする紫苑だが、やはり連絡先はブロックされており、通話はおろかメールも送信できないようにされていた。
 もう面倒になって他の同業者に案件を三割引で下請けに出したいくらいだがそうもいかない。彼はあの犬と約束してしまったからだ、必ず「還す」と。言葉は言霊であり、宣誓したならそれは絶対に履行しなければならない。実際に口にしたのは藤だとはいえ、その場に居合わせた紫苑にも言霊は充分に有効だ。違えれば相応の罰が降る。
 とはいえ打つ手がないのも事実なのだ。依頼人が本当に保護犬へ危害を加えるような真似をしてたら確定だ、贄として差し出すでもなんでもして怨念を鎮められる。しかし本人を引っ張り出せないなら「代わり」がいる。幸い今回は強力な助っ人がいることだし、きっとなんとかなるはずだ、と彼はさっそく善は急げとばかりに協力を打診してみる。

『ねえ今日行ったところだけどさ』
『わかりました俺にできることならなんでもします。で? 何をすれば?』
『わあ、まだなんも言ってないのに返答はっや。急だけど俺の代打を頼んじゃってもいい感じ? 君、確か配信者として有名なんだって? 動画のネタ提供してあげる。だからちょっと付き合え』
『どこでそれを……さては竜胆がバラしましたか。言っときますが今回の件をネタにするつもりは一切ないですよ、それで詳細について教えてください』
『別にこちらとしては事前チェックだけさせてもらえれば撮ってもらっても構わないんだけどね。作戦について簡単に言うと俺が囮になるから竜胆くんと一緒にあの犬を祓ってほしいんだよね』
『待て待て待て、囮!? は!? 何考えてんですか紫苑さんは! これから今すぐそっちに向かいます、改めて打ち合わせしましょう。逃げるなよ』
『え、ちょ、今から??』

 一方的にメッセージのやり取りがぶったぎられてから数十分後。本当に店までやってきた藤を交え、本題へと入った。概要については双方とも既に把握済なので、本案件における具体的な手法について紫苑は説明する。
 やり方としてはこうだ。紫苑が挑発行為を行い「祟りの対象者」と錯覚させ、わざと襲わせる。注意を引き付けているうちに藤と竜胆の二人がかりでらで鎮魂の儀式を執り行い、怨念を鎮めて祟りをおさめるというものだ。
 だが話し終えた途端、二人の顔色がものすごいことになっているのを見て、彼は自分がやらかしたことを悟る。竜胆は怒髪天という言葉がしっくりくるくらい額に青筋を浮き立たせ、藤は笑顔なのに強烈な重圧をかけてきている。間違っても、また俺なんかやっちゃいました? などと茶化せる状況ではない。

「……それ、本気で言ってます? 本当にやる気なんですか、嘘でしょう、馬鹿なんですか、愚か者ですか、でなければアホです。死ぬ気か?」
「え、いや、さすがにそんなつもりは」
「竜胆の言う通りですよ。今回ばかりは擁護も看過もできません。何考えてるんですか、自殺志願者ですか、本当に馬鹿ですか? いや馬鹿だった。そういえばこの人って昔から馬鹿だった」
「馬鹿馬鹿言いすぎじゃあ……一応俺の方が年上なんだけど」
「黙らっしゃい! 自分が犠牲になるのを前提に作戦を組み立てるようなやつのどこら辺が賢いっていうんですか! ていうか簡単に投げ出すな! 人の命をなんだと思ってんだ!」
「もう怒り通り越して呆れてますよ……俺らにはあれほど『いのちだいじに』を言い聞かせてくるくせに、自分は『ガンガンいこうぜ』なんだもんなあ。それに上手くいく保証だってないでしょう、仮に本体が釣られなければ犬死にですよ」
「どうせ死なんし大丈夫かなって……竜胆くんも助手として色々教えこんでる最中だし、なかなか筋もいいから見鬼の藤くんがサポートすればイケるかなと思って。それとも無理?」
「無理な訳ないだろうが! なあ竜胆!」
「え? いや、うん、はい……」

 先に激怒したのは竜胆の方であるのに、紫苑の挑発にあっさり釣られた藤の剣幕にすっかり乗せられる彼を見て、なんとなく二人のパワーバランスを紫苑は悟る。彼らは日頃から交流がある訳ではないそうだが、おそらく相性はいいのだろう。その上でどちらもタイプの違う美形なので、彼らに挟まれる菖蒲が周りの人間にやっかまれて肩身の狭い思いをしていないといいが、と少し心配になった。

「……今回、無理を言って紫苑さんの下見に同行したのは個人的に思うところがあったからです。以前、やむを得ない事情とはいえ俺は実家で飼っていた犬を手放さざるを得ませんでした。その子の行先があの施設でした。他に受け入れてくれる施設がなかったんです。……あの時、俺の足元に懐いてきた子は、あの子だった。見間違えるはずがない。確かにあの子だったんです。あの子は俺を敵とみなさなかった。俺が、俺のせいで死んだのに……」

 それでやたら積極的に仕事を手伝おうとしてきたのか、とやっと得心がいった。動物好きで犬飼いだったことは訊いてもないのに本人から聞かされていたが、なるほど可愛がっていたペットをあんな形で失っていれば、見て見ぬふりなどできないだろう。
 これまで生き物の生き死ににあまり感情が動かず、興味を示さない紫苑は、涙ながらに語る藤の気持ちをあまり理解はできなかった。けれども今なら竜胆という存在がいるので分かる気がするかも、とチラリと彼を見遣る。相変わらず仏頂面の青年は、藤の言葉の真偽を図りかねているようだった。

「ただ単に動画のネタにしたくて付きまとっていた訳じゃない。俺は見鬼だから、ずっと視えていた。俺の近くに祟られている人間がいることを、そのうちの一人が紫苑さんに接触しようとしているところを。あの時、本当は祟りを押しつけようとした依頼者を止めようとしていたんです。でも現場を見て俺は『あの子を還す』と決めたんだ、あんな所に縛りつけられていてほしくないから」

 回りくどい言葉の裏に隠されているのは、だからといって紫苑が自己犠牲に走るのは許容できない、という本音だ。御託や忖度抜きに彼は、あの場に取り残されている怪異とそれらに相対することとなる紫苑、双方を本気で案じている。
 藤が来店するまでの間にいくつか過去のアーカイブ動画を確認してみたが、確かに見鬼の力を使ってうまく配信を盛り上げている。けれど決定的な危機は回避しており、かつての紫苑が教えた対処法もしっかり身につけているようだった。
 だからこそ彼は藤になら作戦の重要な部分を担わせても問題ないと判断した訳だが、藤本人は否定的に捉えてしまったのだろう。彼の横で静かに怒っている竜胆も紫苑のやり方には納得できないようだった。
 紫苑にしてみれば一回生しかない生身の人間に危険な役目を背負わせて取り返しのつかない事態に陥るのを嫌がったからなのだが、二人はそんな彼が危ない目に遭うことを嫌がっている。
 つくづく人間とは面白い生き物だ、と紫苑はこぼれそうになる笑いを噛み殺す。くつくつと喉奥で笑う彼を怪訝なものを見る目で二人が見つめているが、それも今はどうでもよかった。

「ダイジョーブ。そう心配しなさんな、俺は死なないし君達ならきっとやれる。だからそんな子犬みてえな目で見てこなくていいから」
「……ほんとですか? イマイチこの人の言うことは信用できねえんだよな……前科ありすぎて」
「おー、生意気なこと言うのはこの口か! 相変わらず素直じゃないなあ藤くんは」
「あなたが家庭教師やってた頃に受けた仕打ちを忘れた訳じゃないんで。もうコリゴリです、いくら見鬼だから自衛手段は要るって言っても、何も廃ホテルだの廃病院だの、ガチのホラースポットに連れていかなくてもよくないですか!?」
「ははは。おかげで今は君の配信者活動に大いに役立ちまくってるんだから結果オーライじゃん」
「それは……そうなんですが……」

 実は有効打になりにくいだけで他にも手法はある。例の幽霊屋敷と同様に建物のある一帯を一種の領域として見立て、封印と浄化の作業を定期的に繰り返すというものだ。ただし費用は莫大になる。
 年単位、いや下手をすると数十年とか数百年という途方もない年月を費やして継続しなければいけない。その上、一度でも怠ると暴れ出して今は関係者のみに向いている祟りが、周辺の住民など無関係な人間にも被害が出る可能性がある。
 規模が大きければ大きいほど抑え込むのも難しくなるし、万年人手不足でなり手が年々減少している業界なのだ、その頃には手を打てる人材が残ってないとも限らない。
 この作戦が有効打とならない、というのは禍根を残すことに他ならないからだ。次世代に負債を押しつけてツケを肩代わりさせるだけだからだ。それでは根本的な解決とはならない。
 何より、あの犬は解放を望んでいる。自分を虐げたヒトへの悪意殺意恨みつらみ憎しみがなくなったわけではない、だがそれだけでもない。仮に人間全てが祟りの対象なら縄張りに入った二人に直ちに影響が出ているはずなのだ。
 なのにわざわざ選んでいる、見定めている、判別しているのは──人への信頼や好意そのものが完全に消え失せたわけではないから。

「さて。では具体的なやり方を教えるとしようか。今回のカギを握るのは二人だ。君らに全てがかかっている。よろしく頼むよ、竜胆くん、藤くん」


 ◆◆◆


 翌日。竜胆、藤は紫苑の運転するバンに乗って再び例の元保護施設へと足を運んでいた。車移動なのは昨日と違い下見ではなく本番なので、色々と道具を持ち出す必要があるからだ。
 一抱えほどもある大きな楽器ケースを一つずつ、それぞれ三人で分担する。一体何がしまわれているのかは知らないが、やたら重量のあるそれを持ち運ぶのだけでもひと仕事だ。
 現場に到着した時には額に軽く汗が滲むほどだった。三人の中で一番非力そうな細身の紫苑が平気そうな様子なのに解せない気持ちになりながらも、荷物を抱えて内部へ入る。
 まだ保護犬や職員がいた頃から酷い有様だったのが如実に想像できるくらい、荒廃しきった中を進む。うっすら漂う悪臭に顔を顰めつつも目的の部屋──職員用オフィスの前で一行は足を止めた。

「この前、一通り施設全体をチェックしてみたんだけど一番穢れが『濃い』のがこの部屋なんだよね。恨みの対象である人間が特に長く、かつ多人数が滞在していたからなんだろうけど」
「そうですね……俺の『眼』から見ても、ここが特に酷い……」

 藤ほどよく視える訳でもない竜胆は今ひとつピンとこない気持ちで彼らの会話を聞きつつ、打ち合わせ通りに淡々と作業に取り掛かる。まず用意するのはお香だ。香木の中でもメジャーな白檀を事前に粉状に加工したものを香炉で温めた灰の上に落とす。これを部屋の四隅全てで行うものだから、さして広くもない室内には、あっという間に白檀の馥郁が噎せ返るほど充満した。
 更にデスク等の調度品は全て部屋の脇に避けておき、別な部屋から持ってきた折り畳み式の長テーブルに神棚を模した祭壇を設置する。榊、幣、酒、米、塩など一般的なお供えものの他にドッグフードやおもちゃ、犬用おやつなども飾りつけられているので、いささか奇妙に映った。これで今回の「おもてなし」の準備は完了である。
 別室で煌びやかな浄衣に着替えてきた藤がまず先に床の上へ直接正座し、つっかえることなくスラスラとなめらかな滑舌で祭文を読み上げ始めた。この仕事に携わるようになってから、何度か紫苑が謡っているのを竜胆も聞いている。それが東條の声で唱えられているのになんだか違和感を覚えていた。
 祭文の役目は「勧請」だ。この場にいる怪異をまるで神様のように恭しく丁重に扱い、もてなし、いい気分にさせてからお出ましを願う。このお供えものをあなたに捧げますからこちらの要求を聞いてくれませんか、とお願いするわけだ。取引先の重役に絶対するのと変わらない。お供えものも本質はお土産であり贈り物である。
 流暢かつ低く艶やかな声音で祭文が二度、三度繰り返されるうち、やがて少しずつ室内の空気が重たく湿っぽいものに変化してきた。風もなく窓も締め切っているのに祭壇に立てた蝋燭の火が揺れ、榊がざわざわと音を立てる。冷房など点けていないのに室温がガクッと下がり、昼間にも関わらずやけに部屋全体が薄暗く感じた。いよいよ「お出まし」だ。
 オーン、オオーンと狼の遠吠えが聞こえる。それも一頭、二頭ではきかない数だ。合唱のように咆哮がいくつもいくつも重なり、視界にはまだ何も映らず建物のあちこちから鳴き声が増えていくばかりだ。遠吠えだけではない。柴犬、レトリバー、チワワ、ポメラニアン、コーギー……全ての犬の鳴き声を知っているわけではないが、大型犬から小型犬まで様々な犬の吠え声が響き続ける。
 そのどれもが苦痛や苦悶を訴えるものだ。餌や水を貰えず飢えて死にゆく犬の悲痛な叫び、殴られ蹴られて痛みに呻く犬の唸り声、この場に残る死んでいった犬の記憶が音という形で再生されている。祭文を読み上げる声は止めないまでも、藤も不安そうに周囲を見渡していた。昨日の時点で見たという犬の怪異がまだ現れていないからだ。
 ガラリ、とオフィスの引き戸が開く。水干や狩衣と誂えと似た純白の衣装をまとい、麻の葉をあしらった冠を頭に飾り、料紙で顔を隠した紫苑が祭壇の前に腰を下ろす。その瞬間だった。ピタリと水を打ったように建物のあちこちで聞こえていた声がやむ。何かを恐れるように、あるいは何かを迎え入れるかのように。絶え間なく続いていた祭文が、止まった。

「……藤、『あれ』はちゃんと持ってきてる?」
「ああ。でも、これで本当に上手くいくのか……?」
「それは分からない。俺達次第、ってとこかな」

 怜悧な美貌に冷や汗を浮かべ、藤は口端を上げる。明らかに作り笑いとわかる引き攣った笑顔だった。手筈通り二人は祭壇から距離を取る。視線の先、さっきまで藤が座っていたところに坐す青年は、着物の懐から何かを取り出す。
 手のひらにおさまるサイズのちいさな小瓶には、どす黒い粘性のある液体が詰まっている。それが動物の生き血であると遅れて気づく。固唾を飲んで見守る彼らの前で紫苑は小瓶の蓋を開け、中のものを空の杯へと注ぐ。あまいような酸っぱいような、鉄錆くさい匂いが微かに香って、思わず竜胆は眉を顰めた。

 お、おお、お……おおおん
 おおおお、お、お……おーーーーん

 あの「声」が再び、はじまった。怒りだ、とすぐにわかった。煮え滾るような憤怒、憎悪、怨嗟、ヒトへの敵意が場を支配している。繰り返される遠吠えの音色は次第に濁り始め、怒号が空気をも震わせる。何に対して怒っているのか。それは祭壇に置かれた杯を並々と満たすあれのせいだ。
 あんなものをどこで彼は手に入れたのか。犬だけではない、猫、鳥、豚、牛、他にも様々な動物の血液を混ぜてある。それ自体が無惨に殺された生き物の無念を凝縮させた呪物だ。あんなものをお供えものとして捧げられては怒るのも当然だろう。いくら祟りの本体を顕現させるためとはいえ、なんてものを紫苑は用意したのか。

 ぴちゃ……びちゃ、べちゃり……
 ぺた ぺた
 かり、かりかり……

 血に濡れた足音が、かさついた肉球が床を擦る音が、爪がケージを引っ掻く音が、あらゆる「音」が室内に流れ込む。怪異そのものの姿は未だ捉えられないのに、いくつもの音だけが溢れかえっていた。ふいに日差しが湧き出た雲によって遮られ、部屋全体が薄暗くなる。それを待っていたかのように、ついに「あれ」が現れた。

「なんだあれ……本当に、あんなものを倒せるのか……?」
「それをやるのが仕事だ。ていうかやらないと、この場の全員が死ぬ。間違いなく」

 巨大な犬が屹立していた。小ぶりな熊と変わらないほどの巨躯に、ざわりと波打つ体毛は艶のない黒、真紅の燐光を放つ双眸からはパタパタと真っ赤な血が滴って床に落ち、唾液でぬめったように光る牙が口元から覗く。毛を逆立てながらぐるぐると腹の底に響く低音で哭く、犬のようにも狼のようにも見える「それ」がまっすぐに彼を見つめた。
 あ、と小さく声を上げた竜胆が駆けつけるよりも早く魔狼が動く。祭壇の前で僅かにも身動ぎすることなく座っていた青年の喉元に噛みついた。ぱしゃりと鮮紅の血しぶきが白装束を汚し、返り血が魔狼の毛に付着する。スローモーションのごとく映る信じがたい光景に、我知らず竜胆の口から絶叫が迸った。

「あ、あ……ああ、あ、どうして、クソッ!」
「落ち着け! やるなら……今しかない」
「ふざけるなよ、こんな状況で俺に一体何ができるって!? アア!?」
「だから冷静になれって! 言ってたろ、彼は死なない。あの人は……死ねないんだって」

 魔狼に首元を噛みちぎられそうになりながらも、青年が自身を今にも食い殺そうとする怪異を指し示す。自分ごと狙え、と合図するかのように。もう幾許の猶予もない。彼が死ぬか、それとも藤か竜胆が祓うかの二つに一つだ。このままではどちらも死ぬ。
 竜胆が肩に背負ったままの楽器ケースを床めがけて叩きつけた途端、はずみでロックが外れて蓋が開く。緩衝材と共にしまいこまれていた「それ」は、全長一メートルにも満たない両刃の直剣だ。刃こぼれもなく陽光を弾いてきらめく刀身は美しいが、一般的な日本刀と違い鍔や柄巻はない。代わりに布を巻いて少しでも握りやすくしてあった。
 はがね色の刀剣を手に、獲物に食らいついたままで警戒心が散漫な魔狼へと一気に間合いを詰める。頭から腹までを自身の血で赤く染めた紫苑が、この上なく嬉しそうに口元だけで笑ったのが、彼の目に入った。けれど踏み込みは止めない。魔狼がこちらへ反撃するより前に剣先を振り下ろした。
 ギャオォ、と凄まじい悲鳴が鼓膜を劈く。誤たず剣は狼の首を切り裂き、赤黒い液体が竜胆の顔面から腹までを汚す。腐肉のように生臭い血を撒き散らしながら魔狼は激痛のあまり吠えたて、口から紫苑を離してその場で暴れ狂い始めた。慌てて投げ飛ばされた青年をキャッチし、安全圏へ退避しようとするものの先に魔狼が動く方が早かった。
 首元を深く斬られ、生あたたかい血液を大量に垂らしながらも殺意は衰える兆しを見せない。ガウ、グオゥ、と吼え、こちらへまっすぐ突進してくるそれを躱すだけの余裕はない。受けるしかないか、と彼が逃げ出したくなるのを堪えて踏みとどまったそのとき、真横で紫苑が身じろぐ気配があった。
 あれだけの傷を負わされて動けるはずがない、と思い込んでいた竜胆の初動が僅かに遅れた隙を逃さず、青年が上体をふらつかせながらも立ち上がる。覚束ない足取りで自分たちを狙う魔狼の元へと近づていき、そして、

「約束しただろう。お前を必ず『還す』と」

 今まさに自身の肩口へ牙を突き立てている「それ」を無事な方の腕で抱え込んだ。魔狼の攻撃が止んだのを見計らい、藤は玲瓏たる響きの声で、ある詩を謡う。竜胆にも聞き覚えのあるそれは悪夢避けの祭文だ。見し夢を、から始まるその文句は悪夢を食わせ、忘却するためのもの。
 藤は繰り返し、何度も唱える。忘れてしまえ、これは悪い夢だからと。悪夢など覚えていなくてもいいのだと。子守歌のように優しく、鎮魂歌のように静かに歌は紡がれ続ける。少しずつ魔狼の四肢から力が抜けていき、やがて完全に大人しくなる。

「……ごめんね。ゆっくりお眠り」

 いつの間にか魔狼は姿を消していた。まともに立っていられず、ついに気絶し横たわった青年に懐くのはふわふわした真っ白な毛並みの和犬だ。未だその首からは血が噴き出し続けており、あれと同一存在であるとすぐにわかった。くぅんと嗄れた声で鳴きながら、まるで毛繕いでもしているかのように、瞼を閉ざしたままの彼の顔を舐めている。
 かひゅう、ぜひゅうという聞くに耐えない今にも止まってしまいそうな呼吸音が耳朶を打った。大して激しい運動をしてもいないのに心臓がうるさく騒ぎ、手足の末端が急激に冷えきっていく。おそるおそる倒れたままの彼へと近寄り、竜胆は息を呑む。あまりにも出血が多すぎる、さっきまで動けていたのが不思議なくらいに。

「ど、どうしよ、藤、ほんとに紫苑さん助かるかな、俺どうしたらいい!?」
「これは……どうしようもないね……」
「は、はあ? お前、なんでそんな冷静でいられんだよ、し、死ぬかも、しれないのにっ」
「言ったろ、死なないよ。紫苑さんが死ぬ訳がない。これしきのことで」
「でも、……でも!」
「いいから。いいから、黙って見てろ」

 浄衣が汚れるのも構わず血溜まりに膝をつき、藤がそっと青年を抱える。再び彼が口にしたのは勧請の祭文だ。二度、三度と同じ言葉を繰り返すうちに和犬がぽすり、と青年の胸の上に覆いかぶさった。一体こいつは何をするつもりなのか、と竜胆が見守る中、犬はきゅうん、くーんと鳴きつつその姿を透明にかすませていく。それだけではなかった。
 なんと見る間に傷が塞がっていくではないか。部屋中に飛び散っていた血液が吸引器か何かに引き寄せられていくように、青年の傷口へと集まっていく。映像を逆再生したように、みるみるうちに食いつかれていた肩と首が治癒されていき、そのうち死人のごとく青白かった肌も血色を取り戻し始めた。

「う……あ、あれ、二人とも、どうしたの。泣きそうな顔して」
「馬鹿! ほんとに、もう、この馬鹿野郎……っ、二度とこんなこと絶対、絶対すんな馬鹿……っ」
「あはは、バカバカ言いすぎじゃん……あの犬は?」
「還りましたよ。あなたを癒して」
「……はあ、そっか……それ聞いて安心した。二人ともお疲れ様。悪い、ちょっと、休む……あとは、ごめん任せた……」

 今度こそ穏やかな顔つきで瞼を下ろし、そのまま意識を落とした紫苑をよいしょと背負った竜胆は、藤にことわって先に車へと戻ることにした。撤収作業は彼に任せ、今回の立役者を休ませるのが先決だと判断する。完全に正体をなくし静かに寝息を立て、あどけない寝顔を晒している青年は、こうしてみると竜胆や藤とほとんど歳が変わらないようにみえた。
 ずいぶん長い時間をあの廃屋で過ごしたように感じていたのに、スマートフォンのロック画面に映し出された時刻は作戦決行から一時間ほどしか経っていなかった。
 カラフルに色づきはじめた枝葉を透かして射し込む日の光はあたたかく、吹き渡る風は涼しい。季節の移ろいとも無縁な青年は、これからも同じ春夏秋冬を幾度となく繰り返すのだろう。身の回りの人間がみんな消えたもしても変わらずに。

「なあ紫苑さん、あんたは何が目的で俺を助手なんかにしたんだ……?」

 竜胆には未だ、どうしても思い出せない記憶がある。どれほど脳内を浚っても、決して見つけ出せない大切な思い出が。ほとんど形を成さない記憶達は言う、思い出せと。それは忘れてはいけないものだと。きっとどこかで彼を知っているはずなのに。

『おろかなこ。とっくにきづいてるくせに。ほんとうに、あなたはみてみぬふりがおすきなのね』

『どうもー! 初めましての方は初めまして、お久しぶりの方はお久しぶりです! イケメン大学生二人組のユニットでお送りする"|QQQきゅきゅきゅ"です! このチャンネルではリスナーの皆さんから寄せられたホラーなお便りを紹介したり、時には本物のホラースポットへ突撃しちゃおうという企画を日々行っております。とまあ前置きはこの辺にして、そろそろハロウィンですね〜』
『ハロウィンといえばトリックオアトリート、お菓子をあげなきゃイタズラしちゃうぞ、という例のアレが有名‪だよね。俺はこの前彼女に手作りお菓子をねだられたのでパンプキンパイを作りました。めっちゃ目えキラキラさせてて超可愛かったー! お前にも見せてやりたいくらいだったよ。見せないけど』
『なんなの本当にもぉー! 惚気ですか、惚気だよね!? くっそ、俺にまだ恋人いないからっていっつもそういうこと言う……! 確かにマメの彼女さんは可愛いけど!』
『へへ、いいだろ。やらないぞ』
『人の恋人寝取る気はないよさすがに……NTRの趣味はないし。ていうか脱線しすぎ! えーとハロウィンの話でしたね、ハロウィンというとそろそろ各地でハロウィンイベントが開催されますね。マメは何か参加する予定ってあんの?』
『いいや。特には。あーでも彼女に魔女とか黒猫のコスプレしてほしいし、やっぱり行くかも』
『またか! また隙あらば彼女トークか! いい加減にしろ! ……ごほん、まあ俺も花の大学生ですからね? ハロウィンコスプレくらいはね? やってみたいとは思ってますけど……お! さっそくコメントが続々と寄せられてる! ほとんどマメ宛の罵倒なんだけどワハハウケる。どれどれ、えー"アザムさんは狼男とか似合うと思います"……だって! へへ、そうかな? マメから見てもそう思う?』
『え? よく分かんないけどゴミ袋とか被ったら似合うんじゃないかな』
『こいつ本当に失礼なことしか言わんな……まあいいや、楽しみですねーハロウィン!』
『そうっすねー、ところでアザムはハロウィンの意味ってちゃんと知ってる?』
『そりゃもちろん! 今日の配信に備えてちゃーんとお勉強しましたからね。元はケルトだかキリスト教だかの収穫祭やら鎮魂祭やらが混ざりに混ざった挙句、アメリカでガキが家々を回って菓子を略奪するイベントに様変わりしたんだっけ?』
『すっごい悪意を感じる言い方するじゃん。いやまあ由来は諸説あるらしいね。てかアザムって子供嫌いだったっけ……?』
『子供は普通に好きだぜ! 特に好きな子との子供なら! って訳でいつでも恋人候補は大募集中でーす! それはともかく、ほんじゃま今日一発目のお便りコーナーといきますか、やっぱりシーズンだからハロウィン絡みのネタが多いんだけど……今回はコレ! えーと東京都某所、匿名希望さんからのお便りです。……これは私が子供の頃に体験した出来事です……』


 ◆◆◆


 ハロウィンも近づいてきたある日。授業が長引いてしまい、竜胆りんどうが遅い昼食を摂ろうとした時にはもう学生食堂は閑散としていた。等間隔に配置されたテーブルのいくつかに、疎らに散っている学生が談笑しているだけのガランとした室内に、一際目立つ青年の姿があった。
 カラフルなメッシュの入った虹色頭に見上げるほど大きな背丈、それに見合うがっしりした体躯にパーカーとデニムというラフな格好をしており、耳にも首にも手首にも大量につけているシルバーアクセサリーが午後の日差しを受けて輝いていた。
 彼の名前は、日頃一人で過ごしている竜胆でさえ知っている。あざみという同学年の有名人で、ふじとは「QQQ」なる動画配信ユニットを組んでいる。一見すると派手な身なりのせいで不良やヤンキーと思われがちだが、懐っこい性格にネコ科を思わせる愛嬌のある顔立ちのせいか、いつも男女問わずたくさんの取り巻きを連れていた。
 普段なら彼をいちいち気にして足を止めることもないが思わず視線が向いてしまったのは、薊が何やら必死に話しかけている対象が相方の藤ではなく、その隣にいる彼の恋人──菖蒲あやめだったからだ。相変わらず何を考えているか分からない鉄面皮に、いつもの地雷系ファッションに身を包んだ彼女は、青年の話を聞いているのかいないのか手元のスマートフォンに目を落としたままだ。
 いくら友人とはいえ、溺愛中の恋人にちょっかいをかけているというのに藤は渋面をつくりながらも静止しようとはしていない。ぺらぺらと何やら一生懸命に話しかけている薊は、どうやら何事かを説得しているように見えたが、肝心の菖蒲はというとろくに反応もせず知らんぷりしたままである。

「よお、お前ら何してんの。もうメシ食った?」
「あ、竜胆。久しぶりー。あれから連絡ないし、心配してたんだよ? でも元気そうでよかった」
「お疲れ、竜胆。俺らは二限が休講だったから先に済ませたけどお前は?」
「今日はもう授業ないしこの後帰るだけだけだから、これからだけど……薊も一緒なんて珍しいな、いつもはバラバラだろ?」
「えーと……どちらさん? 二人は知り合いみたいだけど」

 藤と菖蒲はそれぞれ竜胆と面識があるものの、普段は学部もゼミも講義もサークル活動も何も被っていない薊と竜胆は今が初対面である。逆に人気者なので一方的に見知っている竜胆は、つい馴れ馴れしく話しかけしまったと慌てて自己紹介した。

「名乗り遅れてごめん、竜胆だ。そこの二人とは友人というか顔見知りかな。あんたのことは知ってる。藤の友達だろ?」
「どーも。こっちこそよろしく。君めっちゃイケメンじゃん! ねえねえ俺らの配信にゲスト出演しない? 藤のバカがさあ、動画でいつも彼女の話ばっかりするもんだから、この前なんか炎上しかけちゃって。そんでテコ入れ代わりに誰か呼びたいんだけど菖蒲はやだって言うし……困ってたんだよね」
「え!? 急にそんなこと言われても……」
「そうだよ。竜胆困ってんじゃん、いい加減にしなよ薊。正直あんたが炎上しようと知ったこっちゃないけどさあ、人の彼氏まで巻き込むのやめてくれる? しかもアタシの友達にも迷惑かける気でいるとか、マジでありえないから」

 いじっていたスマートフォンをテーブルの上へと放り投げ、眦を吊り上げる彼女は静かに怒っている。菖蒲はやや短気なきらいこそあるものの、ひとしきり暴れて叫んだあとはケロッと機嫌を直すタイプなので、今のように淡々と相手を叱りつけるのは珍しい。対する薊は図星をつかれたのか、苦虫を噛み潰したような顔で押し黙っている。

「まあまあ。俺は気にしてないし、確かに薊が一生懸命なあまり空回っちゃったのは事実だから、そこはあとでおいおいなんとかするとして。竜胆、俺からと頼むよ。恥ずかしい話、視聴回数すうじが伸び悩んでるのは事実なんだよね」
「って言われてもなあ……まあ前の案件で藤には協力してもらったし、今回限りって約束してくれんなら出てもいいけど」
「ほんとに!? 助かる! ありがとな竜胆、今度お礼になんか奢るよ」
「え!? マジで! ありがとう竜胆……くん? なんて呼べばいいかな、ていうかハンドルネームも決めなくちゃじゃん! ちょっと待ってな、あとで考えとくから! あこれ俺の連絡先ね、この後また打ち合わせするから把握よろしくな! もう講義始まるから先行ってんねー!」
「ちょっと! ねえ竜胆、ほんとにいいの? あんた顔派手だし、変に話題になってもあとで困るのは竜胆だよ? 嫌なら嫌ってちゃんと言った方が……」

 不安げにこちらを見遣ってくる菖蒲は心から竜胆のことを心配しているのだろう。思えば食堂へ彼が姿を見せた時も、分かりやすくホッとした顔をしていた。高校時代は整っている見た目を周りに利用されてばかりで、こうして純粋に友達としての情を傾けてくれるのは菖蒲だけだった。

「大丈夫。お面とか被り物か何かで顔を隠すつもりだし……それでもいいだろ、藤」
「うーん俺らも一応顔出しでやってるから、あとで外してもらえるなら被り物でもいいけど」
「……それマジで言ってる? 地元の奴らに見つかりたくねえんだけどな」

 まともなインターネット環境が整っているとは言い難い故郷だが、誰か一人くらいは動画配信をチェックしていてもおかしくない。あの村に住んでいる者達は大半がスマートフォンどころか折り畳み携帯さえろくに使いこなせない高齢者ばかりだが、もしも「たまたま」誰かが見るようなことがあったら。
 彼はこれまでメディアへの露出を極力避けてきた。イケメンだの美形だのとルックスを持て囃されることは数あれど、芸能界やネットの世界含めてあらゆるメディアで姿を晒したことはない。理由は簡単で、村の連中に見つかりたくなかったからだ。彼ら彼女らは未だ「贄」としての竜胆を諦めていない。
 高校進学と同時に逃げるように村を出たあの日を竜胆は今でも忘れたことはなかった。「神おくりの子」に選定され、祝祭の儀式を生き残り、村を守る女神に見初められた彼は──女神を現世へ顕現させるための贄として狙われ続けている。竜胆が死ねば、空になった肉体は女神のものになる。
 飢饉に苦しんでいた太古の昔、女神は豊穣を約束する唯一の救いであり、彼女に身を捧げることは至上の幸福とされた。けれど今は令和だ、もう飢えにも渇きにも命を脅かされる時代ではない。口減らしをする必要もない現代で、悪しき風習を受け継ぐ意義などないはずだ。
 それでも「たまたま」美しい容姿をもって生まれたからというだけの理由で、竜胆は常に死を願われてきた。美しく生まれついたことは彼にとって、なんの利益ももたらさなければ、むしろ生きる上で足枷となり続けてきた。イケメンだ、美形だ、整っている、綺麗な顔、どれも褒め言葉であるはずなのに。
 どれも全て竜胆という人間への評価ではない。誰も彼も見た目だけで竜胆を知った気になって、やっかまれたり都合よく使われたり、あることないこと噂をされたり。もう懲り懲りだ、散々だ、いい加減にしてくれと鬱屈を拗らせて。「遊んでそう」「顔がいいからって調子に乗ってる」などと好き勝手に言われることを厭ううちに、自ら殻に閉じこもるようになったのはいつからだったろう。
 菖蒲だけだった。今までは。ごく普通に、ただの友達として気兼ねなく接してくれて、程よい距離感を保ってくれて。竜胆に過剰に肩入れするでもなく、かといい遠すぎるということもなく。そんな、ぬるま湯みたいな関係性にずっと甘えていたのだろう。

「やっぱり止める? なんだか分からないけど身バレしたくないんだったら、俺から薊に言って違う人をゲストにしてもらうよう説得するよ」
「そりゃできればそうしてもらいたいけど、困ってるんだろ。友達……って言っていいか分からないけど、できる限り協力してやりたいし。さっきも言ったけど前にも世話んなったしな」
「わかった。だったらこうしよう、竜胆の元の顔がわかんないくらいフルメイクするのはどう? 配信予定日はハロウィンに決めたんだけど、せっかくだからコスプレして配信しようってことになったんだ。菖蒲、当日メイク頼める?」
「……竜胆がそれでいいなら協力したげる」
「俺はそれで構わない、し……むしろ助かる。別に動画出んのは嫌じゃないしな……色々ありがとうな、菖蒲」
「別にいいって。その代わり、アタシがヤバい時はあんたに助けてもらうから。お互い様ってやつ」

 それじゃそろそろ行くから、と二人は連れだって次の講義のため食堂を離れていった。一人取り残された竜胆は食堂での昼食を諦め、「キマイラ」で賄いを勝手に作らせてもらおうと席を立つ。気づけば食堂内はすっかり人がいなくなっていて、残っていたのは竜胆だけだ。
 慌てて校舎を出て、最寄り駅までの道を急ぐ。自宅アパートは大学キャンパスから徒歩圏内にあるため、行き帰りは基本的に歩きだが、アルバイト先である喫茶店までは電車に乗らないといけない。雇い主である紫苑しおんに言ったことはなかったが、竜胆は電車やバスなどの公共交通機関が苦手だった。単純に耳目を集めるからだ。
 あれほど苛んだ酷暑はどこへやら、すっかり秋めいた東京の街は街路樹も紅葉し始め、吹き渡る風も涼しいを通り越して肌寒い。東北生まれの竜胆は未だにアウター無しの長袖一枚だが、周りを見遣れば今の時点で上着を着込んでいる者もちらほら見受けられる。そろそろ冬物を出すか、と衣替えの予定を組みつつ、ちょうど来た電車に乗り込む。
 ……やはり見られていた。あちこちから乗客の視線が自分に向いているのに気づき、いたたまれない気持ちになりながら目的の駅に着くのを待つ。あまりスマートフォンを娯楽目的に使う質ではなく、鞄にしまいっぱなしなのが仇となった。せめて文庫本でも持ち歩こうかな、などと考えていると、ある人物と目線がかち合う。
 その女は出入り口付近で荷物も持たず手ぶらのまま佇んでいた。息を呑むほど人間離れした美しさを持つ女である。緩く波打つ艶やかな黒髪に、シャツもスカートもジャケットも全て黒で統一した喪服のような出で立ち、甘く整った美貌を口元の艶ぼくろが彩っている。小柄で華奢ながら、なまめかしいラインを描く肢体はしなやかで、我知らず竜胆は見惚れてしまう。

「こんにちは。キミ、かっこいいねえ」
「ええと……はい、こんにちは。もしかして、どこかでお会いしましたっけ?」
「んー、わたしはキミを知っているけれども、キミはわたしに見覚えないと思うなあ。それより今の古臭いナンパ台詞みたいだね」
「えっ! いやあの俺そんなつもりじゃ……」
「ふふ、冗談だよ。キミおもしろいねえ。紫苑が気に入る理由がなんとなく分かる気がするなあ」
「……紫苑さんのこと、知ってるんすか?」
「あらら、警戒されちゃった。あの子なかなか優秀な番犬を飼ってるね。人間に興味ありませーん、なんて面しておいて、ちゃっかり自分は番を見つけてるんだから。全くずるいなあ」

 にこにこ、とどこか得体のしれなさの漂う笑顔を浮かべる女は、なめらかで傷ひとつない手のひらを差し出した。握手しよう、ということなのだろうか。こわごわ握り返してみると柔らかな感触が伝わってきた。嫌な感じに心臓が跳ね、そそくさと手を放すが、彼女は無理やり手を振りほどかれても感情の読めない笑顔を保っているばかりだ。

「あんた一体、何者だ? 一般人じゃないよな。紫苑さんの同業者か?」
「意外と勘がいいねえ。まあそんなところかな。わたし、すみれ。よろしくね竜胆くん」
「なんで俺の名前を……」
「ああ、それともこう読んだ方がいいかな。『無貌の美姫の愛し子』──って」
「……! おいあんた、どこでそれを」
「さっき名乗ったよね。わたしは菫。あんたじゃなくて菫ってちゃんと呼んで。口の利き方には気をつけた方がいいよ、紫苑のわんちゃん」

 それじゃあバイバイ、とひらひら手を振って菫と名乗った女は姿を消した。ちょうど神保町駅に列車が到着したアナウンスが鳴り、狐につままれたような顔で竜胆は降車する。たくさんの人間でごった返すホームを見渡してみても、あの黒ずくめの女は捉えられなかった。


 ◆◆◆


「……あれ、おかしいな。いつもは開いてるのに」

 ここ数ヶ月ですっかり通い慣れた道を歩き、古びた雑居ビルの地下へと降りてもアルバイト先である「純喫茶・キマイラ」はクローズドの看板が下がったままだった。昨日の締め作業を担当したのは竜胆本人なので、今日は一度も店が開けられていないとすぐにピンときた。
 助手兼店員として働き始めてもうじき三ヶ月目に入ろうとしているが、こんなことは初めてだった。紫苑がどこで寝起きしているのかは知らないが、大抵彼はオープン作業を始める前には店にいる。店番を竜胆に任せて外出することはあっても、これまで丸一日不在にするというのは一度もなかった。
 そういえば紫苑の助手としての仕事以外で、かつシフトの入っていない日に店を訪ねるのは初めてかもしれない、と思い至る。元々プライベートと仕事を分けるタイプの竜胆は、今までオフの日に職場へ来るという発想自体が思いつかなかった。賄い目当てとはいえ紫苑の店を一種の隠れ家として認識するようになるほど、彼の中でキマイラは自宅も学校とも違う、もう一つの居場所となりつつあった。

「あれあれぇ、竜胆くんじゃーん! 久しぶり。こうして会うのは二度目かな?」
「あ……桔梗ききょうさん。こちらこそ久しぶりです。お元気そうで安心しました」
「うん、もうすっかり本調子だよ。あのあと呪いが解けてすぐ火傷もみるみるうちに治ってさ、まあほんとに火傷した訳じゃないから当たり前かもだけど。ちょうど締切がいくつかバッティングしてて、しばらくホテルで缶詰めしてたんだよね。だから、なかなかここに顔出せなくて……心配かけたみたいで、なんだか申し訳ないねえ」
「そんな、俺の方こそあの時は何も役に立てなくて……でも本当に作家さんなんですよね、すごいです。俺は小学生の時、読書感想文書くのにも四苦八苦してたくらい文章書くの苦手で」
「あはは、そんなキラキラした目で見られちゃうと困っちゃうな、大した者じゃないよ。多少名前が売れてるとはいえ稼げる仕事ではないからね、毎日原稿に追われて必死だよ。それより紫苑くんに用事があったんだけど……君、彼がどこにいるか知ってる?」
「いや……それが俺も賄いでも作って食おうと思って、さっきここに着いたばかりなんですよ」

 そっか、と素っ気なく返す桔梗は何やら深く考え込んでいるようだった。相変わらず長い前髪で目元を覆い隠しており、部屋着のようなゆったりした服装に身を包んでいる。片手にPCケース、もう片方の手にスマートフォンを持つ姿は作家というより外出中のエンジニアに見えなくもない。

「紫苑さんに何か用事ですか? 良ければ俺が代わりに取り次ぎますけど」
「ああいや、毎年ハロウィンの時期って都内の術師は総出で警備に駆り出されるんだけど、今日はその打ち合わせに呼ばれたんだよ。打ち合わせっていうか友達特権みたいなもので、今年はどこそこに結界を貼るから避難するならここに来い、みたいな連絡を回してもらえる感じ?」
「……ハロウィンって災害なんですか?」
「一般人にとっては楽しいお祭りだろうねえ。でも僕らみたいに視える人間からしたら要注意デーかな。ほら、よく地獄の釜の蓋が開くって言うでしょう。盂蘭盆、年末年始、そしてハロウィンは地獄が薮入りになるんだよ。特にハロウィンの夜は冥界の扉が開く。現世を怪異や亡者がうろつき、人間を襲う。オバケの仮装をするのは化け物に連れ去られないためなんだよ」

 どこか楽しげに口元をニヤつかせて高説を垂れる桔梗は、その間にもスマートフォンで紫苑へメッセージを飛ばしているようだ。指先が忙しなく動き、頻繁にチャット欄へ何事かを打ち込んでいるようだが、返信どころか既読すらつかないようで小さな舌打ちが漏れている。

「……連絡、つきませんか」
「ダメだねえ。あいつ一体どこの秘境にいるんだか。ったく、出かけるなら出かけるでなんか一言くらい言えっての」
「俺の方も何度か電話かけてみたんですけど、紫苑さん電波の届かないところにいるっぽくて……でも日本で圏外表示になるような場所って」
「離島かそれとも山奥か。離島はないな、あいつは流れる水を嫌うし。となると山奥だけど、霊山の類はあいつの気が乱れるから近寄らないだろうし……うーん、竜胆くんは紫苑くんが行きそうなところってどこか思いつく?」
「分かる訳ないじゃないですか、俺まだあの人と知り合ってから三ヶ月も経ってないんですよ、仕事以外で顔合わせることもないし……あれ、俺って紫苑さんのこと、なんも知らない……」

 竜胆は紫苑が好む食べ物も、どんな映画が好きなのかも、よく聴く音楽のジャンルも、術師としての彼じゃない素顔の紫苑を何一つ知らないことに気づく。お互いに見知っているのは仕事中の一面だ。楽しげに怪異を煽る様子、依頼者に悪態をつくところ、たまに見せる優しい瞳……それらは脳裏に鮮明に残っている。けれども仕事の絡まない、普段の姿というのは一度も目にしたことがない。

「別に紫苑さんのことならなんでも知ってるって訳じゃないけど、さすがに俺、あの人のことなんも知らなさすぎだろ……」
「ふふ。存外、彼に想われてるねえ、君は」
「……え? そうですか? てか今の話のどこを聞いてそんな風に思ったんです?」
「彼ねえ、意外と分かりやすいっていうか直情的なところがあるっていうか……その代表例が、お気に入りを自分から離したがる癖なんだよ」
「普通、気に入ってるなら手元に置いて大事にするもんなんじゃないですか?」
「普通はね。生憎と彼は普通じゃない。それは君もよく知ってるだろ? 紫苑くんは元々、人外の化け物だ。だから大事なものをどうやって大事にしたらいいのか知らないのさ。でも自分が恐ろしい怪物であることは理解している、ゆえに己から遠ざけたがる──妹も、君もね」

 術師として日々活躍する彼が、おそらく「ひと」ではないかもしれない、と竜胆も薄々察しつつあった。もげた首が一瞬でくっつくとか、手から炎やビームを打ち出すだとか、分かりやすい人外らしい要素を見せた訳ではない。だが端々の言動や態度から、どことなく人間っぽくなさを覚えていたのは事実だ。
 だからといって紫苑を殊更に「おそろしい」「あぶない」と感じた経験はない。確かに危うい一面はところどころ見受けられるが(特にあっさり依頼者を見放そうとするところとか)、紫苑が自分や菖蒲や他の人間に牙を剥く可能性は思いつくことすらなかった。おそらくはそれを「信頼」と人は呼ぶのかもしれない。桔梗はくすくすと楽しげに笑って言葉を重ねる。

「彼って面白いよねえ。あんなに人間くさい化け物なんてそうそう居ないでしょ、紫苑くんが君や菖蒲ちゃんや僕らを傷つけるなんて地球が砕け散ってもありえないのに、それを知らぬは本人ばかりなりってね。大切だからこそ遠ざける、なんて昭和の男かっつーの。まあ彼が実際に何年生まれなのかなんて知らないんだけど」
「……そういえば、菖蒲と紫苑さんは兄妹なのに、なんで紫苑さんだけが化け物なんですか? 漫画なんかじゃ、どっちかが妖怪と人間の混血児みたいな設定って見かけますけど」
「なんだ聞いてないのか。紫苑くん本人っていうか、本物の菖蒲ちゃんのお兄さんはとっくに死んでるよ。正確には身体を預けてるって言えばいいのかなあ、なんかそういう契約らしいから。詳しくは聞いてないけどね」
「……え? それ、どういうことですか」
「おっと。やーっと紫苑くんから返事きたー。んもぅ、おっそいんだから! 悪いけど僕先に帰るね、竜胆くんも帰り気をつけてねーそれじゃ!」
「え、ちょ、待っ……もう見えなくなった! 足早いなあの人!」

 重たいショルダーバッグを抱えて桔梗は颯爽と走っていく。近くを流していたタクシーを捕まえてどこかへ行ってしまい、追いかけ損ねた竜胆は呆気に取られた様子で立ち尽くすしかなかった。いくつかスマートフォンに通知が来ているのに気づき、ぼんやりとしたまま彼はそれらを確認する。
 どうやら秘境(仮)から戻ってきたらしい紫苑からメッセージが送られてきていた。今は地方へ出張中であること、今日中に戻れないので店は開けなくていいこと、その他こまごまとした連絡事項が箇条書きで綴られている。タイムスタンプ自体はたった今だが、もしかしたら電波環境の問題で今更になって届いたのかもしれない。

「そんなことより教えてくれよ……紫苑さん、あんたは一体、何者なんだ……? 俺が知ってる紫苑さんはなんなんだよ……!」

 慟哭にも似た青年の小さな叫びを聞き届ける者はどこにもいない。今は。

 ──空園葵そらぞのあおい:著「地に満ち、増えよと神の宣う」から本文を一部抜粋

(前略)
「……あつい、いたい、くるしい……おなかすいたよ、おとうさん……おかあさん、誰か、誰でもいい、助けて……」
 暗い、陽の射さない、月明かりさえ通さない、あまりにも暗すぎる"おんどう"に少年の今にも消え入りそうな声が響いている。救いを求める幽き声は御堂の外には一切届かないようで、声変わりの時期には程遠い高く抜ける声は、ただ虚ろに御堂の中で消え失せていくだけだ。
 暗闇の中でなければ誰もが見入るほどに美しい見目をした少年は、しかし襤褸にも等しい薄っぺらな肌着一枚だけを着せられ、麻縄で柱に四肢を繋がれた状態で何日も囚われの身になっているのだった。食事は日に一度、出入り口の隙間から重湯らしきものを差し入れられるだけで、食べ盛りだろうにおかずもなければ菓子の類もない。
 湯浴みもできず、暇を持て余す道具もなく、気が狂いそうなほど暗く狭い部屋に何日も、何日も。訪ねてくる者はおらず、ましてや救いの手が差し伸べられることもない。手足の自由をも奪われ、満足な眠りも許されず、ただ無為に一日が過ぎて「お勤め」が終わる瞬間を待つしかない。まさに生き地獄だった。
 戒められた手足にはかすり傷がいくつもこさえられて痛々しく、治りきらないうちに新しい傷がつくせいで化膿し黄色く濁った膿が滲んでいる。風呂にも入れないせいで肌の表面には垢がこびりつき、どこからか沸いた虫が這い回る。それを払い除けることすら拘束されていては不可能だ。
 少年が何か悪事を成したとしても、これほどに非人道的で前時代的な「しつけ」……否、虐待は認められる訳がない。どころか彼は何もしていないのだ。たとえば妾の子であったとか、不具であるとか、少年に害されるに足る理由などは何もなかった。では、なぜ斯様に幼い子供が命を失いかねない状況へ追いやられているのか。
 それは、少年が美しいからである。光を弾いて輝く黒檀の髪に、烟るように大きな瞳は陽光を透かして煌めき、性差を感じさせぬ美貌はまさに白皙の美少年と呼ぶにふさわしく、なよやかな手足や桜色の爪先さえもが優美であった。年を経れば更にその美はより輝かしく磨かれることだろう。
 古来より、魔なるものは美しきを好む。悪しきもの、邪なるもの、人々から時に「ばけもの」と呼ばわれる彼らは、きよらなるもの、美しきものをこの上なく愛し、求める。ゆえに少年は「選ばれた」のだ。この地を守る恐ろしき鬼女にして、豊穣を約束する女神──「無貌の美姫」に。
 美姫は七年に一度、伴侶つがいを一人、村人に要求する。伴侶として選ばれるのはその年に七つを迎える子供だ。選定された子は「女神の愛し子」あるいは「神おくりの子」と呼称され、俗世の穢れから身を守るため七日七夜"おんどう"に籠る。
 元々の意味合いとしては霊性を得るため精進潔斎を行うのが習わしだが、時代が下るにつれ子供は美姫への捧げ物としての側面を持つようになった。それには村を襲う飢饉が関係している。
 東北の雪深き山々、その奥地にひっそりと佇む村は痩せた土地ゆえ稲作には向かず、その上やませが毎年のように吹き荒れ冷害をもたらす。凶作となれば村の人々は食べていけず、必然的に「口減らし」が密かに行われるようになった。愛し子とは、神おくりの子とは、つまり神への贄というお題目のために命を摘まれた子供らを指すのだ。
 ならば、この飽食の時代に……飢えも渇きも無い恵まれたこの国で、口減らしを目的とした儀式を遂行する意義などあるだろうか。否、あるはずがない。悪しき風習は断じて現代に許してはならぬものであり、本来ならば風化し消え去るものでなければならない。しかし依然として儀式は今なお行われ、罪なき幼子が犠牲となり続けている。
 本来なら少年も過去に死んでいった子供らと同じように、その命を散らすはずだった。だが。七日七夜を越え、八日目の朝。少年は命をながらえ、奇跡的に生き延びた。とうにくだばっているものとばかり決めつけていた村人は、瀕死の状態ながらも意識を留めている少年を見て、このように述べたとされる。

「この子は正真正銘『無貌の美姫』の愛し子である、と──」
(後略)


 ◆◆◆


 ハロウィン当日。この日はちょうど土日と被っていることもあり、イベントが開催される渋谷はどこもコスプレした人達で溢れかえっていた。ワイドショーのリポーターやその他メディア関係の人間、バズ狙いの一般人も野次馬目的に押しかけ、混雑は時間が経つにつれより酷くなる一方だ。
 黒いベルベット風の生地で仕立てたマントを羽織り付け爪ならぬ付け牙を嵌め、ついでにコウモリの羽をイメージしたカチューシャを頭につけた竜胆りんどうは、うんざりするほどの人出に既に帰りたい気持ちでいっぱいになっていた。とはいえ今日はれっきとした仕事で来ているのであり、報酬も発生するとあっては帰りたくても帰れない。
 同級生のふじあざみによる動画配信ユニット「QQQ」の特別企画に出演すると決まったのはつい先日のことだ。どうしてもゲストとして顔を出してくれと頼まれると、ノーと言えない日本人である竜胆は断りきれず結果、了承するしかなかった。一応は藤へのお礼も兼ねている、という理由もあったが。
 せめてもの抵抗として藤の恋人であり腐れ縁の同級生・菖蒲あやめにお願いして、元の顔を誤魔化すためのメイクを施してもらっている。おかげですっぴんの自分とは似ても似つかないヴィジュアル系バンドマンもかくやという凄まじい顔面になったが、周りのコスプレ連中も似たような外見なので、うまく紛れられたようだ。
 その菖蒲、藤、薊の三人とは現地集合する手筈になっていたものの、こうも混みあっていては待ち合わせ場所へ辿り着くことも難しい。通勤ラッシュの山手線かと言いたくなるくらいぎゅうぎゅう詰めで、行きたい方向へ足を向けるのも困難だ。せめて牛歩状態の人混みから抜け出したいが、周囲に空いているスペース自体さっぱり見当たらない。
 臨時で作成したメッセージアプリのグループに遅れそうな旨を伝えてみると、やはり三人も混雑に四苦八苦しているのか、返信どころか既読さえつかないような状況だ。この混み具合ではスマートフォンの画面を見るのも一苦労だろう。連絡を取るのは無理だと判断し、まずは集合予定場所を目指す。
 時刻はそろそろ夕に差し掛かろうとしていた。夏場に比べて日が短くなり、とっくに日没を過ぎた渋谷の上空は藍色に染まり始めている。終日好天だったからか西側はまだほんのりと明るく、夕日の最後の残照が今にも消えようとしていた。ギラギラと輝く看板広告のネオンや高層ビル群の明かりに照らされ、夜間でも真昼のように眩しい東京の街は、まだまだ眠る気配などない。
 けれど、ふと目を眇めれば仮装した人々に紛れて人外のものが、そこかしこを練り歩いているのが視界に入る。一つ目のもの、複眼のもの、手足のどれかが多いもの、逆に少ないもの、鱗の肌を持つもの、尾や角を携えたもの、通常フィクションでしかその姿を見ることのできない異形どもが平然と現代日本の大都市を闊歩している。
 今宵はハロウィン、確かに百鬼夜行にふさわしい一夜と言えるだろう。

「竜胆くん! ……やっと見つけた、ほんっと探すのどんだけ苦労したと思ってんの、連絡しても通じないしさ!」
「え……あれ? 紫苑しおんさん? なんでここに。あ、そういや今日は術師総出で警備するとかって桔梗ききょうさんが言ってたような」
「そうだよ。他にも杜若かきつばたとか色んな連中が君ら一般人に被害が及ばないよう警戒してる。だけど、だからって油断はしないで。今はまだ早い時間帯だから『こちら側』に来ている怪異の数も少ないけど、これからどんどん増えていく。君を気に入って『向こう』へ連れていこうとする輩がいないとも限らない……っていうか、なんでこんな日に限って出歩いてんの!? 俺、前にハロウィンの日は大人しく家でじっとしてろってお願いしたはずだよね!?」

 紫苑から、この日はどこにも出かけず自宅待機しているようにと事前に忠告を受けていたことを忘れた訳ではない。目立ちたがり屋ではないにせよ、にぎやかな都会のハロウィンに憧れる気持ちがないではなかった。田舎ではまだまだ子供の行事という認識だが、東京ではめいめいに仮装した大人が楽しげに騒ぐ姿に興味をくすぐられたのは確かだ。
 実のところ竜胆が二人の頼みを受け入れたのも渋谷のハロウィンに参加する口実が欲しかったから、という理由があった。とはいえ、これほどまでに人外のものが跋扈しているとは予想外ではあったが。同じ「ばけもの」である紫苑はもちろん知っていたからこそ竜胆へ忠告したのだろう。
 それが分からない。紫苑は一体どんな理由や目的があって竜胆を守ろうとしているのだろうか。助手だから、店の従業員だから、それだけなら簡単に納得できた。だが彼はもっと何か大事なことを竜胆に伏せたままでいる気がしてならない。そもそも人外が人間を護ろうとする、というのがずっと理解できなかった。何か思惑があるとしか思えなかった。

「紫苑さん。最近バタバタしてて切り出せなかったけど、俺はずっとあんたに訊きたかったことがあります。あんたと菖蒲の関係についてです。あんた、本当は何者なんだ? ……なんで、あいつの兄貴のフリなんかしてる? 何が目的で俺に近づいたんだ。どうして助手なんていう『名目』を使ってまで俺を手元に置いた? なあ、あんたは肝心なことに限って、いつもいつもいつも俺に話してくれないよな」

 つい詰問するような口調となってしまい、追い詰めたい訳じゃなかったのにと竜胆は口を閉ざす。普段と違い、問い詰められた側の紫苑は、いつになく困り果てた様子で言い淀んでいた。話したがっているかのような、話すことを禁じられているかのような、微妙な表情は人外だというのにひどく人間くさい。

「ごめん。……言い過ぎた。でも、なんで紫苑さんは大事なことを俺に隠すの。そんなに俺が信用できない?」
「違う。巻き込みたくないだけ。こっちの事情に首を突っ込もうとするのはよしなよ。君のためにならない……それとも、死んでもいいの?」
「そんなつもりは……正直、死にたくはねえよ。でも紫苑さんにこれ以上隠し事されんのは、もう嫌だ。蚊帳の外にされるのも」
「あっそう。なら言うけど、君は自分に憑いてるモノが何かは理解してる? そいつが君に何を求め、何を欲し、何を成そうとしているのか──」

 どこか投げやりな態度で説明しようとした紫苑がふいに口を噤む。限界まで見開かれた瞳は竜胆の頭上より少し上へと向いていた。つられて自身の後方へ目をやり、竜胆もまた瞠目する。

『それいじょうはなしたら、わかっているな、ひととあやかしのまざりもの。それともよほど、わたくしにころされたいとみえる』
「うるさい、そのお喋りな口を閉じろ、化け物が」
『きゃはは! おまえも、その"ばけもの"のくせに! よくほえるいぬだこと!』
「なんだこいつ……いや、でも確かどこかで」
『おや。わたくしはかなしい。ずうっと、ずーっと、わたくしはおまえのそばにいたのに。きづかなかったとはいわせぬよ、おまえはみてみぬふりをしていただけ。つごうのわるいことから、いやなことから、いつもおまえはめをそらしていたね』

 空中に女が一人、浮かんでいる。かろうじて女だとわかったのは、お太鼓にした帯と身に纏う正絹の着物が女物だからだ。
 袖を通さず肩に羽織った打掛けにも着物にも、金糸銀糸で牡丹に蝶に月夜が刺繍された様は、まるで深窓の令嬢のようでもある。結いもせず背へ流れる足首を超えるほど長い黒絹の髪は、風もないのにふわりとたなびいている。
 けれど──貌が、ない。のっぺらぼうともまた異なり、顔があるべき場所だけが、まるで霞で覆われたかのようにはっきりしない。顔のない化け物、おもてを持たぬ姫君の名を竜胆はかつて、どこかで耳にしたはずだった。そう、もう二度と帰らぬと決めた故郷の地で。

「『無貌の美姫』……お前こそが竜胆の故郷で太古の昔、神へと祀られた異形のものであろう。なぜ、この者に構う? これはお前のような高位の化生が気にかけるほどの逸材か?」
『ふふ。それを"よそもの"のおまえなどに、なぜおしえてあげなければならないの?』
「テメェを祓うためだよ、この性格ブスのクソババアめ! いい加減にガキにつきまとってんじゃねえ、このショタコン女のサイコクズが!」
『……うふふ、ふふ、あははっ、おもしろい……ほんとうに、おまえはおもしろいあやかしね! そのどきょうにめんじて"げえむ"をしてあげよう。きょうがおわるまでわたくしから、このまちのひとのこらを──のこらずまもってみせなさい。わたくしはやさしいから、ひとつだけ"はんで"をあげる。いちじかんだけ、じゅんびするきかいをあげよう。けれど、もしひとりでもとりこぼしたら……わたくしは"これ"をつれていく』

 ゾッ、と背筋に冷たいものが滑り落ちた。指先まで完璧に整った美しい手のひらが、そっと竜胆の頬を撫であげる。それだけで心臓を鷲掴みにされたかのような心地となった。緊張と恐怖で痛いくらいに心臓がドクドクと脈動する。
 今のは「いつでもお前を殺せる」という宣言に他ならない。脅しではない、ただ事実を伝えてきただけだとわかって、竜胆は声も出せないほどの畏怖を精神に叩き込まれる。呼吸の仕方さえ忘れてしまいそうな恐ろしさの中、ふと肩にあたたかな感触が伝わった。女のものと違う、ごつごつと硬く骨ばった掌は紛れもない、紫苑のものだった。

「いいだろう。くだらない余興だが、この俺の前に堂々と姿を晒した度胸に免じて乗ってやる。せいぜい足掻いてみせろ、俺が勝つ」
『たのしみね、おまえがわたくしにくっぷくし、ぜつぼうするのが……ではまたあいましょう、にえのこ。つぎはわたくしとともに、かくりよへとまいりましょうね』

 少女のようにも老婆のようにも聞こえる、鼓膜を引っ掻くような笑い声を喉奥で鳴らして「それ」はあっという間に見えなくなった。周囲には先程と変わらないざわめきが戻ってきており、あの女を中心とした結界の中に閉じ込められていたことを遅れて悟る。

「ちっ、面倒なことになっちゃったな……! 悪いけど楽しいハロウィンはひとまずお預けってことで。ごめんね。さっそくだけど仕事の時間だ」
「紫苑さんが挑発するからでしょ、全くもう。ていうかどこであの女のことを知ったんですか? 美姫については村の人間くらいしか知らないはずなのに」
「だから聞きに行ったんだよ、直接。わざわざ君の地元まで足を運んでね。いやー、電波もろくに通じないような土地だったから骨が折れたよ」
「……え!? マジで!? ほんとにあんな秘境にまで行ったんですか!? それで収穫はありました?」
「まーね。でなきゃあの女のゲームとやらになんか乗っからないって。まずは渋谷中の百均を全部巡るぞ、そんで合羽橋で買い物」
「了解です。……あ! そういや、あいつらとの予定が……どうしよう、こっち側のことを知らないやつもいるし、なんて説明すれば」

 あたふたとスマートフォン片手に慌てる竜胆だが、紫苑は少し考え込むとおもむろに彼の携帯を横合いから取り上げた。さっとグループ内のトーク履歴を遡り話の流れを確認するや、凄まじく早い打鍵でメッセージ欄に何事かを打ち込み始める。

「あのう……紫苑さん? 何してらっしゃるんです、人のケータイで」
「ちょうどいい。藤がいるんなら話は早い。待ち合わせ場所ってハチ公前? じゃあ杜若あいつと合流できるな。あのバカに誘導してもらいつつ、例の配信動画だっけ? あれ始めさせちゃって。暗示かけて外に逃がす」
「は? そんなことできるんですか!?」
「安心しな。術師の言葉は言霊だ。必ず効く。それに──藤と薊が始めた動画は渋谷中の人間が見るよ、見てみなよ街中にある大量のデジタルサイネージをさ! それ全てジャックすれば、同時に全員に暗示を仕込めるって寸法さ」
「いや、それいいの……? てかどうやってそんなことを」
「忘れたの? 俺は化け物だよ」

 時刻が夕から夜へと移り変わる中、夜空を照らす月の光を受けて、青年は酷薄に微笑んでいる。無造作に束ねた髪も、伏し目がちの三白眼も、線の細い体躯も全て普段と何も変わらないはずなのに──纏う雰囲気だけが完全に異なっている。
 こんなにも胸の奥がざわつくような、まるでばけものを目にした時のような》、厭な気配を感じさせたことなど果たして今まであっただろうか。

「……行こっか。時間が無い。早く準備を済ませないと本当に負けちまう」
「わかりました。あの、俺は何をすればいいですか」
「そうだなあ、とりあえず杜若と三人組に合流して。あいつらについててやってくれる? ……菖蒲をよろしく頼むよ」
「もちろんです。だけど全部終わったら、ですよね。もちろん紫苑さんも一緒ですよ。今更仲間外れなんて許さないですからね」

 いつの間に杜若宛の連絡や段取りを終えたのか、各ビルに設えられたサイネージが突如として切り替わる。竜胆と紫苑が問答している僅かこの短時間で、本当に藤と薊は配信の準備を整え、異例の電波ジャックに成功したのだ。もっともジャック自体は紫苑が細工を施したのだろうが。
 きぃん、とマイクがハウリングを起こした直後、見慣れた友人らと相変わらず厳つい無表情の杜若がカメラに向かっており、大音声で絶叫するさまが視界に飛び込む。術師の発した一言は端的で、明瞭だった。逃げろ、というただ一単語をきっかけに、雑踏が規則的に動き始める。
 パニックを起こすでもなく冷静に、機械的な足取りで各々バラバラの方角へと歩き出す仮装行列を尻目に、二人は近くの百円均一の店へ入る。暗示が効いたのか既に店員も退避済で、店中から集めた大量の鏡をセルフレジで会計しながら、竜胆は日頃何気なく使っている最先端技術に感謝した。
 その足で次は合羽橋まで向かう。タクシーを飛ばし、できる限り時間の短縮を試みるが、この時点で彼女が設定したタイムリミットまで猶予はほとんど残っていなかった。さすがにこの辺りは暗示の効果が及んでいないからか、買い物客や仕事帰りのサラリーマンなどが行き交っている。

「ところで、なんでこんな切羽詰まった状況なのに俺らは買い物なんかしてるんですか」
「昔から魔物は鏡と刃を嫌う。本当は銅鏡とつるぎと勾玉の三点セットがあればちょうどよかったんだけど、さすがに急場で用意できるもんじゃないからね。鏡は質より量作戦でどうにかなるけど、刃だけは良いものが要るから」

 などと分かるような分からないようなことをのたまいつつ、どうやら紫苑とは顔なじみらしい刃物屋の店主から、ポン刀と見紛うほど刃渡りの大きな包丁を彼は受け取る。鞘にも納められていない、刀身が剥き身のそれは果たして料理道具なのかも怪しい。本来は鮪などを解体するのに使うようだ。

「よし! 準備は整った。あの女を呼び出すぞ」
「え!? ここで!? 周りにたくさん人いますけど大丈夫なんですか?」
「だいじょーぶ。美姫はさっき『あの街の人の子』と言った。あの街ってのは渋谷だ。浅草の人間は含まれない、つまり彼女は手を出せない」
『そのとおり。うふ、ばれちゃった。まさか"あんなて"をつかってくるなんて。ほんとうに、おもしろいあやかしね。おまえは』
「小賢しいって言いてえんだろ、力技しかやり方を知らないお前のような脳筋と一緒にすんなよ」

 歯を見せて笑う紫苑は、買ったばかりの包丁をまっすぐ美姫へと突きつける。苦手なはずの刃を己の心臓目掛けて切っ先が向けられてもなお、彼女は余裕そうな態度を崩さない。それだけ自信があるということだろうか、となんの力も持たない竜胆は、彼らのやり取りをヒヤヒヤしながら見守るしかなかった。

『ふふ、ふ、ふふふ、してやられちゃった。わたくしのまけね。おまえのこうじた"さく"のせいで、だあれもころせなかった。おかげであちこちさまようはめになったのだもの、てきながらあっぱれ、というしかない……でも、しょうぶはここから』
「ああ。そうだな。ここからが──本番だ」


 ◆◆◆


 結界に閉じ込められるのは先刻と今とで本日二回目だった。気がつくと周囲の景色は、静寂に包まれた深い山の中に切り替わっている。ミミズクの鳴き声が遠くから聞こえ、吹き荒ぶ風にそよぐ葉擦れの音が響き、月の光も枝葉に遮られて届かない暗闇に飲み込まれた森の奥。
 今にも崩れてしまいそうな、朽ち果てた社が目の前にあった。元は朱色に塗られていたのだろう鳥居はとうに根元から折れて地に転がり、風雨に晒され続けた御堂は手で軽く押しただけでも倒壊しそうなほど脆くみえる。手を合わせにくる者もなく、ただ廃れるのを待つだけの、それは神の墓標だ。
 竜胆にはその全てに見覚えがある。当然だった。ここに七日七夜もの間、囚われていたのは他ならぬ竜胆本人なのだから。正絹の着物を身に纏い、頭には麻の葉の冠を、襟の合わせは左前に、手足は縄できつく結ばれて。神へと捧げられる「贄」となり、この祠の前へ捨てられたのだ。
 あれが廃棄でなくてなんだというのか。結局は「要らなかった」から、「よそ者の子供」だったから、ただそれだけの実にくだらない理由で竜胆は死を乞われた。死を願われ、葬られたのだ。あの日、竜胆という人間は確かに一度、死んだのだろう。今、ここに息をしているのは竜胆という子供の亡骸だ。

「そっか。今度こそ、もう俺のことなんて誰も『要らない』のか」

 淡々と感情の乗らない声で呟き、竜胆は御堂の中へと入ろうとする。だが後ろから肩を掴まれて強引に後ろへ下がらせられ、それ以上先に進めなくなった。

「……離せよ。誰だか知らないけど、俺なんかもうどうでもいいんだろ」
「んな訳あるか、ばかたれ。目を覚ませ、意識を開け、思考を止めるな。お前は何者だ? 思い出せ、自分がなんなのかを」

 聞き覚えなどないはずなのに、聞き慣れた声が、風の音にも木々のざわめきにも掻き消されることなく耳朶を打った。徐々に意識も、視界もクリアになる。たった今、自分が何をしようとしていたのかを悟って、彼はその場に膝をついた。

「え……あ、ああ、あれ……俺、なんで、今ッ」
「そこに入ったら終わりだった。よかったね、間に合って。御堂おんどうは美姫の領域だ、そこに踏み入るっていうのは死と同義だよ。君は誘われたんだ。全く卑怯な真似しやがって、あのクソ女め」
「今更ですけど、あんなおっかないのに対してよくそんな物言いできますね。怖くないんですか?」
「そりゃ自分と同種のモノに怖いもクソもある訳ないじゃん。君ってちっちゃい子供にビビるの?」
「さすに年下のガキ相手に怯えたりは……え、待って今あの女を子供扱いした?」
「だってあいつ、せいぜい五百か六百ってところでしょ。俺らの世界じゃまだまだ鼻水垂らしたクソガキだよ。クソババア呼ばわりしたのは、ほら女の人ってババア扱いしたら怒るでしょ、だから」
「だから……だから!? 何!? そのせいで俺らはこんな目に遭ってるんですが!?」

 恐怖も忘れて地団駄を踏みながら怒りを露わにする竜胆へ、けろっとした顔で紫苑は告げる。

「君を助手にする時、確かに言っただろう。『君に憑いてる"それ"も俺がなんとかしてやる』──ってね。術師の言葉は言霊だ。だから決して約束は違えない。履行の時がきたんだ……代償は、しっかり支払ってもらうけどね」

 言い終えた瞬間、青年の肩から指先にかけて「なにか」に切り落とされた。ゴトリ、と鈍い音を立てて服ごと切断された片腕が地面に転がり落ちる。

「……え?」
「ありゃ、来ちゃった。ったくも、ガキは空気のひとつも読めやしねえんだから」

 吐き捨て、紫苑は残ったもう片方の手で包丁を構えた。夜陰に紛れてこちらを狙う美姫を気配だけで探り当て、的確に一撃を見舞わなければならない、あまりに鬼畜難易度のゲームを強いられてもなお普段通りのゆるい笑みを浮かべている。

「大変、手当てしないと」
「大丈夫。それより……『来る』」

 言葉通りだった。音もなく、今度もまた死角から、彼女は「顔より大きな口」を限界まで開き、紫苑を頭から喰らおうと迫りくる。生き物のように蠢く舌が、血に汚れた乱杭歯が、唇から滴る唾液が、竜胆の目にはスローモーションとなって映る。
 そうだ、鏡。あれを使えば紫苑のサポートができるかもしれない、と慌てて「たまたま」ポケットにしまい込んでいた手のひらサイズの手鏡を美姫に向けてかざした、その時だった。

『……っ、ぎぃ、ぁあああああああ!! この、愚かで醜い小僧の分際で! わたくしを謀ったな! よくも、よくもおのれ、吾を映すなど戯けた真似を……!』

 夜気そのものを震わすような大絶叫が轟き、森全体を揺るがした。金切り声を迸らせながら、のたうち回る女を見逃すような紫苑ではない。食いちぎられた傷口から大量の血を噴き出させつつも、全力を込めて包丁を振りかぶり──女の首を一刀両断する。まっすぐ切り裂かれた頭部が中空へと舞い上がった。

『おのれ……おのれ、ゆるさない、貴様ら絶対、地獄の底へ叩き落としてやる……!』
「やってみろよ生首風情が。テメェのしょうもない遺言のろいなんざ、鼻で笑って蹴飛ばしてやるわ」

 紫苑が天へ向かって中指を突き立てた途端、美姫の肉体は黒い塵と化し、たちまち消え失せた。あとには着物と打掛けだけが残されており、それすらも結界の崩壊と共に消え去っていく。

「終わった……? え、ほんとに?」
「本当。マジで。リアルリアル。よかったじゃん、もう竜胆くんはあの女に殺されることはないよ。これからは長生きできるね。本当ならあいつに喰われて二十歳前に死ぬ天命だったんだよ?」
「なにそれ知らん……聞いてない……」
「あっはっは。そりゃ言ってないからね。ちなみに杜若は知ってたよ、君を慮って告げずにいたんだろうけど。あいつって年下には優しいもんね、弟弟子の俺には容赦ないくせに」

 幻影のような本州の北端にある山奥から、首都の喧騒へと戻ってくる。立ち並ぶ店の明かり、街灯の光、車のテールランプに溢れた、輝くような都会の街並みは、闇に慣れた瞳には眩しい。あまりの眩さに、勝手に両目から涙が溢れてくるほどに。

「いっけね、杜若から連絡きてた。あっちはとっくに撤収してるってさ。暗示も解いてるから、今頃の渋谷は乱痴気騒ぎ状態だろうねえ。どうする、君は向こうに合流する?」
「……それ、俺が『そうする』って言ったら、あんたはどうするんですか。俺さっき言いました。紫苑さんも一緒ですよ、って。言葉は言霊、なんですよね?」

 噛みちぎられたはずの片腕は、切断された名残りもなく見事にくっついていた。そもそも服すら綺麗に元通りだなんて、魔法じみた光景などありえない。仮に結界の中の出来事だから現実に反映されないのだとしても、四肢をもがれて苦痛ひとつ浮かべず反撃に転じること自体、化け物でなくてなんだというのだろう。ああ本当に、この青年は「ひと」ではないのだ。

「さよなら、竜胆くん。もう『お支払い』の時間が来ちゃった。俺が君に要求する代償はただ一つ──俺に関する全ての記憶だ。忘れてもらう。この二ヶ月あまり、一緒に仕事した経験も何もかも」
「嫌です。お断りします。それ以外にしてください」
「……え? ……は? 今、なんて」
「嫌だつったんだよこの馬鹿。一度で聞けないんですかこの馬鹿」
「二回も雇い主に向かって馬鹿って」
「突っ込むとこそこですか? ともかく他にないんですか、他に。いやあるでしょ。たとえばこの眼とか」

 元より竜胆には視える力など必要ないものだ。そんなものがなくても普通に生活できることは周りを見ていれば分かる。それに助手として共に働けなくても、視えないことで紫苑との繋がりまでも断たれるとは思わなかった。

「……視える目がなかったら自衛できなくなるよ。また変な生霊とか怪異に取り憑かれちゃうかも」
「見えなきゃ居ないのと同じですよ」
「いや、まあ、そりゃそうかもしれないけど! ていうか俺とサヨナラしたところで別にどうってことなくない!? たった数ヶ月の記憶くらい、別にッ」
「じゃあ紫苑さんは──楽しかった思い出を全て消されるとしたら、どう思いますか?」

 問い返され、彼は大量の苦虫を噛み潰したような顔で歯噛みした。二の句が継げなくなった紫苑へ、竜胆は淡々と畳み掛ける。

「この何ヶ月か、俺はそりゃ怖い思いもいっぱいしましたけど……楽しかったですよ。紫苑さんと一緒に働くの。時間にしたら短いけど、でも楽しい時間ってあっという間にすぎるものじゃないですか。俺は失いたくないです。ほんの僅かなものであっても。もう二度と、何も忘れたくない」

 正面からまっすぐに視線を合わせて言い切られ、紫苑は黙りこくったまま地面へと顔を背ける。沈黙は肯定しているのと同じだった。自分との時間を惜しんでくれているんだな、というのが分かって、こんな時なのにも関わらず竜胆は少し嬉しくなる。

「ねえ紫苑さん、あんた意外と分かりやすいですね」
「うっさいな。……ほんとにいいの?」
「二言はないですよ」
「あっそう。後悔すんなよ」
「する訳ないでしょ。俺達まだまだ『これから』なんだから」

 泣き笑いの表情で、紫苑は竜胆の目元へ指先を添える。笑った顔も怒った顔もこれまで何度か目にしたけれど、そういえば泣き顔は初めてだな、と思いながら青年は静かに瞼を下ろした。


 ◆◆◆


「ねえ、本当に消さなくて良かったの? 彼、きっとこれから紫苑くんのせいでいーっぱい苦労するんだろうなあ、これから」
「……うるさいですよ師匠せんせい。肝心な時に来てくれないくせに、一丁前に説教ですか。あなた、あのバカに余計なこと吹き込んだでしょう」
「失礼だなぁー、助言だよ、助言。ちょっと生意気な口を利かれたから、人生の先輩として世間の厳しさを教えてあげただけ。でも結果的にうまくいったでしょう?」
「はっ、どうだか。それよりほんとに何しに来たんです?」

 とうにハロウィンの夜は終わりを迎えていた。日付は変わり、現在は零時を過ぎている。渋谷の街はまだまだ眠りにつく気配を見せず、酒の入った若者による暴挙があちこちで起き始めていた。
 騒がしい中心部から離れ、人通りの途絶えた路地裏ですら生ゴミが散乱し、微かに悪臭も漂っている。不衛生極まりない状態だが気にした風もなく、紫苑は大の字で寝転がっていた。表情も顔色もいつもと変わりないが、付き合いの長いすみれだけは青年のなりをした異形の疲労を見逃さない。
 夜の闇よりもなお黒く、暗い格好をした女だった。背を覆う黒髪に黒い双眸、甘やかな美貌に差し色のないダークスーツという佇まいは、仮装している訳でもないのに死神のような印象を与える。あるいは魔女であろうか。口元の艶ぼくろが特徴的な、その女は地に伏せる愛弟子をどこか軽蔑するような眼差しで見つめている。否、観察していた。

「カワイイねえ、紫苑くんのわんちゃん。一体どうやって手懐けたの? 今度わたしにも教えてよ」
「ハッ、やなこった。犬が欲しいんなら店にでも行けばいいんじゃないですか?」
「やだなあ、もうヒトを売り買いできる時代じゃないでしょ? ああでも外つ国なら売っているところもあるか……そのうち買い付けに行こうかな」
「相変わらず倫理がねえな……」
「ふふふ、お若い頃にさんざん都で暴れ散らかしてたイキリ野郎の紫苑くんが何か言えた口かな? 竜胆くんにチクッちゃおっと」
「頼むマジでやめてくださいよ! 黒歴史なんだよ!」
「やーだ。もう決めたもん。あ、いっけなーい! 危うく忘れるところだった。今日はお知らせしに来たの。近々、都内の術師を集めて大きな会合を開くそうだからキミも必ず参加してね。絶対だから。もしサボったら──」
「……分かってますよ。その場で打首でしょ。術師あいつらの人外差別には困ったもんだ。身内には激甘なくせに……」

 ぶつくさ言いつつジト目で師匠を睨んでみるが、彼女はどこ吹く風といった調子で音階のずれた「きらきら星」を鼻歌で奏でている。泣く子も黙る最強術師、鬼より鬼、その他悪魔だの鬼神だのと数々の異名を頂戴する女術師は大抵なんでもできるが、なぜか音楽の才能だけには恵まれなかった。
 もはやきらきら星なのかどうかも怪しいそれにうんざりしつつ、紫苑はスーツの胸ポケットから潰れた煙草ケースを取り出す。定期的に仕入れている、怪異が嫌がる香木をいくつかブレンドした煙草もどきは、雑魚はもちろん紫苑当人にも覿面に効く。
 それに火をつけ、白檀や伽羅などの入り混じる煙を吸い、呼気と共に吐き出した。くゆる紫煙の向こうで彼女は感情の読めない笑顔を湛えている。

「それじゃあ確かに伝えたから。日付は追って知らせるよ、たぶん杜若くんが。わたしはそろそろ帰るとするよ。──またね、紫苑くん」
「できれば二度と会いたくないです。あんたが生きてるうちは」

 ひらひらと手を振って、華奢なシルエットが喧騒の中へと掻き消えていく。化け物よりも化け物らしいと讃えられる女の後ろ姿を見送り、甘さと苦さの混じり合う馥郁を吸い込んで、紫苑はふと天上へ視線をやった。ビルとビルの谷間からでは、都会の光にかすんで星は一粒たりとて見えない。かつては満天の星空が、この街が江戸と呼ばれていた時分にはおがめたのにと苦笑して、すぐに笑みを消す。
 スラックスのポケットに突っ込んでいたスマートフォンが着信を知らせていた。今はもう仕事の依頼だけではないことを、喜べばいいのか困惑すればいいのか分からなくなりながらも──まあいいか、と脳内で呟く。まさか己が友達からの連絡なんてものを楽しみにする日がくるなんて、と我知らず自嘲気味の笑みがこぼれた。

「……あいつと俺との関係に今更、名前なんて要らないか」

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