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モノが壊れる時と鬱 それは破壊と再生

身の周りの物が立て続けに壊れてしまうという経験は
誰にもある事だと思います。

それをたとえば
次のステージへ行く時へのステップだと
言う人もいるでしょう。
なぜなら破壊と再生はいつだってワンセットであるから。

わたしはディズニーシ―の
タワテラが大好きです。

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なぜなら、あんな高い高度なところまで連れて行かれて
急降下するときに
「いや、待て。死ぬかも」と思います。
でも、結局は死なずに
「あー死なずに済んだ。良かった」となる。
で、もう1度乗るとやっぱり
「いや今度こそ死ぬ。間違いない」とか思うのだけど
でも死なないわけですよ(笑
前に行った時に3回くらい連続して乗って
一緒にいた友達に
「変態」と言われようとも、今度は5回やってみたいとか
思うわけです。

わたしは変態なので破壊と再生が好きなのかもしれません(笑

真面目な話に戻りますが・・
わたしが去年、鬱を発症した時に
これぞまさしく自己の破壊だったわけです。

これは全く先ほどのタワテラの話じゃないけど
望んでそうなったわけではありません。

気が付いたらそうなってた・・

恐ろしい事に鬱は働く意欲を奪うのです。
経済的な自立すら許されなくなります。
そして、誰かに相談する言う気持ちすらも
奪われてしまいます。

ただただ悲しくて涙が出て。
わたしはあの日のことを想い出すと
西日が差す部屋にずっと取り残されたように
居続けていました。
飼い犬のあーちゃんがだけが
たまに私のところへやって来ては
「あんた、妙なことを考えてるんじゃないだろうね?」
という顔でわたしを見上げていました。
今私がここで死んだら
あーちゃんが第一発見になる。。

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そしてきっと、うちのにいやんは
母親が死んだのは自分のせいじゃないかと
思い悩んでしまうかもしれないと。・・と思い。
せっかく社会人になれたのに、彼にそんな重い十字架を
この先ずっと背負わせるわけには行かない。
いかんいかん。私は何を考えているんだと
我に返り、そしてこの思考を何度も繰り返していました。

人の言葉を借りて言うと
ターシャ・ユ―リックという人が書いた
「インサイト」という本の中に
「破壊に向かう思考の形態は・・反芻である」
であると書かれています。
思考は反芻モードに入った途端正しい判断を失う。
反芻は何の役にも立たない・・

で・・私は反芻を繰り返し、破壊していったわけですが・・
言葉の通り・・
破壊と再生はワンセットなのです。

再生をしていくにあたり・・
わたしは色んなものを手放しました。
まず自分のやってきた仕事を全て手放しました。
あれだけ大事にしていた神棚でさえも
神社へ行ってお返しをしてきました。
そして、引っ越しをする時に
ありとあらゆるものを捨てました。

その中には子供の頃からあったアルバムさえも
廃棄したのです。もちろん、卒業アルバムその他もろもろ。
子どもの頃の写真はきっと他の兄弟のアルバムに同じものがあるだろうと
思ったし、卒アルについてはさして思い出すほど輝かしい思い出が
あるわけでもない(笑
大事な友達とはどうにかして繋がっていられている。

ほぼ強制的にわたしに破壊が訪れて
それらはまるでCTL+ALT+DEL
だった。

もっとも、強制終了があって
じゃあすぐに立ち上がれるかと言ったら
まるでそんな簡単なことはありません。
むしろそっちの方が辛かった。
手放して身軽になったのに
立ち上がる気力にもエネルギーが要る。

次のステージへったって
なんかあれだ・・
SASUKEじゃあるまいし・・

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まるで明晰夢のようにどこに出口があるのかすらも
わからない。

あーー今思った。
それって私の父親と同じだ。

父はくも膜下で倒れることで
自分を取り戻し、家族になって戻って来れた人なのだ。
自分を取り戻すというよりも、不要なモノを全て
絶ちきった。
病気にならないとおそらくそれは出来なかった。
ただし、記憶のほとんどが曖昧なものになってしまった。
この間もお見舞いに行ったら
まだ自分は自分の経営している会社に勤めていると言って
「ここ(病院)にいる時はどうしてるの?」と聞いたら
「従業員がやってるから大丈夫」と言い放った。
幸せな人だな・・と思った。
もしかして、今見ている世界が仮想現実だという人が言ってるのって
こういうことも含めるのかもしれないとさえ思った。

そして、わたしは心の病に支配されてしまい
今世はもう終わりにしてもいいのかもしれないと
思った先に見えたのは
「何もない世界。ただそれだけ」でした。
わたしは、仕事を続けてることで
エネルギーを消耗し続けて
自分ではない誰かに乗っ取られようとしていたところを
心をへし折られることで、自分本来を取り戻したわけなのです。

取り戻したばかりの自分は
打たれ弱く・・
一歩踏み出しては元に戻され
二歩進んでは、転んでは押し戻されて
ここ最近になってやっと安心して目覚め
仕事に通う事が出来て
ゆっくりと周りの景色を眺められるようになりました。

破壊と再生はワンセットです。
自分で破壊をしたつもりはないけれども
強制的なリセットが掛かることがあります。

でもそんな時に
天罰が下ってしまったのではと思わないでください。

神様がいるとしたらば・・あなたの歩を止めて
「ちょいとそなた・・おまちなされ・・」
と諭されいるのです。

神様がいるとしたら・・
(正直いるのかいないのかもはや課題ではない)
お前の知りたかった世界はこれかい?
と見せられた世界が
無だったんです。何も無かったのです。


無の世界をそのままにしておくのか
そこから再生していくのか
それはその人の自由だと思うのです。
無の世界には正解なんてないから。
無を味わうのも良いと思う。
わたしも随分と
本当になんもねーと・・ひたすら感じていた時があります。
(本当に何もねーと思っている時は
自己肯定感が地の底よりも低い時です。)

わたしの父がもう15年前に手放した会社ですら
彼の中に存在しています。つまり、あるってこと。
でもね、それでいいと思うんです。
色んな人に散々迷惑かけちゃったことすら覚えていません(これは存在しないことになっている)

人は死に向かって生きているのではなく
生きていることを実感したいから存在してるんだなと
わたしは思うんです。

だから・・実感するために時として
破壊と再生が訪れることもあるんじゃないのかなと思うのです。








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