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漫画について考えること

※これは私個人の思いを語るいわば「自分語り」なので、この先に出てくる作品やそれに関連する関係者や企業などを批判するものではありません。「自分語りおつ」の気持ちで読んでいただけると幸いです。

先日、映画ゴールデンカムイを観ました。皆さんご存知だとは思いますが『ゴールデンカムイ』は漫画原作の映画化作品です。
私は漫画ゴールデンカムイの読者で、この作品が大好きです。

映画化されると決まったとき、私はショックでした。ゴールデンカムイが映画化して成功するわけない、これは漫画だからこそ面白く、扱いがセンシティブな話題も野田サトル先生(漫画原作者)の丁寧な取材やお考え、表現の総合芸術として成り立っているからこそ、漫画作品として面白くなっているのに…簡単に映画化したって失敗するのは目に見えてるじゃん…と思っていました。

ここで私が言っている「失敗」は「漫画原作通りではない。漫画に対してリスペクトのない作品になる」ことを指しています。
ですが、商業映画としての「失敗」は恐らく「集客がない、引いては儲からない」ことだと考えます。その点でいえば、人気漫画に人気俳優を起用した映画化は、上映前からある程度の儲けは見込まれている。逆にいうと見込みがないなら実写化の話は上がらない、のだと思います。

漫画原作ファンの私自身もその「想定集客者」に含まれており、実際映画化を批判しつつも映画化されたら気になって観に行ってしまうだろうな、とも思っていました。

実際観た映画ゴールデンカムイは、想像以上にゴールデンカムイで、ちゃんと杉本でちゃんとアシリパ(※リは小文字)で、白石で鶴見中尉で土方歳三でした。
映像も綺麗で、北海道の山の広さ、空が澄んでいることや雪の白の美しさが伝わってきて、色の綺麗さで表現できることが増え、それが作品の空気感を際立たせることに繋げられるのは映像化ならではの強みだな、白黒漫画にはできないことだな、とも思いました。



ですが、ゴールデンカムイの映画を観た私の最初の感想は「あ、よかった、観れる」でした。ちゃんと漫画に忠実に映画化してくれている。

「漫画に忠実に映像化」するにあたり、それがとても大変なことだろうというのは、素人である私でも簡単に想像できるほどには大変なことなのだと思います。
雪山での撮影。登場人物は日露戦争を経験した人が多いため強靭な肉体が必要です。かつ漫画のイメージとかけ離れてはいけない。アイヌ文化への理解とリスペクトがないと成立しないお話ですし、かといって漫画ならではのコミカル感がないと作品の空気感が変わってしまう。
映画を作るにあたりたくさんの企業、さらにたくさんの人が関わっており、何か一つの意思決定をするだけでも調整ごとが多いだろうな、と想像することも簡単にできます。

だけど、それでも、いち視聴者として映画を観た最初の感想が「よかった。観れる」なのはどうなんだろう…安心したという気持ちが真っ先に出てくるのって…と感じました。

観たくないなら観なきゃいいじゃん、という意見があるのはごもっともで、その通りだと思います。観たくないなら観なきゃいい。だけど、私は観たくないわけではなかったのです。

私が好きな作品を、どのように映画化したのか。私の好きな作品が、どのくらい丁寧に扱われているのがを確かめたい。という気持ちが大きく、観ないという選択肢はあまりありませんでした。ポジティブな「観たい」ではなく、確認したいという意味での「観たい」。ですが、気持ちの震源地がどこであれ、「観る」という行為に繋がっている以上、私は「この映画を観たいと思っている集客者」になり得ます。こうして映画の集客人数は増えていくのだろうな、との思いました。
そして、だからこそ「人気漫画原作の人気俳優起用映画化」は増えていくのだな、とも思います。



話が少し飛びますが、ここで先日亡くなられた芦原妃名子先生のお話しをさせてください。
私は芦原妃名子先生の漫画作品が大好きで、現在連載中だった『セクシー田中さん』以前の作品もたくさん読んでいます。

芦原妃名子先生の個々の作品についての想いはここでは語りませんが、私は芦原先生の出来事が本当にショックでした。今も現在進行形でとても悲しいです。
社会人として関係企業の対応の仕方への疑心感や、大人として原作あり作品の扱い方についてもっとよくできなことはないのか、など考えること、考えなければならないことが多くあることは重々承知の上で、ただただ悲しくつらく、何か考えることも発信することもできませんでした。

芦原妃名子先生と私との繋がりは、私が先生の作品の一読者であるということしかなく、私は芦原妃名子先生ご自身がどのような方なのかを全く知りません。
ですが、芦原妃名子先生の作品は、人の心の機微を丁寧に捉え優しく包み込む作品が多く、私はそこから、それぞれの立場でつらいこと悲しいことがあるけど、それでも人との関わりや小さなきっかけで大事なものが見つかったり、少し前向きになることもできるということを教わりました。私自身が、芦原先生の作品を読むことで助けてもらったことも数えきれないほどあります。



話が大きくなりますが、資本主義経済の中で生きるにあたり、売上や利益、それに関連する経済効果はとても大事です。利益を生み出せない企業は倒産するし、企業が倒産すると困る人はたくさん出てきます。私自身も仕事上自分の単価を意識しています。単価に見合う仕事をしなければならないし、それが自分の仕事上の価値であり、価値は高いことに越したことはない。そういう考えのもと、仕事をしています。

ですが、ふと、本当にそれでいいのか。それだけなのか。という疑問が湧いてくることもあります。

ここからは、まだ考えがまとまっておらず、現在のまとまっていない状態で不特定多数が読むことのできるインターネットに考えを流すことのリスクがあることは重々承知しています。
ですが、まずは自分の考えを発信しておかないと、それこそインターネットに流れている有象無象の情報に自分自身が飲み込まれてしまう、誰かの考えを自分の考え、気持ちであるかのように捉えてしまう気がしたので、暫定でも発信しておきたいなと思いました。

私は漫画が大好きで、幼少期から漫画を読んで育ってきました。小学生の頃、お風呂から出て服も着ず漫画を読んで怒られたこともあります。今思うと服くらいは着なよ…という感じですが、私が自分の人生で一番長く続けている行為は「漫画を読む」ということで、ずっと興味が薄れないジャンルは「漫画」です。

大人になった今、私が「漫画」のために出来ることはなんだろう…と考えています。
正しい消費者である以上に、漫画業界に対して私に出来ることがなにかないか、最近はそれをずっと考えています。
私は誇張ではなく真面目に漫画に人生を救われていて、人生の要所要所でそれぞれ私を助けてくれた漫画があって、漫画なしでは今の私は成り立ちません。

いち消費者としてではなく、もっと積極的に漫画業界にできることはないか、これまで私を助けてくれたたくさんの漫画、それを生み出してくださっている多くの漫画家さんのために出来ることはないか、を模索しています。
漫画家は社会への影響度の割に個人が担う責任範囲が大きすぎるのでは…、映像作品は監督、プロデューサー、演者etc…なと役割ごとに人が関与しているが、漫画は漫画家が担ってる範囲が広いという現状があるな…など考えてはいますが、現時点で答えは出ていません。
ただ、資本主義経済と個人から生まれる作品との相性があまり良くないのだな、という思いはあります。


今後、私が漫画原作の映像化作品にどのように向き合っていくかもまだわかりません。
事実として『カラオケ行こ!』はまだ観れていません。観るか観ないかも決められておらず、「まだ観ていない」という現状が続いているだけの状態です。

私に出来ることには限りがあって(これは自分を低く見積もっているというわけではなく、何かに一生懸命取り組むには、別の何かを捨てる必要があるいう意味)、その中で何かできるのか、何をしないのかを考えいきたいと思っています。

とりとめのない文となりましたが、現状私が感じている、考えていることは以上です。
気持ちに更新があったらどこかで発信するかもしれないし、しないかもしれないですが、今の気持ちのまとめとして置いておきます。
2024/2/12 由岐

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