千葉雅也の記事を読み「寄る辺なさ」と触れる。

千葉雅也さんのnoteを読んでTortoiseの「TNT」をききながら作業。やはり同世代だなと思う。この記事で取り上げられたのはTortoise「TNT」とホンマタカシ「東京郊外 TOKYO SUBURBIA」。どちらも1998年の作品。私は修士の1年だった。高校時代、写真部だったこともありホンマタカシで随分盛り上がったことは思い出したが内容はほとんど覚えていない。この写真集を出した光琳社出版ももうなくなってしまったが今はどこか別の出版社から出ているのだろうか。それもよくわからない。でもまあ忘れたとしても、知らないとしても千葉雅也の記事を読めないわけではない。私たちは知っていることの方が少ないのが普通なのだから「そういう音楽や写真集があるんだな」と思って読み進めよう、ということで覚束ない記憶と共に読んだ。私は千葉雅也がつぶやく「いやはや」という言葉が好きなのだがこれを読んで「いやはや」となった。読者としては21歳の千葉雅也のレポートを読むという行為自体がかなり「エモい」感じがしてしまった。毎日、他人の激しい情緒に巻き込まれながらドライに言葉を使用する仕事をしている身としても、不安と恥じらいと「寄る辺なさ」の中でどうやってフロイトが直感した「平等に漂う注意」を可能にするのか、あるいはその不可能性に直面していくのか、ということなども考えさせられた。はあ。ドキドキした。