わたしにしがみつく、美しい生き物
2018年7月28日の8時23分、私は2668gの男の子を産んだ。
前日の朝夫を送り出してから来た陣痛。痛みは少しずつ増していき、病院には22時頃向かった。
もう泣いている母と、不安そうな夫に片手ずつ握られながら、いきむ。最後はこれまでが嘘のように簡単にずるんと出てきた。息子は羊水を皮膚という皮膚に浸透させてものすごく浮腫んでいて、目は土偶のようだ。
顔を真っ赤にさせて、舌を震わせながら全身全霊で産声をあげていた。
母が「髪がフサフサ!」と言った。確かに想像していた「赤ちゃん」よりも、頭が黒々としているような気がした。
息子は助産師さんにサッと身体を綺麗にしてもらい、前ボタンを開けた私の裸の胸の上に降りてきた。まだ土偶のようにパンパンな目は開くはずもなく、開いたとしても視力が弱い赤ちゃんは周りを見ることはできない。だけど不思議なもので、お母さんはわかるのだそうだ。確かに私の胸にうつ伏せにされた瞬間に息子は泣き止んですやすやと眠った。
首だけを起こして胸の上の息子を見ると、羊水でべったりとうねったまま貼り付いた頭が目に入り、私も夫も超がつくほどのストレートヘアだけれど、息子は天パなのだなぁと思った。
産まれた日から母子同室の産院だったので、息子は一通りの検査を終えて私の入院している部屋へ運ばれてきた。まだべったりと頭皮に髪を貼り付けていたが、どうやら2日後の沐浴指導まで息子は髪を洗えないようだ。
首がぐにゃぐにゃの息子を怖々と抱き上げ、ぎこちなく頭を撫でてみる。ベタベタしているように見えた髪は、乾いてパリパリになっていた。私はそっと、その髪にキスをした。唇にはパリパリの髪と、骨の閉じていない頭蓋骨の隙間でぶよぶよとしたあたたかい頭皮が触れた。
2日後、はじめての沐浴指導をしてもらいに沐浴室に向かう。
初日は助産師さんがやり方を見せてくれ、次の日から私がやってみるということだったのでやり方を忘れないようにムービーを撮った。
息子は裸にされ一瞬泣いたけれど、ゆっくりと足からお湯に入れると口をおちょぼにして気持ちよさそうに眠った。ゆっくりと、そっと、ガーゼで頭を濡らされる息子。固まった髪がほどけたら、泡をたっぷりと頭に塗られ優しく洗われていく。
髪が本来の姿を見せたら、やはり私と夫と同じストレートヘアーだった。
沐浴が終わりふわふわのタオルで身体中の水分を吸い取り、最後に柔らかいブラシで髪を撫でつける。ぴっちりとした七三分けになった。
入院前の準備で何が必要か調べていた時、『髪はそれほど生えていないのでブラシは必要ない』と書いてあったから買ってなかったなあと思った。
小さな七三分けに、またキスをする。
まだ純粋無垢でふわふわな息子。ほっぺにキスをするのがなんだか恥ずかしくためらわれて、入院している1週間はほとんど細く柔らかい髪にキスを落としていたように思う。
息子を産むまで、母親は子供をどういう風に想うのか想像がつかなかった。
お腹がすいて、オムツが濡れて、抱っこして欲しくて、うんちが上手く出せなくて、その都度泣く存在を抱えることは想像以上に大変だ。でも、それをはるかに上回る感じたことのない愛おしさ。
夫と恋人だった頃、どうしても会えない日にどうしても会いたくて泣いたことがある。遠くの土地で研修に行った彼の帰りをじっと待てず、駅まで迎えに行ったこともある。
言葉が通じない息子へ愛を伝える方法は限りがあってもどかしく、そんな時私は夫が恋人だった頃のいてもたってもいられないあの気持ちを思い出す。やわらかな体は強く抱きしめることができないのに、お腹の奥からじんわりと湧き出て止まらない愛おしさは、どうにかしないと胸が張り裂けそうに切なくなる。
そうして私は、ふわりと息子を抱き上げてはその細い髪にキスをするのだ。
いつか息子が生意気に成長して、体中香るミルクの匂いや首のシワの驚くほどの臭さや、たっぷりとした二重アゴの触り心地や小さな爪のチクチクした感覚をすぐには思い出せなくなってしまっても、パリパリと固まった産まれた日の髪や、何度もキスをしたやわらかい髪は思い出せる気がする。
私と夫の遺伝子を受け継いだ息子。私と夫と同じストレートヘアで、夫とおなじ目をして、私と似た耳を持つ息子。
美しいと聞くと、私は息子のことを考える。本能のまま生きて、私が抱き上げるとひしとしがみつく小さな生き物は、とても美しい。
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