#記念日にショートショートをNo.71『未来の固執』(Persistence of Memory)

2023/12/24(日)クリスマス・イヴ







無言の滴が頬を伝った。
何も纏っていない裸体に、薄布が触れる。体温の違う指先が、唇をなぞる。指先につられるように口を開ける。すっと指先が横にずれ、彼の少しざらついた唇が私の唇と当たった。
ひんやりとした感触が唇から首筋に下がって行くのを感じながら、彼の胸元に手を伸ばす。彼の胸元をそっと撫でると、彼の指先が私の乳房を優しく揉んだ。
ふと、視線がさやかに絡んだ。その眼差しに頷く。彼が黙って、首を横に振った。
「それだけは、たとえ響生ちゃんにお願いされても、奪えない。」
「それはまだ守られている未来だから。」
その言葉に、睫毛に熱いものが甦る。塁生がアメリカへ行く前の日に、赤ん坊の姿で枷越しに交わった、あのあえかな一夜の記憶が。
「う、うう…………」
両手で目元を覆う。
涙が一粒、私の髪を撫でる彼の手に落ちた。





 塁生が死んでから、もう10年の月日が過ぎた。気付けば、もう29歳になっていた。30歳を来年に控えているのに未だに彼氏の一人もいない私を心配して、友達がある男性を紹介してくれた。180を優に超える長身で、東大卒のエリート銀行員、さらに顔も性格も申し分なしの、非の打ちどころがない人だった。
何度か食事もした。デートだってした。笑えることに、それなりに楽しめた。
だけど、彼は私を満たしてはくれなかった。いいや、彼は充分、私を気にかけてくれる。私の欲しいものをくれる。私の行きたいところへ、連れて行ってくれる。けれど、私の心は満たされなかった。
 どうすれば良いのか分からないまま、今日もデートに応じた。
海辺のレストランで食事をして、一緒に綺麗な夜景を眺めた。サンタの着ぐるみが、泣いているふたつ結びの女の子にハート形の風船をあげていた。お父さんとお母さんが、サンタの着ぐるみにぺこぺこと頭を下げていた。
海風に髪を靡かせて、砂浜を一緒に歩いた。並んで歩いていると、時折手が触れた。彼の手が、私を呼び止めた。粒のように光り輝く指輪が見え、プロポーズされた。顔が近付いた。
ああ、私はこの人の奥さんになるんだ。そうして子供を産んで、幸せな家庭を作るんだ。そう思った。その瞬間、塁生の顔がちらついた。
咄嗟に、彼の肩を押していた。
「あ……ごめんなさい」
私の言葉に、彼は唇を結んで「ううん」とすぐに笑顔で首を横に振った。
「ううん。急に、びっくりしたよね。怖がらせてごめんね、響生ちゃん。」
「ごめんなさい……。」
「ううん。ちょっと休もうか。」
そう言い、彼は砂浜の隅に置かれていたベンチに歩を進めた。私が逃げたければいつでも逃げられるように、私の腕に空気越しに片手を添えるようにして。
彼は私と30cmほど間を空けて、ベンチに腰を下ろした。恋人というには遠く、赤の他人というには近いほどの距離を空けて。
サンタの着ぐるみが子供達に風船を配り終え、レストランが店仕舞いをし、街行く人々が家路を急いで道を歩いて行くまでの間、彼はただ無言で、隣りに座っていた。束の間のデートを楽しんでいたカップル達が引き上げ、辺りが波音だけになった頃、私はようやく口を開いた。
「…塁生が、死んじゃったの。」
まるで脱皮出来なかった蝉のように、生まれ変われなかった自分が口許に乗り移る。切れ目の無い葛湯のような言葉の流れが、とめどなく押し寄せる。絶え間の無い罪の言葉が、波の余白までを全て埋め尽くすように、溢れる。
すべてを吐き出してしまった後で、少しの沈黙を置いて、彼が口を開いた。
「亡くなって10年が経っていても、響生ちゃんは彼のことが、ずっと忘れられないんだね。」
贖罪の言葉が、夜の海辺に沁みていく。
「あなたのことは嫌いじゃない。愛しているの。でも、塁生が、ここに、引っかかっているの。塁生が、ずっと、ここにいるの。」
自分の心臓を左手で抑える。
彼が目を閉じ、静かに息を漏らす。ややあって目を開いた彼が、ふっと軽く息を地べたに落とすように言葉を海に放った。
「じゃあ僕達は、きっと一緒になるべきじゃないね。」
「…………!」
あまりにも自然に放たれた言葉に息を呑む。
「そんな……っ」
彼が私の膝に手を置いた。
「勘違いして自分を責めないでほしいんだけど、これは僕のエゴなんだ。もちろん僕は響生ちゃんのことを愛しているし、こんな僕を少しでも好きになってくれて、とても嬉しい。響生ちゃんのことを、ずっと大切にしたいと思っている。」
「……」
「でも、響生ちゃんの胸に、心臓に、その彼がいるなら、いま目の前にいる赤の他人の僕より、自分の中にいる彼のことを大切にすべきだと思うし、そうしてほしいと思うんだ。人は死んだら、そのつらさや悲しさや寂しさをどう足掻いてもいずれ忘れてしまうから、忘れられない忘れたくないと思っているなら、それを貫いてほしい。」
「その想いは彼にも必ず届くし、その方が彼も、そして僕も、嬉しいから。」
彼が微笑む。
「ただ、響生ちゃんがそうしてほしいと望むなら、僕は響生ちゃんのために生きる。電話がしたくなったら電話していいし、一緒にごはんが食べたくなったら一緒にごはんを食べるし、彼の話がしたくなったらいつでもいつまでも付き合うから。それだけは、忘れないでいてほしい。」
そのくらい、彼のことを想っている響生ちゃんを、僕は好きになったんだ。」

 もしあの時、彼を振り切って、家に走り帰っていたら。彼を忘れて、塁生を忘れなかったら。
もしかしたら、と思う。もしかしたら、彼を忘れて、塁生を忘れない選択の方が、正しかったんじゃないかって。彼を振り切って、この世にいない塁生を想って、泣いて、吐いて、過去に溺れて、記憶に囚われる、その選択の方が正しかったんじゃないかって、良かったんじゃないかって。
いまでも、どちらの選択が正しかったのか、良かったのかは分からない。いまでも、私は彼よりも塁生を愛しているし、それはこの先、永遠に変わらない記憶だ。
それでも、私は彼を愛して彼に愛されてこの世にいない塁生を想うこの道を選択して、それは間違いじゃなかったと思う。
心にはずっと穴が開いているし、それは彼では埋められない、片割れのような、消えない痛みだ。
塁生に会いたい。逢いたい。一緒に生きたい。その気持ちは変わらない。こんなに逢いたいのに、こんなに想っているのに、それはもう永遠に叶わない。
もし、あの時、塁生に伝えていたら、と思う。
もし、あの時、塁生を拒まなかったら、と思う。
もし、あの時、塁生を引き留めていたら、と思う。
あの時〝ちゃんと出来なかった〟後悔が、自分を孤独に押しやっていた。あの時〝ちゃんと出来なかった〟交わりが、自分に息の吸い方を忘れさせていた。あまりにも大きな愛が、あまりにも小さい愛が、何にも視えない愛が、世界に私を囚わせていた。



 そうして、私は帆高と結婚した。










あの日、塁生がなぜ、私と交わりたがったのかは分からない。愛とか恋とかそんなものは置き去りにされた心の中で、塁生なりに、何かを感じていたのかもしれない。幼馴染で友人のその人の言葉に、愛とか恋とかそんなものは置き去りにして、私はただ頷き、塁生を受け入れていた。無言の、二つの裸体の、枷越しの交わり。情熱的なキスも魅惑的な愛撫も何もない、ただ見つめ合うだけの無言の空白。無言の空白の中、枷越しに放たれる射精。
「塁生」
思わず名前を呼んだ私の唇を、塁生は一瞬だけ塞いだ。
「何でもない」
〝あの時〟以来の淡い口付けに驚いて目を見開いた私に、そう言って塁生は身体を起こし、ズボンを履いた。
その動作に慌てて自分の衣服に手を伸ばすと、「いいよ」と塁生が私を制した。
「あっ、うん」
思わずそう言葉にしてしまってから、この上なく後悔する。
「じゃあ、また」
そうして身支度を終え、塁生が私に背を向ける。何も残されていない部屋に、まもなく、玄関ドアの閉まる音が聞こえた。





【登場人物】
○高瀬 響生(たかせ ひびき/Hibiki Takase)
●帆高(ほだか/Hodaka)

●桐早 塁生(きりはや るい/Rui Kirihaya)



【関連作品】
○#記念日にショートショートをNo.18『この空に、響け、私の音』(In this Sky,Resonate,My Sound):2019/8/6(火)甲子園開幕日
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○#慰霊日にショートショートをNo.1『見っけ、この名もなき感情(おと)』(Mikke,this white sound of feeling):2020/7/18(土)京都アニメーション放火殺人事件から一年の日
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▶︎(https://note.com/amioritumugi/n/n8ad7cebb84a0)○#記念日にショートショートをNo.51『いまを生む:終編』(Generate a Moment:End Part):2020/12/31(木)大晦日
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【バックグラウンドイメージ】



【補足】



【原案誕生時期】
公開時

#未来の固執

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