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あしたのあたしのつくりかた(2)

 画像についての説明をすこししておいたほうがよいな、と思い書きはじめます。これは大根と生姜とさつまいもから芽がにょきにょき出ているところをちょん、っと切って観葉植物的な感じで育てられている、という写真である。Yukoさんがうちにきてくれるときに毎回このようなものが家にできる。どうやら、じゃがいもにはメラニンという毒性の物質でもある芽がでてくるけれど、それをそのまま育てると青い花が咲くらしい。わたしはその青い花をみたことはないのだが。だいたいにおいて、作られたこのミニ花壇は2週間くらいで腐らせてしまって捨てていたのだが、今回はなんだか健気にもがんばっていて、ぜんぜん腐らず、日々、にょきにょきと伸びている。水をあげすぎても、ほったらかしにしすぎてもいけないらしい。

 Yukoさんはうちにある腐りかけや残り物野菜を一掃し、それらをすばらしくおいしいスープに作るのである。しかも、健康的な。鍋の中に乱雑にぶちこまれた具材はくつくつと踊り、あたらしいものへと混在化する。その様子を何度か録画していて、この演劇の中ではそれを再現するシーンがあるのだ。

 ほかの人がどうなのかわからないが、自分がひどくくたびれたり、ぜんぜん動けなくなってしまうとき、だいたいご飯が食べられなくなる。冷蔵庫のなかのもが腐ってしまうことが怖くて怖くて仕方なくなる。せっかく買ったそれらを何にも成立させず、ゴミ箱に直行しなければならないという管理の杜撰さに胸が痛み、よけいに冷蔵庫を開けることができなくなるときがある。Yukoさんが魔法のようにわたしが手付かずにしていたものを、さっと調理して、成仏させると、わたしの気持ちは軽くなる。葉っぱや、皮に栄養があるんだよ、きれいに切るんじゃなくって、熱した鍋に豆腐をぶちこむんです! それでくずれた豆腐がさあ、またいい味になるんだから。最初は薄味で、だんだん濃くしていって、最後はカレーにしちゃえば、ぜんぶ無駄にならない。かなり乱雑で乱暴なクッキング。でも、それがわたしの気持ちを楽にさせていることは確かなのだ。

 有元葉子の「「使いきる。」レシピ 有元葉子の”しまつ”な台所術」という名著があるのだけれど、この料理本をいつも思い出して読み返す。料理本や生活本は理想の生き方やこうでなくっちゃと押し付けがましい。ときには、ぐうたらしたり、できなかったり、失敗することだってあるのを許してほしいって思ったりする。でも、べつにそれらを無駄にしたり、ないがしろにしたいなんて思ってなくって。言い訳みたいに言葉が出てくる。「わたし流「食の立て直し」」という項目があるのですが、これが名文。すばらしい。いそがしくてダメな時に元気な時に作った冷凍のおかゆが自分を助ける。野菜などは買ってきた日に下ごしらをしてしまえばいい。買いものができるくらいの元気さがあるときなら、絶対できることだ。とびきりの贅沢、朝は好きなものを食べていい。食パンをトーストしてたっぷりのバターとイチゴジャムでいただく。その背徳さを許してくれる。ご褒美があるなら、いまの勤勉やがんばりも意味がある。つらさを許してくれるときがある。

 やっぱり、人生というものは背徳的、享楽的なものを感受しながらどうしてもだらしなくなるという振り幅で揺り動かされるのも面白いものなのだろうか。地獄も天国も両方知らなくちゃどちらのこともわからない。多面的に対象に光が投射されるときにわたしはやっとそのもののことをわかる気がする。わかろうとする、行動をわたしはよいものだと思っている。

 捨てられてしまうかもしれない野菜たちがあたらしい姿に転生する。転生スープというものをまいかい、こしらえてくれるYukoさん。その残骸から、豊かに育つ緑の芽。黄色から緑になる境界線のグラデーョン。きれいだなあと、思っている。 



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