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平成の終わりに読み返す

 思うところあって、自著を読み返す羽目になっているのですがまあ、それは今年で平成がどうやら終わるらしいぞという、終わったらいいことばかり起きるんだよ、東京五輪だって大阪万博あるんだ。日本はこのあと、経済的に成長していくぞ。健全な肉体に健全な精神は宿るのだ。という意気揚々とした前向きなことばかりが目につく。昭和の終わりの憂鬱なムードから平成のはじまりのどんちゃん騒ぎは時代が鬱から躁へ変わった、気分の問題でしかなかったのではないか。

 あのころの、自分というのは何だったのだろう。苦しんでいるとすればそれは閉塞した状態に対してだ。自分で何も変えることができないことに対する苛立ちだ。世の中の呑気で気楽なムードについていけず、その場にうずくまっていただけだ。小学校ではあんなに気が楽だったのになんであんなに中学に入った途端、嫌な気持ちになってしまったんだろうとか、読みながら思い返す。なるべく、そのとき思った言葉に近い言葉を残しておいたので、記憶は鮮明に再現できる。過去の自分からの呪いのタイムカプセルみたいに。

 きみは自分でどうにかできる問題と自分でどうにもできない問題の切り分けができない。それは子どもだからだ。他人と自分の境界線がすぐに曖昧になってしまう。なぜ、わかってくれないのか、親なら、大人なら、他人なら、わかってくれて当たり前なんじゃないかとどこかで望んでいる。だからまわりの環境に苛立っている。ストレス耐性が低すぎて、ほんの少しのことでも気分が落ち込む。人と関わると、ひどく疲れた。苦手なものが多すぎなんだ。他人をちっとも許せないから。

 ただ、同じ趣味同士の友だちは気が楽だった。でも、思えばライブや演劇を一緒に観ているときはその友だちを観てはいない。見る方向は舞台だ。終わったあとで、言い合う感想とかもそのテーマがなければ、しゃべり続けていたのだろうか。でも、自分にとっては感性が合うということだけが頼りだった。それ以外に何も価値を見いだせなかったし、価値などないと思っていたし、何より自分自身に価値がないことをよくわかっていたから。

 不思議と死にたいとは思っていなかったし、自殺未遂をするようなこともなかった。だからあのラストは大嘘だったのだが、救われないという救いを強調するためにはああ書くより仕方ないとそのときは思っていた。わたしは死ぬというよりも消えてなくなりたいと思っていた。うっかり事故で死ぬ方法をよく考えていた。雪山で眠るように死ねるらしいという話にはあこがれたものだが、そのあと、錯乱して全裸で暴れたりする可能性があるという話を訊いて却下した。醤油一升は飲めないし、高所恐怖症だから高いところからの飛び降りは無理そう、手首を切って浴槽で死ぬのも切るとき痛そうだし、睡眠薬を手に入れる手段もない。首を吊るのも吊った死体の悲惨さを知ると嫌だ。頭が狂ってしまえればどんなに楽だろう。そんなことを延々と考えるのもダルいので部屋に引きこもっていた。冷房をがんがんにかけた部屋で毛布にくるまり、録画したビデオを何度も繰り返し観たり、テレビを観たり、音楽を聴いたり、ラジオを聴いたり、本を読んだり、絵やマンガを描いたり、設定資料集をひたすら描いたりしていた。そういうときは何もかも忘れていられるからだ。

 不思議なことに親から学校へ行け、と言われた記憶がまるでない。親も祖母も精神疾患のため、引きこもっていたからだろうか。けっこう、今考えてもおかしなはなしで、なんだったんだろうと思うが後年、話の辻褄を合わせると実はあの頃の家は貧乏でもなかったらしい。だからあのまま春から夏にかけて、平成のはじめの数ヶ月くらい何もせずに部屋に閉じこもっていたって別に良かったんじゃなかったのかと思う。人生の数ヶ月を無駄にする自由くらいあったっていい。わたしはその期間があったことで、短期間でサブカルチャーに耽溺し、そこへ救いを求めるようになった。それがなかったら、もっとはやくくたばっていたのだと思うし、その後の楽しかったことなどぜんぶありえなかったことだ。もちろん、苦しかったことも多いけれど。

 結局、夏になり、店の改装が終わり、実家は手放したのかどうだかわからないまま、近くのマンションに引っ越した。実家より快適だった。なにより、有線がついていた。ライオンズマンションだったから。ときどき、母の友だちが遊びにくるようになっていた。ヤマハに勤めていた友だち経由でV50のキーボードを買ってもらう。ほんとうはサンプラーか、DX7がほしかったがさすがに高すぎるということで却下された。実家にはエレクトーンがあったのだけれど、それを手放した代わりということだった。曲が作れるわけでもないのだがずっと音色を混ぜ続けていた。変わった音を出すのに夢中だった。『バンドやろうぜ』の投稿で同じ趣味の友だちを見つけ、バンドメンバーを探したりしたがほんとうにバンドがやりたいわけでもなく、相手もたぶん、バンドなんかやりたいと本気で思っていなかったのだ。結局、誰とも会うことはなかった。クラスで有頂天の『BOIL』を貸してくれた男子がスターリンにあこがれて、パンクバンドをはじめて、ライブハウスで演奏してるという話を聴き、その後、高校の時に名古屋のE.L.Lのとなりにある喫茶店でバイトしていた時にばりばりのパンクスが着たと思ったらその男の子だった。もちろん、声などかけるわけがない。

 母のヤマハの友だちのコネを使って、有頂天のコンサートのチケットを手に入れてくれた。はじめて、一人で行ったライブがそれだった。誰も周りにいる人に気を使わずに叫んだり踊ったり、舞台だけを観ていられる。隣の人も同じように高揚しているけれど、そのことはわかるけれど、どちらもどちらにも介入しない。同じものを観ているけれどめいめいが勝手だ。他人がいるのに煩わしくない。だけど、さびしくない。そういう世界があるんだと思った。

 ヤマハの友だちは鷹の爪が唐辛子だということを知らないわたしを「そんなことも知らないんだ」と笑った。髪の長い眼鏡をかけた女性で美人でもなく、温和なしゃべりかたをしていたことはぼんやり覚えているが、名前も思い出せない。ふくふくとやわらかな指先で煙草をくゆらせていた。彼女はその後、電車に飛び込み自殺する。線路に大の字で寝転がった彼女に「危ないですよ」と声をかけたのだが頑として動かなかったらしい。誰も助けたりしないまま、快速電車に轢かれた。自殺の理由は会社の金を横領していたとかそんなようなことを親は話していたようことを覚えている。わたしは、その彼女の年はとうに越してしまっているのだろう。

 外の世界を知ることで、家に居ることが苦痛なら、家を出ればいいのだと気がつく。学校には相変わらず行かなかったが、もう引きこもりとはいえない生活になっていた。年齢を偽り、いろんなところに行った。行きたいところに行った。まあ、でも中学生だからお金なんて持ってないから、1時間かけて自転車で大須に行って友だちと話したりしていた。わたしが中学生ということがわかると補導されるので口裏を合わせるようにしていた。その頃は煙草も吸っていたけれど、別にうまいと思って吸っていたわけじゃなくって、子どもだとバレないようにするために吸っていたんだと、今なら分かる。早く大人になりたかった。早く大人になって、親から離れたかった。親の精神状態に左右されず自由に生きたかった。自分のために人生を生きたかった。自立したい気持ちが強かった。

 そのまま高校生になり、学校の誰も行かないデザイン系の学校にすすんだ。学校の近くの前よりもいいマンションに引っ越した。喫茶店でバイトをはじめた。学校の授業をがっつりやってから、4時間働いた。デザイン科だから課題の量が半端じゃない。朝の5時とかまでかかったりしていた。明け方には清掃車の音がして、『妖怪人間ベム』の再放送を横目で観ていたが「きちがい」というたびにピーピー音がして、ひでえなあと思っていた。あの頃のわたしは何を考えていたんだろう。日記も書いたりしていたが、自分の感情がなんなのか理解していなかった。ただ毎日、何も考えずにたのしいと思えることをしていた。将来に不安はあったのだろうか。未来については。これからどうしようと悩んだりしていたのだろうか。どうしても思い出せない。

 いまのわたしはゴールがない、目的が決まらない状態が何よりも怖い。何もできずにその場にうずくまり、すすめないまま時間がどんどん過ぎていくことが怖い。でも、あの頃もたしかに何かが怖くてしょうがなかったはずで、その不安がなんだったのか、今のわたしはきれいさっぱり忘れてしまっていて、それをもう一度、思い出したいと思っている。

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